J/
故スタンリー・キューブリックが永年温めてきていた企画をスピルバーグが監督した映画ということで、
僕はずいぶん期待して待っていたんだよ、この映画。
B/
まあ、私は最初からスピルバーグの映画っていうつもりで観にいってたわよ。
それなりの期待ってところかしら。大体が正反対の作風のふたりなのだから、
この映画にキューブリックを期待するほうが間違っている。
J/
それはそうなんだよね。ただキューブリックがこの映画をスピルバーグに作らせたい、
と思っていたことがあるって聞いていたものだからね。
B/
ただね、前半の部分は、スピルバーグではなくてあまりにキューブリックっぽい
世界になっていたので、実は驚いてしまったの。映像の乾いた感じといい、
音楽の使い方といい、まるで『2001年宇宙の旅』を観ているようで。
J/
特に冷凍保存されている子供を母親が訪ねていくシーンの冷たい感じとか、
そこで流れるクラシック音楽の感じがね。およそスピルバーグとはかけ離れている。
ただ、最初にアンドロイドのオスメント君が出てくるシーンは、スピルバーグらしさが出ていたね。
全身を映さないで、足元だけ出す。いっぺんに見せない。
2、3歩歩かせて足音がしないところを見せるなんていうのは、とても"らしい"。
B/
元来、子供を演出するのが上手いスピルバーグなのだけれど、この映画の前半では、
いつもと勝手が違うわね。むしろとても不気味な感じがした。
『レベッカ』でヒロインを苛めるダンバース夫人みたいに、突然目の前に現れるところなんか、
ドキリとさせられてしまうわね。
J/
あんまり気味が悪いんで、隠れん坊しましょうって母親がクローゼットの中に押しこめてね。
その後トイレに入っていると、突然ドアが開いて子供(アンドロイド)が立っているなんていうのは、
ゾッとするね。食事中に食べる真似をしていたり、突然笑い出したりするのも、気味が悪い。
B/
『シックス・センス』のオスメント君が、これまた気味が悪いほど上手い。
ちょっと母親が彼を子供として迎えようとする心理的な動きが弱いのは残念なのだけれど、
彼女がそのパス・ワードを入れ終わると、表情がパッと変るあたりの彼の演技は、
まるで人形に魂が入ったみたいな感じがする。
相変わらず、まばたきはしていないのにも関わらず、一瞬で人間的な表情に変るのよね。
J/
そもそもこの物語、オスメント君が母親に「いつまで生きていられるのか」と
質問するところからもわかるように、彼自身がいつまでも子供のままで、
死ぬことさえないということ自体が怖い。そんなアンドロイドに、
ひとりの人を愛するというプログラムを入れるのだから、残酷な話になってくる。
こんな科学者は歪んでいるし、そんなことを考える人類は傲慢としかいいようがない。
B/
そんな人間の勝手な都合で作られたロボットに、これでもかっていうくらい残酷な
現実が次々と襲ってくるのよね。
奇跡的に医学の進歩で、冷凍保存されていた子供が回復して家に帰ってくるんだけど、
母親は喜びでいっぱいになりながらも、母性がある。だから、自分のことを真から
慕っているオスメント君に対しても、戸惑いながらも愛情が出てきている。
それに引き換え、父親は冷たい。
J/
本当の息子のほうは、息子のほうでそんな母親の変化を微妙に感じ取っていて、
子供ならでは残酷さを表す。「髪の毛を切ってしまっておけば、
母親の永遠の愛情を得ることができる」って…。確かそんなことだったよね?
母親の愛情を失っていると危機感を抱いているオスメント君に嘘をつく。
B/
もう、およそスピルバーグらしくない展開よね。(笑)
彼の映画では、たまに陰のほうで、人形の頭をもいで遊んでいる子供が
出て来たりとかすることもあったけれど、子供の残酷さがこんなに前面に
出てきたことはないものね。傑作の予感さえある前半だった。
J/
本当にそうだね。
息子ふたりがプールに落ちるシーンも、そんな期待を膨らませてくれた。
本当の息子のほうを救出しようと、大人たちがいっぱい水面に集まっているのを、
水中の光のゆらめきと共に、オスメント君がプールの底でひとりぼっちになって眺めている。
そのアップからキャメラがぐんぐん引いてくるところの孤独感なんか、
本当に見事だものね。水の中だから音もしない。まるでひとり忘れ去られてしまったかのようで。
B/
この事件をきっかけに彼は、両親に捨てられる。母親は、せめてもという愛情から
熊のテディを残してやる。ここからが中盤。ここからは、
急にスピルバーグ色が強くなってくるわね。ファンタジーの色彩が急に出て来るのね。
ストーリーも『ピノキオ』風に展開するし。
J/
月のイメージ、森のイメージなんかがね。
テディは、『ピノキオ』でいっしょに旅をしたこおろぎみたいな役割をしているしね。
だから可愛い顔をしているのに、声はおじさんの声なんだ。ちょっと彼より物を知っていて、
時に励まし、時に生意気なことを言っている。けれど意外なことにこのテディは、
キューブリックのアイデアだったりする。彼にそんな感覚があったなんて意外だったね。
B/
それから、実に色々なロボットが出てくるわね。小守のロボットだとか、
ポンコツだけれど、「わしは昔「タイム」の"ロボット・オブ・ザ・イヤー"に
選ばれたんだぞ」なんていう気位の高いのとか。
もちろんジュード・ロウのジゴロ・ロボットが極めつけではあるのだけれど。
J/
「僕を知ったら人間の男なんて目じゃない。」なんて首をひねると、
BGMまで流れてくる。曲もアステアが歌った歌とか、ムードのある曲なんだ。
うわぁ、負けたなって。(笑)
B/
何を言っているの?とっくに負けてるわよ!お話にならない!(笑)
それにしてもジゴロ・ロボットとは、およそスピルバーグ映画には縁がなさそうなキャラよね。
愛情を持たないロボットに愛情を求めている女たちという図式がとても寒い。
もっともそんな愛情なんて誤魔化しに過ぎないわけなのだけれど。
J/
オスメント君、ジュード・ジゴロ・ロウなどがまとめて、ロボット・ショウに連れていかれてしまう、
このショウというのがまた残酷なんだよね。イメージとしては、古代ローマの奴隷をライオンに
食べさせちゃうみたいなやつでね。
B/
私は、このシーンは『鉄腕アトム』によく似ていると思った。
アトムがロボットのサーカスに連れていかると、ポンコツになったロボットたちが、
人間にこき使われて、死んでいくというシーンに。
J/
そう言えば、人間に対して愛情を持つ子供のロボットを作ろうって考えた博士の動機自体が、
『鉄腕アトム』のそれとまったく同じだしね。
B/
スピルバーグ自身はそんなのがあったなんて知りませんでしたって言っているけれども。
J/
実はキューブリックは、『鉄腕アトム』を観ているんだよね。
『2001年宇宙の旅』の時に手塚治虫に美術のオファーをしている。
「『アストロ・ボーイ』を観たのですが、これこれこういう映画を作りたいので協力してほしい」って。
その数年後に『A.I.』の原作に出会ってすぐに映画化を決意したんだよね。
だから影響が少なかからずあることは確かだと思う。
B/
今回の公開に当たって、いろいろと話題になっているけれど、
『A.I.』は日本の漫画の世界では、案外お馴染みの世界であったりもするのよね。
J/
ショウを主催しているおじさんが、実は感情を持つロボットなんて、
人間にとって害であるっていう信念もあってやっているようなのだけれど、
観客はそんなものなんかない。快感を求めている。人間の優位性ってこともあるし、
誰も傷つかない安全性っていうのもあるし。ただ少年のロボットが出てきたときには態度が一変して、
「可哀想だ」っていうんで、逆に生身の人間に石を投げつける。集団リンチみたいなもの。
この皮肉はかなりきつい。
B/
優しさとただの哀れみの感情は違うからね。感情が暴力を生むのね。
J/
この後はしばらくピノキオ色が強くなるね。ブルー・フェアリーを探す旅というのが
前面に出てくるから。スピルバーグの本領が発揮される。特撮の映像が大変魅力的でね。
彼を作った博士との対面までのこの辺りがこの映画の中では、一番素直に楽しめるところかもしれない。
B/
話しは飛ぶけれど、オスメント君が、ブルー・フェアリーに会うために、
海底に潜るシーンはなんともいえず良かった。海の底に沈んだコニー・アイランド。
子供のいない遊園地。大きな観覧車が亡霊のように佇んでいる。
ピノキオのアトラクションがあって、キャラクターたちが、目の前を通り過ぎる。
封印され、ひそかに物語を守り続けてきたかのよう。そこにぼーっとブルー・フェアリーの姿が現れる。
J/
そう、そして真っ暗な海底に、潜水艇の中の明かりに浮かぶオスメント君の顔。
その正面で艇の照明で照らしだされたブルー・フェアリーの姿。
静けさがふたつの空間を包み込む。最初のプールの底の静けさとは違う。
安らぎのようなものがある。こんな演出は逆にキューブリックにはできないと思う。
孤独の中の安らぎなんてね。
B/
まるで『2001年宇宙の旅』の木星でのモノリスとの遭遇に対応するかのようなシーンなだけに、
スピルバーグらしさが逆に光っているのかもしれないわね。決して明るくはない映画の流れからしても、
決して不自然ではないシーンになっているしね。やすらぎとはいっても、彼の願いは
永遠に願いのまま続いていくだけっていうことでもあるし…。
ここで終わってもいいくらいで。その後のシーンを見るとそこまで思えてきてしまう。
J/
Bettyさんは、スピルバーグにはいつも厳しい意見なのに、
今回は珍しいと思って話をしていたんだけど、このあとがまだあるんだね。(笑)
B/
そうなのよ、ここまでは最高だったのにねぇ……。
J/
それから2000年後…ここからが問題だな。
確かに前のシーンでは物語は完結していないことはわかる。この終幕こそがこの映画のテーマ
そのものになるはずのものだから。けれどそうはならなかった。えっ、一体何が言いたいの?
みたいになってきて。
B/
第一な〜に、あのポヨヨン星人みたいなのは!あれが出てきて私はすっかり白けてしまった。
J/
なんか『未知との遭遇』に出てくる宇宙人みたいなんだな。どうしてもそれを思い出してしまう。
B/
彼らは、人間が作った究極のロボットたちなのね。私はそういう風に思ったの。
オスメント君の記憶を読みとって、それを手をつなぐことによって別の個体にコピー、
再生していくのを見ていてね。
J/
僕は、最初てっきりどこかの惑星から来た宇宙人かと思っちゃった。
B/
それで彼らがベラベラと色々しゃべることがまた問題だと思うのよ。
彼らはあんなにしゃべってはいけない!『天空の城ラピュタ』のロボットたちのようにね。
あれじゃまるで、ディズニー・ランドのアトラクションの前説みたいなんだもの。(笑)
ここ一番っていうシーンで、いちいち理屈を説明してしまって…。
私がスピルバーグをイマイチだって思うのは、こういうところなのよ。
「才能はある人なのに」ってね。
J/
彼らはあのオスメント君を作った博士のように、心が壊れてしまった人によって
「形ばかりの愛」をインプットされたそんなロボットだと思うね。
本当のハートがわからない。すでに生き物も死に絶えている。
彼らの間のコミュニケーションでは愛の感情は育たない。
彼らって、結局2000年近くもの間、人類が滅びちゃった後に、
「ハートってなんだろう」「愛情ってなんなのだろう」って、
どこかにその痕跡がないか地球上をさ迷い続けていたんだろね。
B/
悲劇なのね。
ところがこのロボットたちは、少年に「君が満足であればそれでいいよ」とか、
どうも矛盾したセリフまで言っている。そんなセリフが言える人が、
心を探し求めるなんてことはない。2000年も待って、やっとオスメント君を発掘したことと、
どうしても結びつかないのよ、私は。
J/
厳しい意見だけど、確かにそう思うね。
B/
母親との対面もずいぶん感動的には作っているわよね。でも泣けない。
なんで泣けないのかなと思ったら、あれは絶対にハッピー・エンドではないからだと後で気づいた。
「初めて彼は夢を見ました」って、母親に寄り添って寝るオスメント君のアップ、
それが手前に引いていって暗転という終わり方は、確かにファンタジー。
ピノキオが人間の男の子になれたというのと同じ。
でもこれって、なんか違うと思ったわ。
J/
ロボットが夢を見るということは、プログラムが不正に働いていることに他ならないわけで、
それは「死」に等しいことなんだよね。
B/
なるほど!それって重要なことよね。
J/
「電気羊はアンドロイドの夢を見るか」じゃないけれど(笑)、そう、
彼が初めて「愛」を手に入れた時には彼はもう消滅してしまうということになる。
もちろん母親自体も幻みたいなものだし。これはハッピー・エンドとは本来いいがたい。
それであの終わり方は……。
B/
そうね、「夢を見るのは」生き物だけなのよ。夢はハートの産物だから、
言いかえればハートを持っているのは生き物だけということ。
ロボットの存在は、人がハートをなくしたことの象徴にもなってくる。
だからあのラストはオスメント君で終わらないで、その様子を見つめ、
また虚しく生き物のいない世界をさ迷っていくロボットたちでなくてはいけない。
それが俯瞰になって広大な海の中に佇む高層ビルの残骸を映すみたいな終わり方、
そんな寂しい終わり方にして欲しかったと思うのね。うまく表現できないけど、
そんなラストに。
前半から中盤までは、壮大な大風呂敷を広げておいて、あのラストじゃあまりにも陳腐じゃないかしら?
J/
何とも虚しいラストになりそうだね。でもこの物語を全体で捉えると、
そういう虚しさが確かに流れている。テーマ的には21世紀の新たな警鐘みたいにも思える。
だから少なくとも、絶対あんなファンタジー的な終わり方をするはずがない。
プロット(ストーリー)とシナリオ(セリフ)と演出が分離してしまっていて、
スピルバーグの演出は完全に違う方向に行ってしまった。
B/
ここまでキューブリックの個性とスピルバーグの個性がうまく合体して、
新しいスピルバーグの世界というのが開けていたというのに、ここで、
ふたりの個性がけんかしてしまうのね。
J/
最後はいつも皮肉に終わるキューブリック。『プライベート・ライアン』のような皮肉な話しさえ、
最後は美談にしなければ気がすまないスピルバーグ。
両方がひとつのシーンでいっぺんに見えてしまう。せっかくここまで引っ張ってきて、
もったいないよね。
B/
でも考えてみると、彼らふたりの根っこは実は似ていたのかもしれないと思うの。
人生の早い段階で引け目や孤独を感じ、「ピノキオ」に心引かれたという点で。
ただ、ひとりはその孤独の中に引きこもり、自分の世界を追い求めていった。
そんな自分を客観的に見つめながら、自然に世の中の見方も斜めになっていく。
ひとりはそれをバネにしてひたすら成功を追いかける。
まるでいつも自分が頂点にたっていなければ気がすまないかのように。
自分をみつめることを恐れるかのように。それが正反対の作風に繋がっているのかなと。
J/
『A.I.』はまさにそんなふたりの稀有な接点でもあったのだけれど、
その大きな違いがモロに出てしまったのかもね。
B/
これは結局キューブリックにしても、彼の個性だけでは作り得なかったタイプの映画。
製作キューブリック、監督スピルバーグならできた映画かもしれない。
もっともそんなことは絶対に実現しなかっただろうけれど…「奇妙な果実」って
言ったらいいかもしれない。彼の死によって偶然世に出られただけの。
J/
あと一歩で傑作になり得たかもしれない…でも偉大なる失敗作だね。
あの世界が好きとか嫌いとかはまた別の話しなんだけれど。
それでも僕は実は好きだったりするから。
B/
ずいしょにいいところがあるので、見て損はない映画とは思うけれどもね。
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