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映画の感想 8・9月分

 

 

・・・特撰 ・・・秀逸

トータル・フィアーズ 9/-8

 時期的にはまってる。なにせ、アメリカ本土で大規模テロをやられるなんて、1年前までは想像もしなかったからね。この作中の敵もテロ組織である。このテロ組織がスタジアムごと大統領を吹っ飛ばそうと企む。その真意はいかに。テロリストたちの陰謀が見えてくる。これにいち早く気づいたベン・アフレックが奔走するあたりが面白い。で、彼の努力も空しく核爆弾は爆発するのだが、その描写はただのでかい爆弾であることに、軽く驚いてしまった。僕たちが小学校で習うような原爆の凄まじさが全然なくて、これでいいの?と思ってしまう。

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アバウト・ア・ボーイ 9/-7

 主人公のウィルは、一発ヒット曲を飛ばした親の印税で、なんの不自由もなく暮らす空っぽ男。その暮らしが、一人の薄幸な少年との出会いにより、変化してくる。日々の暮らしに窮する僕から見ると、なにが不満なのか理解に苦しむが、そんな彼の暮らしの中にも構造的な欠如があったことが、だんだんと明らかになってくる。ウィルも、それに気づく。当初、少年のほうが聡明で真面目で、ウィルのバカっぷりが目立つのが、次第に逆転してくるのが興味深い。

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猫の恩返し/ギブリーズ 8/-5

 また、文句を書き連ねねばならない。まず、ギブリーズがつまらない。絵がほのぼのとしているから、ほのぼのとしているんだろうなぁ、と感じる程度で、無味乾燥の極地である。製作に手が込んでいるのはわかる。ひょっとしたら、何かメッセージも含まれているのかもしれない。しかし、そういう韜晦趣味に浸るほど、我々はアニメ通ではない。あの時間は、退屈の一言に尽きる。

 次に、猫の恩返しだ。小学校の図書室には、大きな字で書かれた低学年向けの童話が置いてあるが、その主人公を女子高生にして、そのまま映画にしてしまったかのようだ。ジブリでなければ見向きもされないB級アニメ。映画が終わっても、多くの大人は、「はあ、そうですか・・・」と、ため息をついて客室を出るしかない。

 問題は、これらが2本立てということだ。しかも、どちらかがオマケというわけではなくて、途中に休憩を挟んだ本格的な2本立てだ。そして、この2本は性格が違いすぎる。ギブリーズは、美術的な試行錯誤に満ちた、大人向け職場ドラマ。猫の恩返しは、長編とは言いがたい子供向け単発まんが。それぞれが1本では商売にしにくいから、2本にまとめて量的な体裁を整えただけという、お手軽な思想があるのではないか。製作者も、ヒットすると思って作ってはいないだろう。一部には、千と千尋のビデオ売り上げに対するジブリの税金対策という話もあるが、うなずける。あるいは、後進を育成するための勧進作品か。「ジブリだから、さぞ面白かろう」と期待してしまうと、しっぺ返しを食らう。

 最後に一言。ギブリーズの中に中央線の電車が出てきた。201系という電車で、その描き方が非常に正確なうえ、独特の電気音をきちんと再現していたのは驚きだった。決して、手を抜いている映画ではない。だが、それだけでいいわけではない。

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ポケットモンスター 水の都の護神  ラティアスとラティオス 8/-2

 毎度、私事が多くて恐縮なのですが、学生時代にポケモンをたしなんでおりまして、学生会館で、対戦や交換を楽しんでおりました。リザードンの「赤」。そういう関係で、映画館で働き始めた当初は、誰よりもポケモンに詳しかったはずなのに、いまやさっぱり知らないポケモンばかりになってしまいました。ポケモン映画を観るのも、実に2年ぶり。

 それにしても、知らないのが増えた。昔は151種類だったのに。151匹目は幻のポケモン、ミュウで、僕と同様にポケモンで遊んでいたある先輩は、向ヶ丘遊園駅前で、これをゲットしたという怪しい小学生とデータを交換し、ついでにバグをもらって泣いていた。毎年のように種類を増やしたポケモンは、いまや350種を越えるという。僕は結局「赤」しかやっていないので、152以降の奴は、なんだか外様に思えて憎たらしい。同時上映の『ピカピカ星空キャンプ』でたくさん出てくるポケモンの中でも、目立つ親藩はピカチュウ・ニャース・コダックくらい。御三家かも知れない。

 ポケモンの映画は、種類が増えるに従って、つまらなくなってきたような気がする。もともと、ゲームである。ゲームボーイのゲームが、カードゲームになるのは、自然な発展だった。テレビアニメになったのも、うなずける。だが、映画になって、しかもシリーズ化してしまったのは、いかがなものかと思う。映画はカネの動く世界である。常に新しいポケモンを出して、関連商品を売らねばならないし、いきおい、子供受けするかわいいポケモンばかりが登場する。バトルに勝つために、あるいはポケモン図鑑を完成させるために、ピカチュウをライチュウに進化させるという発想は、テレビ化の段階で消滅して久しい。

 今作の舞台は、アルトマーレ。ベネチアをモデルにした水の都。イタリアに出向いて取材しているだけあって、描写は美しい。そこで起こった重大な事件を、サトシたちが「見物」する。そう、まさに見物である。2匹の護神は、ポケモンでなくったってストーリーに影響はない。登場するのがサトシ一行でなくともかまわない。宝物と姉妹盗賊によって伝説が再現されるのを、彼らは街への招待客のように見ているだけなのである。なんなんだ。ポケモンとされる彼らが登場していれば、それでポケモン映画なのか。ポケモングッズを売るためのプロモーションとしか思えない商業主義が主役のような気がする。せめて子供が観る映画と割り切って、説教じみた道徳感でも折り込めば、まだ良かった。

 原案のたのしみから、これほどまでに乖離してしまったキャラクターは珍しいのではないか。少なくとも、映画におけるポケモンは、ただのブランドと化したと言っていい。その展示会の演目に、体よく付き合わされるポケモンやサトシ。それでも旅を続ける彼らを思って、なんだか寂しくなった。が、いつまでも見てくれや話題性だけで売れるはずはない。毎年ポケモン映画を見ている子供たちは、すでに気づき始めているのではないか。それを考えると、今作のゲーム性からの乖離っぷりは、大きな誤算であったように思えてならない。登場からの時期的な問題もあるが、夏の一大ヒット作品としての命脈は、今回で絶たれたような気がする。

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