J/
この映画の冒頭、セント・ポール大聖堂を遠くに望み、キャメラが暗いロンドンの町に入ってくるでしょ。これいいなと思ったね。セント
・ポールは、ロンドンの中心部、そこから目と鼻の先なのに、英国の繁栄とは無縁の貧しいイースト・エンドが広がっている。
その舞台にスーとキャメラが下りてくる。
B/
繁栄は目の前にすぐ見えている。けれどもそれがここからはとても遠い世界なのね。娼婦のひとりが、「クレオパトラの針」を見て初めて
見たと感動しているのが印象に残ったのね。近くて遠い世界のひとつのシンボルなのね。
J/
この映画のタイトル『フロム・ヘル』は切裂きジャックが初めて警察に対して手紙を送った、その冒頭の言葉をそのまま使用している。この
事件を描くこと、それはイコール当時の英国の社会の矛盾、もうひとつの地獄を描くことにもなってくる。それがどこまで出てくるか、この
映画に興味を持ったのはまさにその辺だった。
B/
この映画は、そういう点では、実に正確にあの時代を描いているわね。実際に起こった事件の数々が、正確に描かれているのね。娼婦の殺
され方なんて、ひとりひとりが場所、その頭の位置や、切られ方、銅貨が2枚落ちていたなんていう細かいところまで記録を正確に再現し
ている念の入れようで。
J/
あの娼婦たちがたむろしていた「テン・ベルズ」というバー(今は「ジャック・ザ・リッパー」という店名で営業しているとか)、ロンドン
病院、簡易宿泊所、救貧院、娼婦が殺されていた家の軒先、窓ガラスが割れていたなどの描写まで正確なんだよね。本の挿絵や写真で見た
だけの世界が、まさに今そこにあるかのように動いている。この映画の最大の魅力はここにつきるでしょう。
B/
色々、映画が作られているけれど、ここまで正確さにこだわった映画ってそんなにはないんじゃないかしらね。
J/
この映画はミステリーという見方だけでなくて、ひとつの歴史の再現という観点から見ると、より楽しめる映画かもしれないね。
B/
この映画の冒頭は、意外なことに阿片窟で始まるのね。ジョニー・デップ扮する、アバーライン警部の幻想の中に一気に画面は入っていく
。暗い路地をさ迷う娼婦の姿、暗闇に潜む影、キラリと光る鋭い刃物。これはいわゆる予知能力らしいことが後でわかってくる。
これはまさにこの映画が、正確な歴史的事実と、フィクションの間をさまよい、大胆な展開を見せること暗示させているような気がするのね。
J/
ある部分では、ものすごく事実に忠実で、歴史のミステリーになっている部分は思いっきり飛躍しているんだな。アバーラインとメアリー
に思いっきり創作の部分がある。
B/
アバーライン警部というのも、一連の事件を扱った警部として名前が残っている実在の人物なのよね。ただ、映画のように阿片窟に入り浸
っていたとか、予知能力があったということも一切ないのね。長生きをしたらしいのだけれど、多くの関係者がのちにこの事件を回想した
文章を残しているのに対して、彼だけが何も残さなかったということ。早くにスコットランド・ヤードを退職して、どこかで探偵をやって
いたということくらいしかわからない人なので創作がしやすいのかもしれないわね。
J/
以前から小説や映画で活躍をしている人物でもあるようで。あのマイケル・ケインもアバーライン役をやったらしい。残念ながら英国の
テレビ・ドラマなんで見られないけれど。
B/
ヴィクトリア時代の後半っていうのは、繁栄を極める一方で、貧富の差は広がり、社会的な矛盾が色々と出てきた時代なのね。「夜の女を
全員逮捕して監獄に隔離すれば、こうした事件の予防に役立つ」こんなCID(刑事部)部長の言葉にこの時代の風潮がとてもよく出てい
るのね。
J/
そういえば映画の中でも、「これをいいことに夜の女たちを一掃できる」このようなセリフが出てきたよね。その反対にメアリー・ケリーは
「私は本当は娼婦じゃないのよ。ここでは貧しければ、そうなるしかないだけなの」とジョニー・デップに言い訳するのが印象的だな。
まさにこれは、この時代のイースト・エンドの女たちの置かれた状況を代弁したものでしょう。
B/
あんまりひどいっていうので、ジョージ・バーナード・ショー(『ピグマリオン』または『マイ・フェア・レディ』がそのような中で書かれ
たと考えると、また別の感慨が出てきます)が、新聞などで色々な発言をしていた時代。マルクスがロンドンで資本論を書いた時代。なぜ
そういった人たちが出てきたかっていうのは、この映画を観ているとなんだかわかるような気がするのね。
J/
アイルランドの独立運動が盛んになっていたとか、失業者たちがユダヤ人に対して暴動を起こしたとか、あの時代の不安感も巧みに物語に
組みこまれているところには感心したな。
B/
現代と前時代の境目というのが、とてもよく出ているのもいいと思ったわ。新聞の号外を配る少年の姿が映画の中にちらりと出てくるの
ね。この事件がこんにちのマス・メディアの報道といかに良く似ていることか。スコットランド・ヤード総監、ウォーレン(映画の中で
ジャックの落書きを消す大失態をした人物)は、のちにマス・メデイアの非難の中、退職せざるを得なくなったということもある。映画の
中では、非難めいた顔で彼を取り巻く群衆というおぼろげなイメージが出てきただけだけれど。
J/
いっぽう、ロンドン病院のエレファントマン、アーサー・コナン・ドイルも入っていたというフリーメースン、これらは近代的な科学と、
まだ暗黒の魔術の世界が同居していた、この時代を如実に表している。
B/
実はジャック・ザ・リッパーが他の犯罪者たちと違って、なぜ私たちのロマンを掻きたてるかというと、彼の中にも20世紀と19世紀が
同居しているからなのね。科学的知識があるのに、やっていることは非常に儀式的という点で。これはこの映画を観ていて気づいたことで
もあるのだけれどもね。
J/
この映画はその位執拗にそうした部分を強調して見せているよね。その部分がとってもうまいと思う。
B/
主役のアバーラインもまさにそうした人物像に仕立てられている。彼の中には予知能力という前時代的なものと、冷静な観察力が同居して
いるわよね。まさに彼とジャックはコインの裏表のような関係になっているのよ。物語のテーマがそんなところからも見えてくるわね。
J/
あの娼婦たちを地獄に連れて行く馬車も、いつもボーと現れてくる。ランタンの緑色の光が不気味で、本当に地獄よりの使者っていう感じ
がよく出ていた。それと、あぶみね。シャキッっていう音がして、パッと現れる。その階段を登ると地獄への階段ですよって感じ。
B/
あの馬車に限らず、映画の中ではあぶみが繰り返ししつこいくらいに出てきたわよね。それがミステリーになっているのと同時に上流と
下層民を訳隔てるひとつの象徴にもなっているの。ダフル・ミーニングなのね。だからなおさら印象深い。
J/
そう言われてみれば、アバーラインっていうのも上流階級と、下層階級とのはざまにいるという意味でも象徴的な人物になっているんじゃ
ないかな。彼も映画の中でちゃんとふたつの役割を果たしていることになるよね。
B/
私が印象に残っているのは、その彼が、メアリーを肖像画美術館に連れて行くところ。階段の真中付近で降りてくる上流夫人とすれ違うの
ね。洋服の違いがはっきりしているから一目でわかる。それで「なぜ、こんな汚らわしい女がこんな場所にいるの」みたいな冷たい視線を
注いでるのが、彼らにもわかるのよ。
J/
さりげないけれど、残酷だよね。「臭いものにはふた」的なあの時代の上流の意識がよく出ていると思うよ。
B/
娼婦たちをナイフで脅かす、薄汚いチンピラたちも怖いけれど、誰かを突然連れ去っていってしまう、身なりの違う集団もコワイ。実は
公安の人たちなのだけれど。なぜ怖いかというと彼らには、彼女たちを人と思わないようなところがあるからなのね。その辺もあの時代を
よく表していると思うわ。
(注:ネタバレあり。これから映画をご覧になられる方は、ここから先は「絶対」に読まないでください)
J/
この映画、そうした一連の描写力に関しては、とても優れているのだけれど、ミステリーとしては弱いかもしれないね。けれども虚実が
巧みに織り交ざっているところで、野次馬的な面白さがあるような気がするよ。
B/
ヴィクトリア女王は出てくるは、クラレンス公は出てくるは、女王の侍医ウィリアム・ガルは出てくるは、その御者まで実名だとは、それと
警視総監のサー・チャールズ・ウォーレンね。姿形がまたよく似ているのね。
J/
クラレンス公が秘密裏にイースト・エンド界隈に通って、梅毒をうつされちゃったとか、あろうことか英国国教会であるはずの彼が下層の
女とカソリック式の結婚式をあげちゃったとか、これが歴史的事実っていうのもすごいけれど、このスキャンダルがこの切裂きジャックと
絡んでくるあたり、見ていて面白くて面白くて。
B/
ちなみに、クラレンス公はいまのエリザベス女王の大叔父さんに当たる人なのね。こんにちのヘンリー王子のスキャンダルとダブってくると
ころもあって、なんか血筋は争えないなみたいなのが。(笑)
J/
切裂きジャックの事件当時、ヴィクトリア女王は戴冠50周年を終えて1年たった頃だった。それで今年エリザベス女王が戴冠50周年の
お祝いを迎えるでしょう。しかもその時と同じように孫にスキャンダルが起きている。歴史は繰り返す…。事件は起きない代わりに映画が
できたなんて(笑)こういっちゃなんだけれど、面白過ぎる。
B/
作者がそこまで意図していたかどうかまではわからないけれどもね。
J/
けれどね。実は御者の名前が出てきた時点で、ジャック・ザ・リッパー関係の本を読んでいる人には、犯人が誰だかわかってしまう仕組み
になっているんだね。だって、その人って、ウィリアム・ガルの御者そのものなんだもんな。だからこの映画は純粋にミステリーを狙った
というよりは、それを読み解く過程が大切だったというような気がしてるんだ。どっちかっていうと、切裂きジャックの謎解き本でも読ん
でいるような感じになっている。監督さん相当の通みたいだから。
B/
あの事件は国家的な犯罪だった…英国王室が過去の歴史の中でやってきたことを思えば、なきにしもあらず。しかも、「娼婦の子」が王位
を継ぐなんてことになったらそれこそ一大事なんだから。だからウォーレン氏の大失態も実は「ユダヤ人への暴動を防ぐため」は表向きで、
自分自身も犯罪に関わっていたからだなんてことになってくるのね。
J/
こうなるとほとんど「噂の真相」になってくるんだけれど(笑)、写真も撮らないうちに消しちゃったっていうのは確かに謎の部分ではある
し。そこまで考えると、まるで根拠のないこととは言いがたい。そのラインは決して崩していないとは思うよ。
B/
それでもあんな殺し方はしないだろうってところにフリーメーソンを持ってきちゃった。確かにあの時代黒魔術みたいなのが復活していた
というのは事実だし、なるほどそんな方法で説明つくかなと。荒技ではあるけれどもね。ある意味では、諸説ある中でも一番ドラマチック
と言えるかもしれないしね。
J/
最後にアバーラインが死んでしまうというのは、彼が前時代と20世紀の狭間で生きている人間と考えれば、必然的なものになってくるし、
メアリーとの愛を貫くためというちょっと甘いラヴ・ロマンスに必要なことでもあった。
B/
と、思うでしょ。でもその甘いラヴ・ロマンスも最後には見せかけだったことがわかるのよ。なんとメアリー・ケリーが、クラレンス公の
子供をアイルランドで育てることになってしまう。よく考えると、クラレンス公のほうが長兄だから、その子には王位継承権があることに
なってしまう。そうすると、今のエリザベス女王はないことになってしまうというのに気づく。なんとブラックな終わり方なのだろう!
J/
必死に、あんな事件までおこしといてね。本当にそんな事実が出てきたらエライことになるよ。一見甘いラヴ・ロマンスに見せかけておい
て、あの終わり方は、芸が細かいと思う。
B/
ラストに来て、初めてわかる。この映画にはブラック・コメディの一面もあったのだと。19世紀を描きながら、20世紀まで皮肉っちゃ
うなんて、誠に恐れ入った次第です。はい。きっと、この映画はエリザベス女王にとって、50周年記念の温かい励ましになるかもしれ
ないわね。(笑)そりゃないか…
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