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おススメ名作劇場
〜第2回「若者のすべて」〜

若者のすべて 監督…ルキーノ・ヴィスコンティ
脚本…ルキーノ・ヴィスコンティ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ他
撮影…ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽…ニーノ・ロ−タ
キャスト…アラン・ドロン、レナート・サルヴァトーリ、
アニー・ジラルド、クラウディア・カルディナ−レ
1960年、イタリア/上映時間3時間00分
(1960年ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞・国際映画批評家連盟賞)、(LD発売:オーマガトキ)



<物語>
1958年、この年1万3千人以上の南部人がミラノに移住した。彼らにとって移住とは生きることの唯一の手段。しかし、大都市での生 活は困難を極めた。南部の小さな村からやってきた5人の兄弟とその母親。都市に馴染めるものがいるかと思えば、故郷に思いを残してき ているもの、まったく馴染めないもの、兄弟5人もいれば人それぞれ。一家の苦闘の日々を通して、イタリアの南北格差の問題を、南部人 の誇りを描く、巨匠ヴィスコンティ中期の傑作。

<映画のテーマ>

J/ 実はきのう映画館で観てきたばかりなので、興奮冷めやらないのだけれど、この映画は公開当時って、日本ではあまり評価されてなかった んだよね。それがとても不思議だな。

B/ 無理もないのよ。初公開当時はこの映画ズダズタにカットされて上映時間が2時間(正確には1時間58分)だったんだもの。この映画は 兄弟5人のひとりひとりの物語が第何章といった形で構成されているのに、当時はロッコ(アラン・ドロン)と次男の話が中心になって、 他の挿話は話が繋がらないような状態だったそうよ。

J/ それじゃ、ただ単に次男と三男がひとりの女を取り合ってケンカした。それで一方は登っていて、一方は落ちぶれるっていう、メロ・ドラ マになっちゃうね。

B/ まったく無駄な場面のない3時間の映画から1時間切り取ったら、これはもう別ものになっちゃうんじゃないかしら。この映画は兄弟が5 人いるっていうことが、とっても重要だと思うのよ。そこに都市へ移住してきた南部人たちのそれぞれの物語、成功した人、まったく溶け 込めなかった人、それぞれの悲喜劇を象徴させてると私は思うから。

J/ まったくもって、兄弟5人、うちひとりはまだ子供だから真っ白い紙なのだけれども、その性格の違いがよく出ていたね。

B/ 小さくまとまっていて、保守的で、それなりにうまくやる長男。甘えん坊で、単純で、熱しやすく、人間的に弱い次男。繊細で人のことを 考えて、まったく汚れを知らない純粋な三男。変化に順応する柔らかさと、頭の良さを持ちいつもどこかクールな四男。

J/ そう、その性格の違いが、都市生活を送るうえで、明暗を分けることになるんだね。もう言わずもがなだよ。その辺兄弟に振り分けること によって、南部人の苦闘を、そして家族全体の物語とすることで、南部人の心を描き、社会問題の核心に迫っていくという方法が、とても 見事だな。

<ヴィンチェンツォ…都会の洗礼>

B/ 最初は、せまいアパートの地下室からスタートするんだけれど、一家が大きな荷物を荷車に積んで引っ越してくるとアパートの住民が、 またどこぞの南部の田舎モノがやってきたわよみたいに、ちょっと冷ややかな目で彼らを見ている視線がしっかり入って、前途多難な予感 がするのね。一家が荷物を持って歩いていく姿をロングで追いかける。キャメラの手前には噂話をするおばさんが二人っていう風に。

J/ 地下の一室で一家がかたまって寝ていると、シーンとした中、遠くからよく響く声が聞こえてくる。なんだろうってひとりが目を覚まして 高窓から外を覗いてみると、雪が降っている。この最初の朝のシーンがすごくいいね。みんな南部から来ているから、雪なんて滅多に見た ことがないんだね。「わぁー、雪だ、雪だ」ってみんながいっせいに起きてくる。「さあ、今日は雪かきの仕事がてぎるぞ」母親が食事を 用意する。ニーノ・ロータのテーマ曲がこれにかぶさる。

B/ この場面、みんながひとつになって「よーし頑張るぞー」って気迫のようなものが出ているのだけれど、その中でひとり次男だけが、この 時すでに取り残されているのね。「いやー、寒いからもうちょっと寝てようよ」でもみんなが笑って、からかってお尻を引っぱたいたりし ながら、起こすの。母親がまったくしようがないねーなんて言いながらも、愛しくてしようがないみたいな風情だった。まだ家族はひとつ にまとまっているんだけれども、これからの運命がもうこの時すでに回りはじめているような気がしたわ。

J/ 家族のほころびの予感は、連絡の行き違いで、先にミラノに出ていた長男が駅に迎えにきていないところから始まっているのだけれどね。 広ーい駅、誰もいなくなったプラットホームで、家族の一団だけが取り残されて歩いていくところで、もうなんか不安な感じが出ている。

B/ 彼は、厄介なことになったなって、もう思い始めている。自分の生活でせいいっぱい。南部出身で、もうすでに生活がそれなりに安定して いる家の娘と結婚して、家庭を持つこと。そのことで頭がいっぱいだから。

J/ 一家が訪ねていくと、婚約パーティーの真っ最中でね。家族が長男を頼ってきたことがわかって、女性の家族は冗談じゃないって思う。こ ちらの一家も南部のオレンジを懐かしがるような気持ちは残している。けれども昔の習慣はすでに捨て去っている。都会では、自分たちの 生活を守ることで必死だから。自分の娘を守りたいって思う。それで家族どうしがけんかになる。

B/ ある意味で都会の洗礼よね。南部の伝統はここでは通用しない。

<ロッコとシモーネ…南部を捨てられないふたり>

J/ 第2章は、次男シモーネ。ボクサーとして見込まれ、成功一歩手前までいきながら、その性格の弱さから、どんどん転がり落ちていくまで。 第3章のロッコとからんで物語の中心になってくるところだね。

B/ 次男の挫折はもう見えすぎるほど見えているわね。とにかく努力とかが嫌いな男だから。とかく低いほうに流されやすい。南部の田舎では 家族単位の生活だからこれでもやっていけるけれど、都会でひとりでやっていこうとしたら、たちまち落ちていくタイプなのね。

J/ そのくせ純粋でね。売春婦ナディアには本気で惚れている。精神的に荒れていて自暴自棄的、刹那的に生きているナディアの愛を得ようとす るから、強がらなければならないし、お金も必要になり、あげくの果てはロッコの働いているお店の女主人から宝石まで盗み出し、ボクサ ーとしても身を滅ぼしていく。強がりで見栄っ張り、自分の力をそれが超えてしまったとき、弱い自分が白日の元に曝されてしまったとき、 彼自身が破綻していくんだね。

B/ アラン・ドロンのロッコは、ある意味ではこの映画の核になっいるわね。

J/ 原題は『ロッコとその兄弟』だものね。

B/ ロッコは、いつも家族のことばかり考えているからね。南部の伝統を忘れられない人なのよ。いつか故郷に帰りたい、そんな風に思ってい るのね。家族が全員そろってひとつの目的で繋がっていた価値観を大切にしている。「家を作るとき、最初にきた人の影に向かって石を投 げた」例え成功してもそんな伝統を忘れない人なのね。それこそが映画の核心になっている。

J/ これはヴィスコンティ自身も言っていることなんだけれども、あのアラン・ドロンの役っていうのは、まさに『白痴』のムイシュキンに通 じるところがあるね。

B/ それはどういうこと。

J/ 一番それを感じたのは、兵役を終えて出てきたロッコが、偶然刑務所から出てきたばかりのナディアとばったり出くわし、ふたりで話をす るところだね。ロッコの純粋な目でナディアは自分の本質が見ぬかれたことを悟るんだね。今まで自分をそういう目で見てくれた人は、い なかった。それでロッコの言葉が素直に入ってくる。「信じなさい。」「でも何を信じればいいの」「僕を信じなさい。」涙が溢れてくる。 そこではじめて、黒いサングラスをはずす。素のままの自分をさらけ出す瞬間ね。

B/ アラン・ドロンの目ね。私はスターになってからのドロンしか見ていなかったから、演技力があんなにあるということは知らなかった。そ れと、この映画のために完璧なイタリア語もマスターしてるのね。ホント驚きだった。まあ、それはともかくとして、確かにそのまんまか もしれないわね。ムイシュキン、あるいは、黒澤明版『白痴』の亀田、それと那須妙子ね。

J/ 確かに。ドストエフスキーの『白痴』といより、黒澤明の『白痴』のほうにむしろ通じるみたいな。その後の展開まで似てくるからね。 日本の巨匠とイタリアの巨匠が同じところに目をつけていたなんて面白いよ。人間の本質を突き詰めようとすると、同じところに行きつい ちゃったりするのかもね。やっていることは違うのに、その方法の部分がとても似ている。

B/ ロッコの性格によって、他の兄弟たちの本質的な部分がより鮮明になってくるみたいなところが、『白痴』なのね。彼に南部を意識させる ことによって、問題をはっきりさせるという方法自体も『白痴』の変形なのかもしれないわね。

<貴族の血を持ったネオ・リアリズム>

J/ さて、ミラノに戻ってきたロッコとナディアなんだけれども、このふたりに芽生えた愛っていうのが、深いところで連帯しているかのよう で、見ていて実に気持ちがいい。ナディアの顔がこの時だけはとても綺麗に見える。ふたりが、乗り物に乗って、キスなんかしていても、 ちっともいやらしい感じがしない。ふたりの後ろの展望の利く窓から、ミラノの町並みがすべるように動いていって、すべてがふたりを 祝福しているかのよう。

B/ 彼女はまるで生まれ変わったかのようね。タイピスト学校に通って、昔の連中とも一切交渉を持たなくなって。それだからこそ、私はその 後、ふたりが親密になっているということを友達から聞いた兄シモーネが嫉妬心に狂い、ナディアをロッコの目の前で犯すというのが、と ても許せない。

J/ 彼は、ボクシングでも弟のロッコにお株を取られ、その上好きだった女性まで奪われてしまったと思ったんだね。

B/ ボクシングでは、大敗を喫し情けないところを見られ、女の気持ちを引き止めるためには、盗みもしボロボロ堕ちるところまで堕ちている というのは、わかるけれども、あそこまでする必要はあるのかしらって思っちゃった。ちょっと不愉快だった。

J/ 確かに、あそこまでっていうのはあるやね。けれども、これがヴィスコンティらしさでもあるんだけれどね。後年の『地獄に堕ちた勇者ど も』にしても『イノセント』にしても、ここまでするかなっていうの必ずあるんだよね。

B/ どこか近親相姦っぽい部分もあるのね。

J/ 『熊座の淡き星影』なんていうのはまさに、それだったし。

B/ なんていうか、その辺に彼の血が現れているのじゃないかしら。昔のヨーロッパの貴族たちが身内同士血で血を洗うようなドロドロとした 争いを繰り返してきた歴史。その血が彼の中にもやはり入っているのじゃないかなって気がしてしまう。だから例え庶民の話であっても、 そういう部分が出てきている。好きか嫌いかと言われれば、私はあんまり好きではない。

J/ 確かにね。だからって言って映画自体がそれでダメってことじゃない。そういう部分がダメでヴィスコンティが嫌いっていう人は確かにい るけれど、それではあまりにも勿体無い。そのへん割り切ってでも見て欲しいなぁ。だめかな。

B/ それとその後、ふたりはミラノの大寺院ドゥオーモの屋上で会って、これからのことを話しする。そしたらロッコが「兄にはあなたが必要 だから兄とまた一緒になってほしい」ってああた、そりゃー違うでしょうよ。そりゃひどいんじゃないの。

J/ まあまあ。そりゃ違うんだけれどね(笑)これは、彼が大切にしている南部の大家族制度の価値観から来ているからしようがないんだよね。 おまけに彼はムイシュキン的な人物ときているから、むしろ兄がこうなったのは自分のせいだって、ヘンな責任感を感じているから、ああ するしかないんだよね。

B/ 映画の中でもセリフでてきたけれど、その彼の性格こそが悲劇だったって。このふたりの兄弟の性格の違いが、とにかく悪いほうへと悪い ほうへと、転がっていく原因になっている。組み合わせとして最悪なのね。

J/ それにしても、あの屋上のシーンは、大変ドラマティックで綺麗だったな。ロッコに拒絶されてナディアが去っていくところ、キャメラが 俯瞰になって手前のほうにグーッと引いていく。教会の尖塔が見える。大勢の無名の民の間をぬって去っていく後姿、荘厳な景色の中を歩 く悲劇のヒロインが、段々小さくなっていく。その圧倒的な迫力。なにか運命を感じさせるような。

B/ 人間の存在がとってもちっぽけに見えるのね。背後が壮大な歴史的建造物で、しかも神のいるところ、寺院の屋上だから。

J/ それとあの教会自体が、実はヴィスコンティの先祖が作った教会というのもなんかとても興味深い。今その教会を作った子孫が、そこを舞 台にして、しかも低所得層の庶民の悲劇的物語を描いているというところが、これはヴィスコンティの映画そのものじゃないかと。実はイ タリアのほかのネオ・リアリズム(注:イタリアで戦後起こった映画、文学の運動。『戦火のかなた』『自転車泥棒』など)とは根本が違 うのじゃないかと思うのはそこなんだ。

B/ なんか言っていることがよくわからないけれど…

J/ 物事をリアルに描いていても、キャメラの視点が彼等と同じ位置に降りてきていないような気がするんだ。悪い意味じゃないよ。もっと広 い視点、歴史的な視点で物事を捉えているんじゃないかってこと。言いかえれば、彼の座っている位置がそこに描かれている人たちよりも 高いところにあるんじゃないかってことなんだけれどもね。

B/ まるで、彼のお父さんが、自分の領地の村人たちを集めて、月一回自宅で舞踏会を開いていたみたいな。ドレスも全部プレゼントして。そ んな貴族階級の人ならではの土地の人への愛情。そんな感覚がヴィスコンティ自身にもあったのかもしれないわね。もちろん形はまったく 違うのだけれども。そういう意味では「貴族の血を持ったネオ・リアリズム」とでも言ったらいいのかしらね。

<チーロ…運命に引き裂かれた兄弟>

J/ 話がだいぶそれてきちゃったんで、元に戻そうね。この映画の最後の時にきて、完全に兄弟の明暗、生きていく方向っていうのが、はっき りとしてくる。それが、第4章「チーロ」だね。

B/ チーロっていうのは、どこか冷めている分、非常に現実的で順応性があるのね。一所懸命勉強して、工場に就職して、都会のお嬢さんと将 来を約束する仲になる。それでそちらのお父さんにも気に入られて、順風満帆。

J/ 彼は家族の問題もよくわかっているね。シモーネが警察沙汰になった時に兄弟の違いが一番はっきりと出てくるね。家族がいるからって関 わり合いたくないっていう長男のヴィンチェンツォ。いや自分が犠牲になっても兄を助けてやりたいっていうロッコ。それと、シモーネに とっては、それは良くないことだっていうチーロ。

B/ 今思えばそこが物語りの大きな分かれ目でもあったのね。もしチーロの言う通りにしていれば、その後の悲劇は避けられたわけだものね。

J/ けれどロッコは、シモーネの借金を肩代わりする代わりに、ボクシング事務所と長期契約をすることによって、文字通り身を犠牲にしちゃ うんだものね。彼にとっては故郷に帰ることが夢であると同時に、家族全員が幸せでなければならないっていうところがあるから、そうせ ざるを得ないのただけれど、これで完全に故郷への夢は絶たれてしまう。

B/ そうね。ボクシングでチャンピオンになるという栄光を掴むのだけれど、彼にとってはそんなことは意味のないことなんだものね。

J/ チーロが言う「兄は変ってしまった。虫も殺せない人だったのに、今では顔に憎しみが出ている」って言うね。

B/ フォローするには自分の身に余るほどの兄シモーネの堕落によってロッコも自分自身をどうにもできなくなっているのね。南部に心を残し、 いつかは帰ることを一番望んでいる彼自身が、兄を直接責めることはしないけれど、大家族主義の考え方につぶされていっている。怒りが 彼の心の中に宿ってきているのね。兄にそうするのは当然と思っている彼にとっての怒りの対象は、何に対してということでない漠然とし たものなんだけれどもね。

J/ そういう意味でも、ロッコのボクシングの試合のシーンと、シモーネが憎しみでナディアを殺してしまうシーンが、時間の経過と共に平行 して描かれていくというのがすごいね。一見家族一番の栄光と、一番の悲惨の対比みたいだけれど、そうじゃないね。

B/ ふたりとも不幸なのね。社会的には栄光と転落なのだけれど、ふたりに共通するのは、故郷への道が完全に閉ざされるという悲劇に他なら ない。

J/ ともにひとりの女性を愛し、ボクシングを始め、都会には馴染めなかったふたり。愛し合い、憎しみあい、殴り合ったふたり。性格的には 最悪の組み合わせでありながら、常にどこかでつながっていなければならなかった、ふたり。その相乗効果が生み出した悲劇が、片方は栄 光、片方は転落といったまったくの対象を見せて同時進行で進んでいく。これはすごいね。運命の皮肉。

<そしてルーカ…故郷への遠い道のり>

B/ ボクシングでのロッコの勝利を祝った身内のパーティーが素晴らしくいいわね。シモーネは当然ながらいない。「みんな揃えばもっといい のに」ドアの向こうの呼び鈴の音に耳を澄ます母。乾杯の音頭、あたり障りのないことを言う長男。いまだ故郷への思いを口にするロッコ 「俺たちのうちのひとりはくにへ帰らなければならない」

J/ そして例の家を建てるときに、石を投げる話ね。「どうしてそんなことをするんだろう」ってルーカが聞くと、母親が「家をがっちり建て るためには犠牲がいるからだ」って。その時チーロが映る。すると、背中を向けている。その視線の先にはシモーネのボクサー時代の写真 が貼ってある。その写真に言葉がかぶさる。「犠牲」

B/ 背中を向けて、チーロが考えていたこと…。この時彼は確かに、このミラノで成功してうまくやっていくだろうけれども、その代わりに何 かを捨ててしまったという風に見えたわ。彼は家族たちとは疎遠になっていくのじゃないかと。

J/ そしてその後、すぐにそれが現実のものとなってくるね。シモーネが帰ってきた。けれども様子が変っていうんでロッコがひとり別室に引 き入れる。「とうとう殺っちまったよ」それだけで何が起こったかを理解して、泣きながら兄を抱きしめるロッコ。まるでふたりがここで ついにひとつになるかのように。なんとも不思議な感覚でね。その時、チーロは兄を警察に通報しにいく。取り乱してわけがわからなくな る母親。ついに家族が崩壊した瞬間でもあるね。

B/ 家族の悲劇が最高潮に達してね。このラストの30分間は、一篇のオペラ悲劇のような圧倒的な迫力で観客に迫ってくるわね。例え成功し ても家族を、あるいは故郷を捨てなければならない悲劇。失敗すれば、とことん堕ち、家族をバラバラにしてしまう悲劇。これらの悲劇が いっぺんに襲ってくるのね。どう転んでも決して幸せにはなれなかった南部人の問題が象徴的に明らかになる。

J/ それでもラストには、わずかな希望も見られるのが良かったけれどね。シモーネが逮捕されたことをチーロに知らせにきた、末っ子ルーカ が、真っ直ぐな道をむこうの方へ去っていくところ。その向こうには、オリーブの繁る虹のくに南部があるかのような気がする。せめて彼 には、問題が解決して住みやすくなった南部へと帰れる日が来てほしいっていう希望のようなものを僕は感じた。

B/ とても象徴的な、素晴らしいラスト・シーンだと思うわ。南部の方向(おそらく)へ歩いていくルーカ、それと反対の北部(彼の工場、す なわち北部の象徴)へと歩いていくチーロ。そしてその真中には、もうどこへも行けなくなった、ロッコのボクシングの写真が塀に何枚も 貼られている。この3人の兄弟、その行く末を暗示しているようか気がしたわね。

J/ 名作にはやっぱり、素晴らしいラスト・シーンがあるものだね。

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