J/
ジェームズ・アイボリーの『眺めのいい部屋』が久しぶりに公開されて、なんか嬉しかったね。
B/
ここから英国の貴公子ブームが始まったのよね。この後の『モーリス』『アナザー・カントリー』『マイ・ビューティフル・ランドレッド』『サマー・ストーリー』
『アナザー・カントリー』『ハンドフル・オブ・ダスト』まあピンからキリまで色々と出てきたわねー。
J/
映画館で結構若い女の子がグッズ売り場に群がってて、写真集とか買っているのを見てなんか嬉しくなっちゃったね。
B/
まあ当時の英国のスターたちは、今の英国映画と違って本当に「貴公子」っていう言葉がピッタリくる美形の俳優たちの宝庫だったから。
ダニエル・デイ・ルイス、ヒュー・グラント、ルパート・エベレット、ジェームズ・ウィルビー、ルパート・グレイブス、コリン・ファ
ースなどなど。
J/
今でも光を放っているのは、ダニエル・デイ・ルイスくらいぐらいだけだけどね。ヒュー・グラントもルパートもすっかり違う路線になっ
たし、久しぶりに『恋に落ちたシェイクスピア』で観たコリン・ファースなんてデップリとしてしまっていて。(笑)
B/
今の英国の俳優では、この間来日公演をしたレイフ・ファインズが「遅れてきた貴公子」といった程度で、ユアン・マクレガーにしても
リス・エバンス、ジョナサン・リース・マイヤーズ、ロバート・カーライルにしても隣りのアンちゃんって感じなのよね。スコティッシュ
か下町系かみたいなね。
J/
英国映画自体が変わってしまったからね。いい意味でも悪い意味でも。今の英国映画は当時より力はあるのだけれど、バラエティに欠ける
嫌いがあるからね。昔のような映画は作られなくなってしまった。
B/
当時は、貴族やジェントリーが邸宅とか庭園を提供して、ずいぶんうるおったけれど、今ではブームも去りほとんどそういう撮影がなくな
ったので、屋敷を維持していくのが苦しくなったと嘆いているほどなのね。
J/
前置きが長くなってしまったけれど、なんかこの映画を観ると自分たちの映画史の原点に帰ったような気がするんで、一応ね。
B/
この映画は本当にイギリスの香りに満ち溢れているのだけれど、ジェームズ・アイボリー監督っていうは、実はアメリカ人…しかも西海岸
カリフォルニア生まれなのよね。
J/
そうんなだよね。だからかもしれないけれど、彼の描く英国はとても美しい。英国人の監督がこういう世界を描くと、もっとシニカルにな
ってしまうのだけれど、彼の映画ではそれさえもが美しく見えてしまう。
B/
ヨーロッパとりわけ英国に対しての憧れのようなものが彼の中にあるのかもしれないわね。
J/
ジェームズ・アイボリー監督の映画って結構当たりハズレもあるのだけれど、E・M・フォスターの原作を映画化した時には、必ずいいも
のができるんだよね。『眺めのいい部屋』『モーリス』『ハワーズ・エンド』この3本がそうだね。
B/
E・M・フォスターは英国人なのだけれど、逆に外国に魅せられた作家でもあるのね。ある時はフィレンツェにある時はインドに。それで
外の世界から英国人を見つめ直した作家とも言えるわけね。その辺のスタンスがアイボリーの作風にピッタリ合うのかもしれないわね。
外国に放り出された英国人と、ヨーロッパに紛れ込んだアメリカ人ってことで。
J/
もう一本の代表作『日の名残り』にしても、日系人の作品だしね。彼の映画の魅力は、そういう外からの視点というところにあるのかもし
れないね。彼の映画には古い英国への憧れのようなものを感じる。
B/
『鳩の翼』っていう映画を観た時に、それが監督は別なのに、まるでジェームズ・アイボリーの映画のようなテイストがあったのね。この
原作はヘンリー・ジェイムズ…ヨーロッパの作家というイメージがあるけれど、この人も実はアメリカ人なのね。それでピンッてきた。
実はこの辺に彼の映画を解く鍵があるって。
J/
しかも二人とも英国では肩身の狭いアイリッシュの血を引いているというのも面白い。今度の彼の新作はヘンリー・ジェイムズなんだよね。
やっぱりそこに来たかって気がした。
B/
でも以前にも『ボストニアン』をやっているでしょう。英国系のアメリカ人たちの話。これはE・M・フォスターとは逆に、英国に
住んで、そこから見えてきたアメリカ人の姿を描いた作品だった。彼は映画界のヘンリー・ジェイムズになりたい人なのよ。少なくとも自
分の世界と彼らの世界とに共通点を見出していることは確かだし。
J/
『眺めのいい部屋』の魅力は、やっぱりひとつの時代の再現だね。衣裳のデザインから小道具に到るまで考証をきちっとやっている。それ
で時代の空気というのもきっちり掴んでいる。
B/
ダニエル・デイ・ルイスのスーツ姿の美しいこと…色の配色にも気を配っているのがいい。赤い本が開かれたまま紫色の花の咲き乱れる庭
に落ちている。それを拾うヘレナ・ボナム=カーターの衣裳がワインレッドみたいな風にね。
J/
あの今ではすっかり有名になった草原でのキス・シーンは純白のドレスだったりとか。フィレンツェで街を歩いている時にはずっとコート
を羽織っているのだけれど、段々と街の空気で心が開いてきたところで、それを脱ぐとか。細かいところにも随分気を遣っているし。
B/
彼女と付き添い役で来たいとこの「プアー・シャーロット」(マギー・スミス!)が最初「眺めの悪い部屋」に閉じ込められちゃうってい
うのがとても象徴的なのね。親切な英国人親子が、部屋を譲りますって言っているのに、「失礼だ」って断っちゃって。
J/
彼女は典型的なヴィクトリアンな人だから(笑)道徳主義。あるいはジェーン・オースティンの世界の人。結婚は女の幸せみたいな。自由な
恋愛はあるけれど、結局収まるところに収まるみたいな。
B/
『眺めのいい部屋』は、ヴィクトリア時代の反動で随分自由な空気が生まれたエドワード朝が背景になっているから、出てくる人物がより
活発で活き活きとしている。
J/
作家のラビッシュ女史(ジュディ・デンチ!)にしても、村の牧師(サイモン・カーロウ!)にしても、デンホルム・エリオットとジュリ
アン・サンズの親子にしても、現実主義みたいな人がいっぱい出てきてね。
B/
それだけにシャーロットの偏屈ぶりが際立って見えてしまうのね。「あんな下層階級の人は何考えているかわかりません」そんな態度があ
りありと見えてしまう。デンホルム・エリオットお父さんは元新聞記者って言ってたけれど、そういえば『鳩の翼』でも記者が随分差別さ
れていたのを思い出してしまったわね。
J/
結局牧師に断ることはないって言われたのをいいことに、部屋の交換をすることになるのだけれど、閉じられた部屋から外に開かれた部屋
にっていう転換が、実に象徴的になっているんだね。窓を明けた時に眼前にフィレンツェの最も美しい風景がパアーっと広がってくるとこ
ろの開放感は圧巻。それまでそういうばこの映画はこういう景色を一度も見せてないんだよ。狭い部屋から映画は始まるから。この辺の見
せ方はとってもうまい。
B/
あの風景を見たら誰でも気持ちは外に向いていくわよね。プアー・シャーロット以外は(笑)
J/
この映画ではヒロインのルーシーとジョージがどこに惹かれあったかという描写はないのだけれど、あのキス・シーンに行くまでにずいぶ
ん細かい映像的な積み重ねがあるから、とても説得力があるなと思った。会話もなく、いきなりキスをするというのが決して唐突に見えな
いんだ。あのシーンに行くまでに気持ちの昂ぶりが積み上げられていっているからね。
B/
ルーシーがひとりでフィレンツェの街を歩く、それだけで気持ちの動きが充分に表現されているのね。その前に彼女がベートーベンの曲を
ピアノで弾くシーンがあって、それを聴いていた牧師が「この子には激しい情熱がある。いつかそれが花開いた時、幸せになれるだろう」
って言う前置きもあるのね。ピアノの音色でもって私たち観客は彼女の内に秘めたものが頭の中に刷り込まれることになるのね。だからこ
そでもあるのよ。
J/
シニョーリ広場のシーンは圧巻だね。細かいカットで裸の男性の彫像が積み重ねる。もちろんルーシーの視点で。静かだった広場で突然
イタリア男の喧嘩が始まり、あろうことかひとりの男が目の前で突然口から血を噴出す。真っ赤な血。画面が俯瞰になると同時にルーシーが
眩暈でよろめき、それを突然現れたジョージが受けとめる。性的なイメージが積み重ねなれて、目が眩んだところで絶妙なタイミングでジョ
ージが現れるんだね。
B/
デヴィッド・リーン監督で同じE・M・フォスター原作の『インドへの道』のワン・シーンに似ていなくもないのだけれどね。ただ『イン
ドへの道』では、そこに救ってくれるべき人がいなかった。それであの映画のヒロインは妄想のほうがどんどん膨らんできて、おかしな方
向へ行ってしまうのだわね。
J/
いずれにしても、この時彼女の心の奥の何かが変ったんだね。血で汚れてしまった写真(過去)が川に捨てられ、それがどんどん流れてい
く。何が変ったかは彼女自身は気づいてはいない。ジョージのほうは、それをストレートに表現しているけれど、彼女のほうはとまどいを
隠せない。彼から離れようとして「壁のほう」に向かって歩いていってしまうところに、彼女の心理状態がとてもよく出ている。恐れ…
彼女は窓の外を覗き、そこから部屋の中へ戻ろうとしているようなんだ。
B/
その後、ピクニックに行く馬車の中で、汗の臭いがプンプンしてくるような若い男の御者が、恋人といちゃついているシーンが出てくる。
ジョージのお父さんエマーソンさんは「こんな他人の幸せは滅多に見れないからいいじゃないか」なんて言っているのだけれど、固い牧師
のほうがとんでもないって女のほうを馬車から降ろしてしまう。この辺でもヴィクトリアンとエドワーディアンの葛藤なんかがある。ルー
シーはここでもやっぱりその間にはさまれた格好になっているのね。
J/
こういう積み重ねがあって、例のキス・シーンになるからいいんだね。情熱を押さえて押さえて、そのあげく偶然にもふたりがあの輝く草
原の中でふたりきりになってしまう。情熱が一気に溢れ出す感じがよく出ているんだ。
B/
けれども、その後をしっかりシャーロットが追いかけてきていて、ルーシーはすぐにまた元いた世界に引き戻されてしまうのね。英国に引
き戻されてしまう。
J/
けれど、後半婚約者のシシル(ダニエル・デイ・ルイス)とのキス・シーンが大変惨めな結果に終わってしまって、彼女はその時もう元に
は戻れないことを自覚することになるんだ。
B/
映画の後半、英国に戻ったルーシーはまた元の自分の世界に戻る。それでシシルと婚約を発表して、一見気持ちの安定を見せるのだけれど、
意識下にはフィレンツェの記憶が生なましく残っている。それを押し隠した上での安定。それがいかにはがれていくか、そういう心理の動
きが中心になっていくのね。
J/
しかし、また婚約者になるシシルがまた典型的な内の世界で生きている人なんだね。本の世界で生きている。仕事もしたことがないし、す
る気もない。映画の中のセリフを借りれば「いまどき羨ましい有閑階級」な人で、まったく現実性がない人。運動もまるでダメで屋外でも
本を読んでいるような人。どう考えてもふたりが合うはずがない。
B/
でもルーシーは本気で彼のことを愛していると信じていたのよ。自分の内なる情熱を押し隠すのに丁度良かった。そんな恐れの気持ちから
逆に離れさせてくれるのが彼の存在だったのよ。もっともそれもキスをすることで幻影が崩れ去っていくのだけれど。自分が自分をだまし
ていることに気づかざるを得なかった。
J/
何かが違う。シシルの家に招かれて、好きなベートーベンの曲でなく、シューベルトを弾けば、シシルは満足気に自慢気にルーシーのこと
を見つめてくれる。けれどもそれは自分ではない。弟(ルパート・グレイブス)が今風のコミカルな曲をピアノで弾けば、あからさまに眉
をひそめて出ていってしまう。
B/
家族が窓ごしに出ていったシシルを見ると、彼は外で本を読んでいる。(ダニエル・デイ・ルイスの立ち姿が美しい!窓枠から見える庭と
彼の姿が一体となってまるで絵のよう!)窓のガラス一枚、部屋の外と内、そこに彼とルーシーそれと家族たちの間に超えられない隔たり
のようなものがあるのね。
J/
村に一軒の空き家があって借りる人を探している。ルーシーはさっそくフィレンツェであった老姉妹に手紙を書くのだけれど、なんとシシ
ルが別のところで借りる人を見つけてきてしまう。それがなんと、例のエマーソン親子だったというこの皮肉。
B/
さらにお間抜けなのは、木の下でジョージ、ルーシーを前にしてシシルが読んでくれた本はラビッシュ女史の本で、なんとそこには、ふた
りのフィレンツェでのあのキスシーンが正確に書かれていた!あの時の3人の位置関係が、とてもよく3人の関係を表現しているわね。
木を真中にはさんで並んでいるシシルとルーシー、そのふたりの前で横たわって聞いているジョージ。この三角関係。
J/
この後のシシルとのキス・シーンを挟んでの再びのジョージとのキス・シーンがあのフィレンツェでの情熱を再現させてくれる。この時ル
ーシーは目がさめる。自分を偽ってシシルに逃げ込んでいたのに過ぎないと。
B/
シシルに婚約破棄を申し出るその言葉が、ジョージが言った言葉そのままなのね。彼女は無意識だったとは思うのだけれど。その時にも
シシルはあくまでも、謙虚にそのことを受け止めて、あくまでも紳士的に振舞う。「言ってくれて感謝しているよ。自分がやっと見えたよ」
って。気品さえ漂っている。
J/
結局、ルーシーをヴイクトリア朝的価値観から開放してくれるのは、もっともヴィクトリア朝的なシシルとプアー・シャーロットなんだよ
ね。皮肉なことに。
B/
シャーロットの節操のないおしゃべりが、ラビッシュ女史に小説を書かせ、またエマーソン氏の気持ちを動かしてしまったのね。前者は無
意識、後者は誘導されるような形で本心を出したといったところだけれど。
J/
思うにシャーロットは、ヴィクトリア的価値観の中で生きながらも、案外人から物を言われると、コロッと翻ってしまったりする。なぜ変
るかと言えば、自分が本当はそうしたかったからに過ぎない。自分の価値観と気持ちがズレてしまった時には頑なになったり、逆にオロオ
ロしてしまったりする。それがとても滑稽に見えるので、「プアー・シャーロット」って(笑)でも結果的には、付き添い役だったはずの
彼女のそんな「正直な行動」が、ルーシーを解放することになったんだね。
B/
ふたりがコメディ・リリーフ的な役割をしているのだけれど、そういう意味では物語り的にとても重要な役割も果たしていると言えるのね。
とても難しい役なのだけれど、マギー・スミスと、ダニエル・デイ・ルイスだからこそ単なるコメディ・リリーフにならず画面がしまって
きてるように思うわ。
J/
ラストはまたフィレンツェのあの部屋で、窓をいっぱいに広げて、思いっきり自由の風に当たる。今度はふたりでね。
B/
今の時代のほうが当時よりよっぽど自由はあると思うのだけれど、なぜかこの映画を観ると、その当時の自由がまぶしい。これはなぜなの
かしらね。
J/
自由の質が違うのじゃないかな。そりゃ恋愛は当時とは較べようもないほど自由だよ。自由過ぎて逆にあんな純粋さはなくなっちゃったく
らいに。でもエマーソン親子のような正直な生き方は今の世の中でもやっぱりできないんじゃないかな。
B/
複雑な社会の中の一員として、自分を偽らざるを得ないような部分は確かにある。当時とは形こそ変っているけれど。
J/
それに較べて何にも属していない彼らっていうのは、確かに自由なのかもしれない。自分に正直でも生きていける。
B/
形の自由ではなくて、精神の自由なのね。実はその部分に現代の私たちは惹かれてしまうのかもしれないわね。
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