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 第六拾八使徒を撃破して一週間ほど経った日、シンジはいつものように病院に来ていた。
「アスカ、入るよ」
 ノックには返答がなかったが、それが普通だったので構わずシンジは病室に入った。ここには惣流・アスカ・ラングレーを見舞うシンジを除けば、病人の体を清拭したり点滴を取り替える看護婦くらいしか入ってこない。既に医療チームの治療と呼べるものは健康を示す数値から変わることのない心拍数や血液成分を別室から一日一度チェックするだけになってしまっていた。
 だがこの日シンジが入ってみると、病室にはアスカの他にもう一人、意外な人物がベッドサイドのパイプ椅子に扉には背を向けて座っていた。三年にもなるベッドの上だけの生活から、すっかり白くなってしまったアスカの肌よりもさらに色素の乏しい肌のその人物は、ドアノブの音にゆっくり振り返った。
 透き通るかのような白い肌と青みがかった銀髪の少女の形。
「あやなみ……」
 他の誰かでも驚いたろうが、まさかファーストチルドレン綾波レイがここにいるとは彼は思いもしなかった。
「珍しい……ね……」
(……確か四人目の綾波は生きていた時一度も来なかった……)
 レイの瞳はその肌から抜け落ちたものを埋め合わせるかのように、赤い。そして彼女はたいていの人間ならその赤い瞳に気を取られて見逃してしまうような、ごくわずかな表情の変化しか見せない。
「気になって」
 レイは聞き取れるかどうかという小さな声でいった。そこに困惑の感情を読み取ることが可能なのはシンジを含めたごく小数のネルフのスタッフだけだろう。
「どうかしたの」
「ゆめ」
「ゆ・め?」
「この人は何の夢を見ているの」
 再びレイは座って傍らのアスカの寝顔にその赤い瞳の焦点をすえた。
「さあ……何だろね……」
 シンジも病室の隅に立てかけてあるパイプ椅子を取り出して腰を下ろした。その位置がレイとはベッドを挟む位置になったのはレイにいつもとは違うものを感じてしまったからだ。綾波レイ、それが人というよりは使徒に近い存在だということについてはシンジは十分知っていた。彼にとってはいまさら驚くことではなかった。
 レイが人の形をしてはいても人にあらざる存在だとシンジが知ったのは第拾六使徒との戦闘において二人目のレイが死に三人目のレイが生まれてきた時であった。最初に使徒ではないかとの疑念が湧いたのはシンジの目の前で四人目のレイが第拾七使徒と単身対峙した時だった。あれから二年以上が経つ。
 気になって、とレイがいった。他人を気にする綾波レイ。それがシンジには非常な驚きだった。
(二人目の綾波はどうだったろう。出会った頃はそんな素振りすら見せなかったよな。それから一年も一緒にいなかったけどそういうことが何度あったっけ。せいぜい僕の父さん、碇ゲンドウのことを話す時の表情が普段とやや違っていたくらいじゃなかったか)
(三人目の綾波は、これは全くない。そもそも三人目は一月ほどしか生きていなかったんだ)
(四人目の綾波。丸二年だ。ターミナルドグマでカヲル君を第拾七使徒として殺してから第四拾壱使徒に伍号機もろとも切断されるまで、エヴァンゲリオンのパイロット同士として助け合った。そう、あくまでパイロットとしてなんだ。綾波にとってはエヴァに乗ること、それしかないんだ。それしか求めようとしていなかった。僕がどんなにそれ以外の綾波を求めても変わらなかった)
(五人目。六号機のパイロットとしての綾波レイ。生まれた時からそれしかなかった、そうじゃなかったのか……)
「綾波……今日はいったい……」
「碇君」
 アスカを見つめ続るレイがいった。
「夢って、なに」
「……何だといわれても」
「そう」
 それきりレイは押し黙ってしまった。シンジが、綾波はどんな夢を見るの、と聞いた時にかすかにシンジの方を向いたが、それ以外はずっとアスカの寝顔を見続けるだけだった。
「じゃ、僕はもう帰るけど」レイにそういうまで、シンジも三十分ほどだろうか、アスカとレイの顔を所在無げに見比べていた。
「私も帰る」
 シンジが立ち上がるとレイも椅子から腰を上げた。だがそのままアスカの枕許に立ち赤い瞳をアスカの寝顔から逸らそうとしない。
 そして右手をアスカの鼻梁にかざす。
「あやなみ?」
 中指の先がアスカの右のまぶたに触れる。
 押し上げられたまぶたの下からドイツクォーターの青い瞳が覗く。
「ちょっと、綾波、何を」
「赤くない」
 それだけいうと、レイはシンジに構わずさっさと病室から出ていった。
 取り残されたシンジはしばらくその場で立ち尽くしていた。
 レイの双眸が確かに光っていた。記憶を探ったがやはり五人目の彼女に初めての表情を見出したことは確かなようだった。三人目も四人目もそんなところは見せなかった。二人目も、そうだった。
「泣いてた……」
 眠り続けるアスカとレイの涙に立ち尽くすシンジの姿を監視カメラが撮り続けていた。

「じゃ、そういうことでよろしく」と電話を切った途端、
「なにがよろしくなの、シンちゃん」玄関にたたずむミサトから声をかけられるシンジ。
「ざんぎょー続きでやんなるわ、もお」
「あ、帰ってたんですかミサトさん。待っててください、温めなおしますから」
 食卓にはミサト一人分の食器が伏せられている。シンジは既に二羽との食事を済ませていた。
「だから待っててくださいって」
 シンジが止めるが冷蔵庫を開けるミサトは構わずあっという間にビールを一缶開けてしまう。いつもの豪快な飲みっぷり。
「シンちゃん。誰に電話してたん?」
「引っ越屋さんに」
 ミサトの二つ目の缶ビールのプルタブを開ける手がぴくっと凍りつく。
「そっか……」
 ミサトの顔はそのままテーブルの上に抱えた両腕に沈んだ。彼女の視界の隅には梱包途中の小さな段ボール箱があり、正面には無言で配膳するシンジの姿。食欲をそそるはずの目の前の湯気を立てる料理も急に遠く感じられてしまった。
「明日か……」
「明日です」
 別の部屋を借りて暮らしたいと切り出したのはシンジの方だった。半年ほど前に四人目のレイが死に五人目になってしばらくしてからのことである。
 ありきたりの理由しかシンジはいわなかった。もう子供じゃないですとか、いつまでも迷惑かけれませんとか、僕みたいな厄介抱えたままだと本当に嫁き遅れますよとか。
 ミサトもありきたりのことしかいわなかった。子供じゃないなんていうのが子供な証拠よとか、迷惑だなんて思ってないわよとか、子供のくせに余計なお世話よとか。
 十日ばかり口論になった。最後にシンジが、僕はもうあなたに頼る必要はないという意味のことを、回りくどい言い方ながらミサトに伝えたことで決着がついた。ミサトも反対を取り下げた。
 保護者としては少年の自立はそれが多少背伸びしたものであっても歓迎すべきことではないかと納得した。チルドレン監督者としては第三新東京市内の治安はネルフ掌握下にあり問題はなかった。作戦部長としては以前のように少年がエヴァンゲリオン搭乗拒否をするようなことも久しくなくなっており心配はしていなかった。
 家族としては、さみしかった。しかし己のさみしさから引き止めることはミサトには出来ない。その後は止めなかった。
 もっともそれから第四拾伍使徒の本部侵入と迎撃に出た七号機の喪失とそれに伴うシンジの負傷、使徒であったエイスチルドレンとナインスチルドレンの処理、ダミーシステム改良実験中の八号機と九号機の同時暴走などでシンジの引っ越しなどというネルフにとっての些事は延び延びになっていた。
「シンちゃんっ」
 長い髪を揺らし顔をはね上げたミサトの顔には目を細めた笑みが浮かんでいた。
 同居して三年目、シンジにもそれが作り笑いであるとわかる。
「飲みなさいっ」
「え、」
「いいから飲むのっ。これよりぃ緊急にぃ第三次送別会を挙行するうぅ。だからして今日はシンちゃん私と飲むのっ、飲めいっ」
 シンジが呆気にとられているうちにたちまちビールが食卓に積み上げられる。遅まきながらシンジは自分が夕食に用意したのがどういうメニューだったかを思い出した。筑前煮、鮭の切り身、焼き蒲鉾、じゃこの入った玉子焼き。
(……つまみばっか……)
 シンジが沈没したのはまもなくのことであった。

 何本目か数えるのも忘れたビールをぐっと喉に浴びせかけるようにして空にするとミサトはリビングに向かった。そこには寝室にたどりつけなかったシンジが床に大の字に寝ている。酔いつぶれた同居人をベッドにまで運ぼうと脇に手を通し抱えあげようとしたミサトだが意外に体重があり、リビング内のソファに横にさせる。
「大きくなったんだ、シンちゃんも」
 この街でともに暮らして三年。シンジは十四歳から十七歳になった。ミサトは二十九歳から三十二歳。
 シンジにはタオルケットを掛けてやり、テレビのリモコンをつけるミサト。日付が変わる前の最後のニュースが流れて来た。
「ただいま」
 ミサトは口に出していってみた。
「ただいま」
 もう一度。
 彼女にとって自分の横で寝息を立てている少年くらいの年頃は失語症によって人との関りを持てないでいた期間だった。
 少年が初めてこの部屋に来た時に、彼女はただいまと少年にいわせた。少年にこの家を自分の家だと思ってもらうためだった。また彼女自身が欲していた言葉だった。
 ただいまといい、ただいまといわれる。家族を演じてきた三年。
 少年の監視のため、少年の持つ対使徒戦に欠かせないエヴァンゲリオン搭乗員としての能力の維持のため、少年の渇望していた家族愛を充たすためだった。
 陽気なさみしい女、葛城ミサトのためだった。
 彼女自身すでにどれがそもそもの目的だったのかなど忘れていた。
「行ってらっしゃい」
 寝ているシンジにミサトはいってみた。ただいま、と同じ気持ちにはなれない。
「シンジ君、私のことどう思ってる?」
「ここで暮らして、幸せだった?」
「私はシンジ君にただいまっていえて、幸せだった」
「ここは私達の家よ。来たくなったらまたいつでもいらっしゃい。私に、お帰りなさいって、いわせてね」
 ニュースは食用牛の培養に用いる新技術についてを報じていた。ここ数週間のミサトなら苛立たしくチャンネルを変えるであろう報道だが、今のミサトには耳に入らなかった。

「ファーストチルドレンのこの挙動、明らかに外因性のものだが」
 冬月の手許にはアスカの病室での出来事の記録があった。記録はセカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーのカテゴリーではなく、ファーストチルドレン、綾波レイのカテゴリーのものに分けられていた。
 冬月は普段よりは声に不安を混ぜてゲンドウに報告したが、返ってきたのは平静な声だった。
「だが我々はなすべきをなす」
「碇、シナリオなど既に無いのだぞ」
「戻ることは許されん」

 シンジは夢を見た。
 目の前にレイが立っていた。振り返るとレイが立っていた。横を見るとレイが立っていた。周りに何人もレイが立っていた。レイたちから逃れようとした。どこに行ってもレイたちがいた。足がもつれて転んだ。レイたちが手を差し伸べてきた。這って逃げた。目の前に差し出されている何本ものレイたちの手を払いのけるうちにレイとは肌の色が少し違う手をみつけた。その手を掴もうとした自分の手が空を切った。
 そして目を覚ます。
 寝間着代わりのランニングシャツが汗でべとついていた。
(……この夢も久しぶりだ……)
 荒い息をつきながら半身を起こすと、時計は八時を少々過ぎたあたりだった。
「おはよ、カヲル君」
 シンジは額の汗を拭いながら鳥籠に声を掛けた。そして薄い掛蒲団をはだけてベッドをおり、引き剥がすように着ているものを脱ぐとユニットバスに直行してシャワーから冷水を浴びた。
 新居での最初の朝が悪夢になってしまったのは残念だが、寝過ごさずに済んだと考えればいい。昨夜は、というか今朝は四時近くまで掃除だとか荷物を解くとかをしていたから、疲労を癒そうと訴えている体の要求のまま寝ていたらとうてい今日の午前中からのシンクロテストには間に合わなかったろう。
 背に弾ける水滴を感じながら、そうやって自分を納得させた。
 納得がつけばついたで疑問もわいた。
(疲れてるせいかな……こんな夢を見るのは……)
 レイたちの夢。
 水槽に漂うレイの体のストックを見たことがあり、それを夢に見るのだろうとシンジは考えていた。忘れた頃にもう一度見てしまうという厄介な夢だった。沢山のレイに取り囲まれて、そこで目を覚ますということが多かった。何度かは、レイではなくアスカだった。
(……でも……最後の手……レイじゃなかった……アスカでもなかった……)
 夢に出てきた最後の手が、シンジにはそう感じられたのだった。
 電話の音でシャワーも夢の反芻も中断された。タオルで髪を拭きながらシンジは受話器を取った。
「もしもし、かつら……碇です、もしもし」
「お・は・よ、シンジ」
「ああそっか。おはよう、マナ。ありがと」
「いいって、あたしが言い出したんだから、毎朝電話してあげる。ねえ、これからは一緒に本部行こうよ」
 マナはシンジの引っ越す先とネルフ本部への途中に彼女の家があるので喜んでいた。
「ああ、それじゃあ……三十分くらいしたら」
「だあめ、五分」
「え、いや、いくらなんでもそんなに速くはマナの家行けないし」
「これ、携帯」
 同時にコンコンとノック。
「あああちちちちょっと、入って来るな」
 裸のシンジは慌てて着替えを探した。
 五分というわけには行かなかったが、白地に適当な英単語をプリントしたTシャツに黒のジーンズのシンジが髪を少し濡らしたまま扉を開けるとマナが廊下の壁にもたれて立っていた。彼女は鼻先にちょこんと乗せた縁無しの丸いサングラスを指で押し上げると
「似合うかな」と上目づかいに聞いてきた。
 シンジがマナのサングラスから順に下に目をやると白のブラウスの上に羽織った黄色のカーディガン、ピンクのキュロット、赤い紐のカジュアルブーツ。
「はあ……」
「似合わないか、な」
「あ、いや、なんというかそんなことはないんじゃないかなとか」
「いいの、こんなの似合い過ぎても困るもん」そういうとマナはサングラスをブラウスの胸ポケットにしまった。
「あの人達の真似してみただけ」
 マナはアパートの廊下の先を顎でしゃくった。そこには誰もいなかったが、シンジには彼女が保安部が彼女につけた護衛兼監視の人間達のことをいっているのだとわかった。彼らはいつもスーツにサングラスという黒ずくめのスタイルを崩さない。
「いっつもいっつも付け回してるでしょ、あの人達。ちょっとからかってみたくなって。結局撒けなかったんだけどね。それより速く行こ、シンジ。食堂のモーニングサービス無くなっちゃう」
 マナはシンジの手を取ると引っ張るように歩きだした。
 アパートの外は既にアスファルトが熱くなり始めていた。いつものように人通りが全くといっていいほど無かった。この街では護衛は容易な仕事であるし監視もそう。ただし対象にそのことを気付かれぬようにという配慮などしなければの話である。ネルフ保安部は堅実に護衛と監視のみをこなしていた。
「マナは……そんなことしなくていいんだ」
 黒服の男を路上のセダンの中に認めたシンジはぽつりといった。
「なんかいった、シンジ」
「……何でもない」

 リツコの仕事場はダミープラント拡張計画が走り出してからはもっぱらセントラルドグマ最下層にあるかっての人工進化研究所だった。このブロックに出入りできる人間の数は限られており、いきおい彼女が自分で手掛けなければならない仕事も増え、溜め息も増えた。
 つい先程出ていった鬼頭という部下の研究医の報告は彼女の仕事にさらに緊要性の裏付けを与えるものだった。
「残念ながら罹患した候補者はサンプルとしても使用できませんな」
 その研究医の報告は否定的だった。
「よって旧第壱中、第弐中の生徒で残りは既に選出されたチルドレンだけです」
「最後のこの三人はどうなの。鬼頭君が自分で診断したんでしょう」
「林、洞木、山下。いずれも感染の形跡がありました。DNAレベルですが」
「そう。御苦労だけど範囲を広げて」
 鬼頭は苦笑を浮かべるとリツコの部屋を後にした。
 それがリツコの珍しいねぎらいの言葉によるものか、自らの地位にもかかわらず防諜上の理由からほとんど一人で飛び回ってチルドレン候補者の再テストをしなければならないことを嘆いているのか、そのどちらかだろうとリツコは思った。
 悪魔に手を貸す己の所業を自嘲するものだとは思いたくなかった。そんな気持ちで仕事をされてはミスも増える。今度は十人目、うまくいって欲しかった。チルドレンが手に入るのならばそれにこした事はない。
 リツコの目の前に広げられたファイル。そこに調査結果の列挙された三人は最後までリツコが十人目のチルドレンとして、またサンプルとしての期待をかけていた少年、少女であった。
 ゼーレが同時に送り込んだフィフスチルドレン、シックススチルドレンの両名が第拾七、拾八使徒であり、ゼーレも第拾七使徒によりその構成員のほとんどを殺害されたという事実はネルフに大きな衝撃を与えた。チルドレン選出にはこれまで以上の厳格な検査が課せられることとなった。セブンスチルドレン以降の選出は全てリツコがその責を負って実行している。だが、霧島マナ、マリー・サクラ、槙タカオの三人のうちマナ以外は使徒として処理する結果に終わっていた。
「ミサトに笑われても仕方ないか……」
 ファイルを閉じるとリツコは椅子を半回転させディスプレイに向き直った。示されているのはダミーリファイン計画のサンプルの一つ、サードチルドレンの遺伝データである。
 チルドレン選出が滞っている現状、その予備的性格であったダミーリファイン計画もゲンドウの一声で少なくとも予算面では主要プロジェクトとして規模が膨れあがっていた。
 自分の現在の仕事の内容をミサトが知れば笑われるどころではない、最大級の侮蔑が待っているであろうことは彼女は容易に想像できた。しかし彼女は親友を失うことになってもやり遂げる気でいた。
 彼女は悪魔の所業を行っているとは考えていなかった。彼女にとって世界は人と使徒しかいなかった。

「シンジは学校行きたいって思わない?」
 ジオフロントへと降りるチューブの中でマナが尋ねた。シンジはこれまで問われた時と同じように首を横に振った。
「みんなと一緒に遊んだり部活とかしたり勉強したいって本当に思わない?」
「みんなって?」
「だから、学校のみんなと」
「ああ……」
(……そういえばケンスケからそろそろ電話があってもいいよな……)
 クラスメイトと聞いてシンジが思い浮かべたのは第壱中での同級生の相田ケンスケだった。彼とは月に一度ほど電話のやり取りがある。それ以外の人間とは連絡が無かった。
 アスカとレイを別にしてだが。
「確かに中学の時は学校に行ってエヴァにも乗ってだった」
「あたしもそんな風な平和を守る高校生って感じかと思ってたんだけど、ネルフに来たらこの街から高校そのものが無くなっちゃったじゃない。最初はラクでいいかなって思ってたけど」
「ラク」
「でもなんか通信教育だけって物足りないなあ。ねえ、シンジ。私って中学じゃモテモテだったんだよ、その話はしたっけ」
「聞かせてくれる?」
 シンジが水を向けるとマナは本部に着くまで彼女の通っていた中学校の話を喋り続けた。シンジにとって初めて聞く話ばかりではなかったが、片言の相槌を打つだけで話を遮ることはしなかった。おかげで彼は自分の中学時代を話さずに済んだ。

 作戦部長
「予想到着時刻は二時間後、そこで対空戦闘になるわね」
 拾号機搭乗員
「空中戦じゃないんですか」
 作戦部長
「エヴァに羽根は無いの。どうせ待ってれば下りてくるんだし」
 拾号機搭乗員
「前回は碇さん達が市外に迎撃に出ましたけど」
 作戦部長
「今度のは一匹、カラスのバケモンよ。網を張っての害虫駆除と思いなさい。有効射程に入り次第ポジトロンライフルで攻撃」
 拾号機搭乗員
「私達三人とも射出位置が未定ですけど」
 作戦部長
「降下ポイントの予測が確度95%になった時点でそこを囲むように等距離の場所に出します。それまで射出口待機」
 拾号機搭乗員
「何でそんなことするんです」
 作戦部長
「5%のためよ」
 拾号機搭乗員
「でも分散配置はあまり」
 作戦部長
「挟撃出来るのよ、その利点を活かして」
 拾号機搭乗員
「そうですか……」
 初号機搭乗員
「行こう、マナ」
 拾号機搭乗員
「うん……」

「エースの風格ってやつかしら」
 誰にいうでもなくふとミサトの口からこぼれた言葉だが、マコトには聞こえていた。
「誰がです」
「ほら」
 ミサトが目線を投げた先のモニターでは初号機エントリープラグ内の映像が示されていた。そこにはサードチルドレン碇シンジが塑像のように控えている。
「シンジ君がですか」
「なんつーか、ね」
 エヴァンゲリオンの戦闘を指揮する発令所、そこにいる静かな緊張に支配されている人々の中でミサトとマコトだけが任務と直接は関りの無い話をしていた。
 一方指揮官の無駄話をよそに、発令所に詰めるオペレーター達は何度となくやってきた出撃シークエンスを一つづつこなしていった。使徒との戦いは辛いものではあったが勝てない相手ではないことを彼らは知っていた。その危うい勝利を確実にするためには堅実な仕事が要求される。そして彼らはミサトとは違って自らの果たす役割に誇りを持つことを許されていた。
「三佐。変わりますよ、彼も」
 マコトは心ここにあらずのミサトに口を合わせる余裕があった。この場ではミサトに次ぐ階級である。
「最初からずっとエヴァに乗ってきたんですから」
「そりゃ、あんときみたく泣き喚かなくなったのはいいけど」
「それでいいんじゃないんですか」
「なんつーか、ね」
 発令所で腕組みしたままミサトは映像を確認した。シンジは静かに目を閉じ両手をスティックの上に置いて出撃を待っている。準備よし。
「ねえ、日向君」
 ミサトは隣に立つ、彼女の片腕と頼む部下にいった。
「シンジ君って、レイに似てきてない」
「ファーストチルドレンにですか」
 マコトは眼鏡をかけ直してまじまじとモニターを見てしまった。マナは人差し指で唇のあたりをさすっている。爪を噬んでいるようでもあった。レイは目を閉じて待ち続けている。
「顔つきとかじゃあ、ありませんよね」
「雰囲気かな」
「彼がとりたてて無口になったとは」
「でもね、なんとなく」
 オペレーターの声が割って入る。
「MAGI予測値でました。使徒降下地点は旧国府津市街、予想時刻+20分。確度95%」
 オペレーターの報告に二人にも緊張感がみなぎる。
 MAGIが同時に出した迎撃プランをマコトがオペレーター達に必要な指示を下命することで現実のものにしてゆく。そして最後はミサトがゴーサインを出して仕上げとなる。
「三人ともいい、出るわよ」

 戦闘自体はあっけなく終わった。体全体が翼のような形状の第六拾九使徒は緩降下中に地上の三体のエヴァンゲリオンからの射撃を直接表面に受けた。ATフィールドは張られていなかった。破片を撒き散らしながら降り立った使徒が傷ついた翼を己の体に巻き込み、代わりに二本の足と二本の手を生やした。三本目と四本目の手が出てくる前に初号機と六号機が間合いに入った。初号機と六号機の構えるスマッシュホークが十数合繰り出され、それらの超振動の刃のもと、コアを引き裂かれた第六拾九使徒は沈黙した。バックアップの拾号機はほとんど白兵戦闘には参加しなかった。
「もう終わり?」
 とはいえマナのこの言葉は失言の部類に入る。
 しっかり発令所の人間に聞かれてしまい、機体回収後にマナは不謹慎だということでしぼられた。もっともその相手がすでに祝杯気分のミサトなので叱られながらもマナは半分聞き流していた。

 花屋の軒先でシンジはマナの背中を見続けていた。彼女の白地に水色のチェックの薄いブラウスからは、その下の肩甲骨のラインがわかる。ブラの白いラインも透けて見えている。振り向けば十六歳の少女にしては大きめのバストもマナにはある。だがシンジの意識はマナの肉体から性的な連想をすることもなくアスカの方に飛ぶ。
 眠るだけのアスカ。
 体に異常はない。食事は出来ないが栄養はとっている、少なくとも医師からはそう聞いている。実際寝顔は安らかだ。
 だが三年もベッドの上から動いていない。とてもふくよかというわけには行かない。
(……もし目を覚ましたら……)
 ふと考えてしまう。
 このままの方がいいのではと。
 もちろん彼は出来る限りアスカの病室には行くようにしていた。現に今もベッドサイドの花瓶にいれる花を選ぶために花屋に来ている。
(……夢の中にいるんならそれでも……)
「シンジ、シンジもちゃんと選んでよ」
 花の前を行ったり来たりのマナがシンジを呼んだ。
「あ……うん」
「だいたいそんなとこでぼーっと立ってるだけじゃ暑いでしょ、こっち来て」
 いわれてシンジも並べられた花の前で何を選ぶか悩むマナの横にいく。店内は日光は直接は差さなかったが、代わりにむせかえるような花の匂いだったのでいつしか彼は店の外でたたずんでいた。
 再び入った店内はやはりきつい匂いだった。所狭しと並べられた雑多な切り花から立ち上る匂いが混ざりあい、店の中の湿度の高さもあいまって、シンジは鼻をしかめた。
「うーん、なんか違う」
 つぼみの菫が顔を出している細長い壷の前で屈みこんでいたマナはなおも眉間に皺よせて選びかねていた。
「そんな真剣に悩まなくても。もう十分以上たったよ」
「だったらシンジは何選ぶの、まさかまたバラ?」
「いけないかな」
「却下」
 言下に否定されてしまいシンジは首をすくめる。
(……意外とマナって強情だな……)
 病院内で売られている花だけでは変わりばえしないというマナの主張により、二人は市内の数少ない生花店に来ていた。店はマナが知っていた。その時はさすがに花屋を知っているなんて女の子だよなとシンジは思った。
 第六拾九使徒殲滅から一月余りが過ぎていた。
「だいたいシンジの方がちゃんと選ぶべきでしょ。惣流さんのための花なんだし」
「そうなるのかな」
(……わかってるよ……そんなこと……)
「あたりまえじゃん。惣流さんもその方がうれしいって、絶対」
(……そうだ……アスカが目を覚ませばどうなる……)
「あたしって入院してる惣流さんしか知らないけどシンジは」
「よく知って……いた」
(……三年も眠ってたなんて受け入れられるだろうか……)
「だったらシンジも真面目に選んでよ」
「バラじゃ駄目かな」
(……全部うまくいったら……いったとしても……)
「だあから、それじゃワンパターンでしょ」
「でもどうせ」
(……うまくいってもアスカはセカンドチルドレン……)
「どうせ、ってねえ、シンジがそんなじゃ惣流さん可哀想だよ」
(……チルドレンとしてエヴァに乗る……アスカ、それでいいの……)
 シンジは覚えている。
 弐号機を意のままに動かし光り輝いていた惣流・アスカ・ラングレー。
 弐号機とのシンクロを果たせずに内から壊れていった惣流・アスカ・ラングレー。
 もしアスカが幸せな夢を見ていたら、その途中で現実に引き戻すのがはたしてアスカのためになるのか、そうシンジは考えてしまう。
 ──この人は何の夢を見ているの──
 眠り続けるアスカを前にしてレイのいった言葉が彼の脳裏からは離れずにいた。
「どうせ寝てるままだとか、そんなふうに考えてない?」
「そんなこと考えてないよ」
「だったらいいけど。ねえ、シンジ。このフリージアなんてどうかな」
「どっちの、白い方、黄色の方」
「ええっと、この前は百合だっていったよね。だったら……」
 たちまちマナが悩みだす。
 さんざん迷って黄と紅のフリージアを買った二人だった。

「アスカ、入るよ」
 花を抱えたシンジが入ると、いつものように一つだけのベッドにアスカが寝ているだけの病室がそこにあった。
「おじゃまします」
 マナが心持ち肩を小さくしながら続いて入った。
「こ、こんにちは」
「怖がることないよ、マナ。ここは一度来たはずだよ」
「でもあの時は、ネルフ来たばっかの」
 シンジはもう一脚のパイプ椅子を組み立ててマナに座らせた。サイドボードの花瓶にある百合の花はまだ萎れる程ではなかった。花を取り替えてから二日しかたってはいない。
 いつものようにカーテンを加減する。百合を捨てる。フリージアに替える。
「きれいだよね」
 マナがそういったのは花のことではなかった。
 アスカの額にかかる前髪に触れながらマナがいった。
「きれいだよね。私はアクションレポートの中の映像でしか歩いたり喋ったりする惣流さんは知らないけど」
「きれいだよ、アスカは」
「そうよね。今でもすっごくきれいだもん」
 もちろんアスカは血色がいいというわけにはいかなかったし、頬骨も目立って来ていた。だが笑っているのではないかとも思える穏やかな寝顔からは気品のようなものさえ感じられた。
 病者の美しさだ。
 シンジはこの部屋に来る度に思い知らされる。
(違う、これは違う、こんなのアスカじゃない、アスカは……)
 何十体と使徒を屠ってきた自分も目の前に横たわる少女には無力なのだと思い知らされる。
「惣流さんって、弐号機だったんでしょう」
 マナはちらりと天井を見た後にシンジに話し掛けた。
「そうだよ」
「弐号機が凍結って、つまり惣流さんが良くなったらまた弐号機に乗るってことよね」
「そうだね」
「惣流さんじゃないと乗れないのかな」
 シンジも病室の天井を見渡した。監視カメラは二台。それぞれ扉とベッドをアングルの中心にしてゆっくり首を振っている。マイクはそれ以外にもあるのかどうか、シンジにはわからない。
「多分アスカじゃないと駄目だと思う」
 少し声を小さくしてシンジは答えた。
「シンジは乗ったこと無いの?シンジは初号機だけじゃなくて六号機も拾号機も乗れるじゃない」
「起動はしたけど、それだけだよ。シンクロ20%じゃ何も出来ない」
「惣流さんは乗れるの?」
「それは乗れるよ」
「弐号機以外にもってことよ」
 もう一度シンジは天井のカメラを見た。自分に向けられたレンズがのろのろと逸れていった。
 シンジは小さく首を横に振った。

 黒塗りのリムジンを降りた途端に強烈な陽射しにさらされて、鬼頭は思わず目を細めた。そのせいで伸び放題の雑草に足を取られかけた。ドライバーを見ると忍び笑いをしている。
「さっさと行け」
 鬼頭がボンネットを叩くと、リムジンは彼と派手な排気煙とを残して来た道を戻っていった。
 彼は第二新東京市と山一つ隔てた場所にあるネルフの施設に来ていた。ここはかってエヴァンゲリオンの実験をするほどの規模であったが、八号機、九号機の暴走後は廃棄同然の状態となっていた。
「夏草や……かな」
 鬼頭は何か発句しようと思ってはみたものの何も浮かばなかった。やはり梅雨すら来ずに年中が夏だというふざけた気候では風情に欠けた。彼がこのような道楽を覚えたのは三十になろうかというときで、セカンドインパクト前の季語が意味をなした頃である。
 俳句は諦め、煙草を取り出すことで、気乗りしない仕事に集中しようと試みる。
 目の前の窓の無い五十メートル四方の平屋の建物。ここに今回の調査の被験者は連れてこられているはずであった。
「鈴原トウジ、ムサシ・リー・ストラスバーグ。十七歳の二人ねえ」
 ぞんざいなその口調はそのまま被験者に対する彼の感情を示していた。
 だが心はどうあれ鬼頭は求められた仕事以上をやってきた男だった。そうでなければ赤木リツコの補佐は務まらない。


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ver 1.0
98/05/18
copyright くわたろ 1998