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18

 夜風は涼しかった。昼間はそれでも暑かったシャツ一枚では少し肌寒い程だった。
 その中を二人は歩いていた。
「なんか疲れたね、今日」
 シンジは夜空を見上げた。
 並ぶ街灯が恨めしかった。漏れ出る光のせいで星はまぎれてしまい、かといって闇を埋め尽くすほどでもない。
「疲れてるのかな……」
 自分で言葉にして、そうではないとはっきりわかるマナ。
 疲労以外のものが、対第七拾使徒戦闘でマナを戦線離脱させた。
 シンジもマナも、理由のわからない不安が胸の底にこびりついて振り切れないでいるのを感じていた。使徒は撃破した。彼らチルドレンの努力は今回も報われた。だというのに、二人には達成感というものが心にわいてくることがなかった。
「検査って何だったの」
「いつもの、内視鏡とか、脳波とか。採血が二本多かったくらい」
 マナが肘の内側に絆創膏でおさえてあったガーゼを剥がすと、白い肌には小さな赤い点がうかんでいた。
「血、止まってる」
 マナの歩みが止まった。
「シンジ」
 そろそろマナのアパートにたどり着こうという場所で、マナはシンジの右手を握る自分の左手に力を込めていた。
「ごめんね……」
「いいって、別に。同じ道なんだし」
「送ってくれたことじゃ、なくて……」
「気にしないでいいよ、マナ」
 白昼にも人通りの絶えて無い街、第三新東京市。街灯の下で闇から切り取られた空間にはまさに二人しかいなかった。
 シンジには、どこまで行ってもこの世には自分以外にマナしか人間はいないのではないか、そう思わせる夜の街だった。
「マナ、大丈夫、マナのせいじゃない」
「あんなの初めて……エヴァに乗って、あんな、あんな感覚……」
「大丈夫」
 シンジもマナの手を強く握り返した。マナがうつむいてしまうと抱き寄せた。マナが震えているのがわかると唇を重ねた。
「大丈夫、やって行ける、僕等はエヴァのパイロットだ」
「シンジ、あたし、どうしちゃったんだろ」
「マナ……」
「こわくなっちゃってるよ」
「マナ」
「使徒もエヴァも……」
 シンジははっきりと思い返すことができた。一度ならずエヴァンゲリオンに取り込まれたことを、エントリープラグ内のLCLに量子状態での存在を強いられたことを、その間に味わうことになった幻影を。
 心を引き裂く地獄だった。
「大丈夫、マナにはそんなことさせない、させるもんか」
 もう一度、二人は唇を重ねた。
 シンジはマナの頬の涙を指で拭うと、抱きかかえるようにして彼女の部屋にまで連れていった。

 この世にマナと二人きり、それはシンジの錯覚に過ぎない。たとい雲垂れこめる闇夜でも第三新東京市は動いていた。ペンギンまでも。
「くぇーえ」
 ネルフ作戦部長直々の酒の相手もこなす上戸の温泉ペンギン、ペンペン。その声は高らかで、酔いも迷いもうかがえない。
「きゅーっくぇーっくっくっくわっくわわああああーあっ、もうっ」
 対するミサトは残念ながらペンギン語が苦手。
「ひっく、くっくどぅーどぅるどぅー」
 しゃっくり一つ、ついでに間違い承知でニワトリ語を口走ってから新たな缶ビールを開けるミサト。床に腰を落ち着け傍らにペンギン侍らせ目の前には空き缶が累々とあった。
「ねー、ペンペン」
 ミサトの言葉はヒト語に切り替わっていた。
「くぇええ」
「あたしってヤな女かもねー」
「くぇ」
「ほーら、読んでみなさいよ」
「くぇーえ」
 ばさりと自分の放った対第七拾使徒戦闘詳報に短い足をしげく動かして向かうペンギンの姿に、ミサトの涙腺が勝手に緩んでしまっていた。
「あーあ」
 目の前のペンギンが自分の戦闘指揮をどう評するのか、ミサトは聞いてみたくなった。三人のチルドレンにどういう扱いをしてしまっているのか、しかしそれはどういう意図からであるか、ペンギンくらいにはわかってもらいたかった。
「どんどんヤな女になっちゃうかもねー」
 喉に浴びせかけるようにミサトはビールを流し込み、空き缶をまた一つ床に並べた。
 JA2採用は餌だ、という熊野の言葉が、ミサトの頭の中で酒気と一緒に回っていた。
「釣られざるを得ない大餌だ。そして餌に食いついた企業連合体は三つに裂ける。一つ、ネルフ以外に市場の拡大の見込めない純防衛産業。二つ、通産省の傘の下を抜けようにも資本不足で抜けられない半官半民研究機関。三つ、短期に民生転用可能な技術を持つ一部のメーカー。小数の三番目以外は最終的にネルフに取り込めるってわけさ」
 熊野の発言の中の虚偽をミサトは指摘できる。ネルフが取り込むというのは正確ではない。行うのは、自分や熊野、ネルフの反主流派とでもいうべきグループだ。
 調査部の相田の更迭以降、日本国内の産業界ではネルフに冷淡な雰囲気が少しずつ広がっていった。その状況を打破し、併せてネルフ内での自らの勢力を一挙に広げようという熊野の奇策だった。
 その案にミサトは乗った。
「ペンペン、私って共犯かな、主犯かな」
「くぇ」
 リツコの下で進められているダミーリファイン計画。その詳細はミサトにはわからなかったが、次々に認められる追加の予算と、いつにも増して秘密主義を貫く技術部の姿勢に、ミサトは懸念を抱いた。これが三人の子供達にもたらすものは何か……。
 外部の力を借りてネルフ内での発言力を強めようという熊野の策謀に陰湿なものを感じたミサトは、最初は協力しようとはしなかった。だが技術部が自分に無断でフォースチルドレンと接触したという情報を聞くに及んで、ミサトは態度を変えた。
 チルドレンの管理運用に直接あたるのは、エヴァンゲリオンと同様に作戦部である。ファーストチルドレン綾波レイがリツコの管理下であるのは、あくまでその身体的な特異性から生じた特例だと、少なくともミサトはそう考えてきた。当然、現在はエヴァンゲリオン搭乗不可能であるとはいえ、フォースチルドレン鈴原トウジについても自分の管轄であるとして、一言あってしかりだと彼女はリツコに抗議した。
 これに対しリツコは、この少年についてはチルドレンとしてではなくチルドレン選別の精度を確かにするための実験に一被験者として協力してもらっただけだと述べた。
 ミサトは納得しなかった。むしろこのリツコの言葉に、いつもは舌鋒鋭く論駁する友人のいかにも言い訳臭い説得力の無い反論に、ダミーリファイン計画の醜悪さを見た思いがした。
 リツコを止めねばならない、と、ミサトは決断した。
 そして熊野の依頼を引き受けてJA2採用に向けてのささやかな工作を手伝ってしまっていた。
 実際にMAGIのデーター操作をした名取は何の疑問も持たず上官たるミサトの指示に従った。自分を補佐するマコトには、今の所はミサトは全て伏せたままでいた。
 付け加えれば、ダミーリファイン計画についての情報は、ミサトも熊野も同程度にしか知らない。
「何やってんだろーねー、あたし」
「くぇーえ」
 ミサトはペンギンの言葉がわからない。

 戦場となった海岸の汚染処理について日本政府との協議を電話一本で終えたところで、冬月は帰還したゲンドウを執務室に迎えた。
「海はどうだったかね」
 冬月としてはこれくらいしか尋ねることが無かった。
 ネルフ全体の舵取りについてやダミーリファイン計画などの特級事項を、総司令であるとはいえ南極岩礁海からジオフロントに戻ったばかりのゲンドウに尋ねても仕方がない。
「凪いでいた」
 つぶやくように応じるゲンドウ。どこか小馬鹿にしているようにも聞こえる。だが付き合いの長い冬月はそこから侮蔑の色合いを探し出して咎めることにはもう興味はなかった。
「そうか。こちらはいささか波乱があったがね」
「報告は聞いた」
「ならばいい」
 ゲンドウに、一体いくつのルートで対第七拾使徒戦闘の報告が上げられたか、それも冬月にとっては、眼前の男の鉄面皮を引き剥がしてまで追及すべきことではなかった。冬月が言及したのはサードチルドレンのことだった。
「先の戦闘の後でお前の息子に聞かれたよ。海とはこういうものなのかとな」
「シンジにか」
「これほど血腥いものなのかとな、そう聞かれた」

 ミサトがそろそろペンギン相手の酒宴を切り上げようとする頃、シンジは明かりを消したマナの部屋でぼんやりと窓枠を見ていた。
 星は見えなかった。
 バスルームからはシャワーの音が聞こえていた。
 シンジが座っているベッドのシーツには、自らが放った精液とマナの流した血の跡があった。
「海、か」
 背後からの水音に鼻歌が交ざり始めた。
 今し方、ぎこちなく愛しあった時の自分の腕の中にいたマナの表情は、切なげで、痛々しく、そしてこの上なく愛しいものに見えた。シャワーにうたれている今は少なくとも道すがらに見せた悲痛な面持ちではないのだろうとシンジは安堵した。
 同時に自分の顔をマナはどう見たのだろうとも考えた。
 海の匂いがする──互いに果てた後でマナはベッドの上でシンジの胸に上気した体を預けながら、そういった。
 マナがどういうつもりでいったのか、シンジにはよくわからなかった。
 だがシーツについた痕跡を考えると、シンジは愛しあうことが傷つけあう行為にも思え、更には蹂躙しあう蛮行にも思えた。
 何故ならシンジの左腕には第七拾使徒群分裂母体のコアを初号機の左手に貫かせた時のしびれが微かに残っていたから。拾号機回収の際にエントリープラグを出て海風を嗅いでいたから。
「海の匂い……」
 血と精液の残り香は、解体した使徒からそう離れていない場所で嗅いだ海風を、シンジに連想させていた。
「僕が使徒でマナがエヴァか……」
 シンジは左手を握り、開くことを、二度三度と繰り返した。鈍い痛みが思い起こさせるものは、使徒の臓腑であるとともに、少女の柔らかな肌の温もりであった。
「僕がエヴァで……」
 貫かれる痛みに耐えるマナの潤んだ眼差しをシンジは思い出していた。
 マナの乳房を貪るようにもみしだく自らの十本の指を思い出していた。
 想像の中で、組み伏せた少女の胸は引き裂かれ、心臓が露呈していた。
 吐き気を感じた彼は身を歪めた。

19

 第七拾使徒群の膨大な組織サンプルは、リツコにとって意外なプレゼントともいえた。特に分裂母体の体内にあったコアは分化途中であったことがその形状からもはっきりとわかり、技術部の中でも使徒の分析を担当するスタッフ達を小躍りさせていた。
 第三新東京市南部から海岸にかけての戦場一帯が封鎖されて三日後、更なる期間延長を求める技術部とそれ以外の部課とのつばぜり合いの結果、サンプル現地採集の最終期限と決められた日、作業の喧騒と凄まじい腐臭の中をヘルメットとマスクをつけて歩くリツコの姿があった。
 採集作業自体はルーチンワークに過ぎなかったので部下に任せていたリツコだが、分裂母体のコアの断片については自分の目で作業を確認しておきたかったからである。
「ご苦労様です、主任」
「最終日だしね、一応」
 能代の挨拶も、リツコの応答もマスクのせいでこもった声になった。
「しかし何とかなりませんかねえ、この」
 眉間を皺だてて悪臭の愚痴をこぼそうとした部下にリツコは非難の一瞥を送った。口に出してどうなることでもない。
 それよりも腐肉に包まれた中で鉱物的な外観を止めるいびつなコアにリツコの意識はとらわれていた。
 肉と石。変化と恒常。
 ただでさえあやふやな生命の定義に挑戦するかのような目の前の違和感の拭えぬ取り合わせは、リツコの科学者としての興味をかきたてていた。
「腐敗しない……コア……」
 立ち尽くしたまま思索に没入しかけたリツコだが、作業員の呼び声に我に帰り、自分を訪ねてきたという人間に会いに作業現場のプレハブ小屋へと向かった。

 マスクを外して一息ついたリツコの目に入ったのは灰皿に吸い殻を積み上げている鬼頭だった。
「どうしたの、こんな所に」
「報告がてら覗きに来たんですがね。いやあ、たまらんですなあ、これは」
 鬼頭の吸う煙草よりは軽い銘柄のものをリツコは取り出した。鬼頭が貸したのは、だからライターだけだった。
 臭気を紫煙で払うかのように深々と最初の一息を吐き出してから、リツコはいった。
「なぜ腐敗するのかしらね」
「使徒の構成組織は変性を受けない、コアの影響下にある限り。部長の仕事じゃありませんでしたか」
「そうだったわね」
 しばらくリツコは天井に視線をそらし、第四使徒のサンプルを得た時のことを思い返した。随分と昔のような気がした。
「言い換えるわ。なぜ腐敗しない……腐敗できないのかしら」
「ですから、それは」
「コアが」
「コアがですか……」
 しばし鬼頭も沈黙した。
「宿題にさせてもらえますか」
「たいした視点じゃないかもしれないけど」
 リツコは肩をすくめると、半分ほど残っているメンソールを灰皿に押し付けた。
「ところで、宿題といえば」
「ストラスバーグは拾壱号機とのパラメーターを基礎から測定中です。今度はナンバーをつける前に万全を期したい」
 飲み込まれた鬼頭の言葉はナインスチルドレンに関する錯誤であった。
 リツコは頷いた。
「サードですが」
 鬼頭も手にあった煙草を灰皿に捨てた。
「ダミーベースとしては、いささか。非凡というのは、つまり特殊ということです。雛形には向かない」
「ファースト・サルベージ体とシミュレーションだけでは袋小路よ」
 知らぬはずあるまいという非難を折りまぜたリツコの口調にはうろたえずに、鬼頭は代案を持ち出した。
「第拾七使徒サンプルと並行してフォースのゲノム解析を行ってはどうかと」
 事務的に、感情を消して、鬼頭は述べた。口頭ではあるが、エヴァンゲリオン搭乗適格者についてリツコに次ぐ責任と権限を持つ男の提案を、リツコも無碍にはしなかった。
「いいでしょう」
 リツコの了承に、鬼頭はわずかに吐息を漏らすと、薄いレポートを取り出して立ち上がった。
「ではその線で進めます。それとこれは、三日前のこの場所での対使徒戦闘の際のセブンスと拾号機のシンクロについてのデーターと所見です。後で目を通しておいてください。では」
 会釈して出てゆく鬼頭の後ろ姿は、珍しく浮ついているようにさえ見えた。リツコにとって愚痴りながら仕事をされるよりはましなことであったが。
 リツコは次の一本に火をつけた。
「鈴原、トウジ」
 かつて鬼頭が「非常にユニークな経路の感染者」と表現した、四番目のエヴァンゲリオンパイロット、鈴原トウジ。リツコにとっては対第拾参使徒戦闘の苦い記憶を蘇らせる少年でもある。
 一口くゆらしてから、リツコはファイルを開いた。
 そこに示されていたのはリツコですら興奮するようなデーターだった。いや、ダミーリファイン計画に係わっている者ならば、ひとしく興味を持つようなシンクログラフだった。

 この頃、レイが酔いつぶれるということがあった。
 呂律の回らぬ声で頭痛を訴える電話を受けたリツコが、大慌てでレイのアパートの部屋に入ってみると、受話器を抱えて床にうずくまっているレイがいた。
 脇には半分ほど空けた缶ビールがあった。それはミサトの冷蔵庫の中にため込んであったのと同じ銘柄だったので、リツコはてっきりミサトに飲まされたのだと思ってしまった。
「違います」
 だが、レイが自分一人で買ったものだという。
「霧島さんは、食事が楽しいといって」
 頭を抱えてとつとつと話すレイ。うちっぱなしの壁面に囲われた空間にあるのは最小限の家具。そして、受話器の外れた電話とアルミ缶。
 いつもと少しだけ違う部屋で、レイはわずかに赤くなった顔を歪めながら話した。
「それが、どういうことなのか、わからなくて」
「それでどうしてこうなるの?」
 アルミ缶とレイを見比べるリツコの顔は疑問符だらけだった。
「三佐はいつも、楽しそうにこれを飲んでいて」
「ミサトの真似なの?」
「でも、わかりませんでした」
 話が見えないのはリツコも同じだったが、下戸とわかったレイに、まずは酔ったら水を飲むことから教えねばならなかった。

20

「コインランドリーは無人だろ」
「花屋は違う。本屋も」
 横目に映る路上駐車中の車の中にいる二人の男の会話がマナに聞こえれば、彼らが自分の日常的に立ち寄る場所について話していると知ったはずだ。
 それはこのように続く。
「戦争と平和を本屋に注文してってんじゃないだろうな」
「そういう連絡方法じゃないことは確かだ」
「そもそも、してるのか?」
 マナにとって、彼らが乗っているのはごく普通のワゴン車にすぎない。
 いつもの朝と同じようにシンジのアパートへと寄る彼女。路地を曲がり、視界からワゴン車が消える。
「普通の子供にしか見えんがな」
「普通の子供にしては不自然な行動が多い」
「連絡員にしては……」
 いいかけた男はサイドミラーの中を目で追って、周りに注意を払わうことなく角を曲がった少女を確認してから、言葉を続けた。
「落第だぜ、ありゃ」
「週に一度の部屋の模様替えは不自然だ」
「綺麗好きな子供に合格ってだけじゃないのか」
 一人は苦々しく笑い、もう一人は襟元のマイクを口に引き寄せていった。
「三班、監視を引き継げ」
 チルドレンの住居。ネルフ保安部にとって市内重点監視区域の一つ。
 やがて手をつないだサード、セブンスチルドレンが、監視の目の中を仲睦まじく本部へと歩いていった。
 二人を見守る、あるいは見張る人間達は、二人が体を重ねていることを知っていたし、それは彼らの上司の熊野を通じて二人の管理責任者である作戦部長のミサトへも報告が届いていた。
 ミサトは苦笑しながらも、野暮はすまいと、そのことで二人を咎めたてはしなかった。報告は作戦部で止まり、他の部課には知らされなかった。
 その結果、E計画主任であってもレイ以外のチルドレンの管理にタッチしていないリツコがその事実を知るのは大幅に遅れることとなる。

 ファーストチルドレン、綾波レイ。彼女の場合、誰かと連れ立って市街を歩くということは、まず、なかった。
 常に一人でいた。
 他者を欲しないということが才能であるならば、五人目の綾波レイとして水槽から出されて以来、彼女はその才能を十二分に発揮していた。
 その行動はファーストチルドレン監視の任に当たる人間にとって、仕事をやりやすくさせ、また単調なものにさせていた。同時に不安をも与えていた。
 レイが街を歩く姿を見張るほとんどの者には、ある共通した印象があった。
 この少女はこのまま陽炎の中にとけてしまうのではないか──というものである。
 監視者達は、レイが人間とはいい切れない存在であることまでは知らされておらず、常人離れしたその白い肌や赤い瞳に奇異を感じずにはいられなかった。実際、彼女がネルフの施設内を歩いていると、その容姿のせいでかなり目立った。
 それでいて、常夏の街の中に一人でいる時には、周りにとけこんでしまうような錯覚を抱かせる少女。
 それが、綾波レイだった。

「おはようございます、司令」
 小さな会釈とささやくような声で、レイはネルフ本部の通路をすれ違うゲンドウに挨拶をした。
「ああ」
 ゲンドウは立ち止まった。
 レイは過ぎ行こうとしたが、手を後ろに組んで立ち止まったままのゲンドウに気付いて、振り返った。
「何か問題ですか」
「拾号機パイロットのことだ」
 ゲンドウは長身である。レイは彼のかける色付きの眼鏡を見上げる具合になる。
「シンジと同様、戦闘で齟齬を来さない程度の信頼関係は作っておいた方がいい」
「命令でしょうか」
 ゲンドウは手袋をつけた手で眼鏡を押し上げながら肯定した。
「そうだ」
「わかりました」
 二人は別れた。
 ゲンドウは、南極でのネルフの活動に強硬に反対する最後の一国であるアメリカに主張を撤回させるべく、彼の持つ有形無形の影響力を行使するために彼の城である司令執務室へ。
 レイは連日のように続けられている、第拾七使徒であった渚カヲルから採取したサンプルの実験のために、ダミープラグ実験場へ。
「おはようございます、赤木博士」
「おはよう、レイ」

21

 作戦部長
「東方より使徒来る。つーわけで兵装ビル設置エリア東端で迎撃するわ。一体だけなんだけどE型だから初手から三人揃って出てもらうわよ」
 拾号機搭乗員
「ゴキブリじゃなけりゃ何でもいいです」
 作戦部長
「そ。E型のエピゴーネン野郎だからね。遠慮しないでギタギタにのしてやってちょうだい。布陣は2−1、マナちゃんとシンジ君で前衛よ。レイ、バックアップお願いね」
 拾号機搭乗員
「何かわかってることないんですか? 翼があるとか、角があるとか、火を吐くとか」
 作戦部長
「脚は二本だけど、腕が四本でね」
 拾号機搭乗員
「それって昆虫……」
 作戦部長
「そんなんじゃないって。エヴァに余分に二本の腕をくっつけただけ。でもそれだけに、近接戦闘能力は高い可能性があるわ。前衛の二人、注意」
 拾号機搭乗員
「あ、はい」
 初号機搭乗員
「腕の長さは?」
 作戦部長
「四本とも、長さはエヴァの五割増しで、それぞれ肘が二つづつ。腕というより三節棍かもね」
 拾号機搭乗員
「虫……」

 日向マコトが戦術スクリーンに注ぐ眼差しは険しかった。
 JA2を示す光る丸印は合計六。エヴァンゲリオンと同程度の移動速度が既に観測されている第七拾壱使徒に対して、常識的に火網を形成するにはあまりに心許ない数であった。
 MAGIが立案した、その六台の多脚可動砲台の配置は、第三使徒以来の戦闘を経験している彼の得た戦術理論からも確かに肯けるものであった。
 三機のエヴァンゲリオンの露払いとしては、である。
「威力偵察に止めるか、全滅覚悟でラインを張るか、」
 上官の意を正直に汲めば、使徒に対して一あて二あてでもして、エヴァンゲリオン隊への負担を減らすように運用するということになる。
「すり潰すか……」
「勘弁して下さいよ」
 日本重化学工業共同体の時田にとって、本部発令所の身の置き所の無さは針の筵にも似ていた。
「あ、いや、意見というわけでは」
 慌てて時田は漏れ出た愚痴を打ち消した。
 彼に対する態度はマコトはまだましな方であった。彼のJA2に関する助言が通った時、それを実施に移すオペレーター達から受ける視線は、はっきりと彼を闖入者扱いする冷えきったものだった。
「とりあえず、今はエヴァンゲリオン直援システムのチェックフェーズです。一服して構いませんよ」
 やんわりと、マコトは時田に対して退出願った。発令所に灰皿はない。
 とはいっても喫煙スペースまでは少々席を外すという距離でもない。

「ねーぇ、シンジ。あたし知ってんだ」
 エントリープラグまでのわずかの距離、通路を歩きながらマナは喋りだしていた。
「何を?」
「シンジって、何か楽器やってるでしょ」
 戦闘を控え、自分なりに心を落ち着かせようとしていたシンジは何を話されているのか戸惑った。そんなシンジを悪戯っぽく笑って見つめ返すマナ。
 その二人の横を過ぎ去るレイ。
「見ちゃったもんね。楽譜たくさん本棚にあったの」
「え、ああ楽譜……、って、いつ見たの」
「それはさあ、シンジの部屋行った時に、ね。ねぇ、何なの、あれ? ギターとか?」
「そうじゃないよ……チェロ」
「ちぇろ?」
「ヴィオロンチェロ。ヴァイオリンより二番目に大きいやつ」
 シンジは苦笑しながら適当に説明をした。
「ふーん。ねえ、今度聞かせてよ、そのチェロ」
 歪んだ顔のまま、シンジは首を振った。
「捨てたから、もう」
「ふうん」
 シンジは手の甲にあるデジタル表示の時計を見た。マナも同じ仕草をして、そしてお互いコンマ一秒まで同じであることを確認した。ほとんど狂いはしない時計を合わせるという作業に、どこか心浮き立つ二人。
「でも、有名なチェリストの名盤ってやつは結構あるんだ。今度一緒に聞こう」
 二人の声は、暖色の壁に覆われた通路から、喧騒に満ちたケイジの空中に鉄骨とフェンスだけで囲ったキャットウォークに出たことで、大きくなる。
「え、なあにい?」
「こんどぉ、ディスクをぉ、きこおぅ」
 手を振り、シンジは初号機に向かった。マナも手を振って、応えた。
 エントリープラグへのタラップの途中で、レイはそんな二人を無言で見下ろしていた。

 旧市街でのJA暴走事件。その時、現場責任者であった時田は、ネルフという組織の実力をまざまざと見せ付けられた。特にそれ以来、十以上も年少の葛城ミサトではあるが、耐熱服を着て制御棒の直接操作までやってのけられた以上、時田は彼女に頭が上がらなかった。
「期待してるわ」
 挨拶以外にミサトが述べたのはこれだけ。その後に続いて発令所に戻れるという空気では、まったくなかった。発令所へのリフトにはミサトだけが乗り、時田はそこからやや離れた通路の角で、何をするでもなく壁にもたれているしかなかった。
 そんな彼に声を掛ける小男がいた。
「どうも、時田さん」
「あ、熊野さんでしたか。保安部というのは戦闘配置はとられないので?」

22

 JA2に課すべき任務は砲台としてが第一、これがマコトの認識であった。
 従って彼がMAGIの立てた複数のプランから選択したものは、互いを支援可能な位置に置くという、防禦的色彩の最も濃い配置であった。確かに対使徒戦闘においては、使徒の第三新東京市地下ジオフロントを目指すという習性からして、ネルフは防禦戦を行うことがほとんどであり、その経験は豊富にあった。
 しかしミサトはこの案を却下した。
「二機づつ、三隊に分けて。それぞれにエヴァのサポートをさせるから」
 本気ですか、とは、さすがに聞けなかった彼だが、内心ではこの上官の措置は無謀だとの疑念が消しきれなかった。
「JA2にはエヴァに随伴するだけの機動性はありませんが……」
 控え目な彼の抗議にミサトは、
「だからってJA2だけでいたら、端から潰されるのがオチよ」
 と、第七拾壱使徒を示す輝点とその予想針路の描かれたモニターを見つめながら答えた。
「E型使徒、色んな奴がいたけど装甲強度はエヴァとほぼ同じ。少なくともこれまではね。そうでしょ、日向君」
「確かに、今回の敵の防御力は高いと見るべきでしょう。ですから、こちらの火力は集中して用いるべきでは……」
「集中させるわよ、エヴァと一緒に」
 ミサトはマイクをとった。繋がる先は三人のチルドレン。

「初号機、射出完了。続いて拾号機、射出口に移送」
「六号機、主兵装ポジトロンライフル、充電完了。初号機、兵装選択、ソニックグレイブ」
「B3、B4展開完了。初号機、現在地で待機せよ。B1、B2、及び初号機、展開完了」
 指示が、状況が、緊張をはらんだ声でやり取りされる発令所に、リツコは渋面を作って現れた。彼女にとって、中にいる時田は顔をあわせたくない人物の一人だ。
「何かあったの、リツコ」
 葛城ミサト、この十年来の友人は自分をどう見ているだろうか。JA2に関する助言をオペレーターに与えている時田と、その横のネルフ作戦部長の顔を見比べながら、リツコはどう切り出すか思案した。
「何も無いなら……」
 自分に目を合わせようとしないミサトに、リツコは唇を噛んだ。
「セブンスチルドレンのシンクロ率はどう」
「現在、68.76。安定しています」
 リツコの問いに対して、読み上げるのは能代。
「だ、そうよ」
 と、ミサト。
 リツコの口調は硬くなっていた。
「ミサト、彼女のシンクロに前回のような異常があったら、直ちに接続そのものをカットしなさい。緊急シークエンスで構わないから」
「何よ、リツコ。やぶからぼうに」
「分析結果が出たわ。先の現象は、拒否されてもなおシンクロしようとした結果発生したのよ。MAGIの予測は正しかったわ。暴走してもおかしくなかった」
「マナが? 今更エヴァにシンクロ拒否されるってどういうこと?」
「その逆よ。シンクロを拒絶しようとしたパイロットの意思に逆らって拾号機は強制的にシンクロ状態を保とうとした。彼女、取り込まれなくて幸いだったわね。早期撤収させたミサトの判断は正しかったわ」
 いつもに比べて口早に述べられたリツコの言葉に、ミサト以下発令所のスタッフは呆気に取られてしまった。もっとも時田だけは何のことかわからずにいたが。
「それじゃ」
 そんな彼らを置いてリツコは立ち去ろうとした。
「……ち、ちょっと待ってよ、リツコ」
「これ以上は何も無いわよ」
「い、いきなり、危険な状況だけ指摘されたって困るじゃない」
「確かにね」
 小さくリツコは溜め息を吐く。それがミサトには鼻で笑うようにも聞こえた。
「でも残念ながら状況の発生条件は不明。直前の兆候だけは解析結果が上がったけど、その原因を解釈するには幅がありすぎる。それでよければ、能代君、BR0070−1330−1400のファイルがそれよ」
 慌てて能代がアクセスすると、サブモニターの一つに対第七拾使徒戦闘でのセブンスチルドレンのシンクログラフの一部が、多重解像度表示された。
「このパターンが現れると暴走……」
「の、危険性があるわ」
「リツコ、はっきりいって。マナのパターンがこうなったら、暴走まで何分の余裕があるの」
「全てのレベルでこのパターンが現れた場合、不安定は全ての方向で成長する。それこそ蝶が羽ばたいただけでも暴走しかねない。ごめんなさい、ミサト。だけどデーター不足で、これ以上は本当に何もいえない」
 小さく首を振ると、リツコは発令所を出ていった。前回の戦闘の時と同じく、去り際にミサトには、がんばってねといった。
 取り残された面々は沈黙するしかなかった。

 重苦しい沈黙を終わらせたのは名取のかすれた声だった。
「予想会敵時間……残り三分……」
 使徒を表す輝点はモニターの上を一定のベクトルで移動していた。三分後には初号機と拾号機の間合い。拾号機に乗るのはセブンスチルドレン霧島マナ。シンクロは安定、今の所は。
「下げましょう」
 続いてマコトが声を張り上げた。
「暴走が結果的に使徒にダメージを与えることはあり得ます。しかし初号機とのコンビネーションは暴走状態になればそれどころではなくなります。下手をすれば初号機を攻撃しかねない。下げましょう。拾号機に付けた二機のJA2は初号機支援可能な位置にあります。これを残して拾号機だけ撤収させます。よろしいですね」
 モニターの一つには拡大された目標の姿があった。悠然と第三新東京市を目指す第七拾壱使徒。E型、エヴァンゲリオン型使徒。二対四本の腕。
 初号機の腕は二本。
 はしゃぎすぎたのだろうか、そんなことをミサトは考えていた。群を成して襲ってきた第七拾使徒に対して、その時点で徴発したJA2十七機を使い果たしてしまった、今回かき集められたのは六機、直ちに初号機支援可能な位置にいるのは四機、相手はE型使徒、伍号機を両断した第四拾壱使徒も七号機を融かした第四拾伍使徒もそうだった……。
「拾号機」
 と、呼び掛けたのはミサトではなく前のめりにコンソールに取りつくマコトだった。そのことをまずマナはいぶかしがるが、更に続いたのは理解出来ない命令だった。
「後退だ」

23

「下がって……いいんですか」
「フォーメーションを変更する。拾号機、D−37の回収点まで後退しろ」
「でも、それって、シンジだけになっちゃってヤバくないですか」
 既に初号機からも拾号機からも使徒の姿が確認出来ていた。
「拾号機は後退ですか、回収ですか」
 割り込んだシンジが問い質した。
「何かあったんですか、ミサトさん」
「シンジ君、初号機はそのままだ。JA2を四機、君の直掩に充てる。まず……」
「何かあったんですか、ミサトさん」
 マコトの指示を無視してシンジは問いを繰り返した。使徒の迫る中、黙して照準調定を行う六号機を除いて、指揮系統上からは微妙なやり取りが依然続けられた。
「答えて下さい、ミサトさん」
 ミサトの奥歯がぎりりと鳴った。
 言葉を選んでいる間にも、ミサトの横では能代や名取たちの声が行き交っていた。会敵まで六十秒、B1とB2が目標を射程に捉えます、B5およびB6の展開間に合いません、目標増速、六号機照準固定にはデーターが足りません。
 モニターに映る使徒は四つの腕のうちの二つを高々と上げた。
「聞いて、シンジ君。目標は」
 使徒の腕は先端が揺らめいていた。超振動ブレード、プログレッシヴナイフと類似の機構、第四使徒および第四拾壱使徒において観測例あり。
「E型使徒よ。だから、マナは、バックアップに回すの」
「だからシンジと私の二人で前衛なんじゃないですか。さっきといってることが全然違うじゃないですか、葛城さん。一体どういう」
「マナ、聞いて」
 オペレーターが砲戦開始を告げていた。B1、B2と符牒を付けられた二機のJA2が徹甲弾を吐き出していた。使徒は減速してATフィールドを展開した。
「拾号機にはトラブルがあることがわかったわ。だから」
 着弾の爆発煙は鋭角に切り取られている。
「直接対峙するのは危険なの。だから」
 JA2の徹甲弾はATフィールドを侵徹出来ずにいた。時田が肩をすくめた。マコトは使徒の両翼へと二機のJA2の針路をとらせた。急げと叱咤するマコト。最大速度では精度が低下しますと渋い顔の時田。
「だから」
 ミサトは唇を舐めた。息をついて、言葉を絞り出した。
「なるべく、回収点の近くで、迎撃を、」
「下がっていいよ、マナ」
「うん……ごめん……」
 拾号機は後退していった。
 シンジに促されてだった。
 ミサトの見つめるモニターの中にはソニックグレイブを振りかぶる初号機がいた。
「シンジ君」
「わかってますよ、ミサトさん。六号機から目標への射線を確保したまま目標のATフィールドを中和するんでしょう」
「そう、よ……」
 初号機白兵戦闘開始、そんなオペレーターの声を、ミサトは聞いたように思った。

 助手席の鬼頭は舌打ちして携帯電話を懐に戻した。
「使徒だ。第三東京の東地区は封鎖中だ。少々回り道をするが、いいな」
 鬼頭はドライバーに道を指示してから、後部座席の二人の少年に告げた。
「なんや、使徒っちゅうのはまだ来よるんか」
 鈴原トウジの声は苛立っていた。ドライバーが大柄でシートを後ろにずらしていたため、その後ろに座る彼は、義足の納め方に苦労していた。
「幾つ目なんだよ? 今回で」
 隣に座るムサシ・リー・ストラスバーグが言葉を継いだ。ムサシの肌は、特に最近は病院詰めを強いられているトウジに比べれば随分と黒く焼けていて、それが鋭い眼差しと合わせて、精悍な印象を与える少年だった。
 この二人の、どちらかといえば刺のある物言いは、ネルフという組織が二人に求めているものを知る鬼頭にすれば、腹を立てるよりも哀れを感じさせる方が多かった。表に出しはしなかったが。
 トウジが思い出しながら指を折って数えるのを遮って、鬼頭は答えた。
「ムサシ君。現在、第三新東京市に光臨遊ばすは、第七拾壱使徒にあらせられるとのことだ」
「かーっ、ナナジュウイチってかよ」
「そうファイルされるはずだ。今の奴が倒されればな」
「持って回ったいい方やな、おっさん」
「番号もいい加減でな、欠番があったりする」
「倒せなかったら欠番になるのか」
「その時はサードインパクトだ」
 彼らの車は第三新東京市の北縁を西へ舐めるように移動していった。
 途中、ハイウェイの退避車線に鬼頭は車を停めさせた。怪訝な顔のドライバーに、鬼頭は、彼らに見せてやろうじゃないか、といって笑った。
「先輩には肩を貸してやれよ、ムサシ君」
「へえへ」
 幾分投げやりなムサシの態度だが、トウジとの間には友人関係に似たものを既に築いているようであった。鬼頭にすれば意外なことであり、どうでもいいことでもあった。
「どーぞ、先輩」
 トウジは苦笑で応じ、腕を持ち上げた。
「すまんの、後輩」
 高架路の両側は強化プラスチックで覆われていた。排煙による汚れは、そもそもディーゼルやガソリンの使用を強いられる特殊車輌の通行が少ないためにそれ程目立たない。
 よって、彼らは透明な壁を見通して、戦場の眺望を得ることが出来た。
 まるで高見の見物、とトウジは思った。巻き添えで第四使徒と交戦中の初号機に押し潰されかけたり、実際に参号機に搭乗して足を失う結果に終わった彼にしてみれば、このひどく安穏な状況はスタンドで野球を見ているようにも感じられた。
 ただ、野球観戦のようには、トウジは歓声を上げられずにいた。
「初号機やんか」
 双眼鏡を構えたトウジはつぶやいた。ムサシが双眼鏡を奪う。
「ってのはあの紫色か」
「態度デカいわ、後輩」
「なあ、鬼頭さん。紫色と土色と、どっちがエヴァだよ?」
 ムサシの差し出す双眼鏡で鬼頭も戦場を遠望した。
「エヴァンゲリオン初号機……紫の方だ」
「黒っぽい方は何なんだよ? 手が余分に付いてる」
「あれが#71になる」
 閃光があがった。壁の内側に付いている手すりに体を預けているトウジは、まぶしさに目を背けた拍子に少しよろけた。
「コラ、びっくりさすな、シンジ」
「ATフィールドってのはあれか、鬼頭さん」
 車の中で、ドライバーがこちらに目を向けていないことを確認してから、鬼頭はムサシに答えた。
「ラボに着いたら他の人間に聞いてくれ。サンプルの分析とかはしてもな、エヴァの戦闘となると専門外なんだ」
「そりゃ、専門バカっていわんか」
 トウジの冷やかしを、鬼頭は受け流した。
「そういうことだな。セカンドインパクトこのかた、興味の向くことしか、私はやってこなかった」
「ほな、使徒の体つついて調べるんは趣味か」
「そうだな、あの日以来」
 鬼頭は目を細くするが、肉眼では時折上がる煙を認めるのがせいぜいの距離だった。目を細め、口を歪め、鬼頭は笑った。
「ええ趣味しとるで、おっさん」
 トウジは戦場に背を向け、空を見上げた。そこには夏の陽射しがあった。ほとんど車の通らないハイウェイを覆うプラスチックを通過する際にいくつかの回折像を作りながら、陽光は彼らに鋭く降り注いでいた。
 ムサシの視線は戦場に向けられたままだった。双眼鏡の目盛りをいじりながらエヴァンゲリオンを見極めようとしていた。
「くくく」
 トウジの義足を包むズボンの裾が微風にそよぐのを見ながら、鬼頭は笑っていた。
「趣味以上だよ。病、膏肓に入るってやつだ。寝ても覚めても、俳句を捻り出そうとしても、使徒のことしか考えられなくなってしまった。あの日、何もかも奪われた結果が、これさ。クソったれの使徒に係わること以外は全てどうでもよくなってしまったのさ」
 セカンドインパクト、二十世紀最後の年に地球を文字通り揺るがした大異変。
 公式には大質量隕石の南極氷冠への落下がその原因とされている。鈴原トウジ、ムサシ・リー・ストラスバーグの理解は、なおこれである。
 人工進化研究所、ネルフの前身のゲヒルンという名で呼ばれていた特殊な調査機関に連なる人々の間では、南極で発見された第壱使徒と呼ばれる異形の存在が、その原因だということが知れ渡っていた。鬼頭はこの中に入っていた。
 だが、実際の過程において人為的な要因が多く介在していたことを知るごく一握りの人間の中に、鬼頭は含まれていなかった。
 見ろ、と少年たちに砲煙と閃光を指し示す鬼頭自身、セカンドインパクトにまつわる全てを知るなど不可能だということは承知していた。常夏の地で冬の季語を使うような作為を自らに為すことで、彼はE計画の一員として働いているのだった。
「見てろよ、あれが」
 知り得る限りの真実を鬼頭は二人に語った。
「君たちの運命だ」


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ver 1.10
1998/12/18
copyright くわたろ 1998