きんとさんのお気楽ゴクラク日記

K.水谷


あいまいとゆらぎの中で−その2


2月 22日(金) 今日もうららかな晴れ

また来週と言ったが、私に知識がないばっかりに論理的な飛躍があって、誤解を招きそうなので、今のうちに言い訳しておくことにする。

まずここで言う「あいまい」とか「ゆらぎ」とかは、あくまで私の主観的な見方から出た言葉であって、カオス理論が流行るちょっと前に流行ったファジィ理論や1/fゆらぎのような特定の考え方を指す言葉ではない。
カオス理論とファジィ理論は別物ですからね。
物理や数学の知識が全くないので、どこがどう違うと説明はできないが、限りなく複雑なものとあいまいなものは同じとは言えないのだ。
非整数で表されるフラクタル次元は例えば1.26次元と言われても訳がわからないが、1.26という数値でちゃんと表されている。
ただ整数次元の上から見ると、それはあいまいなものに見えるなあと感じただけのことだ。

ほんとはさ、数理にしろ物理にしろ、その論理ってのは定義とか前提があった上で成り立つわけでしょ。
次元の話にしたって、例えば図形の面積を求める時、その図形を形作る線は長さしか値が与えられない。
その線自体の面積は0とするという前提のもとに計算されるわけだ。
だからきれいな答えが出てくる。
でも現実にはその線にも面積はあり、鉛筆、ペン等々で引かれた線の境界線はミクロの目で見れば限りなく複雑で、したがって導かれる面積の値も限りなく複雑になるはずなのだ。
まあつまり、私たちは整数次元の上に立っていると思っていても、実はそれは幻想にすぎないとも言えるのですな。
それは多分、私たちが数学や物理における定義や前提の部分を考えず、答えだけを鵜呑みにしてしまっているせいなのだろう。
現代教育の弊害ですかな……

さて言い訳はこれくらいにして、ゆらぎの話である。
海岸線の波の話に戻ると、波の形状自体も限りなく複雑なものだが、さらに波は常に動いていて、さらに海岸線を訳のわからない複雑なものにしている。
もうこれはあいまいにしか表現できんわい! と思ってしまう決定的な理由はこの流動、ゆらぎによるものなのだ。
自然の事象には常に変化があり、変化は微妙なゆらぎを伴っている。
雲なんか見てると、よくわかるよね。
右に左に形を変えながら、結局は前に進んでいるという……。
このゆらぎが自然の調和には不可欠なようなのだ。

諫早湾の干拓事業で堤防を締め切ったために、ノリがダメになったニュースの特集で、環境に被害が及んだから堤防を開けるべきだという意見と、いったん閉めたものを再び開けたらまたそれで被害が出ると反対する意見があるのを知った。
ニュースは韓国の同じような干拓事業で、堤防を締め切ったが干潟が汚れたため、また堤防を開いた事例をあげていた。
同じように堤防を開くことに反対があったそうなのだが、実際開いてみると最初のうちは干潟の汚れた泥と水が海に流れ海は汚れたが、何年か経つうちに干潟も海のほうもきれいになったんだそうだ。
あまりいい例えではないかもしれないが、これもゆらぎながら変わっていく自然の一例だなと思った。
一方にゆらいでも、また新たな要因が加わると違う結果へと変化していく。
一つのゆらぎだけを見て、これが良いとか悪いとか言えないのだ。
人間が自然に介入するときは、短絡的に結果を求めないで、ゆらぎを考慮に入れながら自然に寄り添うような形で介入していかなければならない。
そうでなければ自然と人間は調和できなくなってしまう。
長野県の田中知事がもうダムを造るのは止めると宣言したようで、これも賛否両論あるようだが、あの無粋なコンクリートの巨大な壁はどう見ても自然に調和しているようには見えない。
あの短絡的な建造物は人間の目的は立派に果たしてるのかもしれないが、ゆらぎながらも自浄していこうとする自然の働きを全く拒否してしまっている。
そうなるともう悪い方へしか変化しなくなってしまうのだ。

もう一つダムの話。
中国の黄河という河は暴れ竜と呼ばれるほど氾濫のひどい河だった。
氾濫するたびに大きく河筋を変え、人間にとってはいい迷惑の河だった。
多分それは上流に乾燥地帯を持ち、大量の土砂を運んでしまう河の宿命なのかもしれない。
土砂を運びきれなくなった河が氾濫を起こして新しい河筋を作る。
そしてまたうまく流れるようになって河は自浄され生き返る。
そんなことを営々と繰り返してきたのだろう。
ところが人間はこの河の中流に巨大なダムを造り、暴れ竜を屈服させてしまった。
暴れることのできなくなった河は次第に元気がなくなり、今や枯渇の憂き目に遭おうとしている。
河が死ねば結局人間にも影響が出てしまう。
何が良くて何が悪いか、短絡的に結果は求められない。
人間にできることは、大局を観ながら細部にもこだわり、後は静観する、そんな自然と同じ動きを真似ることしかないのではないか。

とても大雑把に論じてしまったが、実際のゆらぎはもっと微妙でもっと複雑で、カオス理論から見ると大きな変化の要因がほんの少しの数値の変化に依っていたりするらしい。
0.00001の違いでも全く別の結果が引き出されるのだとしたら、こんな怖いことってないよね。
でもそれを心配するのは杞憂というもの。
要因は一つではないし、変化は常に流動的だし、全てを包括して考えることは土台無理なのよ。
じゃあ、人間いったい何を信じて生きてきゃいいの? てことになるよね。
現実世界じゃ物象は限りなく複雑で、事象は絶えず動いてとどまるところを知らず、整数次元も幻想だし、客観的な認識も不確定性原理なんつう色即是空みたいな(ちょっと違うか(^^; )理論で否定されちゃ、確実なものなんて何一つないと言わなければならなくなる。
でもやっぱり、そんなことを心配するのは杞憂というものなんだろう。
この世の中は色即是空ではあるけれど、空即是色でもあるのよね。
本来の意味とは違うかもしれないけど、確実なものなんかなくても生きていけるということにも取れるんじゃないかなー。
ゆらぎながら、模索しながらより良い方向へ向かっていく。
そんな生き方ができれば、それでいいんじゃないかしら。
私ってやっぱりお気楽?

こんなことをぐじゃぐじゃ考えながら、実はそれが次のお話のモチーフになっていたりするんですよ。
確実なものがない世界でどうやって正義は保たれるのか…、なんて発展させてね(これはちょっぴりネタバレ)。
まあ無駄に頭は使ってないということにしているわけです。
おほほ、やっぱりお気楽人生ですわね。


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