28. 教師 (1999/3/16)


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先週放映された「ここが変だよ日本人」(TBS系列・午後10時から)では、日本の学校がテーマになっていた。日本人の教師六人ぐらいがゲストとして招かれ、いつもの世界中の人を相手に色々と議論をしていた。

そこで思ったのは、ここに出てきていた教師が意外にしっかりと自分の信念を持っていたことだった。番組の題名からして、またテレビやマスコミのアホさ加減からして、まず外国人に日本の教師を叩かせて終わりかと私は思っていたのだが、そうではなかったので驚いた。日本の教師と番組関係者を見直した。

この番組で出てきたのは、まず日本の英語教育の問題だった。日本人は、英語の読み書きの勉強ばかりで、英語を喋れない、といったことをまず外国人が突っ込んだ。それに対する教師の答えは、落ち着いたものではなかったがある種堂々としたものだった。

  1. 英語を喋れない教育をしていたが、改めようとしているし、現実に会話の勉強も増やしている。
  2. 日本では大学受験で受験英語を必要とするため、読み書きを優先せざるをえない。
  3. 英語はただ喋れたら良いものではなく、読み書きを覚えて、英語の背後にある文化なども学ぶ必要がある。
  4. 日本は近代において、欧米の知識や技術を取り入れる必要から、会話よりまず文献の読解のための読み書きに重点を置かざるをえなかった。

また、外国人の中にいた言語学者の言葉も的を射ていたように思える。

  1. フランス語やスペイン語は英語に似ているが、日本語は言語学的に英語とはかけ離れているので、日本人が英語を勉強するにはまず文法を勉強したほうがよい。

もっとも、確かに日本語は英語とは離れているが、だからといって会話を覚える前に読み書きを覚えることが有効だとは思えないのだが、フランス語やスペイン語を小さい頃に覚えている人間が英語を覚えるのは簡単だと思う。また、この番組にいる外国人たちは、それぞれの国で生まれ育ちながらも日本へ来て日本語を学んだような人たちだから、そんな人たちの論理が一般の日本人に当てはまろうはずがない。彼らの国のほとんどの人たちは、好き好んで英語なり日本語なりを覚えようとはしまい。世界の大学のほとんどは英語で授業をしている、という話も聞くが、そもそも大学に行くような人間は普通の人ではないのだから、そのあたりの話を日本の義務教育に適用するのもおかしい。

番組はこのあと、日本の先生は生徒一人一人を見ていない、といった議論に進んでいく。ここで私は、また教師の言葉に納得した。外国人の言い分は、非常に型にはまった、ある種無責任な発言のように思え、日本の教師の言い分は、最善かどうかは分からないが非常に納得のいくことを言っていた。曰く、日本の教師は、クラスの生徒四十人のうちの一人一人を見るのではなく、全体としてまず調和させ、授業を聞く雰囲気を作ることを重視するのだそうだ。だから、最初にやるのは、全体の調和を乱す素行の悪い生徒をたしなめることである。外国人は、日本の教師は出来の悪い生徒ほど可愛がる、ということを言っていたが、それは仕方がないのだ、ということらしい。私はこの教師の話を聞いて非常に納得した。賛同はしないが、この先生は自分が教師として最善を尽くしている、または尽くそうとしているということが分かって、少しすがすがしい気分になった。まあ結局、いまの教師は、おとなしく授業を聞いている生徒をかまうほどの余裕がないということも分かったし、教師がクラスを基本的に「授業をしずかに聞く雰囲気にする」ことに重点を置いていることも分かったので、それはそれで問題があるのだが、そのへんは全ての教師が一人一人の努力で行える範囲を超えていると私も思うし仕方がない。

この番組は最近のテレビ番組の中で、よくできた番組だと思う。ビートたけしの使われ方もうまいし、ゲストもそれなりに悪くない。この回は KONISHIKI が暴走していたが、うまく暴走の雰囲気をそのままに番組に取り込んでいた。馬鹿な制作スタッフのもとでは、教師が非難されるだけで終わっただろう。

*

いま学校は崩壊に瀕しているらしい。私には想像も出来ない。たしかに私が学校にいたころも不穏な空気があったのは確かである。たとえば、私は高校卒業二年後に、担任だった先生が定年退職するという話を友人から聞いたので、その先生に友人と挨拶しにいった。そのときに連絡網を回したのだが、結局来たのは私とその友人を含めて三人だけだった。まあ電話を回したのが五日前くらいだったせいもあるかもしれないが。私は当初、担任に会うために来る人はいないなとは思いつつも、ひさしぶりに高校の中に入るために来る人はいるだろうなと思っていたのだが、見事に予想は裏切られた。高校卒業後に大学なり専門学校なり社会なりに溶け込んで、高校時代の友人には会うまでもないとでも思ったのだろうか。

ちなみに、私も実は学級崩壊もどきのきっかけを作ったかもしれない。授業中に、先生は生徒を指して答えを求めることがある。当時は、先生が自分に分からない問いをしてきたときには、大抵の人は黙って考えているフリをしたものである。そうなったら先生は仕方なく次の人を指していく。そして結局諦めて自分で説明しだすわけである。私はある時から、黙っているのがうっとうしくて、即座に「わかりません」と答えるようにした。するとそれが他の人に伝播し、私に続く人も「わかりません」「わかりません」と答えていったことがあった。

ひょっとすると、私が学校にいたころもある種学級が崩壊していたのかもしれない。当時、先生が「この問題が分かる人?」と挙手を求めてきたときは、たとえ分かってはいても、誰も答えないことが普通だったみたいである。あるとき私は、一回の授業で一度挙手して答えておけばあとは答えなくてもいいだろう、と思って答えたことがあったが、その授業が終わったあとに友人から「普通そこで答えるかぁ?」と突っ込まれた。ちなみにこの年は 1993年くらいだった。

私が中学生だったころは…確かにその時すでに学級は一部壊れていた覚えがある。技術家庭科の時間は、ほとんど雑談の時間であった。先生の話し中にも話が絶えなかったこともあった記憶がある。だが、他の時間は崩壊とまではいっていなかった。中学の頃は、問題を起こしがちだった生徒を受け止める体育科の先生が二人いた。その先生らは彼らの面倒をよく見ていて、彼らに対する態度は「あまり無茶なことはするなよ」的な感じだった。その先生ら自身、授業の合間に、自分が酔っ払ったときに暴走した話をしてくれ、親近感が沸いた。なんでも夜中に電車に乗っているときに、H先生が電車の床にある蓋を勢いで開けようとしたらしい。曰く「ここ開けると車輪とか見えんのか?」そのとき、そんなに酔っていなかったK先生は驚いて止めようとしたが、H先生は酔うとかなり恐くて危ない感じだったらしい。そう話すK先生も、逆にH先生の方が「K先生はあぶないよー」と普段話していた。この二人の先生がいなかったら、道をはずし気味だった生徒はどうなっていたのだろうか。まあ、他にも近い先生が何人かいたから、先生という人々に対する信頼が完全に無くなることは無かっただろうが。

一方、キレる生徒というのは、いまでは「おとなしめの生徒」だといわれている。なるほどここまで考えると、おとなしい生徒を相手にしてくれる先生はいたのか? といった疑問が浮かぶ。また、両親はどうしていたのかも気になる。友達は? まあ、今回のテーマはそのあたりには踏み込まないことにする。

*

話は大きく変わる。

私がいままで出会った教師の中で、そんなに悪い人はいなかったと思う。悪いというか、教師としてとんでもない人は確かにいたが。なんとテレビに出演したのである。よくわからないが、バラエティ番組らしいが、結構バカな感じだったらしく、評判になっていた。ちなみに私やその友人はその教師が嫌いであった。すごく嫌な感じの教師であった。どのように嫌かというのは伝えにくいのであるが、ねちねちしているといった感じだろうか。

冒頭で英語教育の話をしたが、私がいままでに習った英語の先生は、大抵の人はなんというか信念を持って教師をやっていた。これは驚くべきことかもしれない。まず最初に中学校に入って初めて学ぶ英語の担当教師は、まず自分がなぜ英語を勉強してきたのかを語った。どうやらビートルズとか外国の歌が好きだったらしい。それで、我々にもその英語の歌を覚えさせて歌わせようとしていた。まあ歌を歌うのが嫌いな人にとって見れば、この先生の授業は非常に嫌なものだったかもしれないが、いま思えばこの先生の教える姿勢は非常によかったと思う。自分が魅かれたものを自信を持って生徒に教えているわけである。

中学校の頃は他にも英語の先生がいたかもしれないが、私はどうやら忘れてしまったようだ。よく考えてみれば、中学には他にも「色もの」教師がいた。私の音楽の先生が男性で、彼もまた変わった性格をしていた。数学にも熱心な先生がいた。幸いにして私は彼らとチャネルが合わないこともなかったのだが、その頃の他の生徒は既にそのような先生とは合わなかったのかもしれない。

高校の頃の英語教師もしっかりしていた。一人は、自分が外国映画大好きだといつも言っていて、授業中に教科書にちょっと映画に関係するところを見つけるとすぐに話を脱線させて、英語に絡めて話をつらつらと続けた。もう一人は、まるっきりおばさんな先生で、多少口うるさかったが、語学は暗記だという信念を貫き、生徒に文章の暗記を延々と課していた。これは私を含めて不評だったが、私はあとになって語学が暗記だということに気づいて改めてこの先生を見直すことが出来た。大方の人にとってみれば、やはり英語は苦痛だったのかもしれないが。それから、私も英語はいまでも嫌いである。

だが、高校の後半で二人の老人英語教師に当たった。同時期に非常に若くて美人の英語教師が転任してきたので、なおさら悔しい思いをしたものである。老人教師のうちの一人は、かなり信念を持っていたようだったが我々若い生徒には伝わらずに空回りしていた。いまの時代はなってないそうだが、昔を知らない我々はどうすればいいのだろうか。もう一人は、ちょっと気の抜けた感じの教師で、人格も丸く、授業も気が抜けていたので、眠るには良かったかもしれない。

大学に入ってからは、一人熱心な先生がいて、技術を学ぶには英語は欠かせないと言いつづけていた。イギリスの科学読本を読み進めることが授業だった。この先生以外は、あまり教育熱心ではなく、一人特に休講が多く単位の甘い先生がいたりした。

まとめると、少なくとも私の周りには、そんなにいいかげんな教師はいなかった。少なくとも私の目から見れば、の話ではあるが。少なくとも私が思うに、私の周りにはいいかげんな教師はいなかった。多分恵まれていたのだろう。世の中の学校全てがこうではあるまい。

*

私の高校時代の担任の教師が定年退職するときに、昼食をおごってもらった席でその先生は多少教師の世界を話してくれた。その中で特に印象に残っているのは、その先生や近々定年になる三四人くらいの先生がこの高校からいなくなったら、若い先生を止める人間がいなくなって不安だ、と語っていたことである。たとえば、テレビに出てふざける先生の例も出た。他にも、若い先生の中でちょっと極論を言う人がいたりするのだろう。定年になった先生がそんな不安を口にするぐらいであるから、やはり学校はおかしくなっているのかもしれない。

この先生の言葉を私が又聞きみたいに客観的に伝え聞いたとしたら、私は一歩引いて「老けた先生の愚痴かもしれない」と思ったかもしれないが、私はこの話をじかに聞いたので、私はこの先生の言葉を信じている。これから学校や教師や生徒がどうなっていくのか、見守りたい。

いまの子供がおかしいのは、全て全て大人の責任であることを付け加えておく。


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