150. 遺伝子と生命と進化論、学問の方法論 (2007/3/15)


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■西洋医学と東洋医学から見た生命

西洋医学は、病気の原因を特定しそれを除去することを目的とする。一方東洋医学は、病気を発現させた身体の不調和を元に戻すことを目的とする。

なぜ両方存在するのかというと、端的に言えば両方とも間違っているからである。もしどちらかが正解ならば、もう片方はとっくに消えてなくなっているはずだ。両方が正解だったら? それもありだが、とてもそうは言えない。

では何が間違っているのか。人間の体に対する捉え方が間違えている。人間は機械のように単純ではないし、かといって分析できないものでもない。

我々の体は単細胞生物やウィルスのように単純ではない。体には特定の機能を持った部品があって、それが組み合わさって生命維持活動を行っている。たとえば心臓は血液を送り出すポンプのような役割をしている。だから私たちは心臓だけを抜き出して代わりに機械で作った人工心臓を使うことも出来る。一方で肝臓のように、化学プラントとして作ったら東京都と同じくらいの面積が必要になると言われている部品もある。

どうして人間の体はこのように出来ているのだろう。誰しも一度は思う疑問である。とても科学では説明できそうにない。

■進化論と生命の進化

だが私たちは既に答えの一部を持っている。進化論だ。人間が今の形になるまでに経てきた過程、気の遠くなるような年月の痕跡が残っている。ただしこれは科学ではない。再現不可能だし、そもそも観測が出来ない。掛かる年月と規模の大きさがありすぎる。ちょっとした品種改良のための交配ぐらいでは種の進化と呼べるものを一人の人間が観察するのはとても無理だ。しかし我々は進化論を信じている。この非科学的な考え方を、多くの人が真実だと考えている。ここに科学以外の学問の方法論が生まれる余地があるのだが、この話はあとにまわすのでとりあえずこのまま話を続けよう。

生命そのものの誕生は既に実験により確かめられている。海水と同じような成分の水槽にひたすら雷のような電気を流し続けると、原子的な生命が生まれることが分かっている。これは純然たる科学だ。誰にでも再現可能で観測も出来る。ただし、何が生命なのかという定義が必要となる。まあこれについては深いこと考えないことにしよう。

生命の起源 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90

人間のような複雑な生命が生まれるには、いくつかのブレイクスルーが必要だった。現在残るいくつかの原始的生命体について考えれば分かる。アミノ酸、たんぱく質、酵素、核酸、遺伝子、細胞、組織。生命を構成するのは無論原子であり分子であり極論すれば中性子や陽子や電子とかなんとかいくらでも細かくすることが出来るが、基本的には20種類のアミノ酸が鍵となっている。私は生物が専門ではないので詳しい説明は出来ないから乱暴に言わせてもらうと、アミノ酸が色んな組み合わせでくっついたのがたんぱく質で、その中で機能豊かなのが酵素、それらを合成するための設計図が核酸、これらが集まって細胞を構成して生物の最小単位(異論もある)となり、さらに細胞が集まって組織や部位を、そして一個体となる人を形作る。

こんな複雑なものが一体どうやって出来たのか。

■機械と生物

さきほど心臓と肝臓の例を出した。心臓は割と簡単に機械に置き換えることが出来るが、肝臓はそうはいかないと。ここでいったん機械的なものと生物的なものについて考えてみよう。

機械というのは生物と比べると単純である。見ただけで原理が分かる。たとえばエンジンだ。内燃室で気化させたガソリンを…そんなに簡単じゃないな。でもこれでも生物と比べると簡単だ。要は気化したガソリンを燃やして爆発させたときのエネルギーをピストンで上下運動として拾って回転運動に変換する。モーターはどうだろう。電磁石に流す電流の流れを調整することで磁石の力で回転させる。

一方筋肉はどうだろう。私はそんなに生物に詳しくないのでここでは説明できない。だが最低限のことは分かる。筋肉は細胞で動く。細胞は酸素と様々な栄養で維持され機能する。栄養ってなんだ。もうこの時点で複雑すぎる。おまけに筋肉は鍛えられたり弱くなったりする。また、多少傷がついても機能する。モーターは一箇所でも断線したら動かなくなるし、エンジンは詰まったらおしまいだ。

以上のようなことから機械の特徴を考察すると、

逆に生物のほうは、

■論理系ユニットと複雑系ユニット

機械と生物という分け方をしてしまったが、人間ほど高度な生き物となると生物的な特徴だけでなく機械的な特徴も持っている。そこで混乱を避けるために、機械的な部分のことを論理系ユニットと呼び、生物的な部分のことを複雑系ユニットと呼ぶことにする。

人間の体の中で、心臓は論理系ユニットの傾向が強く、肝臓は複雑系ユニットの傾向が強い。肝臓のでたらめなところは、半分切り取って移植したり出来ることだ。仮に肝臓と同じ機能の化学工場を東京都一杯の敷地に建設した場合、たとえば江東区のあたりにアルコールを分解する機能が集中してしまったりするので、半分に分けるのは相当困難だ。一方で、アルコールを分解する機能だけ強化したい場合は、化学工場であればその機能を持った設備を増設すればいいが、生身の肝臓の場合は丸ごと増やすしかない。

では生き物を構成するとしたら、どちらのユニットのほうが都合がいいだろうか。これはもう半分分かりきっている。高度な機能を持ちつつ小型な体を作ろうと思ったら、複雑系ユニットしか選択肢がない。じゃあここで仮定を推し進めて、もし仮にナノマシンを作れるとしたらどうだろう。それでもまだ複雑系ユニットのほうが優れている。というのは、敵に攻撃されたとき、ナノマシンだったら動力部や配線をやられたらおしまいだ。ここであまり考えずナノマシンという言葉を使ってしまったが、優れたナノマシンには複雑系ユニットの特徴を備える必要があるだろう。複雑系ユニットなら、部分的に壊れても残りの部分で生命を維持できる。それに論理系ユニットに自己修復機能を持たせるのは大変だ。

ここでは余談となるが、これは知恵についても言える。現地人の知恵=複雑系ユニットで、科学の英知=論理系ユニットである。天才的野球選手のバッティングセンス=複雑系ユニットで、レッスンプロの理屈っぽい教え=論理系ユニットである。ニューラルネット=複雑系ユニットで、学習理論=論理系ユニットである。複雑系ユニットのほうが圧倒的に性能が高いが、応用が利かない、伝播できない、訳が分からない、の三拍子が揃っている。

■DNAの仕組み

ここでDNAについて私の分かる範囲で説明する。

DNAは何本かの塩基配列が二組で成り立っている。何本かというのは生物によって異なる。塩基配列とは四種類の塩基がヒモのようにつらなっている。その塩基は三つで一組になっており、4×4×4=64通りの組み合わせがあるが、20種類のアミノ酸と多対一で関連付けられている。それをスキャナーみたいなもので読み取って、大体読み取ったとおりの複数のアミノ酸の連なりであるたんぱく質が作られる。大体というのは読み取りエラーとか針が飛んだりするのでそのまま作られたりはしないそうである。冗談のような本当の話。たんぱく質は一本のヒモで出来ているのだが、そのまままっすぐにはならずに力学が働いて折りたたまれる。その折りたたまれかたはアミノ酸の並び方によって一意に定まるのだが、折りたたまれた形に応じていろいろな機能が備わり、作られるたんぱく質の差がそのまま生物の差になる…のかな? ここからは私にはよく分からない。

ともかく、DNA周辺の原理はかなり論理系ユニットの要素が強いことが分かる。四種類の塩基の組み合わせなんてまるでコンピュータのようですらある。コンピュータの世界は2値のビットだがDNAは4値だ。ビットが三つでアミノ酸がまるで文字として構成され、文字からたんぱく質が文字列のように構成される。ただし、コンピュータはほぼ無謬だが、DNAはそんなに正確ではなく、そこらへんがカオスで複雑系っぽくもある。また、たんぱく質も長すぎてなかなか構造が解析できない。コンピュータだったら文字列を組み合わせてプログラムでも書くところだが、生物の場合はそこから我々には解析できない複雑系の世界に入っていく。これからもっと研究が進んだら解析できるかもしれないし、現に研究は進められている。しかし現在のスーパーコンピュータ程度では計算量が爆発してしまうので、量子コンピュータとか分子コンピュータが待ち望まれる。

ちなみにたんぱく質の折りたたまれかたを不特定多数の参加者の協力により計算するプロジェクトがあるようで、スタンフォード大学が推進するFolding@Homeというのがそうなのだが、これはかつて宇宙からの電波を解析することを試みたかつてのSETI@Homeと似たような仕組みらしい。電波を解析するよりよっぽど役に立ちそうなプロジェクトである。

Folding@home
http://folding.stanford.edu/japanese/

私が学生だったころ、同じ研究室の人がたんぱく質を二次元で折りたたんで図示するという研究をしていたので、私も遊びで当時流行っていた遺伝的アルゴリズムを使って折りたたんでいく様子をアニメーションで見せるソフトを書いて先生に見せたところ意外とウケがよく、その先生が知り合いのバイオ系の研究者に話してそこからその研究者と共同で軽く論文でも書かないかと言われて驚いたことがあるが、我ながらくだらないアイデアだと自覚していたのでさすがに断った。いま思えば、アニメーションするので目で見て分かりやすいという点が良かったのかもしれない。重要な研究でも地味で分かりにくかったらアピールしにくいので、こんなこともやってますよ的なものとしての引き合いだったのだろう。

■進化に必要なのは論理系ユニット

さて、なぜ論理系ユニットが出現したかについて考えてみよう。既に述べたとおり、論理系ユニットはそれ自身の益となる要素が少ない。モロいし複雑な機能は巨大になってしまう。組み合わせると複雑なものを構成できるとか、構造を解析しやすいとかいうのは、あくまで第三者からみての利点だ。

まず私が着目したいのは、モロさが逆に利点になるということである。これはどういうことか。仮に偶然の産物として高度な機能を持った仕組みが生まれたとする。では、その仕組みが生物の中に維持されるには何が必要だろうか。それがモロさではないだろうか。偶然によって生まれたものは、偶然によって変化しつづけていってしまう。仕組みが維持されるには、その状態で固定化される必然がなくてはならない。それはいままで進化論的には説明されてきた。しかし一方でそんなに都合よく進化できるものかと絶えず批判に晒されてきた。ちょっとでも崩れるとたちまち生存が難しくなるようなモロさこそ、高度な進化に必要な要素ではないだろうか。

次に組み合わせることが出来るという利点だが、これこそまさに進化を説明づけるのに適している。個体にとっては、生命を維持するのに必要なものがすべて詰まったものが沢山あればあるほど生存しやすい。それこそ単細胞生物のようにである。しかし、ある機能があってそこにさらに別の機能を獲得することで複雑な動きが出来るようになるとしたらどうだろう。最初からその複雑な動きが出来る機能を偶然獲得する可能性と比べたら遥かに容易である。

たとえば人間の手は五本の指で出来ている。五本の中でも特に親指は重要だ。だから親指が欠けると大きく生存を脅かされる。ということは個体としては親指の役割をするものが二つ以上あれば安心だし、あるいは指が五本なんてものではなく何十本何百本とあれば、というか自由自在に動くアメーバのような触手さえあればいいのかもしれない。しかしさすがに万能な手は偶然獲得できるものではないし、我々は現在の五本の指だからこそ高度な動きが出来る。それに、一本一本の指やそれ以前の関節や神経系や皮膚なんかの機能を組み合わせて出来たものだからこそ、人間は手を偶然ではなくある程度の必然で手に入れられたのであり、少しでも構造が違っていたら機能が落ちてしまうモロさを持っていたからこそ、現在の形が維持されてきたのだろう。

■学問の方法論

という以上の説明はまったく科学的ではない。だからこれは私の空想であり、学問的な価値はあまりない。荒唐無稽な理論としての価値はあるかも。ただ、多分少なくない人が私と似たような考えを思い浮かんでいるだろうし、そういう人の多くは友達相手にちょっとした気晴らしやユーモアとして語っているのだと思う。

しかし私は本気でこれが学問の成果にならないか考えている。科学史を紐解くと、科学がどのようになりたち、そしてどんな壁を乗り越えて今の形になったのかが分かる。おそらく数十年後の科学は今とは違っているだろう。私たちは生と死の定義があいまいになっていくのをリアルタイムで体験した。数十年前では考えられなかったことだ。

科学の本質は観測と抽象にある。この世にあるものを観測し、それらが共通して持つ何かを抽象する。世の中にあるものは極論してしまえば何一つとして同じものなどないのだが、それをあえて何かの概念を作り出して「これとこれは同じ」とみなすことを、概念による抽象と呼ぶ。私とあなたは根本的に違うが、人間という概念で抽象すると同じであると言える。私たちの身体的特徴や個性などを無視することを捨象と言う。この強引な考え方が科学として発展した。

さらに因果律が重要だ。世の中のあらゆるものはそれぞれ勝手に動いているかもしれないのに、そうではなくて必ず原因があって結果があると考えること、それが因果律だ。たとえば私があくびをしたとする。あなたもあくびをしたとしたらどうだろう。あくびがうつった。そんな馬鹿な、と思うかもしれない。これも因果律の一つの強引な例である。ちなみに今では、酸素の薄いところにいるとみんなあくびをしやすくなるからあくびがうつったように感じられる、というのが優等生の解答だろう。

その他、うまいこと抽象できないものに対して確率統計を使って強引に概念化したりと、科学は分野により色んな方法で成り立っている。だったら進化論的に自明な自然淘汰の考え方を、科学的手法でなくとも学問の方法論の一つとして確立させても良いのではないかと思う。実のところ単に因果律を悠久の時間に拡大しただけのことだ。でもこうやって適当に拡張してもうまくいかないだろう。私がここで言いたいのは、どんな学問の方法論を考え出せばいいのかということではなくて、なにかしら拡張しなければこれ以上研究を深めることは出来ないのではないかとお気楽に指摘しているだけである。

毎度Wikipediaになってしまうが、このあたりが参考になる。私もだいぶ参考にしたが、リンクをたどっていくと学問の海で遭難してしまう。とてもすべてをフォローしきれない。

科学哲学 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%93%B2%E5%AD%A6

このぐらい大風呂敷を広げたのだから、150回目というキリのいい回の話として悪くないと思うのだがどうだろうか。


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gomi@din.or.jp