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ユリウスが旅に出て2週間がたった。ティアーナは一人になっても相変わらず、森の生活と村の生活を繰り返していた。もともとユリウスが家にいる時間は短かったので、一人で過ごすのは慣れていた。時々、森の家にポツンと一人でいると、言い知れぬ孤独感に襲われることはあったが、そんな時は物語に世界に逃げ込むことにしていた。物語は最後の結末を残してほぼでき上がっていて、彼女はもっぱら絵を描くことに専念していた。
「賢者さまが旅に出られてから、もう2週間も経つんだね」
子供の家で、ティアーナとマイラが昼食の後片付けをしていた時、マイラはティアーナに言った。
「まだ2週間よ、お母さん。帰ってくるのはまだ先よ」
「寂しくないのかい?」マイラは娘の顔色をうかがった。
「ええ、不思議なくらいね。ギドと暮らしてた時は、彼が1週間家を空けただけでも、寂しくて寂しくて仕方なかったのに……。もっとも今は、お母さんが側にいるし、ロージィや子供たちもいるから、比較にならないわね」ティアーナは笑った。
後片付けが終わって、ティアーナは森へ帰る支度をした。
「それじゃお母さん、わたし帰るね。ロージィが戻ってきたら、また明後日来るって伝えて」
「ああ、それじゃね」
ティアーナはデューカに乗り、通い慣れた道を通り、森の入り口へ来た。気味の悪い冷たい風が吹き、黒い雲が上空を覆いつつあった。
「一雨来そうね。急がなくちゃ」
ティアーナは空を眺めてつぶやくと、馬の腹を軽く蹴り、森の中へ急がせた。しばらく進むと森の中は暗い薄闇に閉ざされ、シンと静まり返った。風すらももう吹いてなかった。ティアーナは馬の歩みを止めて、あたりを見回した。真っ暗ではない。木々の影がぼんやり見えている。それなのに、ティアーナは自分が暗黒の闇の中に、たった一人放り込まれたような感覚を覚え、恐怖で身をすくませた。深い孤独が彼女を押し包んでいた。闇の中のたった一人の存在、ひざの下のデューカのぬくもりさえ感じられない――彼女は耐え切れず、両手で顔を覆った。その時背後で、何かの気配がした。彼女の知っている気配だった。彼女は振り返り、小さな声を出した。
「ユーリ?」
気配は動かなかった。もう孤独感は消え、普段の森の闇と変わらなかった。
(ユーリのはずないわね)
彼女は馬を降り、今度ははっきりと気配に向かって呼んだ。
「婆さま!?婆さまなの?」
空の雲が急に動き出し、森は次第に明るさを取り戻していった。今ははっきりと見えるぶなの大木の陰から姿を現わしたのは、ドーラではなく、薄い灰色のマントに全身を包んだ見知らぬ中年の女だった。女は滑るような歩みでティアーナに近づいた。長身でやせた体つきはマントの上からでもわかる。血色の悪い細い顔に尖ったあご、薄い唇に鋭い光を放つ青い眼、女はよく通る低い声でティアーナに尋ねた。
「アルクルトはこの森にいるかい?」
「アルクルト?ああ、ユーリのことね。今はいません。旅に出ていて、帰るのは来月ですけど」
誰だろうと思いながら、ティアーナは女の鋭い目を見つめた。女は射るような目でティアーナを見ていた。
「あんたはアルクルトの奥方かい?」
「ええ、ティアーナと言います。あなたは?」
女の目の鋭い光がふと和らぎ、口元がニッと笑った。
「そうかい、あの男が結婚したと聞いて、相手はいったいどんな女かと思って見に来たんだが、まあ、かわいらしい奥方だこと。それにかわいいだけじゃないようだね。あたしの目をまっすぐに見返している。フム、ユーリね」
「あの……」ひとり言のようにぶつぶつ言っている女に、ティアーナは戸惑った。
「あたしはユリウス・アルクルトの古い知り合いでね。アルクルトが不在なのは、実はもう知ってたよ。あたしは今日はあんたに会いに来たのさ」
「わたしに?」
「そうさ」女はニッコリ笑った。
「少し話をしてもいいかい?」
女の人懐こい笑顔につられて、ティアーナも笑顔を見せた。
「ええ、いいですわ。でもその前に、お名前を教えていただけます?魔女さん」
「おや、わかるのかい」女は驚いた顔をした。
「ええ、あなたはユーリや婆さまと同じ気配を持っているから。雨雲を晴らしてくれたのもあなたなんでしょう?」
女はククッと声を出して笑った。
「まあね。よくわかるね、さすが賢者の奥方だ」
「もう結婚して3年になりますもの。そのくらいわかります」
「フム、そうか、3年ね……。あたしのことはウェルタと呼んでくれ」
「ウェルタ(西風)?変わった名前ね」
「あだ名だよ。こないだまで西ユーレシアのに住んでたんでね、そう呼ばれている」
「西ユーレシアに?ユーリも今、西ユーレシアに行ってるの」
「ああ、知ってるよ。ねえ、どこかゆっくり話のできる所はないのかい?」
「いい所があるわ」
ティアーナはウェルタをそこから少し南にある森の泉へ案内し、二人は泉のほとりにある倒木に並んで腰を降ろした。ウェルタは早口で話し出した。
「じゃあ、あたしから話そうか。ユリウスと最初に出会ったのは、そう、もう14年も前になるか。あの男は19かそこらのやんちゃなガキだったよ。自分の力を知りたいと言って、あたしに勝負を挑んできた」
「勝負?」ティアーナは眉をひそめた。
「ただの力比べさ。ルールを決めて、力が漏れないように結界を張り、魔法の力を競い合う。先に相手を呪縛した方が勝ちだ。その時と、その次の年の手合わせはあたしが勝った。だがそれから6年後、ユリウスが旅から帰ってきて、3度目の手合わせをした時、形勢は逆転していた。あたしはボロ負けしたんだ。決して修行を怠っていたわけじゃない。これでもガイルの魔女の中では、10本の指に入る使い手と言われてたんでね。あたしは自分の力不足を恥じ、次に相見える時は必ずあたしが勝つ、それまでは決してあの男には会わぬと誓って、修行に入ったのさ。今もまだ修行中だ。だからユリウスには会えない。だが、あんたのことはどうしても知りたくてね。あの男がいない間に、こっそり見に来たってわけさ。あたしが修行中に、のこのこ出てきたことをあの男には知られたくない。だから、ここであたしに会ったことは内緒にしといてくれ、後生だから」
ウェルタは胸に手を当てて、ティアーナに懇願した。
「ええ、わかったわ。でも、なんだか物騒ね、勝ったの負けたのって」
「相手がいるから勝ち負けになるが、実際は自分の力を測りたいだけさ。力を磨き、それがどれほどのものかを知るのは、力あるものの努めだよ」
「そうなの」あまり納得のいかない顔で、ティアーナは相づちを打った。
「さあ、今度はあんたの番だよ。話しておくれ、あんたはどこでどうやって、ユリウスと出会った?」
ウェルタはまたニンマリと人懐こい笑顔を浮かべた。ティアーナは自分が再婚であること、ドーラの占いによって知り合ったことなどを話した。ウェルタには不思議な魅力があった。話を聞いてもらっていると、とても楽な気分になって、もっともっと聞いてもらいたいという気になるのだ。彼女はユリウスとの様々なエピソードを話し、自分が作っている物語のことも話した。
「それなら知ってる。あんたが子供たちに話していたのを見かけたよ。あんたが持っていたあの本は魔法の本だね」ウェルタはティアーナにウインクした。
「そうよ。魔法の術で書いてるの。挿し絵もね」
「どれ、見せてごらん」
ティアーナはデューカの所へ行き、鞍袋からノートを出してきて、ウェルタに見せた。
「ほう、よくできてるじゃないか、絵はまだ少ないね」
「絵は難しくて。わたし、あまり力がないから、時間がかかるの。でも楽しいわ」
「よかったじゃないか、賢者の奥方になって」
ウェルタはニッコリ笑って言ったが、ティアーナは顔を曇らせた。
「どうしたね、賢者の奥方でなければ、術で本を作るなんてできないんだよ」
「それはそうなんだけど……」ティアーナは沈んだ顔でうつむいた。
「何か嫌なことでもあるのかい?ユリウスに不満でも?」ウェルタの目が光った。
「ないわ!」ティアーナは慌てて首を振った。
「不満なんてとんでもない!ユーリは優しいわ、これ以上ないってくらい。さっきも言った通り、わたしたち、愛し合って結婚したのではないけど、ほんとにとても優しくしてもらってるの。これ以上望んだらばちがあたるわ」
「でも、あんたはそれで満足してるのかい?満足できるのかい?優しいだけで?」
ウェルタの奇妙なゆっくりした声が、ティアーナに絡みつくようにささやかれた。その言葉は彼女の心の中に忍び寄り、彼女がひた隠しにしている部分を揺さぶった。ティアーナは動揺する心を抑えて、引きつった笑みを浮かべて言った。
「え、ええ……、満足よ。優しければいいじゃない。どうして?」
ウェルタは異様に光る目でティアーナを見ていた。何とか心の内を知られまいと言いつくろったティアーナは、その目が何もかも見抜いてしまったような気がして、ぞっとした。彼女は思わずウェルタに背を向けた。しかし、ウェルタの言葉は容赦なく、彼女の心に入ってきた。
「あんた、本当にそう思っているのかい?優しければ愛されなくてもいいと?」
ティアーナは自分の隠し続けてきた想いを守ろうとして、必死になって叫んだ。
「だって、それを承知で結婚したのよ。いいに決まってるでしょ!!」
「嘘つき」ウェルタの低い冷たい声が、ティアーナの心に突き刺さった。
「あんたは嘘をついて、ごまかしてる。あたしに、ユリウスに、周りの全ての人々に、そして自分自身に」
ティアーナは背を向けたまま、ぶるぶると震え出した。ウェルタは今までとはまるで違う、冷酷な笑みを浮かべた。
「愛して欲しいんだろう?正直にお言いよ。一つ屋根の下で暮らし、同じ物を食べ、体を重ね合ってる男が優しいだけでいいなんて、それで満足できる女なんていやしないよ」
「やめて!!」ティアーナは耳をふさいだ。
「あんたは一緒に暮らすうち、あの男を愛するようになった。そしてあの男の愛が欲しくなったんだろう?」
「違うわ!!」ティアーナの声は悲鳴に近かった。ウェルタの優しく冷たくねっとりした声が、呪文のように彼女の耳元に響いた。
「ごまかさなくてもいいんだよ。女はね、貪欲に男の愛を欲しがるものなのさ。あんただってそうなんだろう?自分だけを見て欲しい、求めて欲しい、奪うように抱きしめて、愛して欲しいと思ってるくせに」
「やめて!やめてよ!!そんなこと言わないで!!」
ティアーナは青ざめた顔で、体を震わせながら言い放つと、そこから逃げ出した。ウェルタに挨拶もせず、デューカに飛び乗ると、一目散に森の奥へと駆けて行った。
ウェルタは冷たい微笑を浮かべたまま立ち上がった。手にティアーナが忘れていったノートがあった。
「クククク……」
ウェルタは手の中のノートを見つめ、忍び笑いを漏らすと、その場を立ち去った。
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