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24

 病室は、常の如くその主の少女が横たわるだけであった。
 見舞う人物も、いつもと変わらなかった。
「花、替えた方がいい?」
 眠り続けるアスカにシンジはたずねた。当然、答えは無い。
「そうだね……替えた方がいいよね……」
 へたりかけていたバラのさしてあるベッドサイドの花瓶と、携えてきた花を持って病室を出る。しばらくして、地味な花瓶には少々釣り合わない鬼百合をさして、シンジは戻ってきた。
「ごめん、おとといから来れなくて。使徒が来てて」
 この日、アスカの右腕には点滴が二本。うち一本はブドウ糖。もう一つは、シンジにはわからない。ただ、肘の内側が、寝たきりでますます白くなる一方の肌に比して黒ずんでいることだけはことさらに思い知らされた。
「七拾壱だった」
 シンジは教えられた番号を述べた。
「だから次は七拾弐……」
 それから、いつものように前に見舞いに来てから起きた出来事を、対第七拾壱使徒戦闘の経緯を話して聞かせようとした。だが、シンジは言葉が続かなかった。
 針の跡の目立つ少女の肘の裏を撫でるうちに、これまでのように戦いの模様を話す気力が、少年の心から薄れていった。
「うん、勝った。勝ったんだよ、アスカ」
 シンジはそれだけをいって、自分の言葉に二度三度と頷いた。
 顔を上げると、そこには、いつもと変わらない、頬はこけているが安らかな寝顔が枕の上にあった。
 窓を開けて空気を入れ替え、アスカの髪を梳き、僅かな寝具の乱れを整えると、もうシンジにはやることが無かった。しばらく枕辺の丸椅子に座ってアスカの寝顔を見つめ、それで見舞いは終わった。
 病室を出る時、ドアノブを握りながらシンジは部屋を振り返った。
 空間の全体が白く見えた。
 もう白い花は止めよう、そんなことを考えながら、シンジは扉を閉めた。

 エヴァンゲリオン拾壱号機のロールアウトと、十番目のパイロット適格者選抜という事項は、ネルフ幹部会にそれほどの混乱を呼ぶことも無く報告された。
 前者は予定通りのスケジュールであったし、後者は、八番目と九番目が使徒であったという結果から、同様の危惧をミサトなどは抱かざるを得なかったのだが、その方面での専門知識の無い彼女がそれを指摘したところで結果が変わるものでもない。それにパイロット要員が増えること自体は、指揮官のミサトにとっても用兵の幅が増すのであるから歓迎するところだった。
 出席者のあいだに波乱が呼び込まれたのは、対第七拾壱使徒戦闘経過という報告が日向マコトによって一通りなされた後であった。
「作戦部としては」
 と、対使徒戦闘の直接の責を負うミサト自身が口火を切った。
「私たちネルフが何を求められている組織なのか、今一度皆さんに思い直して頂きたい。私たちは使徒を倒すためにここにいる。違いますか?」
 疑問形で言葉を区切ったミサトは、テーブルについている面々を見渡した。作戦部からはミサトともうひとり、マコト。それ以外の出席者は保安部長、熊野。調査部長代理、三隈。副司令、冬月。総司令、碇。
 そして技術部長の赤木リツコ。
「使徒との戦いは何にもまして優先されるべきです。違いますか?」
 ミサトは視線をリツコへと向けたまま続けた。
 リツコがわずかに眉を曲げた。
「先の戦闘において」
 冬月の渋面をよそにミサトの表情は険しくなる。
「セブンスチルドレンは拾号機とのシンクロに問題ありとして出撃直後に回収するにいたりましたが、この情報は本来もっと早くに伝えられるべき、エヴァンゲリオン運用上極めて重要なものです。ですが、実際に我々作戦部に伝えられたのは、まさに使徒との戦端が開かれる直前に、赤木博士より口頭ででした。そして、このセブンスチルドレンの特性について、一部では故意に秘匿を図ったと見られるふしがあります」
 ミサトは間を置いた。が、リツコは無言。
 だからミサトは最後までいわざるを得なかった。
「このようなことがこれ以上続くようであれば、作戦部としては、対使徒戦闘に今後責任を持つことは出来ません」
 再びミサトは一同を見渡した。
 マコトは動揺を隠せないでいた。彼にとって、たった今の上官の断言は、専横甚だしい総司令を前にして、あまりに危険に思えたからである。
 熊野は、彼にとっては職業的なものともいえる感情をうかがわせない表情を保っていた。それが逆説的にミサトへの支持を語っていた。一方、猪鼻の上に縁の太い眼鏡を乗せている三隈は、会議の帰趨を決めかねてかしきりにその視線を出席者の間にさ迷わせていた。
 副司令、冬月。苦り切ったという顔つきであった。が、それが何を意味するのか。ミサトは事前に、いうべきことはいわせてもらうと、冬月には告げていた。その時の反応から、自分に対して少なくとも敵対的な態度は取るまいとミサトは踏んでいた。
 ゲンドウは無言でいた。いつものように机上に肘を立てて腕を組み、口許はそれに隠されていた。
 出席者それぞれの視線がリツコに集中し、テーブルを漂う空気が重みを増す中で、リツコはゆっくりと口を開いた。
「それで」
 そして再び口をつぐんだリツコに、ミサトは強ばった。
「……それで? それでって、どういう意味よ、リツコ。あんたねえ、人のいうこと真面目に聞きなさいよ。聞いてりゃわかるはずよ。陰でコソコソ妙なことするのはいい加減止めなさいっていってるのよ。聞こえなかったの!」
「……そう」
 膝に目を落として、リツコはぽつりといった。
「だいたいナインスチルドレンの時がそうだったでしょうが! あんたの所がいつまでも何も知らさないからっ!」
「葛城三佐」
 更にリツコを問い詰めようとしたミサトを遮ったのはゲンドウだった。
「赤木博士とは、以後、連絡を密にして職務にあたるように」
「ですが、それには!」
「ところで、君に日本国防省からの連絡がある」
「……何でしょう」
「内示があった。君は二佐に昇進だ」
 伝達系統などまるで無視の国連直属特務機関のトップの言葉に、ミサトは絶句してしまった。
 これで散会となった。
 釈然としないまま立ち去るミサトに、戸惑いつつも彼女の昇進を祝う言葉をかけるマコトが続いた。三隈は廊下に出たところで熊野に呼び止められ、そのまま歩きながら会話を続けた。
 リツコはゲンドウに対して一礼すると、一人、重い足取りで部屋を出た。
「碇」
 もはや空の席でしかない場所に視線を据えたままのゲンドウに対し、冬月は皮肉もあらわにいった。
「お前一流の人心掌握術もそろそろ限界ではないのか」
「まだ、いい」
「なぜ隠す。もはや計画は三年前とは大幅に姿を変えているのだぞ。今では彼女の父親の目指していたものに近いといってもいいくらいだ」
「まだ、その時ではない」
「碇」
 冬月はゲンドウを見据えた。色付きの眼鏡に隠されたゲンドウの表情はわからなかった。そして冬月の胸には初めてゲンドウの意志を離れて行動する自身の姿が思い描かれていた。わからなくてもよいではないか、そう考えはじめている部分が冬月の中に生まれていた。
「碇、シナリオなど既に無い」
「その通りだ」
「ならば、時とは何だ」
 ゲンドウは答えず、わずかに口を歪めるのみだった。
 だが冬月にとって、ゲンドウのその表情は見知ったものとはいえなかった。少なくとも第拾八使徒襲来以前のような、運命の支配者のようですらあった不敵な笑みには見えなかった。

 エントリーシステム実験管制室にたどり着いたリツコの目に入ったのは、規定の実験項目を終えてかリラックスして談笑する部下たちの姿だった。彼らは、鬼頭を除き、唇を噛んだままのリツコに対して目を背けるように、そそくさとコンソールに向き直った。
「何かありましたか」
 鬼頭だけは、そんなリツコに問いかけることが出来た。
「荒れるような議題でもありましたか」
「何もありはしないわ」
 小さな声でリツコは否定した。
「ならいいですが」
 並べられた端末を覗きこむリツコの背後から鬼頭は報告した。
「では、たった今終わった予備試験の、これがその最終結果です。ストラスバーグ、拾壱号機擬似信号で最深度までチェックしましたが、いいですよ」
「どういうふうに」
「いい補欠……でしょうな」
「そう」
 リツコは肩を落とし、一年ほど前のことを思い返した。
「霧島マナの時も、そういったわね、鬼頭君」
「そりゃそうですよ、レギュラー二人の格は違い過ぎます。一人で飛び回ってるスカウトにあまり望まんでください」
「あなたには感謝しているわ」
 示されるファイルを切り替えていたリツコは、十対、二十本の曲線が時系列にそってその波形が収斂してゆくグラフのところで目を留めた。
 十番目の適格者と予定されている少年にとって最も高いシンクロ率68%を記録した際のデーターである。
「気になりますか」
 と、たずねる鬼頭。
「……追跡? 干渉?」
 リツコの人差し指は波の重なりの一つを指している。
 さて、と鬼頭は肩をすくめるだけにした。いい加減な解釈をするよりは、この方がまだ上司を怒らせることはないと、彼の経験が告げたからだ。
「フォースで検証するつもりです。拾号機とセブンスの例もありますから」
「ええ、これはお願い」
 リツコには、ファーストチルドレン綾波レイを使ってしなければならないことが別にあった。
 ダミーリファイン計画、最終的には特異なコアを宿す初号機や弐号機にも搭載可能にせよという要目すら並べられている苛酷な計画である。リツコはそれは人任せにするつもりはなかった。
 モニター上の波形のピーク位置の重なりを凝視して思考に没入していたリツコは、傍らの鬼頭の「抹消ですかね、彼女」という言葉が何を指すかがとっさにわからず聞き返した。
「彼女?」
「セブンス、霧島マナ。補欠が二人要りますかね。我々の口出しするようなことではないのでしょうが、ストラスバーグの登録、あわせてシンクロの危険な霧島を登録抹消、こういう具合に運ぶと思うんですが、違いますかね」
 確かに技術部の取り扱う事項ではなかった。
 そんなことに気を回すなど、鬼頭にとっては例の無いことだった。
 リツコは首を傾げながら、
「それはどうかしら」
 といった。
 リツコにとっては役立たずとしか考えられないJA2までかき集めようとするミサトが、チルドレンを手放すとは思えなかった。
「そんな余裕は見せないでしょ」
 ミサトは、つまり作戦部は、セブンスチルドレンを使い続けることだろう。
 その限り、綱渡りのような芸当を、特にナーヴリンクの担当者は要求される。戦闘中は作戦部の管轄とはいえ、それは実質的に自分の領分ではないか、とリツコは考えざるを得なかった。
 機体交換を再度試すべきか。
 六号機以降はコアのパルスは誤差範囲程度の違いしかない。だが。
「マナと六号機、どうだったかしら」
「は、何がです?」
「セブンスチルドレンと六号機のシンクロレート、覚えている?」
「いえ、正確なところは……。起動不可でしたから10%以上ということはあり得ませんが」
 そう、個体差だ。
 エヴァは変化している。
 同じプロダクションモデルである六号機と拾号機のあいだで、既に搭乗者を選んでいる。今更、六号機には乗せられまい。
 凡ての機体に搭載可能なダミープラグの完成を急ぐ必要がある。
 ミサト、これはあなた個人が反対出来る倫理上の問題では既にないのよ。
「そうよ、ね……」
 窓に手をついたリツコは、指先の冷たい感触が薄れるまで、しばらくそのままでいた。
 指の間、分厚い窓を透して、リツコは実験場に置かれているテストプラグを見つめていた。一両日中にもチルドレンとなるであろう灰色のプラグスーツを着込んだ少年が、ずぶ濡れでタラップを下りているところだった。
「ムサシ・リー・ストラスバーグ」
 リツコの横で、目を細く険しくした鬼頭がつぶやき声を漏らしていた。
「十番目と登録されるわけですな……」
「不安なことでもあるの?」
「いえ……」
 登録を境に正式に少年は作戦部の資産となる。
 いつもどこかしら冷笑的な態度を崩さない部下の、今日に限って言葉に混じるそれとは異なる色合いは、リツコにとっては意外だった。
「気落ちしてるみたいね、鬼頭君でも」
 指摘されると、彼の表情は一瞬ではあったが警戒の色を示した。
「こりゃまた、なぜ」
「未練でもあるの? あの子に」
「まさか。被験体に過ぎません」
「そうは見てないんじゃないかしら。巣立つ雛を送るって心境?」
「それだけは、ないですな。人の親はセカンドインパクトの日にやめましたから、今更思い出せませんよ」
 からかうリツコに、鬼頭は薄い頭をかいて笑った。もうその時には鬼頭の口調も、リツコが聞き慣れている、うそぶくといったものに戻っていた。

 いつもアスカの病床を飾る切り花を買うための花屋の前で、シンジはいかにも人待ち顔という体で、店でなく広い道の方に顔を向けていた。そろそろマナがやってくるはず。多分、手を振って現れる。
 自分の作る濃く小さい影を時折リズムを取るように踏みながら、シンジはマナとの出会いを思い返していた。
 戦力増強よ、とミサトはその時いった。
 ならばマリー・サクラ、エイスチルドレンだとして紹介された彼女の場合はどうだったろう。新しい戦友、そんなような言葉をどこか他人行儀な口調で使ったのではなかったか。
 首をめぐらし店の入り口を見る。花の匂いがきつい。
 水が打たれて濡れた敷居に目を落とす。
 あるマンションのある部屋の玄関口を思い出す。
 更に思い出す。そういえば、あの家に居候のあいだマナは一度もそこに来なかったけど、もしそんなことがあったとして、ミサトさんは僕にそうさせたようにマナにもただいまといわせたんだろうか。ミサトさん、マナを怖がってなかったっていいきれるだろうか……。
 初めて顔をあわせた時を思い起こすと、シンジの胸には微かな罪の痛みが疼く。
 渚カヲルがそうであり、山岸マユミがそうであったように、霧島マナという人間もまた使徒ではあるまいか、そんな怯えがその時は拭いきれずにいた。
 よろしく、そういって一礼してから顔を上げた少女の好奇心いっぱいの大きな瞳が、シンジの初めて見た霧島マナだった。直後、自分の心を見透かされていはしないかと焦り、どぎまぎするシンジにマナが笑い、その屈託ない笑顔にシンジは自分の抱いていた危惧を恥じた。
 それで済んだ。
 が、マリー・サクラの場合、危惧は当たった。
「今度はどうなんだろう……」
 靴の先が小石をとばす。
 思い出すなどという努力も要せず、シンジの中では一連の光景が、暴力的ともいえるほどに鮮烈に甦った。
 マリー・サクラと呼んでいたが実は第伍拾七使徒であった個体がエヴァンゲリオン六号機に押し潰される瞬間。
 更にそれは、渚カヲルと呼んでいたが実は第拾七使徒であった個体の血塗れの骸、山岸マユミと呼んでいたが実は第拾八使徒であった個体を固定したという特殊ベークライトへと変わっていった。
「まさかな」
 今度現れる使徒は七拾弐という番号を振られることにシンジは思い至った。
 もう一度、石を蹴る。
「そんな馬鹿なこと」
「なーにが」
「ええっ」
 背中から抱きつかれたシンジは、自分の肩にあるマナのにんまりした笑顔に、してやったりなどと書いてあるような気がした。
「何が馬鹿ってねえ、暑さにやられて道端でぼーっとしてて気付かないだれかさんの方がよっぽどお馬鹿さんですよーだ」
「び、びっくりさせないでよ、マナ」
「待った? シンジ」
「ちょっと」
「ごっめーん、コインランドリーで時間かかっちゃってて」
「へえ……」
「あー、その目は疑ってるう。乙女の下着は扱うのに手間ひまかかるもんなのよう。ほらほら、ゆうべの、赤いリボンのついたかわいいレースの……」
 聞き耳を立てている人間がいたとしてもせいぜい護衛兼監視の人間くらいだということはわかっていたが、シンジは声の大きくなりだしたマナを慌てて花屋の中に引っ張っていった。
「シンジ、顔赤いよ。日射病?」
「違うってば」
「それとも、ひょっとして、見とれちゃったり?」
 シンジから離れると、マナは並ぶ鉢のあいだで爪先立ちになってくるりと回ってみせた。サイドに白いストライプの入った淡い青のノースリーブのワンピースの裾がふわりと舞った。
「ああ……」
「御感想は?」
「新しい」
「もう。それだけ?」
「きれい」
「はいはい」
 がっくり肩を落とすマナに、シンジが三色すみれを指差す。
「こんな感じかな」
 マナの顔に悪戯っぽい表情が戻った。
「それって服の印象? 中身込み?」
「はいはい」
 今度はシンジが肩を落とす番だった。
 かような成り行きでアスカの病室に飾る洋蘭だけでなくマナの部屋の窓辺に置くために三色すみれの鉢まで買った後で、さてシンジはもう一つ花を買うべきか、迷ってしまった。
「どうしよう、マナ」
「あ、新しい人に?」
「うん、歓迎するわけだし」
「そうだよね……」
 マナは鉢植えの並びから切り花の方へと歩きながら花束用にと品定めを始めた。
「でも、私の時は花なんて無かったよ〜な気がするんですけどねえ、碇シンジ君」
「あ゛」
「まあ、その理由は後でゆっくり聞かせてもらうとして」
 一周して鉢のハイビスカスの前にまで来たマナがいった。
「これでレイ作るなんてどう?」
「い、いや、そこまで凝らなくてもいいんだけど」
 そんなことをするには鉢でいくつ要るのか、値段を考えてシンジは青くなった。
 舌をのぞかせてマナは笑う。
「じょーだん」
 結局マナが手にしたのは、カサブランカと名札のついた大ぶりの百合だった。
「男の子だったら似合わないよねえ、これ」
 店員に包装してもらう横で、マナはその場面を想像してか、にやにや笑った。
「……ひょっとして、マナ、自分が欲しいの選んだの」
「人に物を贈る時はねえ、そうやって選ぶもんなの。文句あるなら、会ってからのお楽しみとかいって、名前も教えてくれない作戦部長様にいって」
 いわれてシンジは思い出す。
 マナの時もずいぶん突然だったよな……。
「そういえば、何番目だっけ」
 と、マナがいった。
 シンジは、七拾弐といいかけて、九番目といった。
「マナが七番目じゃないか」
「忘れちゃった。普段番号なんて気にしないし」
「気にしなくていいよ」
 いつしか、序数を意識するのをシンジは避けていた。言葉にはしなかったもののそれがマナにも伝わったのか、マナもあまり口にしなくなっていた。
「私の、次の次、か」
 マナは指折りながらつぶやいた。
 そんなマナに、唇を噛むシンジはその背中しか見えなかった。
 エイスチルドレンは使徒であった。伍拾七という使徒の番号が振られた八番目のエヴァンゲリオンパイロットがレイの乗る六号機によって撃破される一部始終を、チルドレンとなって間もない頃のマナは、シンジと一緒にモニターで見せられた。懲罰の意味合いの濃い措置だった。
 見届けるべきだったのかどうか、シンジもマナも、まだ結論は出せずにいた。しかし二人が、特にシンジが第伍拾七使徒殲滅の任務をかたくなに拒否したのは事実であり、一方でレイが了承して単独出撃したのもまた事実であった。
 そして四番目、五番目、六番目のエヴァンゲリオンパイロット。
 この三人が現在パイロットとして存在していないことをマナは記録の上では知っていた。だが三番目のパイロットでありその顛末を知っているであろうシンジの口からは何も聞いていなかった。シンジの方も、他の使徒との戦闘の経過をマナに話したことはあっても、これらのケースはいまだに話せずにいた。
 だからシンジの歯は唇に食い込んだままだったし、マナは次の次といういい方しかできなかった。
「出よ」
 と、マナがいざなう。
 花を抱えた二人は店を出た。

25

 ウラジオストク。それ自体は活気があっていい街だというのが、失意のうちに沿海州支部に配された相田の印象であった。
 ロシア、特にシベリアの混乱は長く続き、疲れ果てた人々の間で復興への気運が実施へと動き始めたのは二十一世紀を迎えて十年以上の時を待たねばならなかった。それがかえって西暦2018年の沿海州の首都を、再建のエネルギー溢れていた頃の第三新東京市とだぶらせ、彼の郷愁を刺激することになっていた。
 名の生々しさも彼にとってはむしろ好感が持てた。東方ヲ制圧セヨ。帝政ロシア時代、膨張主義そのままに付けられたこの名は、波洗う瓦礫と化した繁栄を取り戻そうとする第二東京、第三東京という名と、その欲望を隠さないという点で同一ではあるまいか、と。
「ここは使徒が来ない。いい街ですね」
「ほう」
 彼の小さなオフィスを訪ねて来た人物もウラジオストクを評価する点では一致していたが、その理由は相田とはいくらか隔たりあるもののようだった。
 林立するビル工事のクレーンを窓から見下ろしていた相田は、テーブルごしに向かい合う青年を見据えた。
「君はネルフにいたのだろう」
「それはそうですが、だからといって使徒を歓迎する気分にはなれませんでしたよ。相田さんはどうです?」
「確かに、歓迎すべからざる存在だったな、あれは。私は使徒の相手はしなかったが」
 男は頷き、存じております、といった。
 相田は眉を上げた。
「以前、会ったかな」
「いえ。領事館で話を聞きまして」
「なるほど」
 領事館の顔ぶれの中から噂好きを一人ずつ思い出しながら、相田は続けた。
「ネルフを辞めた理由を聞いてもいいかね」
「第三東京は戦場です」
「まあ、そうだ」
「自分には無理だったようです。三年前、心因性の疾患が見つかりまして、同僚には悪いと思いましたが、それを期に」
「君がかね」
 いわれてみれば青年の切れ上がった眼尻も、威圧するというよりは、どこか遠くを見渡しているようにも感じられた。
 ただ、茫洋という類の感触は、その鍛練を積んだであろう体躯からは受け取れなかったし、ひ弱さも見受けられなかった。戦場だからという理由であるなら、むしろ戦場に身を置くべき風でさえあった。たとえ、よれたスーツに隠した肩をすくめ疲れましたといってみせたところで、それは相田の目には表層としか映らなかった。
「ともあれ君のIDからは無花果が剥がれ、ついでに現役も退いて予備士官という身になった。それはそれでいい」
 いったん言葉を切った相田は卓上の名刺を取り上げて、目の前の男の顔と見比べながら続けた。
「だが一時的にしろ再就職先が内調というのでは、この方が余計気疲れする選択だと思うがね、青葉君」
「いえ、私は」
「領事館附総理府文化交流局員、今どきこんな陳腐な身分を使うのはやめた方がいいと君の上役にいってやるのが親切だな」
「これはどうも」
「私も勿体を付けた話が得意というわけではないのでね」
 相田の指先を離れた名刺はひらひらと机に戻った。そこには無花果をあしらったネルフのマークは欠けていた。
 左遷以前、第二東京でネルフの対日本政府工作の全てを取り仕切っていた相田は、人物眼には自信を持っているつもりだった。この青葉という男は確かに他人に警戒感を与えるようではなかった。しかし眼の奥に何かを隠しているように思えてならなかった。
 相田の見るところ、それは一途な信念や決意というものに近かった。つまりその正体が割れるまでは共犯者にするには危険な人物であった。
「領事の電話では、君を助けてやってくれといっていた」
「はい。そうして頂けると」
「だが、今の私はさして出来ることはない」
「相田支部長」
 肩書きを付けた青葉の言葉に、相田はかすかに眉を上げた。設立間もない、最も規模の小さい沿海州支部を預かるだけという現実を思い知らされる職名だったからだ。
「お嫌いなようですから前置きは省きます。助力というのは支部長の持つコネクションと情報収集力です」
「どうかな。底の知れたものだよ、私の人脈など」
 今では君の青葉シゲルという名が本名であるのを確認するのに三日もかかる体たらく、とまでは相田は口に出さず、ただ自嘲気味に口を歪めるにとどめた。
「ご存知とは思いますが、ネルフにひびが入りはじめています。ひびの元は第三新東京市ジオフロント」
「そうらしいな」
 私はそのひびのかけらさ、とこれも相田は口には出さなかった。
「使徒の脅威に晒されている唯一の国として、切り札であるネルフがその能力を抱え込んだまま瓦解してもらっては困るというのが政府の判断です」
 青年はその所属をあっさり相田に明かした。
「しかしこれ以上の専横を許すべきではないというのも政府の判断です」
 同時に、含まれる嘘からその立場も明かしていた。相田にとって第二東京の動静は勝手知ったるものだったから、それを見抜くのは容易だった。一年近く国外に身を置くことを強いられているものの、何かと情報は入ってきていた。
「その判断とやら、一致したものではあるまい」
「大勢はそうです」
「国防族」
「……その通りです」
 軍関係者ということは事実、相田の中でまた目の前の男について分析が付け加わった。
「日重の時田氏が足しげく第三東京に通っていることくらいは、ここにいても聞こえてくる。それに腹を立てている人間が、特に国防関係者には多いだろうな」
「先にいっておきますが、私がここにいるのは我が軍の正面装備調達の利害調整のためではありません」
 我が軍、この単語を使うからにはUNに指揮を預けている自衛隊ではあり得なかった。戦略自衛隊、それも反UN色の強い一派。
 つまり反ネルフの急先鋒。
「あたりまえだ。そんな話をこんな田舎に持ってきても意味が無い」
 あけすけな話をする、元ネルフだという、国防省のある筋からの意を受けて動く内調の男。何者だろうか、と相田の好奇心は刺激された。
 一方で、相田は強気の姿勢を取り続けた。頼みとするものが、失う物の少なさという自棄的な覚悟である点が、昔とは違っていたが。
「具体的に。君は私に何をさせたい」
「ある人物が沿海州で消息を絶っています。彼を探すために、相田支部長、あなたの持つ人脈をお借りしたいのです」
「それが何者であるかを聞く前にその理由を聞きたい。その人物を探し出すことが君達に何をもたらす」
「ネルフにひびが入っている現状、この人物を失うことは避けたいのです」
「彼を使って、ひびをどうするつもりだ。修繕するかね」
「ネルフは使徒に対する切り札です。空中分解だけは困るのです。ですが」
「亀裂が致命的にならないよう、かつ一枚岩には戻らないようにコントロールする、こんなところか」
「ええ」
「そんな話を、なぜネルフ沿海州支部の人間に持ちかける」
「相田さん、ネルフとは使徒迎撃だけが目的ではありません」
「辞めた人間に聞かされずとも知っている。人類補完計画だ」
「それは、いつのものですか」
「何だと」
「修正人類補完計画。形而下手段による終末の究極的回避」
 青葉が懐から取り出した紙片には、五十を過ぎた辺りの年格好の西洋人の写真の貼付と、その人物についてらしき記述があった。相田は、まずは写真だけに集中した。
 屋外を移動中を望遠で撮った一枚のようだった。アングルは高く、車道らしい暗灰色の背景に落としているその人物の影もフレームに入っていた。映ってはいない隣の人間に話し掛けているところなのか、歯をのぞかせた横顔を見せている、彫りが深く鷲鼻で、髪は白い部分がほとんどの男。目の色まではわからない。
 これに直結する人物は、相田の記憶に無かった。
 青葉の言葉は続いた。
「手段とはこれまでに使徒との戦闘で得た断片から再生した使徒の中核部、それを利用したある種の永久機関。目的は地球圏という閉鎖系の一元的エントロピー管理体制の構築」
 その語調が、用意された文言を読む時のそれに切り替わっているのを、相田は感じた。
「ネルフを知らぬ者にとっては駄法螺に過ぎないでしょうが、あなたもネルフの持つ技術力の底知れ無さは知っているはず、実現不可能な話ではないと我々は考えています。同時にこれは一歩間違えれば時代錯誤な独裁下の世界統合を招きかねない危険な代物でもあります。この計画を最終目標とする第三東京のネルフに少なくともフリーハンドを与えるわけにはいきません。そしてそのためにこの人物を我々は探し出す必要があります。一か月前、ナホトカに海路入ったことまでは確認しましたが、その先が手詰まりです。そこであなたに協力を仰ぎたいのです」
「……まだ答えをもらっていない。なぜ私にこんな話をする」
「最も適任だからです」
 断言され、相田は鼻白んだ。いうな、この青二才。
「それともこの件を碇司令だか冬月副司令だかに御注進におよびますか」
「ふむ」
 私もひび割れの一つとしてコントロールしてるつもりか、いい気になるなよ、小僧。
「まあ、聞くだけは、聞こう」
 机を蹴り上げてやろうかとも思った相田だが、ひとまず感情を飲み込むことにした。
 補完計画の修正。ネルフ中枢を追われた彼の注意を惹いたのはそのことであった。それが真実か、目の前の男の属する組織による逆情報か、あるいは手は込んでいるが背景のないブラフかを決めかねたまま、写真の下に並んでいる文字に目を通した。
 そこに記載された名を見て、どこかで聞いたことのある苗字だと相田は思った。
「ロレンツ……」
「アルバート・ロレンツ。ゼーレの評議会ただ一人の生き残りです」
「ゼーレか」
 ゼーレ、ロレンツ、そういえばキール・ロレンツという名を聞かされたのは冬月からだった、と相田の心がふと過去へ飛んだ。
 窓の外からは建物の基礎を打ちつける音が続いていた。重なるその音に誘われるように相田の眼前に建設途上であった頃の街の光景が広がっていた。大異変とその直後の混乱期の中、妻を失い一児を抱えて途方に暮れるしかなかった相田にとって、それ自体が希望であり、目標であり、拠り所であった場所。地下に巨大な空洞を抱えた街。第三新東京市。
 今やそこは白く輝く要塞都市として完成され、使徒を食らう肉挽き器として休むことなく回り続けていた。想定されていたより大幅に工期が短縮されたのは、ゼーレ消滅によって宙に浮いた種々の権益を、ネルフが新たな財源として確保したことに寄るところが大きい。その利権争奪戦においてネルフ側で工作の中心となって動いたのは、他ならぬ相田自身だった。
「アルバート・ロレンツ……これにはキール・ロレンツの息子とあるが、評議員にこの名は無かったはずだ」
「この男はゼーレとして記録に残る場所では一度も本名を使っていません。ゼーレでは最終投票権を持たない評議員候補十八名の内の一人ホルバッハでした」
「それさえも偽名、か」
 相田は粒子の粗い写真の中の男を見据えつつ記憶を探った。
 ホルバッハ、神経生理学の研究者、同時に今はネルフの資金源の一つである旧タイガ地帯産出の阿片の利権に深く食い込んでいた男。航空機事故により行方不明……。
 写真を指で弾きながら、相田は口辺だけを嘲笑とはっきりわかるように歪めた。
「君の方が知っていそうだな。私の出る幕は無いのではないか?」
 青葉は挑発には乗らなかった。
「第三東京に先んじて発見しなければなりません。この近辺の地下ネットワークに通じている相田さんの協力を頂ければ、それは容易となるでしょう」
「ふむ……」
 だけでなく、第三東京に先んじてという言葉は、相田の中に微妙な波紋を広げる効果もあった。
 その波紋は、ネルフ上層部の利害関係を洗ううちに、青葉の要請を受け入れた場合に予想される様々な反応に分裂し、分かれた波は互いを打ち消しあったり強めあったりを繰り返しながら、ある一点へと進んでいった。目を閉じて、おとがいに指をあてながら思索の波に沈んでいた相田は、やがてゆっくりと目蓋を上げた。
「仮に、このミスター・ロレンツを発見したとして……」
「政府としては、」
「いや、聞くまい」
 手のひらを見せて制する相田に、なおも青葉は説得を続けようとした。しかし相田は、
「心配するな、君に渡してやる。好きに使えばいい」
 と、答えを先にいった。
「ただ、一つ聞かせてもらいたい。青葉シゲル君」
「何をでしょうか」
「君がネルフを辞めた本当の理由だ」
 困惑をわずかに表に出した後、青葉は小さく肩をすくめた後に求められたことを話し始めた。
 目の前の男が共犯者たり得るかを瀬踏みしながら、相田は胸の中で失意以外のものが広がってゆくのをはっきりと感じていた。ネルフにコントロールされない自分の姿、それは第二東京第三東京への郷愁などよりはるかに強い磁力を放ち、鬱屈するだけであった彼の心を波立たせずにはおかなかった。


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ver 1.00
1999/02/28
copyright くわたろ 1999