きんとさんのお気楽ゴクラク日記

K.水谷


あいまいとゆらぎの中で


2月 21日(木) うらうらら〜と晴れ!

いつかネタがなくなったら書こうと思っていたことを書くことにする。
というのも、また森へ行ったからなのだが。

私は「賢者の結婚」という小説を書いてから、というか、その前後の様々な出来事を通して、エセ自然愛好家となり、山や森に出掛けては自然を眺めたり、体感するようになった。
(まだモノホンの自然愛好家にはなれない。まず虫嫌いと雷恐怖症を克服しなければ…f(^^;
賢者ってどんな人? と考えて、まず自然に対して自然に接する人(つまりネイチャーにナチュラルな人ということですな)を想像し、自分も自然に近づいていったのだが、人間というのはなかなか強固な殻を持っていて、なかなか自然に入り込んでいけないのだ。
私などは典型的な現代人だから、余計そうなのかもしれないけど。
多分、気功をやっていなければ、今でも殻に閉じこもったままで満足していたかもしれない。

ここでいう殻とは、自分とその外側を分ける境界線のことだ。
ほとんどの人は、自分という個体は皮膚の外側がその境界線だと思いこんでいるのではないかしら。
人間てとかく見た目に頼りがちでしょ。
そんでもって、個の意識が強いから、皮膚の境界線から内側が「自分」で外側が「自分じゃないもの」と認識している。
でもそれは自分でそう認識しているだけの話。
本当はその境界線て、とてもあいまいなものなのだ。

賢者の話を書くために、もう一つ想定したものが「物理と生理と心理の融合した学問」だった。
現在の学問では「物の理」「生き物の理」「心の理」はすごくかけ離れたものになっていて、まるっきり断絶して交流すらないように見え、それらが渾然一体となった学問なんてあり得るのかしらんと思っていた。
だが最先端の物理学や、ニューエイジサイエンスと呼ばれるチョット怪しいジャンルの本などを見ると、やっぱりそれらはどこかで繋がっていると考えられているのですね。
それで、ニューエイジサイエンスの概説書なども読んでみて、そこに書かれていた海岸線の話に目から鱗だったのだ。
当たり前の簡単な話なんだけどね、つまり地図の海岸線を現実の海岸線と寸分違わず書こうとすると、限りなく複雑になり、しまいには波の一つ一つまで書かなきゃならなくなって、でも波ってのも限りなく複雑で変化してて…、ということで、現実の海岸線は実はそんなに単純なものじゃないのよって話。
あまりに複雑すぎる線て、人の目から見ればぼやけてあいまいに見えるでしょ。
線と一言に言っても、その存在は言葉ほどはっきり明確な存在ではないということだ。
もちろん、線という概念を持ち込むからあいまいになるのであって、無限に複雑なものをそのまま複雑なものとして受け入れれば、それはあいまいとは言わないけれど(ああ、表現が難しい)。
つまりその本に依れば、例えばイギリスの海岸線は一次元でも二次元でもなく、1.26次元なのだそうだ(参照『賢者の石』F・デーヴィッド・ピート著 日本教文社刊)

さて人間の境界線に話を戻すと、やっぱり同じことが言えるのだ。
どこまでが「自分」でどこからが「自分でない」のか、見た目には明快に分かれているようだが、実はとてもあいまいなものだ。
細胞の一つ一つの隔壁の表面は限りなく複雑だし、常に動いている。
波が常に海岸線を変化させているようなものだ。
おまけに人間の体の中には空洞がある。
空洞の内部は人間の外側と繋がっているから、厳密に言うとそこは人間の外側なのか?
さらに、人間の外側には目に見えないけどオーラみたいなものが確かにあって、それもその人の一部だと考えると、ますますどこまでが自分なのかわかならくなる。
そんなことを考えていると、きりがないでしょ。
そうするとね、自分の殻が崩れてくるのですよ。
あいまいな自分をあいまいなまま受け入れなければならなくなる。
そしてやっと自分という個は、自然という外側と溶け合っているのだと認識できるようになるのだ。

こんなことを考えているのは私だけなのかな。
人によってはこういうことを当たり前に認識できているのかもしれない。
でも、私って個の意識がすごく強かったのね。
自分が外界や他者と溶け合っているなんて考えたこともなかったし、もしそういう状態があったとしても、それは特別なことでちょっと怖い状態じゃないかと思っていた。
でも気功を始めて気という存在を知ってから、自分という人間も自然も、もっと流動的でもっと自由で互いに影響し合いながら存在している、ということを実感できるようになっていったのよ。
そして同じ頃、前述のような本、それに当時流行っていてテレビでもしきりと採り上げられていたカオス理論やフラクタル図形などに出会って、さらにナウシカの中で出てきた粘菌なんかも実際に見てみて、理屈の上でも認識できるようになったというわけだ。
認識できれば、それはちっとも特別なことじゃなく、ごく当たり前の普通のことで、ちっとも怖いことではなく、むしろとてもやさしく安らかな気持ちにさせてくれるものだった。

自然との融合なんてことは、どっちかっていうと精神的なものと考えがちだから、理屈では証明しにくいものだと思いこんでたんだけどね。
だから、フラクタル図形の一つであるマンデルブロー集合(ちょっと重くなるけど判定精度を上げて拡大して見てね)の図形を初めて見た時は、とても衝撃的だった。
無限に複雑な図形、拡大しても拡大しても同じ複雑な図形が出てくるのを目の当たりにし、ミクロの果てにマクロの果てが溶けてしまっているのを感じた時、今までの常識的な認識があっけなくうち破られてしまった。
一次元と二次元の間にあるもの。
二次元と三次元の間にあるもの。
自然もまたそういうものだったのですね。
限りなく複雑なものだけど、それをあいまいなものと置き換えれば、それほど難しいものじゃない。
私たちはあいまいな境界を持ち、互いに混じり合い溶け合いながら全体を構成し、けれどあいまいな境界で個の存在を保っている。
まさしく粘菌的な世界なわけだ。

そんなことを考えながら、私は森へ行って、自分と自然との境界が溶け合うのを感じて安らいでいるわけです。
あー、長くなっちゃったのでゆらぎの話はまた来週。
あっと、終わる前に、ちょっと心理と物理の接点の話をさせてね。
心理と物理って最も相容れないものに見えるでしょ。
でも心理学者のユングは、心と物質の垣根を越える繋がりがどこかにあるのではないかと考えて、シンクロニシティ(共時性)という一つの可能性を打ち出したのだ。
シンクロニシティとは非因果的な繋がりのこと、つまり偶然の一致と見える事象が実は何か意味を持って同時に起こったものだとする考え方だ。
例えば私が「賢者の結婚」を書いた時に、まるで引き寄せられたかのようにそれに関連する本や出来事に偶然出会えたこと、なんてのもシンクロニシティと考えられる。
シンクロニシティは物理的な側面から論じられているものがまだ少なくて、単に心理学の考え方の一つにしかなっていない。
しかも「意味を持つ」の部分が抜け落ちて、ただの偶然の一致を何でもかんでもシンクロニシティと言ってしまう弊害がある。
まあ、どんな「意味」を持ってその一致が起こったのかと考えると、オカルティックでワクワクしてしまうのだけどね。
なんでこんなことを言い出したかというと、今週これを書くぞと決めて、その前に最近入り浸っているウェブファンタジー小説サイトの人気作家zero−zeroさんの日記を見に行ったら、ちょうどカオスとフラクタルのことが書かれていたからなのだ。
まあ、zeroさんも同じようなことをお考えになってるわ! これってシンクロニシティ? なんてお気楽に思ってしまったのよ。
まったく、これじゃどこにも物理的な側面がないじゃないねー。

(その88)に続く


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