140. 還元的・演繹的な文明論 (2006/7/8)


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■禁断の仮説

すべての個体がつがうと人間は劣化する。私はそう確信している。

生物学的にヤバい仮説はいくつかある。たとえば、黒人の運動神経がいいというところまではセーフだが、黄色人種の頭が良いということになれば問題になる。今のところそれはなかなか検証しづらいが、もし何らかの方法で証明できてしまうと色々困ったことが起きてしまう。もちろんそんなことは人類特にアメリカ社会なんかは望んでいないわけだ。

そして私があるときふと思った考えについても、多分禁忌的な仮説なのではないかと思う。

特に先進諸国の人々は、色々な病気を克服し、どんな人でもそれなりに努力をすれば自分たちの子孫を残せるようになった。たとえ障害を持っていたとしても、周囲の支えがあればやっていける。

生き物は進化する。人間も進化する。進化をするためには、生殖時に何かが起こらなければならない。何かが原因でそれまでよりも外界に適応しやすい個体が生まれる可能性はごくわずかで、その大半は通常の個体よりも外界への適応という面で劣ってしまうだろう。最悪の場合、すぐに死んでしまう。

そうした劣った個体が、普通の個体と大して変わらない条件で子孫を残すことが出来るとしたらどうだろう。人間という種はどんどん劣っていってしまうのではないだろうか。それが私の仮説である。ちなみに一代限りの突然変異は無視しておく。

ところが人類というのはよく出来ていて、ちゃんと生物学的に劣った個体には不利になるように出来ているのである。その分かりやすい例が、容姿である。

■動物行動学

動物行動学者の竹内久美子という人が、週刊文春でそこそこ面白い連載をしている。当たり外れが大きいので、私にとって面白い回もあればつまらない回もあり、万人に勧められるものではないが、少なくともベストセラーとなった「シンメトリーな男」などの人間をテーマとした話には興味深いものが多い。

動物行動学とは何か。私はよく分からない。この人のやってることイコール動物行動学ということでいいのだろうか。ともかく憶測で言うと、人間を含めた動物の一見意味不明な行動の裏にある原理を探ろうとする学問なのだと思う。なかでも重要なのは、自然淘汰によるものだ。つまり進化論に大きく関係する。進化論に関わるということは、これが科学かどうか怪しいのも事実である。しかし少なくとも現在の様子を実験できるし、過去どうであったかもある程度分かる。ともかくそんなこんなであまり学問の中では主流とはなれないのであるが、エスプリというかアメリカなんかのビジネスマンのあいだで一時流行っていたというし、ちょっと眉唾ではあるがもっともな話が多くて知的好奇心を刺激される。

中でももっとも刺激的なテーマは、オスの優劣についての下の説である。

不良>スポーツ選手>ミュージシャン>ガリ勉(金持ち)

説明しよう。まず優劣の基準は、子孫をどれだけ残しやすいか。個体の優劣を決める上で、動物行動学にとって一番重要なのは、その個体が自分の遺伝子を残せるかどうかだ。面白いことに自分自身に限らず近親者でも構わないそうなのだが、ややこしくなるので省略する。

自分の遺伝子を遺すためには、オスはメスに気に入られなければならない。メスは自分の遺伝子を少しでも残しやすくするために、優秀なオスを見つけようとする。そこで何を一番見るか。見るべき点は色々ある。重要なのは、そのほとんどが免疫力に関わってくるということなのだそうだ。免疫力とは寄生虫や病気に掛かりにくいこと。力が強いとか頭がいいとかは二の次なのだそうだ。まあ結局免疫力が強い人は力が強かったり頭が良かったりもするので結局同じことなのだが、この免疫力というのをカギとして考えると、実に意外なことがポイントになってくる。その一つが、竹内久美子のベストセラーとなった「シンメトリー」つまり肉体の対称性となるわけだ。その意外性もあってこの本は売れたのだろう。いや多分重要なのはこれから語ることのほうかもしれない。

で、そんなこんなで論を進めていくと、一番優秀なのは喧嘩が強いやつだということになる。なにせ戦うのに必要な能力というのは個体としての総合的な優秀さをただちに物語ってくれる。それにメスを守る力が強いということだ。その次にスポーツ選手となるのは、必ずしも戦闘に必要でなくても、肉体的に優れていればそれはすなわち遺伝子として優秀であるということだ。その次にミュージシャンがくるのは意外に思われるかもしれないが、やはり音楽の才能もまた能力と深く関わってくるのだそうだ。たとえば音楽というより声の質なんかもそうかもしれない。

不良でもなくスポーツもできなくて音楽の才能もない。そんなオスは勉強するしかない。それがこの人の結論なのだ。どうだいムカつくだろう。ネットサーフィンしていてこの文章にたどりついた読者諸君はなおさらムカつくだろう。

この論の面白いところは、まさに選ぶのはメスの側なのだということ、そしてメスは意識してかしてないかはともかく、この基準で男を選ぶことが多いということ。色んな物語を見ても結局主人公は不良やスポーツ選手やミュージシャンに惚れてしまい、どんなに誠実で性格がよくても頭がいいだけの人には惚れない。

とはいっても最近はIT企業の社長みたいな金持ちと結婚するアイドルが多かったり、芸人なんていう頭で勝負する人が人気あったりと、必ずしもそうとは言えなくなってきているようにも思う。だがこの程度のことで竹内久美子が自説を修正することはないだろう。ちょっと補足すればたちまちより強い説が出来上がりそうである。

先に述べたように、この説はメスには当てはまらない。これは一見奇妙なことだ。なぜなら、現代社会ではオスがメスに声を掛けるほうがはるかに多いからだ。しかしこの程度のことでは反証にならない。いくらオスが声を掛けても、それはあくまで数撃ちゃ当たる作戦に過ぎず、あくまで主導権はメスにあるというのが竹内久美子の考えなのだそうだ。

この論のすごいところは、努力を否定しているところだ。だからこそ、偽善で飾られたこの世界で、特に私の心を打つ考え方だ。私はこの論を心のよりどころとするわけでもなければ、ひがむネタとして使うわけでもない。ただ、この論が世の中の真実に近いのではないかというその一点で、奉りたくなるのだ。

しかし動物ならともかく、いくらなんでも人間は動物的な行動原理だけに操られるわけではないだろう。それだったら、オスは好きなだけメスをレイプしようとするだろう。そんなことは社会的にも許されない。そう、社会的に、だ。

■ミーム

不思議なことに、世界三大宗教のうち、キリスト教は貞操を重視しているし、イスラム教は一夫多妻ではあるがみだりにメスの繁殖をさせないようになっている。これはよく考えると不思議でもなんでもない。そういう宗教が、有史以来あまた生まれた宗教の中から生き残り、現代に残っているのには、必ず理由がある。個体は個体でおのおのの遺伝子のために利己的に振舞うが、社会もまた社会として存続するための仕組みを持っている。そうでない社会は個体が離散し消滅してしまうのだろう。

私たちは利己的とも言える大陸型の人々の典型としてアラブ人と中国人を知っている。私はいまでも教科書に載っていたある文章が印象に残っている。アラブ人は自分がしでかしたことをなんでも神のせいにして言い逃れようとする。その代わり、困っている人に対しては施しをするし、客人をもてなす文化を持っている。中国人だってそうだ。騙されるほうが悪いという文化の中に、あまりに保守的な孝行精神が生きている。

精神分析学者の岸田秀が言っていたのだと思ったが(あるいは社会学者デュルケムかも)、ジャングルに住むような原始的な人々は、上記の点で単純なゆえに非常に強固な文明を持っている。ところが残念ながら、主にアメリカ大陸で起きたように、西欧の生み出したパラノイア文明に対して軍事的に敗北したために滅んでしまった文化もある。

結局文明というものは、いくつものパラメータを持って戦い続ける1プレイヤーに過ぎないのだ。

文明同士の戦いの決着というのは、ここで私がすべてを挙げようとしても挙げきれないほどあると思う。まず一番分かりやすいのがさきほどの軍事的な決着だ。ほかにどんなものがあるだろうか。

文化的な影響力というのは大きいだろう。軍事的に敗北した文明が逆に、軍事的に勝利した文明に対して文化の面で強い影響を及ぼしてしまうという事例が、早くも紀元前のギリシャ・ローマ世界で起きている。そうなると一体どっちの文明が勝利したのかが分からなくなる。

文明は力を求める余り、岸田秀が言うところの「病気」に掛かってしまう。先進諸国の少子化なんていうのがまさにそれだ。ローマ帝国が突然滅びてしまったのも、市民階級の退廃とか、外国人傭兵の反乱とか言われているが、はっきりした記録が残っていないところがいかにも「病気」という感じがする。私はかつてのローマ帝国が今のアメリカ帝国のようであったと考えている。アメリカはもはや移民なしではやっていけなくなっている。肉体労働をする出生率の高い下層階級と、主にIT企業や研究機関に進出している東洋人たち。国という外枠を気にしなくなった国際資本や多国籍企業が、アメリカという国家を骨抜きにし、そこへ原始的ななんらかの力がやってきてアメリカという国を解体してしまうかもしれない。余談だがアメリカはヨーロッパ文化に対して特別な感情を持っているという点でもローマ帝国とよく似ている。

文明の持つ文化は個体に影響を及ぼす。不良をもてはやす文化、スポーツマンをもてはやす文化、ミュージシャンをもてはやす文化、頭の良い人間をもてはやす文化。実のところ現在の先進諸国の文化は、そんなに昔と変わっていないと思う。一世紀前と比べて、頭の良さや金持ちをもてはやす傾向が多少は増えたかもしれないが、相変わらず身体能力に優れた人間がモテているように思う。それでも文化は今でも戦っている。競争的なアメリカ型社会とやや保守的なヨーロッパ型社会とそれを下から狙う下層社会、宗教に強い拠り所を求めるイスラム型社会、取り残された伝統的な発展途上国型社会など。人類がこれだけの多様性を持っていることは強みであると言い切れる。ただ、情報化社会によりその多様性が失われる方向に力が働いていることも言える。

■人が媒介する

ここで重要なのは、あくまで文明は人が媒介するということだ。人間は頭のいい生き物かもしれないが、一人一人は概してバカである。だから単純なことしか理解できない。たとえ人類が何らかの一歩を踏み出しても、多くの人間にとっての一歩とならない限りそれはリセットされる。媒介している人間がそれを誰かに伝える前に、生物的な死を迎えてしまうのだ。

もちろん例外もある。一部の人間たちがあぶなっかしく積み上げている形而上学の類だったり、変態趣味、英才教育、狂信などだ。

異性の気を引くために化粧をするという文化は、個体の遺伝子の継承と密接に結びついていることもあって、強力な文化として人類に広く蔓延している。ファッションだってそうだ。

ひがみまじりで言わせてもらうと、教養というのも一種のファッションなのではないかと思う。ある人が一見かっこいいことを言ったから、誰かがそれをマネしたくなる。こうして人が媒介となって信者が増えていく。ちょっとひねくれたものは、最初のうちは珍しがられて広まるが、理解されづらいので滅んでしまう。

単純なものが好まれる。複雑なものは理解されづらい。現実の世の中がいかに複雑で、それを言い表すための正確な言説が複雑になったとすると、人々は単純なほうに流れてしまう。ただし複雑であっても効果的であればいい。こうして珍妙な化粧術やファッションが生き残る。

技術なんかは人々の生存繁栄に明らかな影響があるので、たとえ複雑でもそれを継承し発展させていく人々が現れる。芸術なんかもそれに準ずるものなのだと思う。

無から一足飛びに生まれたものよりも、すでにある土台を拡張して得られたものが重視される。

■予測

飽きたのでここまでにさせてもらうが、こういう思考の枠組みを持って何かを考えると、少なくともトレンドを分析することが出来るだろうし、人類の今後の歩みについて適当に想像してみたりすることも出来るんじゃないだろうか。

というわけで、私が投げやりにいくつかの予測をしてみる。

生物とは面白い。あれだけマスメディアの危険性が叫ばれていたのに、もうネットやケータイの村社会が誕生し、テレビが見向かれなくなってきている。降り注ぐシャワーのような単純なものだけを受け止めるには、人間はそんなに単純には出来ていなかったということだろう。ちょっと考えてみたら分かる。みんながみんな同じものを見て同じ意見を持つようになったら、一体どうやって他人を出し抜けるのか。仮に支配者層などという陰謀論めいた存在があったとしても、そんな精神的に弱いものが存在しつづけられるほどデリケートな世界ではないのだ。このあたりについては言いたいことがまとまってきてから改めて書いてみたいと思う。


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