147. IT戦記3 彷徨編 (2006/11/5)


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前回までのあらすじは省略するので、前回を読んで欲しい。

■見栄春さんと黒タイさん

私がこれまでに関わってきたプロジェクトリーダーの中で、手放しに良いと評価できる人はいなかった。それはまずリーダーとメンバーの利害が対立するという根本的な理由から来るものがあるのだが、それでもなかなか優れた人というのはいないものである。

見栄春さんについて良いところを挙げると、

と色々あるのだが、悪いところも挙げると、 こうして書いてみるとかなりひどい人だなと判断せざるをえない。少なくとも、難しいプロジェクトには向いていないと思う。ただ、簡単なプロジェクトだったら、すべてが割と良い方向に転がりそうな気もする。

彼のことが最初にネタになったのは、アベンド(abnormal end つまり異常終了を意味する業界用語)をアペンド(append くっつけること)と連呼していたことだったろうか。最初我々は見栄春さんがちょっと噛んだとかいい間違えたとかそのぐらいのことかと思っていたが、いつまでもアペンドアペンドと言い続けるので、私が突っ込んでみたところどうやら本当にアペンドだと思っていたらしい。まあアベンドという言葉自体ホスト系で生まれた中途半端な造語なので私としてもあまり使わないようにしたい言葉なのだが、使う以上は間違えないで欲しい。キャリアもあるはずなのに誰も指摘しなかったのだろうか。ついでに余談だが、あるとき黒タイさんが「アペンド」のほうをわざと正しい意味で使って一瞬混乱させられた。こういう人の悪いところが黒タイさんにはある。ほかにも見栄春さんは、CVSとCSVを間違えるというお約束や、レビューアとレビューイを区別できなかったりした。レビューイ(reviewee?)という単語があるのかどうかは置いておいても、高校で習うような英語の基本法則が頭に入っていないのだろう。

見栄春さんは志村部長と仲がよく、ため口で大体会話している。志村部長が喫煙所に一服しにいくと、自分はタバコを吸わないのだけどついていき、現状の問題点なんかをよく相談しにいっている。確かにプロジェクトを遂行するにあたってコミュニケーションをよく取ることは重要なことだが、その割に何か解決したという実感がない。

客先で毎度毎度客から厳しい言葉をもらうようになると、困って黙り込むことが多くなっていった。そんなとき黒タイさんは一応助け舟を出すこともあるらしいのだが、たいがい意地悪く傍観を決め込むのだそうだ。そんな困った見栄春さんを見て黒タイさんは溜飲を下げるらしい。ところがたまに、客前で困った見栄春さんが急に黒タイさんに振ってくることがあるらしい。そのときはしょうがねえなあと代わりに喋ったりするらしいが、そのときでもとぼけたりして見栄春さんを困らせようとすることもあるそうだ。

黒タイさんは能力のある人なのに、見栄春さんのことが気に障ってしょうがないらしい。できない人に対してもうちょっと寛容になってもいいのに、子供みたいに何か小さい間違いを見つけてはチクチク攻撃し、そのくせ普段は言うことを聞いている。根は真面目で心が小さいのだろうか。そんな彼の飲み屋でのぶっちゃけ話が馬鹿みたいに面白い。曰く、見栄春は犬みたいなもんだ、困ったときは俺になついてくる、ほれほれほれほれって手を出してやるんだけど、おりゃって最後に殴ってやるんだ、というところで大爆笑した。

見栄春さんは弱い態度を取る人間には強気に出るが、強い態度を取る人間には弱気に出るという性格をしているようだ。私は普段わりとおとなしく付き合っていたので、それが裏目に出てやたら強気な見栄春さんを出してしまったが、私がちょっとキレて強気に出ると急に謝ってきたり理解を示してきたりする。黒タイさんなんかは途中から常時強気なので、しまいに見栄春さんは黒タイさんにいつも頭が上がらなくなってしまったようだった。

私が書いた設計書が、客に見せるまでの時間がないということで、プロなら徹夜してでも仕上げるんだ、と言い出したことがあった。そもそも内部レビューに数時間も掛けたのが主な原因なのだと思うのだが、それ以前に私はポリシーとして徹夜をしたくないので、徹夜をはっきり拒否した。それを聞いた見栄春さんが言葉を継ごうとしたときに、黒タイさんまでが「徹夜はしても朝になったら猫にインシュリンの注射をするために家に帰ります」と微妙な理由を語気荒く言い出したので、業界的に徹夜はあって当たり前と言われているにも関わらず我々に押し切られておとなしくなった。ちなみに日ハムさんは一度見栄春さんと一緒に徹夜したらしい。

こんな見栄春さんをなんとか出来なかったのかと言われるとそれは私の責任でもあるのだが、私は一応志村部長に言ったことがあった。「チームのパフォーマンスはリーダーのキャパで頭打ちになる」と。それも私が見栄春さんのチームに入った直後に行った客先での帰りの喫茶店で、見栄春さんがその場にいたにも関わらずである。私は一応一般論として、それもリーダーがどうのという話ではなく、メンバーの貢献についての話として言ったのだ。しかしこのときは、一般論として言ったのが悪かったのか、仕事のありようについての話になってしまったのだ。

■意気投合・疲弊・脱落

カスタマチームのほうは、若健さんの下に画面系担当のマタンゴさんと、バッチ系担当のキューピーさんがいた。キューピーさんは早い時期に要件定義から関わってきた協力会社の人で、のちに彼が言うには飲み屋のおねえさんからキューピーみたいにかわいいと言われたということだったので、ここでもそう呼ぶことにした。ただし彼の本性はただのおっぱい星人であり、限りなく邪悪なキューピーと言っておこう。私たちのチームにいたおっぱいの大きい製造要員の女性をしきりに気にしていた。

アクタチームのバッチですら先ほど述べたように苦難の道のりだったのだから、カスタマチームとなるとさらに大変である。カスタマチームのバッチは、彼のもとに協力会社から本来製造要員として招かれた二人がつき、三人体制でやっていたらしいが、とてもではないが人手が足りず、連日連夜残業続きだったという。その頃比較的仕事の少なくなっていた私は彼らより随分早く退社していたのだが、挨拶しても返事が返ってこないことがあったので大分気が立っていたのだろう。ちなみに要員の二人もいいキャラを持っているのだが、これ以上登場人物を増やしてもしょうがないので紹介しない。

自分たちの設計書を一度見てみてくれないかと、キューピーさんの方から私たちに対して言ってきた。同じバッチ同士、客から言われたことを内部で連携して、せめて同じことを言われないように気をつけようということだった。そこで私と黒タイさんが彼らの設計書を見た。キューピーさんは相当苦労していたようで、「最近私の中で一つの文字が行く手にのしかかってきているんですよ」と例の担当者の苗字の一文字を言っておどけるのだった。その担当者はアクタチームだけでなくカスタマチームの担当者でもあったのだった。そんなこんなで私たちは意気投合し、一緒に飲みに行くようになった。

そのちょっと前に私と黒タイさんの二人で飲みに行き、黒タイさんが見栄春さんへの文句をぶっちゃけまくったので笑わせてもらった。本来なら私が見栄春さんへの文句を言ってそれを黒タイさんがたしなめてもいいぐらいだと思っていたが、黒タイさんがあまりに見栄春さんへの文句を言うので、むしろ私の方が思わず見栄春さんをかばいそうになったぐらいだった。正直私は黒タイさんが見栄春さんに割と従っていると思っていたので全くの意外だった。

そこへキューピーさんが入って三人組となった。キューピーさんは自分のチームのリーダーである若健さんにはそこまでは文句はないようで、むしろ逆に心配して若健さんは正直このままだと潰れちゃいますよとたびたび言っていた。その心配は結局当たってしまい、若健さんは年度明け頃から会社に来なくなってしまい、そのままプロジェクトからフェードアウトしていった。チームが違うので私にはよくわからないが、客から色々と厳しいことを言われ続けてきたのだろう。彼の問題は、やはりコミュニケーションにあったと思う。人当たりが良くて一見何も問題がないように見えるが、同世代同立場の仲間とのつながりがなく、吐き出すところが無かったのだろう。私や黒タイさんはチームが違うし、キューピーさんは1メンバーとして若健さんの指示を受ける立場にあったから、仲間になるのは難しかったと思う。だから、リーダー会で一緒になる各チームリーダーとか、同じチーム内で親しかったマタンゴさんとかともっとつながりを持って、悩みを相談しあったり発散したりする場所が必要だったはずだ。誰かが懇親を考えてかリーダー会を中心に麻雀大会をやったりしていたようなのだが(ちなみにその麻雀大会ではチーム間で機能を押し付けあうことを掛けの対象にしていたという冗談がある)、彼だけリーダーの中でひとまわり若く、情緒的なつながりを作るには至らなかったのか。それなのに一番重要なチームを任され、というか志願したのだろう、やる気を見せた人間が登用される社内文化があったからだろう。そんな経緯で他のチームのリーダーからも距離があり、問題を一人で抱え込んでしまったのではないだろうか。

彼に限らずプロジェクトのメンバーはそれぞれ疲弊していた。キューピーさんは自分のことより自分の下にいる二人を守るために何度も計画を練り直して志村部長に見直しを求めて折衝しつづけていた。彼もある日突如連絡が取れない状態になり、ついに彼も脱落したのかと囁かれたが、翌週は何事も無かったかのように出社してきた。本人曰く、彼女にフラれたとのことだが、別の説によると単に周りの雑音抜きで設計に没頭したかったからだとのことだった。

私のあとを継いでバッチの面倒も見なくてはならなくなった黒タイさんは、その頃連日連夜データモデルの三角形の夢を見てうなされていたらしい。彼が言うには、夢の中で彼は三角形の中に閉じ込められ、データの入った箱をあっちからそっちへと一生懸命動かし続けなければならなかったらしい。最悪な日はその上彼女まで夢の中に出てきたとのことだ。冗談だか本気だかとれない口調で彼は、最近ずっとめまいがしていると言い、まるで妊婦のようにレモンを馬鹿食いするようになったとこぼしていた。

確か年明け前、志村部長がこれ以上プロジェクトに浸かっていると部長としての仕事が出来なくなるというので、インフラチームの矢作さんがプロジェクト・マネージャを引き継いでいた。矢作さんはお客さんからもある程度信頼されていたため、あっさり了承された。志村部長は営業的な話のとき以外は客先での打ち合わせになるべく参加しないようになった。そんなある日、プロジェクトが破綻しそうなので再スケジュールについて具体的な話がしたいと客が言ってきた。そこで矢作さん一人で客先に出向いていったところ、「金の話もすると言ったのにおまえんところは営業も管理職もよこさず何やってるんだ」とボロクソに言われて帰ってきたのだそうだ。「めちゃくちゃ怒られた」と彼は帰るなりメンバーにいつもの笑顔で愚痴っていた。そのこととは直接の因果関係は不明だが、結局彼はプロジェクトの途中で会社を去っていった。もっとも彼の場合、プロジェクトがスタートした時点から、前に参加したプロジェクトがひどくて会社をやめたいと言っていて、それが多分伸び伸びになっていたというのもあるのだろう。志村部長は結局、プロジェクトから足を洗うどころか、若健さんの脱退により逆にカスタマチームのリーダーとしてますますこのプロジェクトに関わらなければならなくなった。

黒タイさんが花見を企画し、バッチチームで戸山公園の桜を見ながら飲み明かした。いやさすがに夜が明けるまでは飲まなかったが、その日はみんなでプロジェクトへの不満で大いに盛り上がった。公園には学生らしい集団が沢山いた。だいぶ出来上がった頃に黒タイさんが「どうせ早稲田の馬鹿学生だろう」と周りに聞こえそうなぐらいの声で言ったので慌てたがウケた。その日は終電が無くなるまで飲んだので、私は黒タイさんの家に泊めてもらった。黒タイさんは山手線の外側を東京とは思っていないという不遜な人間なのだが、その割に山手線の駅の中ではかなりマイナーな駅の近くに住んでいる。キューピーさんも一緒に泊まればと誘ったが、彼は固辞した。それでも黒タイさんは、おっぱい星人であるキューピーさんが彼女のおっぱいに触らない、子供と猫をいじめないと約束すれば泊まっていっていいと言ったのだが、結局マンガ喫茶で夜を明かしたのだそうだ。ちなみに黒タイさんはまだ赤ちゃんである自分の娘のことを名前で呼ばず「子供」と呼ぶのだが、その理由は「名前で彼女ともめたから」らしい。

黒タイさんはその後、駄洒落さんに声を掛けて、ゴールデンウィークにバーベキューを企画して食べて飲んだそうだが、私はこのときは行かなかったのでよく分からない。本人自ら語るところによると、黒タイさんはそのとき情緒不安定になって泣いてしまったらしい。おまけにふざけて乗った自転車でコケて顔に怪我をしていた。彼はその頃、ちょっとムカついた通行人に対してもイラ立ちをぶつけていたようなので、ついに喧嘩でもしたのかと思った。

■製造

年度明けごろにようやく製造に取り掛かった。私も製造に参加した。

COBOLの製造のために二人のおっさんが増員された。COBOLは古い技術であり、まさか私も今になってCOBOLに関わるとは思っていなかった。古いだけあって技術者には年配の人が多い。年がいっているのに製造をやる人というのはそんなに優れた人はいないだろうと黒タイさんなどが言っていた。黒タイさんはCOBOL組の年配者らを「COBOL幼稚園」と呼んでいた。予想に反してそのうちの一人の人は結構出来る人みたいだったが、もう一人の人はダメダメな人で、黒タイさんが逐一ソースコードレビューをして修正を頼んでいたが、そのうち自分でやったほうが早いと思って全部書き直したらコードの量が数分の一になったと言っていた。こんなことをしているから仕事を増やすんだということを遠まわしに言っておいたが多分伝わってないだろう。

この二人の前にもっと早い段階で、COBOLに詳しい人間が必要だということで一人外部設計の頃に来てもらっていたヒゲのダンディさんがいた。この人は人当たりがよく低姿勢ながらも率直に意見してくれる人で、私たちは期待していた。しかし元々厳しい状況だということが分かってきたせいか、プロジェクトの何かの区切りの飲み会の二次会でうちの事業部長に対してよっぽどぶっちゃけたことを言ったらしく、結局その月の最後にいなくなった。

さて製造であるが、私はワークステーションやパソコンでの開発の経験は十分あったのだが、ホストでの開発経験はまったくなかった。一体どうやって開発するのか不安だった。ホストマシンは大きいが、実際の操作は端末と呼ばれる個別のマシンで行う。パソコンを端末として使うソフトがあり、普通のパソコンにホストの画面を表示して操作できるようになっている。ホストの画面というのも、ちゃんとシェルのような簡単に操作できるパッケージソフトが出回っており、ソースのアップロードやダウンロード、編集からコンパイルからあげくデータベースの操作まで、メニューに従って番号やファイル名などを入力することで出来てしまうのだ。一部、Unix系で言うところのviのような多少クセのあるインタフェースもあるのだが、覚えると大したことはなかった。

ホストにはディレクトリという概念がなかった。その代わり、入れ物のようなものがあって、特定の入れ物に特定のファイルを入れておくとそれがライブラリになったりヘッダファイルになったりする。コンパイルしてビルドして作った実行形式も特定の入れ物に入れられる。

COBOLは一応高級言語に分類されるが、特にサブルーチンのインタフェース周りなどがアセンブラに近い。COPY句と呼ばれるいわゆるインクルードファイルが使えるのだが、データ領域についてバイト単位で記述したものをCOPY句として用意し、それをサブルーチンの呼び出し側と受け取り側の両方で使う。それらはCで言うところの構造体のように構造を持ち、共用体のように多重に好き勝手に使える。

全部の機能をアクタチームで製造するのではなく、遠隔地にある事務所に一部の機能の製造を頼むことになった。設計者が製造者に仕様を伝達する必要があった。設計書だけではどうしても伝わらない点があるのだ。そこで最近よくあるWeb会議のシステムを使うことになった。どこがWebなんだと言いたくなる独自アプリを使ったシステムだったが、要はインターネット上でカメラを使って互いの姿が見えた状態で説明できる。姿が見えることにどんなメリットがあるのかという突込みが入ったが、顔が見えるのと見えないのとでは違うと誰かが言っていた。確かにそれは言えるのだが、実際そのような情緒的なつながりのために数十万のシステムを使うことへの費用対効果はどうなっているのかと言いたくなる。が、実際やってみて良かった。カメラの前に妙齢の仲間由紀恵のような女性が登場したからである。しかし結局仕事以外の話はしなかった。向こうのリーダーの人が様子を見ていたからである。

■私の脱退とその後

ゴールデンウィーク明けぐらいに私は自分の上司と半年に一度の面談を行い、その席で私のそのときの状況についてかいつまんで話した。それと直接関連があるのか不明だが、その後ほどなくして私はプロジェクトを抜けられることになった。私をいつでもリリース(解放)しても良いと志村部長が私の上司に言ったらしく、じゃあと私の上司が次の仕事を探してきて、その仕事が決まった。いざこのプロジェクトから抜けることが決まると、せっかく知り合った仲間との別れがあることを思うと残念だった。私が必要とされなくなったことについては不愉快には感じたが、不本意な形でプロジェクトに関わり続けるのは良いことではないし、正直せいせいした。

その後しばらくプロジェクトのメーリングリストから流れてくるメールを見て様子をうかがったり、主に黒タイさんらと一ヶ月に一度ぐらい会って話を聞いていた。これといって面白い話はなかったので、この話もここらで幕引きとしたい。テストでは予想通りバグが出まくり、慌てて仕様調整をしたりしていたようだったが、うちの会社の分についてはそれほどシリアスなことにはなっていないようである。「大崩壊⇒訴訟」というコンボは今のところ無さそうである。しかし金の問題では良い結果が得られず、それなりの大赤字を計上しなければならなかったらしい。

■志村部長の資質と責任

つい最近黒タイさんとキューピーさんと私の三人で飲みに行き、結局このプロジェクトで誰が悪いのかという話が出たのだが、黒タイさんが言うにはリーダーたちが悪いのだという。リーダーたちの能力が全体的に低く、サブリーダークラスが実際に働いているのだそうだ。志村部長を責める向きがほとんどないことに私は違和感を感じた。そもそもこのプロジェクトの体制を組んだのは、管理職でありプロジェクトマネージャでもある志村部長である。リーダーの責任を言うなら、それはアサインした志村部長の責任にもなる。

志村部長は途中でカスタマチームのリーダーを兼任したのだが、そのときは辣腕を振るってカスタマチームを立て直したのだそうだ。それは確かに優れている一つの根拠かもしれない。しかしリーダーとしての資質とマネージャとしての資質は違う。私はこの志村部長の資質についていくつかの点で疑義を挟みたい。

一番顕著に感じたのは、私にアクタチームの初期移行の計画書を書くことを指示した一件だった。初期移行とは、システム立ち上げ時にデータを用意することで、大概は旧システムやよそのシステムなどからデータを移すことになるため、移行と呼ばれる。私が計画書に取り掛かった時点で、既にカスタマチームの初期移行の計画書があった。それを参考に書けと言われたので、私はアクタチーム独特の部分だけ自分で考え、あとは大体カスタマチームの計画書をコピーした。書き上げてから確認を求めたところ、かなりの点で指摘が入った。それらの指摘には、カスタマチームの計画書からコピーした部分が多く含まれていた。既にカスタマチームのほうの計画書は確認済みだとばかり思っていたので私は驚いて尋ねた。すると志村部長は、初期移行は考慮しなければならないことを可能な限り洗い出さなければならないので、書く方もただコピーするだけではなく一からちゃんと考えて書かなければならないと言った。それは確かに正論ではあるのだが、それならそうとちゃんと言って成果物のレベル感を教えておいて欲しい。参考にすべきものを提示された以上、余計な工数を掛けずに既存の成果を利用するのは常識だ。スケジュールが差し迫っている状況下で、掛けられる時間は限られている。現に計画書を書くための工数は、既存のものを参考にして補完するぐらいしか取られていなかった。私はそれに合わせて作業しただけなのだ。と腹立たしく思いながら指摘事項を修正してもう一度確認のため持っていったところ、以前指摘が無かったところまでさらに指摘事項の山となった。それならなぜ最初の時に指摘できなかったのか。こういう行き当たりばったりなことをその場その場でやっていくから問題が積もり積もっていくのだ。その挙句、カスタマチームの計画書と合体させることになり、作業の一部が丸々無駄になった。

ここで一つ例え話をする。自分が誰かに何かを言葉で伝えたとする。その人が自分の言ったことを理解したかどうかを判断するには、説明させるのが一番である。ただし、自分が言ったことをそのままオウム返しに言われたら、本当に理解したかどうかなんて分からない。だからここで「言い換え」をしてもらわなければならない。言い換えることが出来ることこそ、ものごとを理解したということになるからだ。しかし言い換えといってもそっくりそのまま別の表現に出来るわけではない。だから多少大雑把になったり、ニュアンスが異なったりしてしまうのは仕方がない。

私が見栄春さんや志村部長をいまいち能力が低いなと思う理由の根本的な部分がここにある。彼らは私が復唱すれば理解したと思い、私が言い換えをしたら「それはニュアンスが違う」と言う。それは源さんにも言える。この人が自分の考えを言ったあとで、こちらがそれをまとめて一般的な概念で説明しても、細かいニュアンスの違いにこだわって「それは違う」と言い出す。それを恐れてか結局志村部長が源さんの言葉をオウム返しにするまでウンと言わない。何度も要件定義書が突っ返された原因のほとんどは、このニュアンスの違いによるところが大きいと私は思う。少しでも認識のズレが起きるのを避けたいのは分かるのだが、明らかに度を越えていた。要するに源さんや、志村部長や見栄春さんらは、他人の言葉を理解する能力に欠けていたと言っていい。しかも志村部長に至っては、その細かいニュアンスを理解することが源さんの言っていることを理解するために必要だと思っていて、自分がオウム返ししていることに気づいていないのだ。

自分と他人の論理の違いというものを理解できない人間というのは大勢いる。立場を変えて私が自分の考えを彼らに述べたときがあったのだが、志村部長はそれを聞くなり一応「言い換え」をしたのは良いのだが、その言いかえが私にはよく分からなかった。そこで私は自分なりに志村部長の「言い換え」について考えた結果、結局細かいことはよく分からなかったが、どうやら志村部長なりの言葉で私の言ったことを説明しているのだということまでは分かったので、「志村部長の言葉ではそうかもしれませんね」と言った。するとそれを聞いて見栄春さんが苦笑していた。恐らく私が志村部長より高みに立ってモノを言ったのだと思ったのだろう。私には志村部長の言葉が完全にはよく分からなかったのでこう言えるのがせいぜいだったのだが、そのあたりのことが見栄春さんにはよく分かっていなかったのだろう。たとえば数学には一定の表現があるので、どんな概念も一般化して、たとえば「任意の」などの言葉を使って、大勢の学者が普通に使っている言葉で説明することが出来る。私たちの業界でもコンピュータサイエンスに近ければそれが可能だが、大抵の場合そうもいかないのだ。

コンピュータ業界には理系も文系も無いとよく言われるが、この点について私は反対する。理系であればこのあたりについての基礎的な考え方が身についているのだ。出来れば私はこの業界に来る人には数学かエンジニアリングについての素養を持って入ってきて欲しいと思うのだが、残念ながらそういうものを軽視する風潮がこの業界にはある。やたらとコミュニケーション技能がもてはやされ、下手をすれば論理的思考すら否定されかねない。志村部長は文系だからだろうかこの点についての資質が欠けているように思う。見栄春さんに至っては大卒ですらない。学歴を重視するわけではないが、エンジニアリングを職分としている以上、身に着けなければならないことなのだ。

■その後のその後

黒タイさんらによると、長身で無口のモコメチさんは会社を辞めたそうだ。他にも初期移行を私たちから引き継いだ年配で貧相で小柄なリーダーがいたのだが、この人は段取りが悪いため見栄春さんの標的となり、最終的にプロジェクトをクビになったとのことだった。そのあとを継いだのは、志村部長に一時期毎晩連れまわされていたと言っていた知り合いだった。彼はこういうハズレクジを引く運命にあるらしい。彼はいつのまにか大阪に移っていったとのこと。

さらに今後プロジェクトチームは縮小されていく予定らしいのだが、協力会社のキューピーさんですらリリース(解放)予定が立っていないとのことだったので、まだまだ泥沼は続くのかもしれない。

*

だいぶ愚痴っぽい話になり、このページにたどり着いた人がここまで読んでくれているかどうか正直期待してはいないのだが、今度こそ本当にまとめに入る。この話はあくまで私の主観で書いたものなので、私にとって都合の良い記述にあふれている可能性がある。私が特に批判した志村部長や見栄春さんにも、プロジェクトを事実上失敗させた責任がはっきりしているとはいえ、それぞれに言い分はあるだろう。

一年もやっていたので本当はもっと書く内容があるのだが、書きたいと思わなくなった。この文章は本当は私がお客さんに罵倒された山場のあと黒タイさんらと飲みながらプロジェクトの崩壊の過程を付け足して終わりにする予定だった。ドラフトを黒タイさんに送ったところ、見栄春さんの近況を面白おかしく笑い飛ばした返信が返ってきたので、彼の期待に答えて見栄春さんの項を追加した。その後、このプロジェクトの何が悪かったのかを最後にまとめるのを忘れていたのを思い出したので、志村部長の問題点を思い浮かべているうちに段々腹が立ってきたので怒気のある文章になった。


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gomi@din.or.jp