127. ゆとり教育 (2002/8/27)


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ゆとり教育への批判が強い。もう議論が落ち着いてきたので、一通り考えてみよう。

■ゆとり教師

ゆとり教育なんてやったって教師が得をするだけだ、と言う人がいた。そりゃもっともな話だ。

民間企業の場合、ゆとり生産だ、ということになったら労働時間が減りそうだ。しかし実際には、そんなことはありえない。ゆとり生産するのであれば、労働者は確実に減らされる。では教師はどうなるかというと、たぶん減ったりはしない。一人一人の教師の仕事が減るだけだ。

ゆとり教育というのは、あくまで生徒にゆとりを与えるためのものだ。しかし、生徒にゆとりを与えるから教師が楽になるとは限らない。とはいっても、教師はいくらでも手を抜けるので、楽をしようと思えば楽ができる。

ただでさえ教師は夏休みが多すぎるという批判があり、さらに研修時間さえも自宅研修と称して休暇をとっている例もあるというのだから、教師への風当たりが強いのは分かる。このほど国が抜き打ちで 30校を調査したところ、90人余りの教師が無断欠勤だかで居所が知れなかったと産経新聞が報じている。

自分たちは家に仕事を持って帰るから大変だとか、家で仕事をするぐらいなら学校で仕事をしたほうがむしろいい、とまで言う教師がいるのはどうも一般人との感覚のズレを感じる。在宅労働なんてサラリーマンだと一部の人しかやっていない。そんな最先端(?)の労働体系を随分前から取っているとも言えるのだ。

■私立と公立と大学受験

公立だけゆとり教育をしても、私立では相変わらずバリバリ勉強させるのだから、公立に行っている生徒との学力格差が広がる、という意見が多い。しかも私立は学費が高いので、金のある家庭の子供しか私立にいけず、教育の機会均等が崩れる、というのだそうだ。

しかし公立の場合、デキる人は学校の授業時間中に塾の宿題や自分で買った問題集をやっていたりするので、むしろゆとりの分だけ自分で勝手に勉強できていいのではないかと思う。ひょっとして、声の大きい評論家たちはのきなみ私立を出ていて、こういうことを知らないのだろうか。だとしたらもうとっくのむかしに私立と公立の格差が広がっていることになる。

学力格差なんてものができるのは、学校で勉強するカリキュラム以上のものを大学が受験で求めるからだ。

大学の講義を理解するのに必要な数学は、実際のところ学校のカリキュラム内での勉強で十分なのだ。もはやパズルとしか言いようのない難問はもちろんのこと、良問と呼ばれるものすら大学の勉強にとっては不要のものだ。それはただ、学生をふるいに掛けるためだけにある。

ある私立中学は、参議院小選挙区比例代表制の投票用紙を三択で選ばせる問題を出したそうだ。私はこの問題は別にかまわないと思う。正解してしまう子供がいたらどこか秀でているのだろうなと思うし、そういう子供を生徒にしたいと思うのは自然なことだ。むしろ、こういう設問に対策してしまう親や塾に問題がある。

努力さえすればいい学校に入れる、というのは守られるべきなのだろうか。IQ テストをそのまま入試に採用するような学校があってはいけないのか。

いい学校に行かなければダメなのだろうか。どんな学校に行っても、国家公務員試験に受かればキャリア官僚になれるし、司法試験に受かれば弁護士になれる。

いい学校に行かないといい会社に入れない、ということもない。民間企業はそれぞれの価値観を持っていて、それは個々の企業の勝手だ。一部の人々がいい学校に入りにくくなっていい会社に入りにくくなったからといって、そのシステムを責めるのはおかしい。一方、公務員になるには公務員試験を受ければいいのだから、いい学校とは関係ない。

ただし、いい学校は教育環境が整っている。ちゃんと勉強したい人にとっては、多少マイナスだ。しかし世の中には、偏差値は低くてもちゃんと教育してくれる学校もある。

■国際競争力

日本の子供の勉強時間が減ってしまい、国際競争力がなくなる、と言う人がいる。

一方、詰め込み教育ばかりしているから国際競争力がないんだ、と言う人もいる。

どちらが正しいのだろうか。

さらにこれに、反復学習が重要なのだ、という主張が加わり、ややこしいことになっている。インドでは九九を 20×20 までやっているとかいうアレである。書き取りをバリバリやらせるというアレである。

国語の教科書にある文章を暗記させるのは反復学習として有効なのだが、では歴史を年表と共に暗記させるのは有効なのだろうか。私の考えでは、こういう無駄な勉強を減らすのは国際競争力とはなんら関係ない。

ゆとり教育に反対する人々というのは、勉強時間が減ることは絶対によくないと主張するが、肝心の教育内容についてはあまり突っ込んでいない。私の考えは、反復学習さえ取り入れれば、勉強時間は多少減ってもいいと思う。そもそも日本はカリキュラムを詰め込みすぎており、アメリカでは大学で勉強するようなことも高校でやってしまっている。むしろ国際競争力のためなら、思いっきり遊んでしまっている日本の大学生を勉強させるという流れにならなければならないはずなのに、なにかヘンだ。

エリートを育てる教育、というとどんなものだろうか。やはり思い浮かぶのは、生徒の自主性を尊重だとか、創造性を育むだとかの、詰め込み教育とは正反対のものだ。国際競争力を上げるには、創造性を育む教育が不可欠だと思うのだが、ゆとり教育で導入された総合学習を批判する人が多いのはなぜなのだろう。教師たちがそれぞれの創意工夫で教えることにより、まあダメな授業を受けさせられる子供も多いだろうが、逆に素晴らしい授業で将来のエリートを生む可能性もある。

私の知る限り、総合学習に大賛成の人はまったくいなかった。日本からエリートを輩出させたくない何者かの陰謀めいたものを感じなくもないのだが、考えすぎだろうか。何を教えていいか分からない教師が多い、という批判ばかり聞こえるが、教師は教科を教えるマシーンではないのだ。総合学習をやるためのマニュアルが売れているらしく、これだから総合学習なんてやっても意味がないんだと批判する人がいる。しかし、マニュアルは一冊だけではないし、マニュアルはあくまで参考書であり、その中からそれぞれの教師が自分の好きな内容を選べるのだ。これとこれは必ず押さえなければならない、という縛りもないし、生徒が興味を持ったところがあったらそこを突っ込んで教えることもできる。

■円周率・電卓

みんな一度は思ったはずだ。円周率はなぜ 3.14 なんていう中途半端な数なんだと。いっそ 3 にしてくれと。まあそれは子供の身勝手な考え方だったのだが、本当に 3 で教えると言い出したとたんにあれだけ多くの人が猛反発するとは想像できなかった。

電卓が取り入れられ、教科書の問題に電卓のマークが入ったのは少しさかのぼる。このときも、ちゃんと手と頭で計算させるから勉強になるのだ、けしからん、と言う人が多かった。

四桁だかの引き算を小学校で教えなくする、というのにも反発が集まった。買い物をしたときのおつりの計算ができないだろう、と誰かが言っていた。

これら点に関しては、私も反対だ。円周率は、中途半端な数なんだということ自体に意味がある。計算は手や頭でできた方がいい。それに、計算ができるという能力だけでなく、頭の回転を速くする訓練になる。

しかし、人には得手不得手がある。どうしても計算が遅い人だっている。だから、必須にしなくてもいいと思う。最低限電卓さえ使えれば問題はない。基本的な計算は手でやらせて、桁数の多い問題にだけ電卓マークをつけるという発想は良い。

結局円周率は、3 だけじゃなく選択制で小数点何桁まで教えるのもアリだよ、みたいな案が出たらしい。

■反復学習は筋トレだ

私は、小学生のときに公文式で算数を勉強していた。あれはいま考えるとすごかった。

確か始めたのは小学校二三年生の頃なのだが、まず小学一年生の教材から始まる。もちろん楽勝なのだが、速く解くよう言われる。速ければ字は汚くていい、と言われたときは衝撃的だった。正解率が高いと次の教材に進める。正解率が低いと、同じ教材をまたやらされる。ここが弱いんじゃないかと先生がにらむと、苦手だと思われる部分に戻ってそこだけもう一度やらせたりもする。

もうひたすら問題を解き続ける。明らかに非人間的だなと思った。泣きながらやったこともある。そしてついに小学校五年生くらいのときに、小学校六年分の教材をクリアしてから辞めた。私と同学年の人で中学の教材に進んでいる人はザラにいたのだが、私はもう続ける気はなくなっていた。しかしこの経験は明らかに私の頭の回転を速くした。

これがいわゆる反復学習だと思う。公文式はアメリカにも進出し、効果を上げているらしい。

これは一種の筋トレだ。腹筋・背筋・腕立てを何十回何セットとやっているのとなんら変わりはない。筋トレは体づくりだし健康にいいとされているのに、なぜか勉強には筋トレは世間に認知されていない。

■落ちこぼれ

現在、相当な数の生徒が、学校の授業についていけずに落ちこぼれている。特に数学はひどく、小学校のうちに三割が、中学で五割が、高校では七割が授業についていけなくなると言われている。この割合の数字は随分前から言われているので、いまはもっと増えているかもしれない。ともかく言い換えれば、これだけの人数の生徒が、数学の授業では勉強せず遊んでいるわけだ。こんな無駄な話はない。生徒にとっても苦痛であり、他になにか勉強することがあればさせたほうがいいに決まっている。

ところが、ゆとり教育に反対する人々は、カリキュラムにゆとりを持たせることだけでなく、選択制の授業ですら否定する。選択制にすると科目を選択しなくなるだとか、教室が分かれることにより生徒同士のコミュニケーションに悪影響があるとか言っている。一体どうしろというのか。

彼らは、アメリカで教科選択を含む大規模な教育改革が行われて大失敗に終わったことを挙げている。しかし、結局その教育改革の何が悪かったのか、よく分析したのだろうか。制服を自由化したのが悪かったのかもしれないし、またはアメリカの文化や風土が悪かったのかもしれない。

まあ、私の実体験からすると、教科選択制にしても勉強嫌いの子供にとってはなかなかプラスにはならないだろう。しかし、まったく授業についてこれない子供に授業を受けさせて「教育した」と言ってしまうのは明らかにおかしい。こんなことだから、小学校から中学校から高校へと問題を先送りしてしまうのを何とも思わなくなってしまったのだ。

義務教育は中学までのはずなのだが、今ではほとんどの生徒が高校に進学している。底辺の生徒は高校で一体何を勉強しているのだろうか。

■左翼、右翼

教育問題を左翼のせいにしているのをよく見かける。左翼の主張でありがちな、人間らしくだとか、民主主義にのっとった、などの考え方が日本の教育をダメにしたらしい。教職員の労働組合である日教組が左翼集団であることは事実のようだ。

しかしゆとり教育に関して言えば、ゆとり教育を公立の学校が導入することにより、逆に私立との格差が広まるわけだから、まったく左翼的ではない。日本の左翼=共産主義国に操られた運動員、と考えるとうまく説明がつく。

ところで仮に右翼的な教育があるとすれば、国家による統制を強めるということになるから、国民が機械的に画一化された教育を受けることになる。創造性だとか個性はあまり必要ではない。さて、いまとどこが違うのだろうか。

■推進者と批判者

私は、学歴社会の申し子である官僚の影響力の強い日本で、ゆとり教育がここまで進んでしまったことを非常に不思議に思う。彼らの土台を考えると、むしろ勉強時間を増やす方向に進んでも自然なくらいだ。しかし実際はその逆だった。とても人間的だと思う。

ところが、ゆとり教育に対して激しく反対する批判者とはどういう人たちなのだろう。

勉強時間を増やそうとする官僚に対して、在野の学者とくに進歩的知識人のような左翼系の人々が反対する、という構図こそが自然なように思える。なぜそうならなかったのだろうか。

一つに、なんだかんだでいわゆる知識人たちは自分たちの土台が学力にあるのだ。だからこそ、勉強こそ重要なのだという価値観を捨てられない。それでいて、自分たちのアイデンティティは、学問の本流から少し逸脱したところにある。マスコミへの露出の高い知識人は、学問の本流からはずれた人が多い。また、軟派を気取る知識人がいるが、彼らは本当の軟派と比べると明らかに負けているので、軟派だけではアイデンティティにならないのだ。

一方官僚は、学歴社会の勝者としての余裕があるのではないか。だから、これでよかったのかという問いと自然に向き合える。

とまあこの分析は私の憶測でしかない。

*

とにかく、「ゆとり教育」という論点を取り巻く状況は非常に不自然なのだが、誰もこのことを指摘していないように思う。


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gomi@din.or.jp