128. いろいろな経済論に異論と私論をはさんでみる (2002/12/5)


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■為替

職場のH先輩と組んでネットワークゲームを作る計画が随分前から中断している。一番の理由は、私がどんどんコーディングをしていけばいいのにやってないことだが、アイデア段階でその先輩が投げ出しているのも大きな理由になっている。曰く為替変動の仕組みをシステム化できないから。

どうやら為替変動の仕組みは、モデルだけは何個もあるのだが、現実の変動をすべて説明できるような理論はないのだという。為替の変動というのは、単なる通貨同士の取引でしかないのだから、そこにあるのは売りたい人と買いたい人だけだ。輸出が過剰になると…、だとか、国力が落ちてくると…、というのは売り手や買い手の事情でしかない。様々なプレイヤーがそれぞれの行動原理で取引をする。そこに駆け引きも生まれる。

為替変動がないと輸出過剰になっても儲かり続けてしまう。かといって為替変動を適当に処理するとゲームが破綻してしまう。それでは全然面白くない。とH先輩は言う。そこで私は、それならゲーム内でもプレイヤー間での取引が行われるようにすればいいのではないか、と提案した。最初のうちプレイヤーは貿易で儲けるが、儲かって儲かって仕方がなくなったら今度は為替で勝負できるようにすればいいのだ。我ながらすごくいいアイデアだと思ったのだが、H先輩があまり気の進まない様子なのでそれで沙汰止みとなってしまった。

新聞を読んでいると、円が割高だ割安だ、とかなんとか書かれていたりするのを目にする。株にも言えることだが、完全に市場原理にゆだねられているはずのものが割高だ割安だというのはおかしな話だ。割安なら買えばいいし、割高なら売ればいい。そんな当たり前のことをやる人が少ないということは、そもそも割高でも割安でもなんでもないということだ。

しかしやはりそうとはいえない面もある。円高の場合、外国からモノを買った方がいいのだが、買う必要のないものまで買うのはどうだろう。

■通貨と貿易

中国の通貨・人民元はよく、国力に対して不当に安いと言われる。市場原理に逆らってまでなぜ中国政府は人民元の価値を低くしておくのか。それは多分、外国からあまりモノを買う必要がないからだろう。通貨の価値を低く設定すると、輸出競争力が上がると言われる。ただしそれは外貨獲得額の低下も意味する。しかし外貨が必要なければそんなことはどうでもいいことだ。ところが中国は外貨も沢山持っている。巨大な人口があるからこそ可能なことなのだろう。それに輸出競争力が上がれば大量に作って大量に売ることでカバーできる。

円が割安と呼ばれる状態になると、日本銀行や各国の中央銀行が介入して円を買うことがある。円が割安になると、先の中国のような状態に日本がなる。なぜそれが困るのか。円が割安ということは、各国にとって自国の通貨が円に対して割高になることになる。ということは、各国は日本の扱っている商品を安く手に入れることができる。これがなぜ悪いことなのだろうか。それは、自国の産業がダメージを受けるからだ。自国の産業が衰えてしまうと、自国が外貨を稼ぐことができなくなり、いくら相手国の扱っている商品が安くてもそれすら満足に買えなくなってしまうからだ。

中国と日本との大きな違いは、中国と先進諸国は産業がいまのところかぶらないが、日本と先進諸国は産業がかぶっている。いや最近は先進工業国と呼べる国が日本とドイツぐらいになり、アメリカなんかは IT や金融業に転換していてそんなにかぶらなくはなっているが、アメリカはまだ自動車大国だし色々かぶっている。

本来貿易は、自分の国にないものや作るのにコストの掛かるものを買い、自分の国にあるものや自国でのコストが安いものを売ることが理想の形だ。貿易戦争による競争原理があるのは、それぞれの国が生き残りを掛けて世界的な分業をするためにあるのだろう。しかし、これが競争であり戦争である以上、自国の利益だけを考えて行動することはルール違反ではない。

ルールといえば、ルールとは守るものではなく作るものであるべきだ。だから、貿易戦争に負けそうになった国が、おまえたちそれはルール違反だとわめくのもアリだ。互いに適量輸出しあうのがルールだと主張するのもこの世界のゲームのやりかたなのだ。その点アメリカのやり方は優れている。

資源のない日本のような国が、自分が世界的分業の中で工業を担当する、と主張するのは当然のことだ。そうしなければ生きていけない。輸出に頼ることは日本の権利であると言い切ってもいい。しかし、他国から必要なモノを買う以上に過剰にモノを売ってはいけないと私は思う。安全保障上の外貨貯蓄は別枠として、余剰分は世界のために使わなければならない。そうでなければモノを売ってはいけない。

日本のような先進工業国が儲けた金は、観光立国に流れる。観光立国が儲けた金は、発展途上工業国や農業国に流れる。そうやって経済が流れなければならない。

使われない金が日本にたまっていくという事実があるとしたら、それは客観的に見ると「日本だけが安泰で他の先進各国を衰弱させる戦略」としか見えない。そんな日本のやりかたはゲームのプレイヤーとして優れているのだが、実際問題日本で得をしているのはほんの一握りで、それと知らず被害妄想にとりつかれたり実際に被害にあっている国民大多数は不幸だ。私たちはアメリカこそがそんな愚民の国だと考えているかもしれないが、日本だって似たようなものなのではないだろうか。

■流動性と保有資産

なぜ日本に金がダブついているのか。それは、富裕層や小金持ちがさらに金を増やそうとしているからだろうというのが一番の原因だろう。そうやって使われずにたまった金により流動性が下がり、中産階級に流れる金が減ってしまい老後なんかが不安になる。金は使わずに持っていた方が得なんだという価値観が染みついてしまったのだろう。

そこで流動性を上げるために貨幣をどんどん刷ってしまえ、という論が生まれた。通貨を増やすとインフレを招いて相対的に庶民の金が減るから大変だ、というもっともな批判はまさにその通りなのだが、この論はそんなに暴論ではないと私は思う。しかし、そうやって通貨を乱発されてしまうと、富裕層は投資で富を順調に増やすことができ、ますます貧富の差が開くことは間違いない。この策は本当に一時しのぎであって、根本的な解決になっていない。働いていないのにいいとこに住んでいい暮らしをする金持ちの子女が増えるだけだ。富裕層への大増税とセットではじめて効果が期待できるだろう。ただし、がんばって利益を出している企業にまでまんべんなく大増税するのはおかしいので、利益ではなく売上に対して税を掛けるべきだ。

流動性についてよく言われるのは、日本にあるすべてのお金と、日本にあるすべての価値を比べると、お金の方が過剰にあるということだ。だから、お金を乱造すると経済がおかしくなるという考え方はおかしい。急なインフレが経済をおかしくするのだ。

インフレになると、借金しているところと資産を保有しているところが得をして、現金を保有しているところが損をする。現金を保有しているのは多くが中産階級だから、ほとんどの企業と富裕層は得をする。老人より若者が得をする。なぜなら、若者はこれからも収入がありインフレになると収入も増えていくが、老人はこれまでためた金で過ごさなければならない。

流動性に関する争点は、貨幣なんてあくまで貨幣なんだからどんどんまわすために刷っちゃったほうがいいんだ、という陣営と、いったんインフレになったらとてもコントロールできるもんじゃないんだ、という陣営とに分かれている。私の立場は、流動性を上げるために貨幣を刷ってもしょせん一時しのぎであり、ほかになにもしなければ貧富の差が広がっていくだけというものだ。

このまえ週刊文春を読んでいたら、流動性=通貨そのもの、と括弧にくくられて説明されていた。流動性という言葉は、何かの性質を表す言葉というだけでなく、通貨そのものを表す名詞なのかもしれない。私は専門家ではないしちょっと調べる手間も惜しむ人間なので用語は適当なのを断っておく。

■東京都の経済効率

以前東京都知事の石原慎太郎がこんなことを言っていた。多分いまも言っているのだろう。東京は企業や住居が密集しているので経済効率が高いのだそうだ。それは言える。企業同士の商談は東京で済むことが多いし、営業活動にかかる交通費が少なくて済む。なにより時間が節約でき、その分多くの商談ができる。

アメリカの場合、ビジネスジェットというものがあるように、遠いところへ飛行機に乗って商談にいくなんていう話を伝え聞く。金も時間もかかる。もちろん電話もインターネットもあるのでみんながみんな飛行機に乗っているわけではないが、電車やバスや社用車ですぐに多くの顧客のもとに行けるという点で確かに東京は優れている。

しかし実感としてどうも納得できないものがある。東京が密集しているおかげで、通勤圏が二時間ぐらいになり、多くの人が通勤に時間を掛けている。私は毎朝満員電車を避けるため各駅停車に乗っているので一時間半掛かっている。私はゆっくり読書しているので良いが、そうでない人はボーッしているか、人に揉まれて疲れている。通勤環境の悪さを経済的損失に置き換えるといくらか? なんて調査で出されたところでうさんくさい目で見るだろうが、損失がなければおかしいんじゃないだろうか。余暇を利用する気になれない人を大量に抱えている東京という都市の経済効率は果たして高いと言えるのだろうか。

文化の中心が東京に集まっているので、コンサートや展覧会や博物館や各種娯楽施設へのアクセスも便利だ。しかしそれは逆に言うと、東京に集まっていることが問題なのであって、いろんな場所にいろんなところがあればいいだけの話ではないだろうか。それに一体どれくらいの人がこれらの文化的施設の恩恵を受けているのだろうか。東京圏の人口三千万に対して、一日いや一年に一体どれだけの動員数があるのだろうか。

私のような東京圏在住の人間が東京の魅力に異議を唱えるのは、これまた石原慎太郎の主張するように、東京の税収が地方にばらまかれていることも大きな原因だろう。確かにただ東京に本社があるというだけで東京に地方税が落ちるのも釈然としないかもしれない。それなら売上比で地方税を納めるという仕組みができればよさそうだが、税制はそう簡単には改まらないだろう。

■竹中大臣と銀行

竹中大臣に支持と非難が殺到している。特にここ最近の報道は各メディアがいろんなことを言っており、正直いって私は非常に混乱していた。このごろようやく落ち着いてきて、私の中で意見のようなものができてきた。私は竹中大臣を支持する方向に傾いている。

竹中大臣はアメリカと外資の走狗だという主張をたびたび耳にする。その根拠は、日本の特に銀行の経営を揺さぶって株価を押し下げているからだそうだ。ミズホを外資に売り渡す気だ、そうなったら日本のほとんどの企業の情報を外資に握られてしまう、亡国の輩そのものだ、とまで言う人がいる。シティバンクがミズホを買うなんてことが現実のシナリオとして考えられるものだろうか。

竹中大臣が銀行を揺さぶっているのは事実だ。しかし、これまでにも我々は、銀行が自浄努力を怠ってきたのを見てきた。果たして亡国の輩とはどちらのことか。いやどちらか片方ではなく両方かもしれない。ただ、ここで銀行を揺さぶらなくては、いままでの十年をまた繰り返すだけなのだ。

銀行側の戦略は、間違いなく瀬戸際戦略だ。日本経済を人質にとって、できる限りの手を尽くして立場を守ろうとしている。いかに銀行とはいえ国を相手にしたら正面から戦っては勝てるはずがない。それに対して竹中大臣は、武力をチラつかせつつ交渉しているのだ。経済学者とは思えない、まさに政治家と言えるやり方ではないだろうか。銀行が武力に屈すれば、銀行が痛みのある改革を行うことで、日本経済は良い方向に動くだろう。学者先生が理想論で動いている、などと的外れな批判をする者までいるが、一体なにを見ているのだろうか。

竹中大臣の方にも疑惑がある。留学組だからアメリカの言いなりなのだそうだ。未公開株を受け取っているだとか、投資目的で億ションを買っているとかは事実みたいだが、アメリカの言いなりとは根も葉もない言いがかりではないか。銀行の経営陣が一体どれだけの資産を持っているのかで、少なくとも財産面ではチャラにできるだろう。その上で、これまで銀行の経営陣がやってきたことを見れば、どちらに分があるかもう明らかだろう。

竹中竹中と言っているが木村剛という名前が最近では一番大きいみたいだ。30社リストとかを出したのはこの人らしい。実は私はあんまりニュースを細かく読んでいないのでよく分かっていない。とにかくこのもやもやした状態をどうにかしてくれと言いたい。

■法人大減税

法人大減税こそ景気回復のために一番重要なことなのだ、という考え方が、どのメディアを見てもあふれかえっている。信じられない。どうしてこんな状況になってしまったのだろうか。

法人が儲からないと、サラリーマンの給料が減る、そうするとますます法人が儲からなくなり、サラリーマンの給料もどんどん減っていく。とまあこんな理屈だったと思う。この理屈で言うと、法人を儲からせても個人を儲からせても結局同じはずなのだ。それなのに、法人大減税しか言われないのはなぜか。しかも逆に所得大増税が出てくるのはどうしてか。

私はこの点に関してはビル・トッテンの考え方に大いに納得した。金を沢山使ってくれる人に金が渡っていないからなのだ。

私には数百万の貯金があるが当面使う予定はない。しかし一方で、それだけの金があるならただちに使う予定ができる人たちもいる。お金がないので子供は一人にするという夫婦は多い。子供が一人増えるということは、それだけ教育費にしろ食費にしろ掛かるのだ。この経済効果は計り知れない。

以前ドコモの例を出したのだが、携帯電話の通話料金のために他の消費が冷え込んでいるのも、なぜ「ドコモが悪い」という責任論が出てくるのか意味不明だ。人々の生活を豊かにし、消費まで増やした会社が、なぜ責められなければならないのだろうか。

人々が働かなくなったから、と主張する人もいる。ちゃんと働いていれば金が入る。いまの職場で人がいらなくなったら、新しい技能を身につけて転職すればいいのに、いつまでも会社にしがみついているから経済が停滞しているんだ、というもっともな主張だ。しかし、彼らは好き好んで収入の少ない生活を選んでいるのだからいいではないか。彼らのせいで不景気になるというのはおかしくて、それなら一生懸命働いている人たちの間では好景気になっているはずなのだ。しかし実際に好景気なのはごくごく一部の人たちだけだ。

法人を減税すれば新しく設備投資するようになって需要が増える、というが、そうやって設備投資された結果として製造される製品を一体誰が買うのだろうか。設備を売った会社の社員がまず豊かになって…と言うかもしれないが、本当にその社員にその分の金が渡るのだろうか。利益が内部留保されて土地や証券に投資されるのでは話にならない。まさに銀行がそういう状態になっているではないか。

ただ、極論まで行ってしまうと真実にたどり着くかもしれない。減った賃金の分だけデフレが進めばいいのだ。デフレが進むと円も上がりそうだ。そうでなければ、国内でモノを売るよりも海外で売った方が儲かってしまうからだ。そうなると、日本人はどんどんモノが買えなくなってくるのに、企業はどんどん儲かっていってしまうという異常な事態になる。日本のメーカーはそんな未来を望んでいるのかもしれない。

円高で輸出競争力が落ちるというのは言い訳に過ぎないのだ。豊かな国であれば、本来輸出するより国内のほうがモノが沢山売れるはずなのだ。

■中国移転とデフレ

製造業は、安く作ってそのままの値段で売れば、安く作った分だけ儲かる。

仮に日本で 10億円かけて作ったものを日本で 12億円で売っていたとする。中国で 2億円で作るようになったらどうなるか。日本で売れば 10億円の利益が出るようになるはずだが、日本の従業員にこれまで 10億円払っていた分だけ日本の購買力が落ちるからそうはいかない。それでデフレになり、日本で 4億円で売るようになったら利益は同じになってしまう。そうなったら誰が得をするか。日本人は、働かない代わりに家計をやりくりして金を都合するようになり、中国人は一生懸命働く代わりに 2億円を手にする。

自由競争のゲーム理論から考えると、日本人がこれからますます購買力を無くしていくのは目に見えている。中国が成長率を落とすまで続くだろう。

いつ中国が成長率を落とすか。私の考えを述べれば、そう遠くない未来、ズバリ言えば 5年後かそこらではないかと思う。その理由は、中国人のビジネスがヘタだからだ。かつて私は、中国人ほどビジネスの上手な人々はいない、と言った。しかしそれは間違いだ。ビジネスが高度になるにつれて、信用だとか協業なんかが必要になっていく。血縁や裏稼業の強い中国の資本主義はじきに成長を止めてしまうと私は考えている。

インドのIT産業が注目されて久しいが、インドの民族資本では主導的な大企業はほとんど生まれていない。マイクロソフトとかの欧米の大会社の子会社がたくさんあるだけだ。数年後に中国の大手家電メーカーがブランドを引っさげて格安ではない普通の製品を手に日本市場に殴り込みを掛けてくる可能性なんて考えられるだろうか? 韓国でさえようやくサムスンやヒュンダイがジワリジワリと進出してきたが、日本はまだまだ韓国に高級品を輸出する力がある。中国に関してもいかに成長力があるとはいえ韓国の数年遅れだろう。

話がそれたが、日本人の購買力を維持することが大切なのだが、国際資本主義のもとではそんなことは不可能だろう。だからデフレは必然と言える。むしろ日本はデフレになることで経済を正常に保っているとも言えるのではないだろうか。デフレをなんとかしろと言っているのは、資本を持っているところだけなのではないか。彼らは掛けに負けたのだ。デフレをなんとかしろと言うのは要するに、損失補填をしろと言っているようなものだ。そんなことをそのまま飲むのはおかしい。


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