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なるほど、男と女は違う。
あえて細かいこと抜きに言わせてもらえば、男には厳しさがあり女には優しさがある。
そうして考えるとつくづく俺は男の脳味噌してんだなあと実感する。
合理性というか。
性差というのは性対象とは別のことだろう。
以前は自分の性癖もあり、自分は男に遠い、男には欠けている、内向的なのはだからなのか、とか考えていた。
でも自分の思うように生きるようになり、自分の素顔を自分で知るようになるに従い、まごうことなく男なのだと思うようになった。
だから、男になる、という意識がずっとあったものが、男である、という意識にかなり変わってきている。
それでも惹かれるものは変わらないのだが。
今わかっているのは、俺は男として男に惹かれているのだということ。
男の構造をした存在ではあるが、同性を求めてやまない。
ただよく思うのが、自分がもし女だったとしてもやはり同性を求めていたんじゃないかということ。
つまり俺は、女ではなく同性愛者なんだろうな。
果たして同性に向けている欲求の正体が愛かどうかは疑わしいが。
性欲は確実に向いてるけどね。
2003.2.5
結婚はもうリアリティがなくなってきた。
それでも昔は、もしかしたらするかも、とは思っていたんだけれど。
この年になって覚悟が決まってきたのかどうか、人に問われたときに「(結婚)しないよ。」と口にするようになってきた。
別に決意でも意地でもなく漠然とそういう気がしてるから。
それでも家族は欲しい。
これは家庭という意味。帰ってくるところ。home。
親が作った家庭の中で大事に育てられてきた。
そして今でも自分にとって家というものが何かと聞かれたらそれはやはり地元の両親の住むところを指すだろう。
しかし少しでも大人になってくると今度は自分が家を持ちたくなる。
自分が選んだ場所で自分が選んだ人たちと。
そして協力して家族を営んでいきたいんだ。
子供の頃は甘えることが全てだった。
今は甘え与えしたい。ファミリーを作りたい。
今後もずっと生きていくために。
2003.2.2
(以前、つきあってた人の影響で作ってみた歌。数編。)
ふろあがり ふとんをかぶる きみとぼく いっしょに「ますの。」 これさ、よくない?
これからのこと かんがえたから 二人のうでに 小さな跡ついたね
ふたりで 二人のため した はじめての 共同作業 南新宿
結果出て 読本片手 待ち合わせ ばればれだけど 二人で出よう
予想して覚悟してても現実に別れの日が来ると辛いなあ。
「友達だ」「友達だよ」と繰りかえすあなたへ想う友達以上
「友達だ」「友達だよ」と繰りかえすあなたは望む別れた僕へ
窓開けて裸で昼寝 まどろみの中で聞こえるデフラグの音
「今日行くね。」メールを出すとすぐ返事。「来てもいいけど全裸厳禁。」
2003.1.21
10/27に会った友達と今日は吉祥寺で飲んで食って騒いだぞ。ゲイだのおたくだのとかハラスメント発言なんかとかがんがんしゃべってたせいか、焼き肉屋から帰ろうと席立ったとき後ろの席のカップルがじーっと俺のこと見ていたぞ(笑)。しかし俺ほんと隠すことなく本性のままにしゃべくってたな。そういう相手だな。この人は。おたくノリっつーかこの世代生まれならではのネタがなにより共通してるからな。一緒にホビーショップでガンプラも見て回れたしな。でも互いの相違もありありとなった。やっぱり僕はスケベじゃあないようだ。そんでおかまでもないようだ。(だからおばさんでもないようだ。)強いて言えばエロだのおっさんだの男の子だのではなかろうか。ねえ?
そして今日はな、ちょうど一年なんだな。絶望的なことがあってから。そんな日に、同じように怒濤の性格ゆえにハートブレイクした奴と飲むのも縁だな。でもむしろブレイクしていきたいよな、これから。Uさんよー。
2003.1.18
アップはしていたけれどどこともリンクしてなかったのでカウンタをインクリメントするのは自分だけでした。でも今回コイヘヤに接続。航海開始。
2003.1.4
昨日帰省から戻ってきた東京駅からちょっと寄り道をしてみた。新宿に寄って立ち読みをしたかった。早坂さんが今月のBADIには載せてるみたいなので。年末に帰省するときに寄ろうと思ったけどその時間はなかったからな。友達がちょうど新宿にいたのでつきあってもらった。ほんとにそれだけ読みたかったので、「もう済んだよ。」と言ったらちょっと拍子抜けされちゃった。その後はいつもどおりお茶してよた話してた。朝まで地元に居て東京に戻ってきた足でこんな風に過ごすのって前はできなかったんじゃないかと思う。自分の中でこだわりが消えてきてる気もする。年を取る効能か。その友達に、ある話してる中で「開放しなよ。」と言われた。そうだね。少しそうしてみようと思う。
2003.1.3
昨日友達んちでDVD「ハッシュ!」を観た。監督は橋口亮輔さん。この人は人間への優しい視点もさることながら、それを役者を通して映像の世界にリアルに映すことができる監督だ。フィクションである、映画というものなのに、本人が言っているようにそこに描かれているのはノンフィクションのような切なさだ。あいかわらず賛辞も批評も下手だからこれ以上は書かないけど、僕はこの人の最初の上映作品である「二十歳の微熱」を観て少しだけ解放があった。少しだけど確実に強烈な。同性を求めてやまない性として、認識しながらも、でもそれをどう折り合い付けて生きていくかもわからず一人きりで生きていたその頃の僕にはこの作品は衝撃的だった。それは鮮烈と言うよりはボディブローのような浸みてくる衝撃として。そんなインプレッションを与えるのがこの監督の作品なんだけどね。とにかくあたりまえの人間が人間としてあたりまえの気持ちや言動をしてんだ。それは例え男の子が男の子を求める姿であっても。僕はこのとき、ああ、普通に普通の暮らししてて普通に男の人を好きでいてもいいんだ、と思った。特別な理由づけなんかいらないんだと思った。そしてこの監督は実際人間を描いているんですけどね。男を好きな男もいる普通の人間世界を。この人の狙い通りの「どんな人々が存在しても許されている世界」を感じたんですね、今思えば。僕はずっと、自分はこの世界に許されない存在だと思ってきていたんです。この映画はビデオレンタルで何気なく借りて観た訳なんだけど観た後ひとりでぼろぼろと涙が出て止まらなかった。解放の涙だったんだろなあ。あまりにもあまりにも切なくて、昔から悩み事を一人で留めておけない僕はそのとき初めて外へ吐き出したんだ。理性的に話せて僕の話をいつも聞いてくれていた友達へ。
今、二十歳の微熱って映画みたんだ。胸が締め付けられるようになって、ぼろぼろ泣いちゃったんだ。それがなぜかっていうと、この映画で描かれてることがものすごくリアルにわかってしまってそしてそれでいいんだって気づいたからなんだ。つまり・・。
と最後まで言わなくても勘のいいそいつはわかっていた。ゲイを描いた映画だということ。僕はべつにカミングアウトのつもりではなかった。いつものように一人で抱えられないことをそいつに電話しただけなんだ。でもどうしてその映画を見て泣いたのか、それを説明するには僕の性の対象について触れる必要があった。それだけなんだ。そしてそいつはいつものように普通に話を聞いてくれた。そして今までのようにその後も変わらなかった。安心した僕は自分の恋愛についてもっと具体的にそいつに相談できるようになった。僕にとって、僕だけの中で閉じこめているものが一切なくなったんだ。かつては「今自分が死んだら自分が男が好きな奴だということが誰にも知られず、男が好きだった僕という人間は存在してなかったことになってしまうんだな・・・」と思っていたのに。
その後僕はうんと楽になった。ネットをするようになってからは他のゲイの人とも知り合い、その中でつきあいが続いていくような相手もできてきた。自分が少しずつ世の中とつながるようになっていった。だから橋口監督の作品は、僕にとってきっかけを与えてくれた作品なんです。それが言いたかった。長いな〜。
2002.12.23
昨日メールでやりとりしてた人と会った。メールでは、同い年、同性がらみで傷心状態、くらいしかわからなかったけど会ってみて意外とそれ以上に互いのおたくっぷりが共有できて楽しかった。というかひねくれもんとか3月生まれとかそういう共有。ゴーイングマイウェイなとこ。友達も少数。
それはともかく自分がネットで知り合ったゲイの人、というか意気投合した相手(そういえばみんな一人で過ごすのが好きな連中だな)になんとなく共通する傾向を感じた。それは父の不在。現実にいるいないじゃなくて、まあ詳しくなんかここに書かないけど、そう思った。そういうものなのかなあと思った。
2002.10.27
雑誌の方はあまり見ないんだけど最近ホームページ版のBADIを見るようになった。そこの記事で見つけたのがこれ。早坂ユキヲさんの漫画「OUT」。作品によって締め付けられるように切なくなったのは映画「二十歳の微熱」を見て以来。僕らが普遍的に抱えているもやもやとした日常から、全力で走ったり止まったりした先に見つけた出口=希望。そういうものにやられやすいみたいです。僕は自分が感動するのが好きなだけでどうも人にそれを伝えるのがうまくないみたいのでぜひ直接見てください。これを紹介したいのもありこのページを立ち上げたようなものです。
2002.10.27

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