101. 個人主義という名の全体主義 (2001/4/28)


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いま日本は個人主義への道を進んでいる。改めて個人主義について考えてみると、何か奇妙なものを感じる。

■定義は?

まず、辞書的に個人主義の意味を調べてみることから始めてみよう。そもそも個人主義というのは、全体主義に対抗するものとして考え出されたようである。従来は、集団や国家にとって個人とは、集団や国家のために何かするべき存在として見られていた。個人主義というのは、個人の意義と価値を中心に据え、集団や国家は個人によって利用されるべき存在である、という考え方なのだそうだ。

ここであらためて確認しておくが、個人主義というのは集団があって初めて成り立つものである。集団がなければ、個人は個人でしかありえないからである。

人類が生き延びるために協業を始めたとき、人々は集団に所属するようになり、その所属した集団を維持するために個人が活動をするようになった。このような集団では、一人の人間が自分を犠牲にして他の多くの人間を救うことが出来る。個体の利害を考えないことは、あきらかに人間にとって一つの大きな一歩であった。

では、このような優れた考え方が時代遅れになった原因はなんだろう。私の考えでは、集団が個人の制御を離れて暴走しがちになったからではないかと思う。つまり、集団を維持しようとするあまり、集団の維持以外の目的が見失われがちになったり、何人かの利己的な人間が集団の方向性を決めてしまい、大多数の人間が損害を被るようになったからだろう。

だから我々は原点に戻り、集団というものがそもそも自分たちの生存のために作り出されたということ、そして集団とは自分たちが生き延び利益を得るために作り出されたものだということを第一に置いた。つまりこういうことである。個人が強固に合体して集団という新たな主体を作るのではなく、個人が緩やかに連合して集団に個人の利益を代表させる。これが個人主義ではないか。

■全体主義

個人主義について考えを進ませる前に、まず全体主義についてさらりと考えていくことにしよう。

全体主義というのは、集団しか存在しない。集団を構成する個人とは、体の一部のようなものである。だから、個体の喪失は集団にとって怪我に過ぎない。

あなたという人間を仮に集団だと考えることにしよう。あなたという集団を構成するのは細胞であるとする。あなたが転んで怪我をしたとしよう。その結果、細胞のうちいくつかが死んでしまうかもしれない。しかしそれはあなたという集団のせいであって、死んだ細胞一つ一つが悪いわけではない。

あなたは疲れた体にマッサージをしてもらうとする。あなたの筋肉はほぐれ、次の日もよく働けるまたは勉強できるだろう。マッサージをしてもらうよう決めたのはあなただが、あなたはあなたの筋肉から感謝されることはない。なぜなら筋肉はあなたの一部だからである。

あなたが重大なミスをしたとする。その結果、あなたは高いところから落ちて、大怪我をしたとしよう。その責任はあなたにある。あなたの犯したミスは、あなたの脳細胞によって判断され行動に移された結果かもしれない。しかしあなたはそのミスをあなたの脳細胞のせいにすることは出来ない。

あえて言うまでもないことだが、以上の例は、あなた自身が集団や国家であり、細胞一つ一つが集団や個人に属する人間一人一人を表わす。

■国家の唱える個人主義

では改めて個人主義について考えてみよう。

個人主義を標榜する集団や国家がいくつかある。個人ではなく、集団や国家が個人主義を主導していることに注意していただきたい。つまり、集団や国家の中の一個人ではなく、集団や国家の中で一定の公的な地位を持った人間が、集団や国家の個体一人一人に対して個人主義を求めているのである。

さきほどの例で説明してみよう。あなたはあるときこう思った。細胞一つ一つに責任を持たせよう。この考え方は、おそらくあなたの脳細胞の中の一つの細胞が考え出したことである。

それからのあなたは、あなたが転んで怪我をして細胞を傷付けたり殺してしまったりしても、それはすべてその細胞の責任にするか、あるいはその転ぶ原因となった運動神経系の細胞のせいか、それともそもそもその運動を起こそうと考えた脳細胞のせいにするようになる。

集団や国家の唱える個人主義はかくも身勝手なものである。

もちろん、個人主義を広く行き渡らせることで、個人が自覚して自分で自分の身を守るようになるという利点はある。ただし、そんなことをあえて国家が示さなければならない理由はあるのだろうか。個人の向上は国家の向上だ、という論理が成り立たなくもない。しかし、国家がむしろ個人を犠牲にして得をしている面が強い。

■伝道者の唱える個人主義

では、集団を構成する一つの個体が、集団を代表してではなく、集団を構成する個人一人一人に対して直接、個人主義を訴えたとしよう。

彼はこう言う。集団と利害を共有するのは個人にとって不利益である。個人は絶えず集団と距離を保ち、基本的に個人は自らの好きなことを自分の責任で行うべきである。そして、個人の利害によって集団を維持し管理していくべきである。

この場合の個人主義は、呼びかけであって、命令ではない。この個人主義は、個人から個人へと呼びかけられるものである。当然、呼びかけられた個人が同調するもしないも個人の問題である。

では空想ではなく現実に目をむけてみよう。世の中の、個人主義を広めようとしている人々は、どのような言葉で個人主義の思想を伝えているだろうか。

まず大半は、自分で自分に責任を持とう、集団や他人のせいにするな、と言っている。そして大抵の場合、集団や他人のせいにするのを「甘え」だと言って非難している。その次が、失敗したらまず納得し、その失敗を自分の責任として反省し、次から失敗しないようにしよう、と続く。

▼一番に考えること

あなたが個人主義者に転向する前にまず考えなければならないこと、それは、個人主義があなたに害をもたらすかもしれないことを了解しておくことである。あなたに個人主義を吹き込んだものが悪意を含んでいる可能性についても考えなければならない。

▼無責任

たとえばあなたが誰かになんらかのアドバイスをしたとしよう。あなたは、アドバイスをした以上、そのアドバイスに対してなんらかの責任を感じるに違いない。むろん、実際にあなたに責任が生じるかどうかは別の問題である。しかし道義上、なんらかの責任を取るべきであると私は思う。でなければ、あなたのアドバイスは単にあなたの利己的な行為に過ぎないからである。

あなたがたとえば、責任は感じるが責任は取らない、という態度をとったとしよう。これこそ偽善であり利己的であるといわざるをえない。それなら最初からアドバイスをしないほうがいい。あなたは、自分のアドバイスに責任は持てない、と前置きしたとしよう。そんなアドバイスに耳を貸すのは愚か者である。私は少なくとも、アドバイザーが最低でも名声や評価を掛けたアドバイスにしか耳を貸す気はない。

▼他宗派

あなたが個人主義者であるならば、一つお願いしたいことがある。決して個人主義者以外にアドバイスをしないこと。これは、アドバイスを真に受けた者だけでなく、あなた自身にも不利益をもたらす。しかしうまくいけば、あなたのアドバイスを真に受けた者だけが損をし、あなたは彼から何かを騙し取ることができる。そういうことはしないでいただきたい。もっとも、そんなあなたが私の願いを聞くかどうか分からないことは了解している。

あなたが自分のアドバイスに責任を持たないのは自由であるが、個人主義者ではない人間は、アドバイスを受ければそのアドバイスにアドバイザーの責任が大なり小なり含まれていると考える。するとその人は、そのアドバイスによって成功したらあなたに何か贈り物をするかもしれない。失敗したら、あなたに代償を求めてくるかもしれない。あなたが贈り物をどうしようと勝手だが、代償を求めてきたときに逃げるつもりであるならば、決して贈り物を受け取ってはならない。そうでなければあなたは、少なくとも自分のことをズルい人間だということを認めるべきである。

▼伝導・教化

あなたが個人主義者であるとする。あなたとは別の個人主義者に騙されている非個人主義者の人間がいたとする。あなたはかわいそうに思い、個人主義を彼に伝導してあげようと思うかもしれない。しかし、かわいそうだから、とか、その人にとって個人主義がいいから、という理由で教化することは、同時にその人を騙す行為であるということを留意するべきである。なぜなら、その人が個人主義者になって損害を被っても、あなたがそれを埋め合わせることがないからである。好意だから、という理由で何でも許されると思ってはならない。あなたがそれを埋め合わせるというのであればかまわない。

▼騙し

個人主義の伝導は、主体的に見て、良い行為ではありえない。私は、誰かが個人主義を伝導しようとしているのを観察すると、全体的に見て長い目で見れば良い行為だなと思う。しかし、自分が誰かに伝導するとしたら、そのことを良い行為だと考えるつもりは全くない。主体的に見ると、良いも悪いもないのだ。

個人主義を誰か伝導することで、その人から感謝されることもあるだろう。しかし、感謝を期待することはできない。うらまれることもあるだろう。そのときはあなたは損害を受けるかもしれない。つまり、どちらかというと、良いことよりも悪いことのほうが起こる確率が高い。ただし、伝導に何らかの騙しが含まれれば、あなたは基本的に得をすることができる。

▼騙すも騙さないも自由

あなたは、少なくとも個人主義者としては、人を騙すも騙さないも自由である。もっとも、個人主義者は自らの意志で聖者にもなれるので、人を騙さないと誓うことも自由である。しかし、悪党として生きることもまた自由である。

世の中の多くの人間は、基本的に利己的な人間である。利己的な人間が自由を手に入れたら、やることは決まっている。

少なくとも、人のことも自分のことも考える人間が過半を占めなければ、個人主義社会はすさんで当然である。でなければ、全体主義で厳格な宗教をみんなで信じていた方がましである。

善意で個人主義を広めたい人間は、社会に十分に善良な人間が存在することを確認していなければならない。あるいは、個人主義が広まった結果として、善良な人間の方が多いようでなければならない。悪意のある人間だけに個人主義が広まってしまうと社会として最悪である。社会にとって一番いいのは、善良な人間だけが個人主義を信じ、悪意のある人間は全体主義や宗教を信じることである。

■哲学上の問題点

個人主義の抱える最大の問題点は、自律や責任といったあいまいな言葉で説明される点にある。何をもって自律と言うのか、というのは哲学上の問題である。また、責任という言葉がよく聞かれるが、何をもって責任と言えるのだろうか。元に戻らないものに対する責任を取る決まりきった方法があるのだろうか。

ある存在が自律しているかどうかが分かるのは、その存在の主観だけである。だから、個人主義とは客観的に存在しているのではなく、その人それぞれの中にしかないものだとも言える。だから、自分が個人主義者かどうかは分かるが、他人が個人主義者かどうかを判断するすべはない。それから、自分で自分のことを個人主義者だと思うことに意味を感じるのもまた自分だけである。

■まとめ

純粋な意味での個人主義を勧めるということは、相手のことを自律していないと断定することに他ならない。また、純粋な意味ではなく、いわゆる個人主義を勧めるということは、ただ単に自分勝手になれと言っているに過ぎない。多くの人は、自分勝手の前に「良い意味で…」をつけたがるかもしれない。

それから、個人主義を勧めるのは、自分が優越感を持っているからであるとも言える。控えめに他人に勧める人をあまり見ないのはそのためであろう。私は、優越感を持つことに対して悪くは言わない。なぜなら、誰もが自分の方が良いのではと思わない限り、人に何かを勧めようとは思わないだろうからである。

■個人主義という名の全体主義

いわゆる「自分では何も考えずに人のやるように行動しあげく失敗したら人のせいにする人」がいる。そういう人は、日本の個人主義者の格好のまとになる。人のせいにするぐらいだったら自分で自分の行動ぐらい決めろ、そしてその行動についての責任を自分で持て、といった流れである。こういうおせっかいは、個人主義というより、むしろ個人主義という名の一つの全体主義なのではないだろうか。

私には特に、このような「おせっかい個人主義」を嫌う理由はない。このいかにも日本らしい全体主義は、日本人がいつのまにか個人主義という西洋の概念をたくみに自分たちの都合の良いような形で取り込んだものと言えるのではないだろうか。


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