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スミに置けない脇役の伝説 第9回

「憎みきれない頑固おやじ」
クリス・クーパー




この男、いまどき珍しいほどの頑固者である。顔に刻まれた深い皺を見よ!あの鋭い目つきを見よ!あのきっちりと結ばれた薄い唇を見よ! 1951年生まれだから、まだ50歳、ロビン・ウィリアムスとほぼ同じ歳でるが、笑うと泣いたようになる彼の皺とは、年季が違う。 その頑固さは、映画の中では、時に人に恐怖を与え、時にその一徹さの陰に秘められた優しさで人を包み込む。演じた役は警官、牧場主、 漁師、炭坑労働者、その他多岐にわたっているけれど、共通するのは、生き方が不器用なことだ。その中から溢れ出る人間味は、彼の生き 方とも深い関係があるのではないだかろうか…。

誰もが、彼の存在に注目したのは、『アメリカン・ビューティー』(99年)であろう。ケビン・スペイシーのお隣さんの親父さんである。奥さんは、 これまた嬉しい『ジュリアン・ポーの涙』の曲者アリソン・ジャネイとくれば、この家族、ちょっと普通じゃない。

案の定、親父さんは、ナチスを信望する元軍人で、ヒットラーと親衛隊の晩餐会に使われたお皿を家宝にしているという変わり者。専制君 主的な家長で、その暴力のためか、奥さんはひとことも口が利けない。息子は息子で、ビデオカメラを通してしか世界を見れない、自分を 語れないという、精神的な障害を負っている。同性愛を忌み嫌い、息子が撮りだめていたビデオカメラの中に、隣人(ケビン・スペイシー) が裸になって何事かしている(本当はトレーニングをしているだけなのだけれど、自分の息子と忌まわしい事をしているように見える)のビ デオ・テープを発見、勘違いをし、怒り狂う。そのまま隣家へ押しかけ、ケビン・スペイシーを殴り倒そうとするのだが、なぜか泣き崩れ てしまい、逆になぐさめられる。すると彼は、ケビン・スペイシーが急に愛しくなってきて、キスを迫ってしまう。

映画の中でナチスの制服と同性愛は、なぜだかいつも分かちがたいような関係にあるのだが、彼もまた例外ではなく、隠れホモだったとい うのがオチである。それの裏返しとして、ホモを嫌い、暴力的(イコール男性的ということか)に振舞っていたというわけだ。

一途な頑固おやじも、『アメリカン・ビューティー』のような形になってしまうと、不幸である。ところが、『遠い空の向こうに』のよう な形になると、とても魅力的で幸福なこととなる。

『遠い空の向こうに』(99年)のクリス・クーパーは、アメリカの地方都市(ウエスト・ヴァージニア州)の炭坑夫である。仕事が出来て、同僚た ちからの信頼も厚い。主人公の少年は、ロケットを作り飛ばすことに夢中になっている。彼はそんな息子を心配する。この街では、高校を 卒業すれば炭坑で働くか、それともフットボールで優勝して奨学金をもらい、進学するか道はふたつしかない。兄は体も大きく、フットボ ールで活躍できたが、弟は身体も小さく、そんな望みはない。

父は、そんな彼を将来は、炭坑夫として働かせたいと思っている。自分は、子供の頃からこの世界に入り、高い信頼も得、家族にも何不自 由なく生活させてきた誇りがある。弟のほうには、そんな自分の跡をついでほしい。そんな父の気持ちが伝わってくる。しかし、息子は学 校に行き、勉強をして、ロケットの技術者になりたい夢がある。そんなふたりは、当然のことながら対立する。父を理解できない息子。そ んな夢を見て、あとあと後悔させたくないと思う親心。

父は職場では、組合問題に頭を悩ませていた。けれども息子が、誤解から警察に逮捕されれば、すぐ引き取りに行く。頑固一徹の中に優し さが光る瞬間。彼は息子の熱心さが本物とわかると、少しずつ理解をみせ始める。積極的に応援するというわけではないけれど、温かく 見守る姿勢がとても心強い。

ロケットの打ち上げに成功したとき、息子は、充分に父の温かさが心にしみていたのだろう。「僕はフォン・ブラウン博士を尊敬している けれども、ぼくのヒーローは彼じゃない、あなただ」と言うのだった。

クリス・クーパーは実生活においても良き父親である。彼の息子は脳性小児麻痺という重い障害を持っている。それもあって、彼は撮影の 時以外はいつも家で妻や子供といっしょの時間を過ごそうとしている。「私は役者になるために魂を売ったりするつもりはない。好きな仕 事だけれど家族を愛しているし、ごく普通の日常を送りたいから」実際成功しても彼は、息子のための施設が充実しているという理由で、 ハリウッドから離れたマサチューセッツ州に居を構えている。「いい作品を作って、自分の演技を向上させたい。けれども、それ以上に家 族ともどもいい人生を送れるようにしたい」と彼は言う。

『遠い空のむこうに』の頑固で厳しい父親像も、自分自身の父親の姿も投影させているという。彼は、ミズーリ州の牧場で生まれ、小さい 頃は、家畜の飼育をする父親を手伝って育ってきた。父は息子が牧場をついでくれるのではないかという期待を持ってはいたが、あくまで 「自分の好きなことをやりなさい」と自分のことを応援してくれたという。彼の中にはそうした父親の生きかたが反映されている。「とに かく自分自身しっかりとした人生を送ることが大切なんだ」と彼は言う。その人生観が映画にもにじみでていたように思う。

そういえば、『モンタナの風に抱かれて』(97年)は、まさに牧場が舞台で、彼はその牧場主の役であった。ロバート・レッドフォードの兄弟で、 働き者の良き父、良き夫の典型を演じている。典型とは言っても、都会からやってきた傷ついた親子に家に滞在することを提案する時の自 然な優しさは、彼の人柄がよく出ているようにも思える。この映画では彼の子供時代も二重に映しになってしまう。あの牧場の一家の温か さは、レッドフォードの演出だけでなく、彼の持つ真実の体験に裏打ちされた演技の力も大きいのではないだろうか。

『大いなる遺産』(97年)での主人公の伯父役も印象に残る。都会で絵の個展を開き、成功した甥を祝うために、田舎から出てくるのだが、なにせ 漁師だから、フォーマルな格好などしたこともない。それでも自分で育てた甥のためせいいっぱいのお洒落をと、どこかで借りたスーツに ちょっと合わない大きめな蝶ネクタイまでしめて、ギャラリーにやってくる。いかにも借り物といったところがわかるのが観客には微笑ま しくもある。けれども田舎者丸だしで、なおかつ大声でしゃべる姿を見て、息子は恥かしさでいっぱいになり、彼をギャラリーから追い出 してしまう。ひとり去っていくその後姿がとにかく寂しい。都会へ息子を送り出した自分の父の姿をどこかに思い浮かべていたのであろう か。ここでも彼の本領がよく出ているように思う。

もちろん、彼の役は父親役だけとは限らない。『真実の瞬間』(91年)では、エリア・カザンを彷彿とさせる、赤狩りで仲間や妻まで裏切って、仕 事にありつこうとした脚本家。『ボーイズ・ライフ』(93年)では、レオナルド・ディカプリオの母の元恋人役で、まだ幼さの残るレオ君や妻に暴 力を奮うなど、汚れ役でも凄みを見せている。残念ながら未見なのだが、ジョン・セイルズの一連の作品では、かなり複雑な役も演じてい るというし、そして何と新作『ふたりの男とひとりの女』(00年)では、悪徳警部補役をコメディー演技で見せている。掘り起こせば、色々な可能 性を持った、演技派俳優なのである。それゆえ、これからも、作品を選んで色々な役をやってほしい。そうすれば、オスカー受賞も夢では ない俳優である。けれども、私にとっては彼のイメージはやはり父親役なのである。今では希少価値の感さえある「頑固」で「不器用な」 父親役、これを演じて彼の右に出る俳優は、今のハリウッドには、そうはいないと思うからだ。


その他の主な出演作品

『メイトワン−1920』 (87)
『希望の街』(91)
『マネートレイン』 (95)
『BOYS』(96)
『真実の囁き』 <未>(96)
『パトリオット』 (00)

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