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天使たち

第一部:赤い地

 眠れない夜には彼女は本を読むことにしていた。
 そこに書かれている沢山の物語、すなわちこれまで起きた事、これから起きる事、それらを読んでいるうちに大抵は眠れた。本の中には凄惨な描写もあったが、慣れてしまった。
 慣れておいた方がいいだろうと思ったからだ。
 最初は抵抗があったが、いつしかそれは好きな本の一つになった。眠れない夜にふと手にする一冊になった。
 彼女は今空港で迎えを待っている。まもなく第三新東京市の地下、ジオフロントへと連れて行かれるはずである。
 これから登場人物達に会うのだ。彼女も物語の中に入っていかねばならない。
 彼女の本音を言えば、もう少しただの読者でいたかった、そんなところだろうか。彼女には登場人物としての自分に関する記述を読めなかった。そこだけが欠けていた。もっとも類推することは出来た。量から見て端役なのだろう。退場するのも早いはずだ。
「カヲル、あなたはそれじゃ不満?」
 両腕で抱きしめるようにその本を抱えた少女は、たった一人の友の名をつぶやく。
 風にふくらんで、背に垂らしていた少女の艶やかな黒髪が頬にこぼれた。それを耳の後ろにと直す彼女の指はしなやかだ。撫で肩のきゃしゃな体つきである。年の頃は十二、三か。
 髪は彼女が自分に満足している数少ないものの一つだ。他は、例えば口元の小さなほくろとか、眼鏡の必要な視力とかについては、不満だった。なぜ気まぐれにこのような体に作られたのだろうかと。もっともこれまで彼女の眠っていた場所にいた白衣の人間達に口に出していったことはなかったが。
「カヲルみたいにはなれないな、私」
 彼女と共に第三新東京市を訪れる少年はそうは思っていなかったが、彼女にとって運命とは受け入れるものだった。

 天水をたたえたクレーターは、その水辺にたたずむ少年には大海のように見えた。夕暮の生暖かい風が水面に細かな波をつくり、その波紋は半身を水に漬けた半壊の女神像の下で割れて少年の足元へと進んでいた。スニーカーは水気を含んだ土にめり込んでいる。ズボンの裾もほんの少し泥で汚れている。白いシャツの胸元のまだらの染みは泥ではない、彼の涙だ。線の細い少女性すら感じさせる彼の面立ちには二本の涙の伝うあとがあった。
 地を穿つその爆発が起きた時、少年と共に戦ってきた少女が消えた。彼女は彼の目の前で自爆することで第拾六使徒を倒した。
 使徒──人類の敵──少年はそう理解している。
 少年の人生は十五年に足りない。そして少年のこれまでの人生で、少女と共にいた数ヵ月は、それ以前の時間全てに匹敵するほどの重みがあった。環境の変化ということもある。平凡な中学生が人類の存亡を賭した使徒との戦いの焦点になるという、定められた運命とはいえ本人にとっては不条理なものだった。受け入れがたいその流れに呑み込まれた時、少年は少女に出会った。
 絆だから戦う、少女はそれだけをいった。
 少女の瞳は赤い色をしていた。その眼差しの奥に少年は母親を感じた。少年は少女に母親への憧憬と、そしてぎこちなくではあったが異性としての感情を持っていった。言葉少なな少女はそんな少年にゆっくりと心を開いていった。
 その少女が今はいない。一瞬の閃光と衝撃と共に消えていった。使徒殲滅を祝うことなど少年には出来なかった。彼にとっては少女の墓標のクレーターが残るだけだった。
 少年は少女の名を叫びたい衝動に襲われた。叫べば帰って来るような気がした。彼のよく知っている、彼をよく知った彼女が。
 二人目のファーストチルドレン、綾波レイが。
 だが帰っては来ない。かわりの三人目がいる。二人目と全く同じな別人の彼女がいる。彼がよく知っていた彼女と全く同じな、しかし彼のことを知らない彼女が現存する。そして三人目の後には四人目が控えている。五人目六人目と現れる。現時点でストックが三十七人分あることを少年は知っている。
 だから少年は声が出なかった。
 言葉もなく立ち尽くす少年をよそに日が沈もうとしていた。
 金色の空、金色の雲、金色の水面。少年の黒い髪も涙を浮かべた黒い瞳も、反射するのは金色。
 揺らめく大きな夕日に少年の視線は張りつけられていた。あの夕日は綾波だ、綾波なんだ。 行かないで。
 僕をおいて行かないで。
 明日の太陽なんて見たくない。
 だが少年の願いは届かず東の空はますます陰りを増していた。
 逢魔ヶ時とはこのような時を呼ぶのかもしれない。

「聞こえないかい」
 彼の耳に入ってきたのは柔らかい少年の声だった。
「君にも聞こえるかもしれない。澄んだ目をしている」
 声は女神像の方からだった。振り向くとそこにはいつの間にか彼と同じくらいの年齢の少年が立っていた。
「聞こえるって、何が?」
「心を潤す歌だよ、碇シンジ君」
「僕の……名前を……」
 シンジと呼ばれた少年は不意に現れ話し掛けてきた少年を驚きとともに見つめた。金色の夕暮れの中、しかしその少年はよく見れば銀髪だった。彼の中ではそれは失われた少女に結び付く髪の色だった。
「君は……」
「僕はカヲル。渚カヲル。フィフスチルドレン」
「フィフス……って」
「よろしく、三番目くん」
 銀髪の少年は笑顔でそういうと、シンジに歩み寄った。シンジからは逆光だったが、その少年が秀麗な顔立ちであることはわかった。特に鼻梁の高さと首筋の滑らかなラインがシンジの目をひいた。
 シンジは少年とは反対の方に少し後ずさった。自分の名を知る見知らぬ少年に警戒感を覚えたのもあったが、ようやくできた訓練の合間の時間を邪魔されたような気もしていた。だがその言葉が優しい歌のように心に染み透るような気もしていた。
「歌はいいね」と銀髪の少年はいった。
「うた?」
 シンジには歌声など聞こえない。
「この世は歌に満ちている。リリンの栄えるよりはるか昔から歌声が響いている。リリンの歌だけではないのさ。鳥の歌、獣の歌、草花の、樹々の歌」
 シンジに聞こえるのは謎めいた微笑みを浮かべて近づくその少年の声だけだった。
「雨の歌は胸を打つ。風の歌は心をほぐす。星の歌は切なくて、月の歌はたおやかで」
 怪訝そうな表情のシンジを無視して銀髪の少年は言葉を続けた。少年は沈みゆく太陽に顔を向け、まぶたを下げた。
「太陽の歌だ」
 目を閉じたまま少年はいった。
 シンジには少年が耳をすましているのだとわかった。耳朶に手を当てるふうではなく肩の力を抜いて両腕を重力に任せて垂れ下げているだけのようだったが、実は身体全体が耳となっているのだと、そんな突拍子もないことをシンジは連想した。目の前にたたずむ瞑目する少年の姿は、シンジにそんなことを思わせた。
「なぎさ君には……聞こえるの」
「カヲルでいいよ」
 それは柔らかい声。
 少年が目を開いた。
 目の前の少年に目を開かれてシンジははっとした。その瞳は赤色。少年は髪だけでなく双眸の色までもが綾波レイを思わせた。赤い、ルビーのような目がシンジを見つめていた。
 この人は、僕を見ている。
 目の前の人が自分の目を見ていると理解した時、夕焼けの中でまぎれる程度ではあったが、シンジの頬がほんの少し紅潮した。
「じゃあ……僕のこともシンジって呼んでいいよ」
「ありがとう、シンジ君。いつか君とは一緒に聞けるといいな」
「何を」
「いろんな歌が聞けるよ」
 少年は微笑んだ。
 その笑顔は歯を見せない口の端をゆるめるだけのささやかなものだったが、なぜかシンジにはその笑顔だけで信じられた。フィフスチルドレンと名乗った少年が本当に太陽の歌を聞いていたのだと信じてしまっていた。

「喜ぶべきかしらね、これって」
 ファイルを繰る葛城ミサト三佐には戸惑いが先に立った。彼女の職務は使徒迎撃のための非公開組織ネルフの作戦部長。つまりネルフの切り札である汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンの運用を任されていた。彼女にしてみればエヴァンゲリオンのパイロットはいくらいても足りないという事はなかったのだが。
「いきなり二人も届けてきましたからね」
 ミサトの部下、日向マコト二尉も彼女の疑念に同調した。ネルフは今までは四人のパイロットをやりくりしてきたのだ。しかも四人目、鈴原トウジはテスト中に乗機が使徒に侵食されるという信じ難い事態が起きて半身不随となったため、ついに実戦に立つことなくチルドレン──パイロットの資格を抹消されていた。
 また惣流・アスカ・ラングレー、セカンドチルドレンとして登録されていた少女は、第拾伍使徒との戦いにおける精神攻撃によるダメージが大きく、エヴァンゲリオンとのシンクロが不完全な状態のままだった。人的増強はかねてから訴えてきたが、今回は事前に報告らしい報告もなく唐突に二人もの増員がなされた。
「フィフスチルドレン、渚カヲル。シックススチルドレン、山岸マユミ。マルドゥック機関未承認のチルドレンなんて例が無いわ」
「しかしゼーレが認めています」
「そうね、少なくともエヴァとシンクロ出来ないなんてことはないでしょうけど」
 そこでミサトは口をつぐんだ。彼女の飲み込んだ言葉が「アスカと違って」であるとはマコトにもわかった。
「両名とも過去の経歴は抹消済みっと。手が掛かんないのは、まあ結構だけど」ミサトは手にしていた薄いファイルをコンソールに放り出すと肩をすくめながらいった。
「だけどゼーレが認めたってのがね、ちょっち気になるのよね」

「ねえ、アスカ」
 シンジは共にミサトのマンションに同居中のアスカの部屋の前に立っていた。
「出て来てよ。御飯食べてよ、アスカ」
 シンジは両手に一人分の食事を乗せたお盆を捧げ持つようにして立っていた。
「うるさいっ!」
 部屋にいる少女の罵声にいつもの力が無いことに少年は気付いてしまう。
「お腹空いてるんだろ、アスカの好きなハンバーグにしたんだ、ねえ食べてよ」
「うるさい、余計なことしないでよっ」
「具合悪いんでしょ、食べないと余計体に悪いよ。昨日からほとんど何も食べてないんでしょ、そんなじゃ」
「そうよ!悪い?!」
 何かの物音がした。アスカが手近の物を投げ付けたのだろう、閉ざされた扉に向かって。
「出て来てよ……」
「あっち行ってよ!!アンタなんか、アンタなんか……あ……」
 壁越しのくぐもった声だが、アスカが泣いていることはシンジにもわかった。
「アスカ……」
「アタシを差し置いてぇ、え、エヴァに乗れるアンタなんかぁ」
 エヴァンゲリオン。
 人類の最後の希望、そうシンジは聞かされた。
 でもアスカを引き裂いているのもエヴァじゃないか。エヴァがなければ、アスカは人類を救う正義の味方なんかやらなくてすんで、使徒に心をずたずたにされずにすんで、僕なんかと出会わなくてすんで……。
「そんなこといわないでよ。みんなアスカのこと待ってるんだ……」
「フン!ミサトが待ってるっての!ファーストが待ってるっての!みんな、私のことなんて」
「頼むよ、アスカ。そんなこといわないでよ。僕は……僕が……アスカに出て来て欲しいんだ。そうだよ、僕がアスカに出て来て欲しいんだ」
 シンジが蛮勇を奮い起こしていった言葉もアスカに言下に拒絶される。
「アンタにだけはそんなこといわれたくないっ!」
 力無く嘆息したシンジはそっと盆を扉の前においた。
「ここに持ってきたんだ……置いておくから……食べて……」「ねえ、早く戻ってきてよ」「みんな待ってるんだよ、本当だよ」「新しいエヴァのパイロットも来たし」「アスカにも紹介したいし」
 シンジがぽつぽつと応えのない言葉を投げかけていた扉が唐突に開かれた。
 シンジの鼻先にあるアスカの表情は病人のそれだったが、しかし目は驚愕の色に見開かれていた。
「ホントなの……」
「ア、アスカ」
「次のチルドレンが来ちゃったの……」

 第三新東京市は先の対第拾六使徒戦において、その都市インフラの多くを破壊されていた。使徒迎撃都市としての機能はともかく市民生活の上では特に被害は深刻で、市からの疎開は以降加速度的に進んでいた。
 そんな衰えゆく第三新東京市を装甲リムジンのバックシートからマユミはぼんやりと眺めていた。膝の上の凝った装丁の本も、鼻先の眼鏡も、その奥の物憂げな黒い瞳も、車に合わせてゆられていた。ハイウェイが各所で傷んでいて本を読むどころではなかった。眠ろうとしてもその度にゆすられて寝付けないでいた。
 助手席と運転席は空港を出てからこのかた一言も口をきかない黒服の男が占めていた。彼らの両肩には拳銃が吊り下げられているのがマユミにはわかった。なぜそんなことをするのかはわからなかったが。
 そんなもので私を守れはしないのに。
 そんなもので私を殺せはしないのに。
 そんな彼らをカヲルはリリンと呼ぶ。カヲルは愚かでか弱いリリンと呼び、愛すべきリリンとも呼ぶ。マユミはカヲルが正しいと、そう思うことにしていた。愚かで、か弱い、愛すべき人間達。ずっとそう思ってきた。そう思って平気だった。
 それが最近はカヲルがリリンという言葉を使う度に胸がわずかに痛む。
 リリンという言葉に、カヲルと同じく自分も含まれていないという事実。目覚めて以来受け入れてきたことなのに、胸が痛い。思い知らされる度になぜかこの頃は、痛い。カヲルのように笑みを浮かべていられない。
 これが物語に入る代償なのだろうか。
「強いよね……カヲルは……」
 カヲルにはほくろ無いもんね──そんな取り留めの無いことをマユミは思い付いた。ううん、それは嘘、本に書いてないもの。
 本を開くまでもない。これまで二人がいたラボでマユミは十分に知っていた。
 カヲルは強い。白衣を着た博士達は最高傑作といってはばからなかった。マユミと同型のモノが十人いてもカヲルには太刀打ちできまい。彼を阻む者などいないはず。いるとすれば、ソレもまた人間ではない。
 そんなモノは一人しかいない。
 マユミの視界に水をためたクレーターが入った。水面からはニケの像が突き出ていた。首が無く、腕が無く、翼も片方しかない女神像だ。
「あれはなんですか」
 彼女は前席の男達に尋ねたが、彼らは無言のままだった。ようやく口を開いたのは車を降りる時だった。
「降りろ。我々はここまでだ」
 目的地に着いたのではなく、ハイウェイの出口だった。別の黒塗りの車がそこにはあった。制服姿の、女一人と男二人がいた。男は二人とも肩からSMGを下げていた。マユミに話し掛けてきたのは女の方だった。
「やまぎし、まゆみ、さん」
「はい」
「迎えに来ました。ネルフにようこそ、マユミちゃん。ネルフ職員の伊吹マヤです」
「よろしく……」
 マユミは手を差し伸べてきた二十そこそこの女性と握手をした。その横で男達はお互いにらみ合っていた。
 愚かな、リリン。
 マユミは口に出さずに心の中でいってみた。カヲルならどうするのだろう。委員会や白衣の男達にそうしたように消してしまうかも。
「どうしたの、疲れちゃったかな」
 うつむいたマユミの肩にマヤがそっと手を置いた。
「いえ」
「もうちょっと我慢してね。ここからはすぐだから」
「はい」
 マユミはそれからしばらく車内で巨大なクレーターのことを考えていた。人工のものなら、あの大きさであるのだから、原因は核かN2。それを兵器として使ったのであれば、使用者は戦略自衛隊かネルフ。
 使徒を相手に使ったのだ。
 マユミは本の記述にその部分があるのを思い出した。

「喜ぶべきかな、これは」
 初老の男ははっきりと不安を声に出して上司に告げた。
「ゼーレの老人達にしては気前が良すぎる。この二人には裏があるぞ、間違いなく」
「だが断る訳にもいかん」
「しかし、現時点でこちらの戦力は初号機と弐号機。パイロットの負担も限界だ」
「そこを突かれたのだ。断れんよ、冬月。問題ない、我々のカードは少ないがエースはある」
「碇、忠告しておくがな」
 老人は執務室の中央にある机にいつもどおりついている上司の顔を見た。サングラスを掛けたその表情からは何も読み取れなかった。
「あまりファーストチルドレンに頼らぬことだ」
 その言葉にも、やはりネルフの司令、碇ゲンドウは動じた様子はなかった。

「シンジもファーストもあがりなのに、なんでアタシだけ居残りなのよ」
 実験場の管制室にスピーカーを通したアスカの文句が流れる。
「むくれないの、アスカ。ここんとこテストしてなかったからちょっとチェック項目増えただけ」
「みさとぉ、ネルフって病み上がりにザンギョウさせるのお」
「すぐ終わるわ。それにカヲルもマユミもやってるのよ」やれやれといった調子でミサトがマイクに向かって喋った。
「だって……」
 あんなやつらとなんでアタシが並んでシンクロテストしなきゃいけないのよ。
 入ってきたばっかじゃない、あいつら。アタシは何度も実戦で出撃したのよ。
 アスカには頭ではわかっていてもなお認めることが出来なかった。あの二人は交代要員なのだ。半身不随のフォースチルドレン鈴原トウジの。エヴァに乗れないセカンドチルドレン惣流・アスカ・ラングレーの。
 そして必死に気持ちを落ち着けシンクロ率を上げようとするアスカ。もどかしいほどに数値はのろのろとしか上がらない。

 ケイジには冷却液に首まで浸されたエヴァンゲリオン弐号機があった。ネルフ到着早々のシンクロテストでマユミは少々疲労を感じてはいたのだが、マヤに案内されるままここに下りてきた。
「これが……エヴァ……」
 忌むべき存在、それが弐号機の赤い頭部を仰ぎ見たマユミの印象だった。
「私はこれに乗るんですか」
「うーん、マユミちゃんはこれじゃないと思うけど……」後ろに立つマヤは言葉を濁した。
 弐号機には専属パイロットがいたはず、マヤの意識にはその人物のことがあるのだろうとマユミは思った。
 でも伊吹さん、惣流さんはもうエヴァに乗れないわ。これを動かすのは、
「カヲル」
 マユミは気付いていた。背後のキャットウォークの高みからカヲルが見すえている。
 細いがはっきりとした声をケイジに響かせて、マユミはゆっくりと振り向いた。
「あなたはどう、これを動かせそう?」
「多分ね」
 柵に肘をついていたカヲルがそっけなく答えた。
「じゃあ私はいいわね」そのマユミの声はかすかだった。マヤにも聞き取れなかった。
「そっか。二人はあったことがあるんだよね」
 マヤはカヲルにも下りて来るようにと手を振った。

 赤木リツコには呑気に子供達を案内している暇はなかった。E計画主任として、科学者として、スクリーンに表示されたシンクロテストの結果は見過ごすことは出来なかった。
 綾波レイ、起動可能範囲。碇シンジ、起動可能範囲。山岸マユミ、起動可能範囲。
 この三人は彼女に命令を下せる人間の口癖を借りるならば、問題ない、というシンクロ率だった。
 惣流アスカ・ラングレー、起動限界域。
 彼女の数値はE計画を預かる身としては懸念せざるをえなかった。これでは起動できたとしても対使徒の戦力にはならない。
 そして、渚カヲル。
 科学者としてのリツコは準備もなしに軽々と弐号機とのシンクロをやってのけたフィフスチルドレンのテスト結果に納得できる理由を見つけられずにいた。

 四人のチルドレンが出ていった後もアスカは更衣室で膝を抱えてぽつねんとしていた。
 エヴァのパイロット。
 勝ち取り、守りぬいてきた、栄冠、玉座。
 惣流・アスカ・ラングレーのしるし。
 それが自分の手からこぼれ落ちようとしている。
 シンジに負けた。ファーストに負けた。
 新しいやつらにあっさり負けた。
 もしも、もしも、エヴァのパイロットでなくなったら。
 エヴァに乗れないアスカ。平凡なアスカ。みんなの中に埋もれてしまうアスカ。振り向かれることの無いアスカ。アスカでないアスカ。
「そんなの……いや……」
 涙が止まらない。
 私が私でなくなってしまう。涙が止まらない。
「いやだよ……助けて……」
 救いを求める言葉が口からこぼれた時、彼女の脳裏を過ったのは自ら死を選んだ母の顔だった。両手を広げて自分を受け入れてくれる母の笑顔だった。ネルフのスタッフでも共にエヴァンゲリオンに乗ってきたチルドレンでもなかった。
「助けて……ママ……たすけて……」
 震えが止まらない。自分の肩をきつく抱きしめて、それでも震えが止まらない。
「ママ……ママ……もどってきて……ママ……」
 涙が止まらない。
「ひとりにしないで……このままじゃ……このままじゃ」
 そしてアスカの中で映像が変わる。
 天井にぶら下がった母。
「このままじゃあ……」
 アスカは更衣室内で昏倒しているのを職員に発見され、付属病院へと運ばれた。意識が戻り自分が入院して真っ白な病室で一人で横たわっていることに気付くと、彼女はまた泣いた。

「一緒に帰りませんか、綾波さん」
 マユミが呼び掛けるとレイは困惑の表情を浮かべた。どう答えていいかわからないようだった。
「部屋、お隣だって聞きました。それなら帰り道も一緒ですし」
「構わないわ」
 レイはささやくようにいうと、マユミの方を見ずにそのまま歩きだした。マユミは歩幅分遅れてその後を歩いた。
 家路を行くあいだレイは一度も話し掛けようとしなかった。マユミは一度だけ話し掛けた。
「聞こえませんか」
 街に人影はなかったが、セミの声はした。烏の鳴き声もどこかから届いていた。
 薄暮の刻、マユミは太陽を聞いている。
 マユミの問いかけにレイはわずかに首を横に振ることで答えた。
「でも綾波さん、あなたの目はとても奇麗。それでも聞こえませんか」
 レイはマユミの方を向いた。そしてゆっくりと首を横に振った。
「聞き方を忘れてしまったのですか」マユミはなおも食い下がった。
「わからない」
「それでいいんですか」
「必要な記憶はある」
「歌は必要無いのですか」
「私は人形じゃない」
「えっ」
「自分で歌える」
 穏やかに、はっきりと、レイはいった。
 言い切るレイにマユミは絶句してしまった。
 目の前の赤い瞳は美しかった。何も映してはいなかったが、それは自ら輝く内側からほとばしる美しさだった。レイの眼差しに耐えられずマユミの方が先に顔をそらした。
 それきりで、後は二人とも無言だった。

「一緒に帰らないか、シンジ君」
 本部ゲートを出たところで所在無げにたたずんでいたシンジは、後から出てきたカヲルに呼び止められた。
「それとも誰かを待ってる?」
 シンジはアスカを待っていた。
「え……」
 アスカを待ちながら、どこかでアスカに怯えていた。助けの手を差し伸べようとする一方で、その手を拒絶されることを怖れていた。
「あ……べ、別にそんなじゃ」
「じゃあ一緒に帰ろう。いいだろう」
「うん……」
 シンジの目に入るアスカは背を向けるアスカ。心を閉ざすアスカ。
 シンジはそれがエヴァに乗る前の、周りに壁を作っていた過去の自分の姿のように感じていた。しかし一つだけ異なる点があった。
 アスカの壁は、火のように熱い。
 壁の外で踏み出せずにいたシンジは、まっすぐ目を見て話すカヲルの誘いに心を囚われた。
「そうだね。帰ろう、カヲル君」
 道すがら、二人は話し続けた。シンジはこれまでの自分に起きたことを話した。すらすらと言葉が出てきた。
 無口なレイは言うに及ばず同居しているアスカやミサトとの会話でも、言葉が途切れて気まずい沈黙を埋めようとして話題を無理に探すことの多かったシンジにとって、昨日会ったばかりの人間を相手に話しているとは思えなかった。
 この人は僕を見てくれる。この人は僕の話を聞いてくれる。
 もっと話をしたい。もっと一緒にいたい。
「僕のアパートはこっちなんだけど」とある交差点でカヲルはいった。シンジの帰る部屋とは方向がそこで違っていた。
「そ、そう……」
「来ないかい」
「え、」
「僕の部屋に来ないかい。越して来たばかりでまだ何もないけど。もっと僕はシンジ君と話をしたいな」
「ぼくと……」
「来ないかい」
 カヲルは微笑した。

 ミサトが自宅にアスカのことで連絡をいれようと電話をかけると、既にシンジからの伝言が入っていた。彼はフィフスチルドレンの家に泊まるという。
「あれま、さっそく仲良くなるなんて」
 それはこれまでのシンジからすれば意外な行動パターンだが、保護者としては歓迎すべきことだと考えたミサトは、苦笑しながら携帯を切った。
「ミサト、あなたチルドレン監督者としての自覚はあるの」横に座るリツコが苦言を呈した。
「別にいいじゃない、仲良きことは美しきかなってね」
「アスカのことよ」呆れたようにリツコはいった。
「あー、んと」
「メンタルケア行き届いてなかったようね」
「ごめん」
「謝る相手が違うわ」
「でも原因って、やっぱり」ミサトはリツコの向かっている机の上のディスプレイを指差す。
 リツコがその表示をひときわ大きいモニターにまわす。
「原因でもあり症状でもあるわね」
 示されたアスカのシンクロテストの結果はエヴァンゲリオン起動ぎりぎり。
「ここまで……」
 私達はここまであの子を追い込んでしまったの……。
 ミサトは悲痛な表情を浮かべた。
「セカンドチルドレン。当面は戦力外よ、作戦部長」
 肩書きで呼ばれたことにミサトは刺を感じたが、とりあえず保護者から作戦部長に戻る。
「じゃあ作戦部長としてうかがいましょうか、二人の新顔はどう」
「山岸マユミ」
 数秒間リツコの指先がキーボードを躍る。
「レイより若干低いけど、可もなく不可もなくってとこかしら」
「なんでシックスス先に見せるの」
「ミサト、あなたいいニュースと悪いニュース、どっちを先に聞きたい性格」
「悪いの、フィフスの数値って」ミサトは眉をひそめる。
「あなたが判断して」
 再びリツコの指先が躍る。現れたテスト結果にミサトは唖然とした。
「フィフスチルドレン、渚カヲル。彼は文字通り完璧よ、理論上あり得ない程にね」

 マユミはその本を手に取った。黒地に金糸の縁、飾り文字が浮き彫りにされた事典ほどの厚さの羊皮紙の本。それは彼女にとっては何度となく読んで、それでも飽きることなくページをめくれる本だった。だから第三新東京市まで携えてきた。
 少ない荷物も解かずにその本を手にしたのは心を落ち着けるためで、そらんじてしまった内容を確認するためではなかった。だから明かりをつけないまま表紙の鍵を開き一枚一枚めくっていった。だが心の乱れは続いた。意識は隣室の赤い瞳の少女に飛んでしまう。
 そのくだりは読んでいたはずなのに、目の当たりにしてみると、やはりマユミは恐ろしかった。赤い瞳を持ちながら自ら歌おうとする綾波レイが恐ろしかった。
 マユミにとっては調べの片鱗を、かけらを拾うようにしてしか感じることが出来なかった。カヲルのようにその体を歌に解き放つことまでは出来なかった。
 でも綾波さんには出来る。出来るはず。あの赤い瞳、カヲルと同じ瞳、祝福の証し。
 あなたには数えきれないほどの歌が与えられているというのに。
 どうして聞こうとしないの。
 どうして自分で歌うの。
 あのルビーの目は……
 その答えは手元の本に書いてある。マユミはもちろん知っている。
 ページが月明かりに白く光った。彼女の手も同じ色になった。雲の流れは速く霞すら纏わないまぶしい満月が夜空に現れていた。
 レイの部屋を、マユミの部屋を、月光が充たす。
 その晩は満月というのにマユミには月の歌は聞こえなかった。

「月がきれいだね」
「そうだね」
「ねえ、カヲル君。目を閉じててそれはないんじゃない」
「それもそうだ」
 床に座って壁にもたれていたカヲルは目を開けてから笑った。シンジも笑って、身を乗り出していた出窓を閉めた。まだカーテンが着けられていないのでガラス越しの月明かりが部屋に差し込んでいた。照明をつけず、カヲルの部屋はただ銀の月光だけに照らされていた。
「きれいだ。今日は本当にきれいだ。目で見てもきれいだ」
「目で見ても?カヲル君、どういうこと?」
「見なくても、きれいさ」
「それって、歌のことなの」
 シンジはクレーターでカヲルと出会った時のことを思い返した。あの時カヲルは目を閉じて夕日を浴びながら、太陽の歌だといった。
「月の歌はね……」
 カヲルは言葉を濁して上体を投げ出した。その頭の場所は月光の当たる所、床に座っているシンジの膝の上だった。
「ちょ、ちょっと、カヲル君」
 カヲルは目を閉じていた。膝枕の恰好になっていた。
「あ、あの、寝るんなら……」
 顔を傾けたカヲルの額から銀の髪がばらりと流れた。シンジからはその横顔が見えた。月に照らされた白いその輪郭。
 カヲルを揺り起こすつもりで床から持ち上げた右手をシンジは中空で止めた。
 シンジはカヲルの顔を見た。
 きれいだ、と思った。
 アスカもきれいだ、だけど恐い。綾波もきれいだ、だけど恐い。
 でもカヲル君は……。
 自分の膝の上にある横顔の輪郭を触れようと、シンジは止まっていた右手をそっと下げていった。だが指先がたどり着く寸前にまぶたが上がり赤い瞳が覗いた。
「その手は」
「わわっ」
 のけぞりかけたシンジにかまわずその右手首を掴んだカヲルはそれをそのまま自分の首筋に当てた。
「こうするのかい」
「カヲルッ……くん……」
 シンジの声は彼自身にも滑稽なほど上擦っていた。
 その理由を考えるうちにシンジの顔はますます赤くなった。
「すごいね、心臓の音が聞こえるよ」
 などとカヲルにいわれるにいたっては、もうどうしようもなかった。
「あの、カヲル君、手を放し」
「君は一次的接触を極端に避ける」
 カヲルはシンジの右手を掴む手に逆に力を込めた。
「だけど僕はそんなシンジ君に」
 そしてシンジの右掌をカヲル自身の顎から頬、眉間へとずらしていった。
 カヲルの吐息がシンジの掌を射貫いた。
「好意を持ちはじめている」
「カ、カヲル君……」
「僕は、」
 その時カヲルは目を閉じていた。
「僕は、君に会うために生まれてきたのかもしれない」

 その日からシンジはカヲルの部屋に泊まるようになった。結果的にそれは五日間続いたことになる。ミサトはそれについて止めなかった。アスカは入院したままだったから、特にミサトの部屋にシンジがいる必要もなくなった。
 シンジがアスカの病室に見舞いにいくとき以外は彼の側にはいつもカヲルがいるようになった。
「カヲル君はどこにいたの?」
 ある時二人の会話の中でシンジが尋ねたことがあった。カヲルはいたずらっぽく笑っていいった。
「どこだと思う?」
「第三新東京市じゃないよね」
「実は僕は異星の客なんだ」
「イセイノキャク?」
 目を白黒させるシンジの肩をカヲルが笑いながら叩いた。
「冗談冗談、僕は前もネルフにいたのさ。米国支部のね」
 逆にカヲルが尋ねたこともある。
「シンジ君はエヴァが好きかい?」
「乗り心地ってこと?」
「そうだね。まず、それについて」
「もう慣れたよ。今じゃエントリープラグの中も結構落ち着くくらいなんだ」
「エヴァの存在については」
 その時のカヲルの眼差しには好奇心以上のものが混ざっていたようにシンジには感じられた。
「それは……好きか嫌いかってことじゃないと思う」
「なぜ?」
「僕はエヴァのパイロットだ。僕にとってのエヴァは、だから……」
「だから?」
「ある人が言ってくれたんだ、僕に。自分で決めろって。後悔しないようにって。だから、決めたんだ。僕はエヴァに乗るんだって。そうしないと僕は多分後になって自分自身を許せなくなるから」
「それは自分で決めたことになるのかな」このカヲルの発言に、シンジは言葉に詰まった。
 それはちがう、僕は自分の意思でエヴァに乗ると決めたんだ、みんなが傷ついていくのを黙って見ていられないんだ、僕にしか出来ないことをしないで逃げちゃダメなんだ、エヴァに乗るのが好きになれないからって、やらないでいちゃいけないんだ……。
 もつれた言葉は外に出なかった。カヲルの方が速かった。
「耐えていけるかい、エヴァに」
「……やってみせるよ」
 他にもたとえばお互いの好きなものとか、家族とか、これまでのこととかを話した。シンジの話で一番多かったのは彼の通う学校のことだった。カヲルの方はしかし寓話や説話、どうにも現実離れした話が多いようにシンジには感じられた。それでも話し振りは巧みで、シンジは話に引き込まれて何度も笑ったし、憤慨したし、涙を流すことさえした。
 ネルフ本部の食堂で並んでいるときには話題はメニューのことになる。
「これ、新しくなってるよ。試してみない?」
 ショーケースを指さしながらシンジがカヲルにいった。
「じゃあ今日はこれにしよう。シンジ君も食べるよね」
「うん……あれ?」
 シンジは奥まった席の一つに目をとめた。
「あれ、山岸さん?」

 目の前の皿にあるパスタを、口に運ぶというよりはただかき混ぜているだけだったマユミの手がふと止まった。カヲルが食堂に入って来た。カヲルが笑っている。
 人を睥睨して笑うカヲルの顔は知っていたマユミだったが、この時のカヲルはそうではなかった。
 嬉しくて、楽しくて、笑っているように見えた。
 カヲルが笑いながら話し掛けている相手は、サードチルドレンの碇シンジという少年。シンジも会話を楽しんでいるようだった。
 カヲルらしくない。
 あなたが、あなたのいうところのリリンと談笑するなど。もっともそれがあなたの、自身の運命へのささやかな抵抗の手段というのであれば、あなたらしいともいえるけれど。それともサードチルドレンにくくられてしまったの。そんなはずは……。
 マユミが自分の本をカヲルに読ませてやるべきか考えていると、彼女の前の席にカヲルとシンジが座った。二人ともトレイにピザを一皿乗せている。トッピングも同じ。
「やあ、マユミ」
「こんにちは、山岸さん。ここはどう、慣れた?」
 二人の快活な声を耳にして、マユミの食欲は完全に無くなってしまった。
「こんにちは……」
 それから曖昧な相槌を数回して、マユミはそそくさと席をたった。彼女が持つトレイにはまだほとんど手をつけていないパスタがあった。
「山岸さんて、少食なんだね」
「そうらしいな」
「カヲル君は知り合いなんじゃなかったの」
「知り合いね……」そこでカヲルは水を一口飲むと話を逸らした。
「シンジ君は見掛けと違って結構食べる方かな。もう一切れしか残ってない」
「そ、そんなことないって」

「MAGIにも追えないとはな、信じられん」
 リツコから上がってきたレポートには渚カヲル、山岸マユミ共に素性を追跡しきれないとあった。更に渚カヲルはチルドレンとしての能力の項目にも不確定要素が多すぎた。大抵それらには下限値だけが記入されていた。
「いずれにしろ我々のなすことに変更はない」
 だが冬月副司令の動揺をよそにゲンドウは普段の落ち着きを崩すことがなかった。
「碇、本気でそう思っているのか」
「なすべきをなす、シナリオのままにな」ゲンドウはほくそえんだ。

「結局シンジ君はエヴァが嫌いなんだろう」
 カヲルが黒いプラグスーツの袖口を操作しながら、同じくこちらは青と白のプラグスーツを着たシンジに話し掛けた。
「話してくれたよね、エヴァに乗って辛いことが続いたって。なのにこうしてメンテナンスを受け入れてるのはなぜだい」
「メンテナンス?」
「君は彼らから見れば」カヲルは管制室の窓を見やった「エヴァの部品」そしてプールにあるテストプラグに視線を振っていった「だから定期試験も欠かせない」
「でも」
「そう、それでもだ。それでも君は乗る。なぜだい」
「後悔したくないんだ。やれるだけのことはやりたい」
「それは変わらないかい」
「カヲル君、一度話したと思うけど」
「そうか……」
 カヲルは言葉を濁してシンジに笑顔を見せると自分のテストプラグへと歩いていった。その時に限ってカヲルの笑顔がシンジには酷く悲しげに見えた。
 カヲル君も好きじゃないのかな。
 エヴァは絆だって綾波はいってたけど、今の綾波もそういうんだろうか。
 アスカは辛いんだろうか。立ち直ってくれるんだろうか。
 山岸さんってどう思ってるんだろう。
 自分が入っているテストプラグの中にLCLが充填される間にシンジは仲間のことを考えていた。やがて正面モニターに明かりがともりテストが始まると、いつものように集中度を高めた。高いシンクロ率の維持に必要なことだった。

 リフレッシュルームのベンチに腰掛けたマユミは湿り気を帯びた自らの黒髪を物憂げに手で梳いていた。髪が湿っているのは、最前までLCLの充填されたテストプラグに入っていたからである。
 以前いたラボで経験していたが、やはりマユミはあの液体の中にいることが苦手だった。ほとんど真水と変わらないはずなのに、その肌触りはまとわりつく何かを思わせた。まるで自分を塗り変えようとする触手が体を這いまわるような気がするのだった。もう彼女は変えられるのは厭だった。
「枝毛でも見つけた?」
 毛先をもてあそんでいたマユミは隣にいたカヲルに声をかけられるまで気が付かなかった。
「カヲル……」
「あの電解液は髪を傷めるかもね」
「あっ」
 マユミの髪の中に分け入ったカヲルの指先が滑らかに流れた。マユミは顔をわずかに赤らめた。
「でももう終わりだよ」
「始まるの?」
「始める。不安かい?」
 カヲル、あなたに読んで欲しい本があるの。
 マユミはそういうつもりだった。
 だが、いえなかった。
「惣流さんには会ったの?」
「まだだ、マユミはどう感じた?」
「顔をあわせただけだけ。よくわからない」
「綾波レイはどうだ」
 その名を聞いた途端にマユミの肩はびくりと震えた。うつむいてしまったマユミは小さく首を横に振った。
「そうだな、君にファーストは無理だ。君はセカンド、僕がファーストだ」
「そう……」
 ではもう一人は。サードチルドレン、碇シンジは。
「碇君って、どういう人なの」マユミは意を決して尋ねた。
「ガラスのように……」カヲルは途中で言葉を濁した。
「脆い?」
「……繊細なんだ」
「カヲルがリリンをそういうなんて」
「おかしいかい」
「彼をくくらなければ彼はあなたに立ち塞がる。本当にいいの」
「試したくなった」カヲルは目を細めていった。
 試すなどマユミには出来ないことだ。カヲルと違ってマユミは本を持っている。
「本気なの」
「シンジ君ならね」
 のろけてるの、カヲル。それじゃまるで、
「まるで、リリン」
「そうかな。マユミも彼と話をすれば同じ気持ちになるよ」
「カヲル……」
 まるでリリン。
 あなたはリリンを愚かでか弱く愛すべき存在といっていた。翼をはばたかせて見下ろしながらいっていた。でも今はまるであなたがリリンと同じ地平にくくられているみたい。ねえカヲル、翼を外すのはどんな気持ちなの。
 マユミにはわからなかった。

10

 ためらいがちなノック。静かに開かれるドア。
 ベッドの上のアスカは病室にやってきた人物の方に首を傾けた。
「こんにちは、惣流さん」
「だれ」
「先日は挨拶だけでしたね。山岸です」
 アスカは興味無いわよといわんばかりにぷいと顔を背けた。
 愚か、か弱い、それとも愛すべき。
 大丈夫よ、あなたは夢を見るだけ。そしてそれはとても気持ちのいい夢だから。
「少しお話しませんか、惣流さん」
 マユミはアスカの枕辺の椅子に腰掛けると、背を向けるアスカに呼び掛けた。

 ネルフの正面ゲートを出たレイを待ち構えたカヲルが捕まえた。
「話がある。綾波レイ」
 カヲルの表情には一片の笑みもなかった。レイも同じだった。しばしの沈黙の後、レイは口を開いた。
「私にはないわ」
「君の瞳にただしたい。本当に聞こえないのか」
「聞こえない」
「だから君はエヴァを操るのか」
「エヴァは絆」
「歌を捨ててもか」
「私は私の歌を歌うの」
 レイのその言葉を聞いたカヲルは目を閉じ天を仰いだ。そしてゲートをくぐり本部内に入っていった。
 別れ際、カヲルはレイと一瞬目を合わせた。カヲルが背を向けると同時にレイは血を吐いて崩れ落ちた。

「ふん」アスカは鼻を鳴らしていった。「アンタは起動出来たのね」
「惣流さんだって出来ますよ。今はちょっと体調悪いだけで」
「もうたくさん!」アスカは毛布をはねのけ上体を起こしてマユミに叫んだ。
「出てってよ、もう!余計なお世話よ!アンタみたいに何もわかってないのに同情されたくなんかない。動かせるんならアンタが勝手に動かせばいいじゃない!初号機でも弐号機でも!」
 マユミは自分の膝のあたりに視線を落として続けた。
「どう思いますか、エントリープラグの中って」
「はァ?」
「懐かしい感じでした。惣流さんは覚えがありませんか」
「何よそれ」吐き捨てるアスカ。
「惣流さん、わかりませんか」
「アンタがわからないのになんで」睨みつけるアスカ。
 マユミは顔を上げてアスカの鋭い視線を受け止めた。
 マユミの黒い瞳、アスカの青い瞳、瞳に映る瞳、像の中の像、マユミの中のアスカ、アスカの中のマユミ。
 無限に続くかのような青い瞳はしかし一つのものしか望んでいなかった。
 本の通りね、惣流さんの願いは……
「おかあさん」
 アスカの目が大きく見開かれ、その焦点はマユミの漆黒の瞳に映る自分の姿に釘付けになる。第拾伍使徒の精神攻撃により刻みつけられたアスカの内面の轍はマユミにとっては容易に辿ることが出来た。
「そんな感じがしませんか、エヴァに乗った時に」
 アスカはその言葉を瞬きもせずに聞いた。

 紫衣の巨人、エヴァンゲリオン初号機。ケイジで半身を冷却液に沈めた初号機の正面にカヲルはいた。無風のはずのケイジで初号機の周りに細かな波紋が生まれていた。一分ほど瞬きもせずに巨人の眼を見据えていた後で、カヲルは舌打ちしながら背を向けた。
「シンジ君、君はアダムのまがいものの中でどんな歌を聞くのか」
 カヲルが初号機から離れながらぽつりといった。

「レイが?!」
 作戦室でミサトは予期せぬ報告を聞いた。
「正面ゲートの所でです。発見した時は既に呼吸が停止していました。病院に収容して蘇生術を施してはいますが非常に危険な状態です」
「なんてこと……」
 レイが。なぜ急に、とくに異常は無かったはず。何てこと、アスカがエヴァに乗れないっていう時に。でも二人欠けても総数五、残り三名。マユミはともかくカヲルは即戦力になりそうだし、二機のエヴァのパイロットとしてはまだ余裕がある。タイミングとしては補充前に倒れられるよりは……。
 タイミング?
 補充直後に?
 急に不安に駆られたミサトは病院ではなく発令所に駆け出した。

「話してくれますか、惣流さんのお母さんのこと」
「うん……」
 アスカはマユミに話した。父親のことは話さなかったし母親が狂死したことも話さなかった。ただただ母親の腕の温もりを語り優しい微笑みを語った。アスカの覚えている母親を、アスカの望む母親を語った。
 マユミには父も母も存在しない。最も近い遺伝形質を探すならばカヲルということになる。カヲルとの関係といえば兄妹や親子では事実ではない。それを正確に述べるならば劣化コピーというしかない。
 だから母というものについてのマユミの相槌は本で知っていた知識によるものだったが、実際それで事足りた。アスカはほとんど一人で喋っていた。最後は独り言になっていた。ぽつりぽつりと口を動かすさまは機械仕掛けの人形といってもよかった。
「だからママは……いつかきっと……戻って来るの……」
 その言葉を最後にアスカは深々と枕に頭を沈めた。
 マユミはゆっくりとアスカの額に手をかざした。そしてアスカの亜麻色の髪を整えてやった。まぶたをそっと下げてやった。

「君とは太陽の歌を聞きたかった。地の底ではそれもかなわない」
 カヲルはセントラルドグマへ続く縦坑の縁に立ち、下方を覗きこんだ。
 そしてカヲルは身を躍らせた。

「フィフスと、シックススは、今どこ?」
 息を切らして発令所に飛び込んでくるなりたずねたミサトにマヤはいぶかしげな表情。
「場所ですか……ええと」
「はやくっ!」
「フィフスチルドレン、現在は所在不明ですね」青葉シゲル二尉がマヤの先を取って答えた。
「大至急確認させて。以降は二十四時間監視」
「拘束、いえ捕獲した方が速いわ」
 ミサトの背後から、やはり発令所に入ってきたばかりのリツコが押し殺した声でいった。
「どうやら同じ結論に達したようね、ミサト」いつもの白衣姿だがリツコの目はどことなく精彩を欠いていた。
「リツコ、あんたレイについてなくて」
「レイはこのあいだと同じ。私がいなくても大丈夫」
 リツコはミサトの視線を避けるようにあらぬ方を見ながら答えた。そこに不審なものを感じて追究しようとしたミサトだが、マコトの報告に遮られた。
「シックスス、確認。303号病室にいますが……」
 スクリーンに303号室の映像がでた。ベッドに横たわるアスカと傍らの丸椅子に腰掛けているマユミ。病人と見舞い客という光景である。
 マユミがゆっくりとアスカの額に手をかざす。
 反射的に叫ぶミサト。
「保安部にっ!最優先指令、アスカの保護を!そして山岸マユミを直ちに捕獲、発砲任意!」
「そ、そんな。あの子がいったい何を」ミサトの指示の真意をはかりかねてマヤが戸惑いの声を上げる。そんな彼女にリツコが冷厳に告げた。
「やりなさい。五番目と六番目の中身は使徒よ」

11

「第一種警戒体制なのに」
 シンジは口に出す。さびしさほんの少し。シンジはそこで一人だった。
「みんなどこ行ったんだ」
 アスカが体調を崩したことは知っていたが、彼はまだあと三人のチルドレンがここに現れるものと信じていた。待機せよとの命令がいつものように唐突に出された時、いつものように彼の気持ちは沈んだ。だがカヲルの顔を思い浮かべてほんの少し心を弾ませてもいた。
 軽く握った右手を脇腹の当たりで前後させる。
 カヲル君と一緒に出撃するのかな……。
 インダクションレバーを操作する感触を思い出しつつ、彼はそんなことを考えていた。
 待機しているパイロットは碇シンジ一人だけだった。

 マユミは病室の窓を開けて空に右手を差し出した。その先には小鳥が羽ばたいている。
「おいで」
 人差し指に止まるシジュウカラ。マユミは目を細めて指先の白と黒の鳥を見つめた。
「そう、綾波さんは」
 振り返り室内を確かめるとベッドの上でアスカは規則正しく胸を上下させていた。
「でも初号機が動かせなかったとなると」
 そっとマユミは手を引き寄せて鳥を胸元に持ってきた。そして両手でつつみこむように抱えた。
「ごめんなさい。もう一度お願いね、小鳥さん」
 背後に乱暴にドアの開く音が響いたが、マユミの手の中の鳥はわずかに震えただけだった。さらに銃の操作音やインカムとの間で指示のやり取りをする保安部員の声がした。
 マユミは窓を向いたままこれらを聞いていた。
「両手を頭の上にあげろ!」
 愚かなリリン。
 野太い男の声はマユミの心にカヲルの口癖を甦らせた。
「おいき」
 マユミのささやき声と同時に空へとシジュウカラは羽ばたいていった。それを見送りながらゆっくりとマユミは両手をあげて銃を構えた保安部員らに向き直った。その横ではアスカが抱えられて部屋から出ていく所だった。男達の手つきは慌てているせいか手荒なものであったが、アスカの寝息は乱れず続いていた。
 アスカはマユミには決して見ることの出来ない母親の夢の中にいた。
「おやすみなさい、惣流さん」

 騒然とする発令所の中で、叫んだマコトによって一瞬の静寂がもたらされた。待ち望んでいた発見の報が、微かな希望的観測を打ち消す事実を連れて伝えられたのだ。
「いました!フィフスチルドレンはセントラルドグマを沈降中、現在第三層。波形パターン青っ!使徒です!」
「セントラルドグマの全隔壁を緊急閉鎖」一段高い司令の席の傍らに立つ冬月副司令の指示がすかさず飛ぶ。
「映像、来ます」シゲルが正面スクリーンにセントラルドグマからの映像を映しだした。
 渚カヲルがいた。目を閉じ両手をズボンのポケットの中にいれ直立していた。街頭で人を待っているだけのようにも見えた。流れる背景がなければ彼が下に落ち込んでゆくところとは気付かないだろう。背中から生えた一対の純白の翼さえなければ人間でないとは気付かないだろう。
「初号機使用を許可する。すみやかに目標の活動を止めろ」
 ゲンドウの命令には普段よりもあせりの色が濃かった。
「赤木君、間に合うか」そしてこれはリツコに対するゲンドウの詰問。
「省けるルーチンは多くはありません」
「間に合わせろ」そして有無を言わさぬ命令。
「……はい」
 リツコはミサトの横を「時間を稼いで」とだけ言い残してすれ違い、発令所を後にした。
 ミサトはゲンドウとリツコのやり取りがわからなかった。ただ状況が悪い方へ悪い方へと進んでいることはいやに小さく見えたリツコの背中からわかった。苛立たしさがいたずらに膨らんでいった。先制奇襲、初動の遅延、各個撃破、彼我兵力差。
 敗北の予感。
 その場合起こるであろうサードインパクトに人類は十五年前のように耐えられるだろうか。
「初号機発進準備っ!」
 自らを鼓舞するようにミサトは声を張り上げた。

 カヲルは肩にとまったシジュウカラが見覚えあることに気付いた。
「また君か。ごくろうさん」
 シャツの胸ポケットの口を広げてやり、小鳥をそこへと導く。
「やってくれたか、マユミは。なら赤い方は」
 カヲルがちらりと下方を見やると第三層と第四層を隔てる装甲隔壁が爆散した。

「目標、第四層に入りました」シゲルの報告に発令所の緊張がいや増す。
「アスカは」
「セカンドチルドレンは無事保護。本部内に収容、コマンド一個分隊を護衛につけています」
 使徒相手に軽装備の一個分隊とは。マコトの報告にミサトは無力感を禁じ得ない。
「シックススは」
「第四実験場の隔壁内に収監しています。抵抗らしい抵抗はありません」
「パターン同定は」
「青です」
「そう。第拾八使徒、山岸マユミというわけね」
 ミサトの言葉にマヤの肩がぴくりと震えた。
「初号機はどう」
「は、はい、外部電源接続完了。発進準備よし」
「聞こえる、シンジ君」
 ミサトは初号機エントリープラグ内のシンジを呼ぶ。カヲルの家に泊まるという留守電のシンジの声が弾んでた事を思い出しながら。

12

「嘘だっ」シンジの精一杯の拒絶。
「いいえ事実よ、受け止めなさい」
「そんなっ、カヲル君が使徒だなんてそんなの」
「目標は」ミサトの放った目標という単語にシンジは総毛立つ思いだった。それが示すのは渚カヲルである。「セントラルドグマを降下中。シンジ君、あなたしかいないわ、阻止出来るのは」
「嘘だ、嘘だ、嘘だよ、嘘だといってよミサトさん。カヲル君は使徒なんかじゃあ」
「いい加減にしなさいっ!」ミサトの声が大きくなりシンジの体が弾かれる。
「あなたの他に誰が止めるの!アスカは目を覚まさないしレイは集中治療室なのよ」
「だってカヲル君を」
「シンジ君、あなたの受け止めるべき事実はまだあるの。レイが倒れた時にフィフスチルドレンの所在は不明。過労だけのはずのアスカがシックススチルドレンと病室で接触してから眠り続けたまま。いい、もう一度いうわ、彼らは使徒よ。シンジ君、目標のターミナルドグマ侵入を阻止するために直ちに出撃しなさい。出撃して、レイとアスカの仇を取りなさい」そしてシンジに自分の言葉を理解させるべく一拍置いてからミサトは続けた。「出撃、いいわね」
「っひ……うっ……う……」
 ミサトがモニター内に認めたその時のシンジは口を歪ませ頬をひきつらせ肩を震わせていた。それを見ながらもミサトは必死で指揮官の表情を保った。彼女にとって事態はなりふり構っていられなかった。こともあろうに使徒を自分達の手で、絶対に侵入を許してはならないネルフ本部内に、チルドレンとして招き入れてしまったのだ。
「うう……う……う……」
 エントリープラグ内のシンジのつぶやきがミサト達にとってうめき声から意味の取れるものに変わってゆく。
「……裏切った……裏切ったな……」
 シンジはインダクションレバーを手のひらが白くなるほど握り締めた。唇を噛み閉めたせいかLCLが腔内に混じったためか血の味を感じていた。うわごとのように繰り返し叫び続けていた。
「裏切ったな、裏切ったな、裏切ったな、僕の気持ちを裏切ったな」
 初号機をセントラルドグマの淵へと進め、ATフィールドを展開すると地の底へと至る闇に飛び込んだ。
「裏切ったんだ!父さんと同じで!僕の気持ちを裏切ったんだ!」

「これはシンジ君……」
 羽ばたくカヲルはセントラルドグマ第五層に入っていた。首を天頂に傾げるとかすかに初号機のATフィールドの光が見て取れる距離だった。
「追いつかれるかな、君はどう思う」
 カヲルは胸ポケットの中の小鳥の頭を人差し指でそっとさすった。小鳥はくちばしをかすかに上向けた。
「なるほどね。ならそろそろ目を覚ましてくれないか、アダムの分身」
 カヲルが歌うように言葉をこぼすと同時にケイジに眠るエヴァンゲリオン弐号機の四つの目に光がともった。

「弐号機、き、起動……」
「そんな馬鹿な!」
「停止しません、電源なんて繋がってないはずなのに!」
 無人の弐号機の活動はすぐに発令所にモニターされた。しかしそこにいる人々には状況がわかった所でなす術は無い。
「弐号機、ATフィールドを展開!」
「初号機を追跡してます!」
「パターン……あ、青!パターン、青、使徒です!どうなってんだ!」
「隔壁を」いいかけたミサトだが初号機と弐号機との間に壁を設けられないことにはすぐに気付いた。そこまでの壁は既にカヲルによって破壊されている。
「シンジ君っ、上から来る弐号機は敵よ!排除して!」
 ミサトの指示は悲鳴に近かった。

 弐号機はその巨体を重力にゆだねてすさまじい速度で落下、五十秒足らずで初号機を捉えた。シンジが初号機のATフィールドを上方へむけたのは接触直前、角度をつけて衝撃をそらすことにまで考えが及ばなかったシンジは強烈な衝撃でその代価を払った。
「……ぐっ!!」
 立て続けに衝撃。今度は左腕。初号機のATフィールドはあっさりと中和されていた。弐号機が初号機の左腕をねじ切ろうと両手で抱え込んでいた。
「どけよ、ちくしょう、どけよどいてくれよっ」
 右の拳を弐号機の顔面に叩きつけようとするが弐号機が一瞬速く首を前に傾げやり過ごす。逆に初号機が頭突きを食らった格好になって体が半回転、弐号機が下に来る。シンジは初号機の右肩のラックからプログナイフを出し、それを掴んだ初号機の右手を一気に弐号機の喉元に突き進めた。
「アスカっ、ごめん!」
 だがナイフは弐号機に達しなかった。
 顎部拘束具を引き千切った弐号機がその手にかじりついていた。シンジにもその痛覚が襲ってきた。
「うっうわあああぁぁっ!!」
 組み合う二体の巨人を尻目にカヲルは下へと羽ばたく。
「エヴァシリーズ。アダムより生まれし人間にとって忌むべき存在。それを利用してまで果実を求めるのか、リリンは。それが何を意味するのかも知らず」
 カヲルのつぶやく声がシンジに感じられた。それがあり得ないことだとも気付かずに必死で呼び掛けるシンジ。
「カヲル君、止めてよ、どうしてっ!」
「シンジ君、聞こえるかい」カヲルは頭上で死闘を繰り広げるエヴァンゲリオンを気にとめる風でもなく視線を足元に向けたまま答える。
「カヲル君!止めてよ、どこへ行くんだよ、どうしてこんなことを!」
「聞こえるかい、アダムの歌が」
「何だよ、何のことだよ、カヲル君!君が何をいっているのかわからないよ!」
「アダムが歌っている」
 左肩に激痛を感じたシンジははっと初号機の左方を見た。弐号機は初号機の左肩に指をめり込ませて鷲掴みにしていた。握り潰そうとするかのようだった。
「ううおぉぁぁああああぁぁっ!!」
 獣のような雄叫び。初号機のものか、それともそのパイロットのものか。
 弐号機の胸部目掛けて初号機がプログナイフを繰り出した。

 リベットの並んだ灰色の無骨な壁に囲まれた三十メートル程の空間。天井は高い。ちょうどエヴァが入る大きさ。
 自分の腕を枕にマユミはその冷たい床に横たわっていた。
 何の歌も聞こえないエヴァンゲリオン起動実験場で。

「目標、最下層に達しました!」
「弐号機、依然停止しません」
「初号機のシンクロ率が下がっています、現在58。まもなく両機最下層に達します」
 オペレーター達が刻々と変わる状況を告げてゆく。しかしミサトには初号機に何ら有効な支援をおくれない自分を責めるように聞こえてならなかった。もはや彼女のとりうるオプションは一つしかなかった。しかもそれははるか地の底で戦っているシンジにとっては意味の無いことだった。
 マコトの肩ごしにミサトはささやいた。
「初号機の反応が消えてもう一度目標に変化があった時は……」
「わかってます。その時はここを自爆させるんですね。サードインパクトを起こされるよりましですからね」
「……済まないわね」
「いいんですよ。あなたと一緒なら」
 そっとマコトは自分の思いを伝えた。

「世の破滅が老人達の思惑なのか……」
 冬月の言葉にもゲンドウは無表情に応じた。
「キールの生死を確かめた方がいいかもしれん」
「悠長なことを。仮にあの使徒がたどり着けば全ては終わるのだぞ」
「処置が間に合えば使徒は排除できる」
「結局、彼女次第ということか……」
 冬月は眉をよせ自嘲した。ゲンドウのようにはいかなかった。

 最下層に接地の瞬間、シンジは弐号機を頭部から叩きつけることに成功した。
「だあぁっ!」
 間髪をおかずに右手で弐号機の延髄に正拳を打ち込む。瞬間、弐号機が身悶えるように背中を反らしてその四肢を投げ出した。
「とまった……の……」
 シンジは苦痛を堪えながら膝をついた初号機を立たせた。初号機のプログナイフは失われ、左肩から先が既に意のままにならなくなっていた。当然パイロットにも緩和されてはいたがフィードバックが来ていた。
「カヲル君は……」
 振り返るとカヲルがいた。背にはもう翼はなかった。初号機に悲しげな笑みを投げかけると、背を向けて立ち去ろうとした。
「まって、カヲル君!」
 シンジがその後を追おうとした矢先、停止したかに見えた弐号機に脚を掴まれた。緩慢な動作ながら弐号機は立ち上がろうとしていた。
「は、はなせよ、はなせ……」
 顎をだらりと落とし装甲の剥げかかった弐号機の頭部がシンジの視界の中で大きくなっていった。並んで使徒と対峙した時にはこれほど頼もしい存在はなかったが、今の弐号機はシンジにはとてつもなく醜悪な禍々しいモノに見えてならなかった。
 突き動かされるように初号機の右手が伸びた。自分の右手が生暖かくぬめったものに包まれた感触がしてシンジは思わずインダクションレバーを握る手を離した。その掌を数秒凝視したシンジは次に指の間から外部映像に目の焦点を合わせた。そこには腹部を初号機の手刀で串刺しにされ停止した弐号機の姿があった。
「カヲル君……」
 震える右手をレバーに戻し、シンジは初号機を立たせた。

 ネルフ本部最下層、ターミナルドグマ。そこには塩が敷き詰められていた。
 塩の地の上に塩の柱の並ぶ中をカヲルは進んでいった。罪など、落ち度など、彼には存在しないかのようであった。
 初号機が追いすがろうとしたが、シンジのよく知っている光の壁に阻まれた。
「ATフィールド……」
 初号機のATフィールドではそれは中和できなかった。
「聞こえるかい、シンジ君」背を向け平然と歩き続けるカヲルの声が初号機の中に届いた。
「待ってよ、カヲル君っ!」
「僕は、なすべきことをなす」
「答えてよ、カヲル君!アスカや綾波をどうしちゃったんだよっ!」
「人の定め」
 カヲルは初号機に振り向いた。
「そして僕の定め」
 その声に合わせてATフィールドが広がり初号機が弾き飛ばされる。

「強力なATフィールドです!発生源は目標の位置と一致!」
「電磁波、粒子、全て遮断しています!なにもモニター出来ません!」
 発令所には絶望に彩られた報告が次々に届けられた。
「絶対領域……まさに結界ね」
「目標、ロスト!初号機のモニター妨害を受けています。パラメーター取れません!」悲鳴にも似たマヤの声。
 ミサトは口の中が乾ききってしまっているのを感じていた。たまらず後ろを見上げるが、ゲンドウはいつものポーズを崩さず座っていた。

 カヲルは通路を進み巨大な壁に突き当たった。備え付けられた電磁ロックを一瞥することでそれは呆気なく解かれる。
「滑稽だね、この慌てぶりは。拾ったのはいいがその力に扱いかねて」
 扉が重々しく開いてゆく。
「怖くて怖くて、それでも捨てかねて」
 後ろでは初号機がATフィールドを中和できずにいた。カヲルはゆっくりと扉をくぐって、その奥へと進んだ。
「こんな所に隠しておくとは」
 再びカヲルの背中には一対の翼があった。静かにカヲルは浮かびあがった。

「ヘヴンズドアが開いていきます……」
 マコトのかすれた声を聞き、ミサトは唇を噛んだ。敗北を突きつけられた以上やるべきことは一つしかない。
「日向くん」
「ええ……」
 マコトが震える手つきでコンソール上にある封印された鍵穴に手を伸ばす。
 その時、シゲルが叫んだ。
「ターミナルドグマに新たなATフィールド発生!」
 その報告を胸を撫で下ろして聞けたのは後ろに鎮座するゲンドウとその傍らの冬月だけだった。
「間に合ってくれたか」
「ああ、我々の勝ちだ」

 ここまで届く歌声とは。マユミは信じられなかった。これが欠けて読めなかった部分、なんて力強い歌。
「危ない、カヲル!」
 無駄とわかっていても、運命は避けられないと知ってはいても、叫んでしまった。
 そしてすぐに他人の心配をするどころではなくなった。ますます大きくなる歌声に耐えられずにマユミは両手で耳を塞いだ。
「いやあああぁ、やめてやめてやめてやめてええぇ」

13

 唐突に前を阻んでいた輝く壁が光を失っていった。弱まったカヲルのATフィールドを中和すると左腕をだらりと下げたかっこうの初号機はカヲルの後を追ってヘブンズドアをくぐった。シンジはそこに左の翼を焼き切られて両膝と右肘を地につけて体を支えるカヲルを見た。そしてカヲルを足元に見下ろす全裸の少女を見た。
「あやなみ……」
 少女は綾波レイのかたちをしていた。

「おい、あれ」
 実験場管制室に防護服姿で詰めていた保安部員の一人が異変に気付き、隣の同僚に強化ガラスの先を指し示した。そこでは膝立ちのマユミが耳を押さえ何かを叫んでいた。
「何だ。何してんだ、ありゃ」
 彼らは「使徒」を「捕獲」せよといわれ命令を実行したのだが、だだっ広い実験場に放りこんだモノはどうしてもごく普通の少女としか思えなかった。だから実験場内のマイクにスイッチを入れることはとりたてて危険なこととは思えなかった。
「何か喚いてるぜ」
 スピーカーから聞こえた音は言葉にはなっていなかった。泣き叫ぶ声のようではあったが、低く轟く獣の唸り声にも似ていたし、強風が広葉樹を揺さぶる音にも似ていた。耳にすればするほど恐怖という感情を純粋に湧き上がらせるような音だった。
「な、何だこいつ」
 スイッチを入れた保安部員は慌ててそれを戻した。暑苦しい防護服にぼやくだけだった室内の十人ほどの男達は初めて不安に駆られた。

「目標のATフィールド減衰。新たなATフィールドは拡大中、ターミナルドグマを覆っていきます!」
「発生源は!弐号機?まさか新たな使徒?!」
「わかりません。最下層のセンサが次々に沈黙してモニター不能。目標、初号機、再びロスト」
 シゲルの報告はまたもやほぞを噛むようなものでしかなかった。
「三佐、シックススチルドレンに異常が見られると報告が入っています」とマヤ。
「どういうこと?」
「そ、それが、妙な叫び声を上げているとかで」ミサトに答えながらマヤは第四実験場内の映像と音声を発令所につないだ。
「これは……」
 ミサトには判断がつきかねた。
 耳を押さえた手の指の間から血を流し、苦悶の表情を浮かべ何事かを叫び続けるシックススチルドレン。流れて来る声はとても十代の少女のものとは思えなかった。
「依然シックススチルドレンのパターンは青。ですがどの波長の電磁波、ATフィールドとも検出されていません」マコトがセンサを報告する。
「ふむ……共振しているのか……」冬月がゲンドウにつぶやく。
「危険は冒せん。葛城君、貴重なサンプルだがやむを得ん。処分しろ」
 ゲンドウは宣告した。

「綾波、どうしてここに。倒れたんじゃなかったの」
 確かに外部スピーカーを通してシンジは呼び掛けたのだが、その少女は初号機の方は見向きもしなかった。ただ表情の読み取れない赤い瞳をカヲルとその横に散らばるカヲルの背に生えていた翼の焦げた断片に向けるだけだった。
 シンジはカヲルの伏せられた頭がかすかに動いた気がした。そして次の瞬間カヲルの左肩に火花が散り、左腕が切り取られた。肩からは夥しい血が流れ出していたが、転がった左腕の切断面の血は流れるというよりは泡立っていた。
 鈍いうめき声と共にカヲルが背をのけぞらせた。シンジがカヲルの部屋で見た月光に美しく輝いていた顔は複雑に歪んでいた。少女は微動だにしていない。
「く……ふ……は、はははは、あっははははは」
 カヲルの乾いた笑いがターミナルドグマに響いた。
「そうか、そういうことか、リリン。油断したよ」
 自嘲と、諦念と、怒りの混じった笑い。
 閃光。
 今度はレイの鼻の先で光った。わずかにレイがたじろぐ。即座に立ち上がるカヲル。
「それがっ、それが君の歌かっ、綾波レイっ!!」
 再び閃光。それはATフィールドの輝きと同じ色をしていた。今度はカヲルとレイの中央で火花が散った。同時に両者は後ろに跳躍し十五メートルほどの距離を取って正対した。
 出血の止まらない空虚な肩を気にするでもなく眼光鋭くレイから視線を逸らさないカヲル。全裸で直立しながら羞恥を表すことなく同じくカヲルを射貫くように見つめ続けるレイ。数秒おきに二人の間に弾ける火花と甲高い金属音。
 隙を窺おうとにらみ合う血の色を瞳に宿した二頭の獣がそこにいた。
 ようやくシンジは理解した。
 レイとカヲルが戦っているのだ。

 実験場管制室内の保安部員達には退避命令が出された。そのため彼らは実験場内の光景を見ずに済んだ。しかし発令所の高みに陣取る面々はモニターしていた。処置は正確になされねばならなず、誰かが確認せねばならない。
 ミサトは胸のクロスを握り締めながら見た。マコトとシゲルは凍りついたように見た。マヤは横目で盗み見るようにだが見た。冬月は後ろ手に組んだ手にわずかに力を込めながら見た。ゲンドウは胸の前で組んだ手を動かすことなく見た。
 彼らの前のスクリーンで、実験場隔壁に取り付けられた噴出口から液状の特殊樹脂が奔流となって流れ出すさまが映し出された。両手を側頭部にあてて髪を振り乱しながら叫び続けるマユミは何も気付いていないようであった。たとえ気付いたとしても同じだったかもしれない。彼女の位置にまで樹脂の先端が達してから、全身がその激流に呑み込まれるまで三秒と掛からなかった。最後まで樹脂の上にあったのは右手だったとマヤは記憶している。一瞬、空を掴むような仕草の右手首がエンジ色の樹脂からのぞいて見えていた。東洋系にしては白い肌とエンジ色とのコントラストがマヤの心に焼き付いた。だが現実のマユミの手はすぐに埋もれた。
 いいようのない叫び声は跡絶え、スピーカーから聞こえるのは液状の樹脂の吹き出す音だけになった。三十秒後には実験場内に流れ出た特殊樹脂は全て完全に硬化した。第拾八使徒は抵抗を示さずに固定された。

14

 静止したまま対峙する二人の前にシンジはすくんでしまった。初号機をそれ以上進められずにいた。発令所からは何もいってこなかった。何度呼び掛けてもつながらなかった。ミサトの声が聞きたい。いやこの際、父親の声でもいい。いつものような強圧的な命令でいい、叱責でもいい。
 どうすればいい、自らに問う。
 カヲル君を殺すんだ、ミサトの言葉を思い起こせばその答えが返る。
 だがセントラルドグマを降下中にシンジを支配していた激情は急速に退いていった。レイは生きている、カヲルは酷い怪我、そして二人は得体の知れない何らかの手段で戦っている。ではここにいるエヴァンゲリオンのパイロット、碇シンジはどうすればいい……。
 使徒、人類の敵。
 頭の中には繰り返しそのことがのしかかり、その度にシンジは胸に当てた右手をインダクションレバーに戻そうとした。そして指先がレバーに触れようとする度に弐号機を貫いた感触が甦り、静電気に弾かれるように右手を引っ込めてしまう。
 使徒との戦闘ではシンジはいつも無我夢中だった。エントリープラグのハッチをくぐる前に逡巡したことはあったが、一度乗りこんでパレットライフルを構えプログレッシブナイフを構えた後には迷っている暇などなかった。エヴァンゲリオンに放りこまれれば生きるためにあがくしかなかった。
 だが今この瞬間、自分は戦いの外にいる。おそらく自分が次にとる行動で勝敗が決まる。
 ──もう後悔はしたくない──
 ごくりと唾を飲む。
 ──逃げちゃ駄目だ──
 たちまち口が乾く。
 シンジにはレイもカヲルも敵とも味方とも考えられず、瞬きも忘れて目の前の二人とその間に炸裂する閃光を見つめ続けた。
 エヴァンゲリオンにはカヲルを殺す力がある。
 エヴァンゲリオンにはレイを殺す力がある。
 自分にはカヲルを殺す力がある。
 自分にはレイを殺す力がある。
 弐号機を貫いたように。

 音もなく翼が広がった。
 数十回の閃光がレイとカヲルとの間に生じた後、片方だけ残った背面の翼をカヲルが真横に広げた。白かった翼は血まみれのシャツと同様に赤黒く汚れていたが、血糊は粉のようになり先端から剥がれ落ちていった。かわりに少しずつ翼は白から鮮やかな朱色をまとい、それ自身が光り始めた。
 レイがカヲルの眉間に注がれていた視線を広げられた翼へとわずかにずらした。カヲルの目の前で立て続けに火花が散る。レイが右手を水平にカヲル目掛けて伸ばすと、その火花はさらに輝きを増し点る間隔を縮める。カヲルの前髪が数本閃光に同期をとって弾け飛ぶ。レイが踏み出す。一歩、また一歩。するとカヲルは口の端を緩めて微笑。
「綾波、避けてっ」
 シンジの警告は間に合わなかった。翼の輝き、シンジにはそれが先端から付け根に集まるように感じられた。翼から光が無くなると同時に割れ鐘のような音が響き、レイの足元から白色光が噴出した。レイは咄嗟に腕を目の前で組み合わせたが、よろめいて数歩後ずさるとうずくまった。カヲルはそれまで立っていた場所に出来ていた血溜りから赤い足跡をつけながらレイに歩み寄った。
 カヲルは自らの足元に目を押さえてうずくまるレイを見下ろすと、右手を頭上にかざした。カヲルの左肩から滴れた血がレイの白い背中に赤い点を作った。
 シンジが初号機を動かした。

 レイからカヲルを引き離そうとした初号機の右手はカヲルの右上方から薙ぎ払うように動いた。結果、カヲルの右腕を根元からもぎ取った。カヲルは数歩よろけたもののバランスを失わずに立ち続けた。
 カヲルの胸の辺りで何かが動くのがシンジの目に入った。裂けて垂れ下がったシャツの肩口かと思ったが、よく見ると胸ポケットのたわみだった。中から小鳥が顔を覗かせ、そのままぽとりとカヲルの足元に落ちた。浴びたカヲルの血が固まりかけて羽ばたくことが出来ないでいた。
 羽根を動かしもがく小鳥にしばらく視線を落としていたカヲルは、やがて何度となくシンジに見せた微笑みを初号機に向かって投げかけた。それは直前までレイと対峙していたとは思えない、少なくともシンジには殺気など全く感じられない優しい笑みに思えた。
「待っていたよ、シンジ君」
 カヲルの声がシンジに届いた。セントラルドグマ降下中は気付かなかったが、シンジはその声に違和感を覚えた。頭の中に直接響くかのように感じられたからだ。
「カヲル君、君は……どうして……」
「僕の定めさ」
「何をいってるんだよ、カヲル君。定めって何なの、アスカやレイを傷つけるのが定めだっていうの。カヲル君は、カヲル君は……本当に……使徒なの……」
 翼を持ちATフィールドを操ることの出来る存在、人間であろうはずがない。使徒、人類の敵、その目的はすなわちサードインパクトの招来。シンジはそう理解していた。だから涙が止まらなかった。
「なすべきをなす。人の定めと僕の定めとがどう交わろうとね」
「違う……そんなの嘘だ……誰がそんなこと……決めたんだよ……」
「そして定めの交点に歌が生まれる。アダムの歌などありはしなかったがそれは僕の定めのなすところさ」
「僕に答えてよ、カヲル君……僕は……僕は……」
「でも僕は君にあえてうれしかった」
 エントリープラグ、涙を拭う手はいらない。
 混ざり合う涙とLCLの屈折率の差がシンジの視界を微妙に歪める。その中にカヲルの笑顔が揺れていた。
 出会った時の夕日に染まった顔、彼の部屋で見た月明かりに照らされた顔、そしていま見えている血に汚れた顔。
 どれもが優しい笑顔。
 きれいだ、と思った。
「カヲル君、僕は」
 いいかけてカヲルの言葉に遮られるシンジ。
「好きだよ」
 そういってカヲルは目を閉じた。
 レイが覚束ない足取りながら立ち上がった。カヲルの喉元に火花がとんだ。
 微笑みを浮かべたままのカヲルの頭部が落ちた。既に両肩から大量に出血しているのに首からは戸惑うほどの血があふれた。両腕と頭部を失った血塗られた胴はなお二本の脚の上にあり、片方だけの翼が力強く伸びていた。
「シンジ君、下りてらっしゃい」
 今度はノイズがかなり混じった音声だけの通信だった。
「リツコさん……」

15

 初号機を跪かせ、シンジはその背部から露出させたエントリープラグから這い出た。血塗られてなお彫像のように立つカヲルの骸のもとへ、シンジはよろよろと進んだ。
 血溜りの中にはカヲルの頭部と右腕が転がっていた。頭部は、その顔を血の中に伏せる向きに転がっていたので、シンジからは見えなかった。見ようとは思わなかった。それでもシンジには、その首が笑っているのだとわかっていた。
 火花が走ってカヲルの首が切断される瞬間、そこに笑顔があったのをシンジは見ていたからだ。
 レイはカヲルの死体を見据えながら身じろぎもせずに立っていた。白磁のような肌はカヲルの返り血でまだらに汚れていたが、意にも留めていないようであった。シンジがレイの名を呼んだが、やはり立ち尽くしたままだった。
 ターミナルドグマにヒールの音が響いた。シンジが音の方を振り向くと、リツコが毛布を手にして歩み寄って来る所だった。
 かつ、かつ、かつ、かつ、かつ、ぴちゃ。
 最後の一歩、赤い飛沫が白衣の裾を汚したことに気付いたリツコは顔をしかめた。携えた毛布を全裸のレイの肩にかけると、呆然としたシンジを見下ろしていった。
「ごくろうさま。上層との連絡が回復するまでしばらくかかります。それまで向こうのシャルターで休んでいて」
 毛布を纏っただけのレイの肩を抱きかかえるようにして、リツコは巨大なヘブンズドアの方に歩きだした。その後ろから、シンジは叫んだ。
「リツコさんっ、綾波は!」
 そして絞り出すようにして、
「……綾波は……四人目なんですか……」
 顔だけシンジの方に振り向いたリツコは無言で首をわずかに縦にした。立ち止まることはせず、そのままレイを連れて立ち去った。
 シンジは取り残された。膝から力が抜けた。倒れ込んだ。血がはねた。青と白のプラグスーツが赤く汚れた。そばでシジュウカラがもがいていることにもシンジはしばらく気が付かなかった。

 この男が動じるのは何年ぶりのことかな。
 当事者の一人としてはいささか無責任な感想が、ゲンドウに向かい合う冬月の頭に浮かんだ。それほどゲンドウには普段の氷のような冷静さが見られなかった。
「ゼーレの面々は皆目消息がつかめん。もっともそれも羨むようなものではないだろう。自業自得だな」
 冬月の口調は他人事のようだった。この場の二人にとってゼーレの運命など、それがネルフの上部組織であり、国連をも牛耳る力を持っていたとしても、もうどうでもいいことだった。それどころではなかった。
 マユミを固定した特殊樹脂が床から1メートルほどためられた第四実験場は、マユミにあてがわれた部屋から一冊の本が発見された日から、ごく限られた職員以外は立ち入り禁止になった。リツコは連日のように実験場に出入りしていたが、ミサトには許可が下りなかった。もっともミサト自身は入る気はしなかったが。
 最初は超音波が用いられた。樹脂からのエコーを解析した結果からは中から人体の形状の影が認められた。次はX線。エコーの示す所には、しかし骨格も筋肉も認められなかった。
 実際に樹脂を削りだすまでに更に二日の間が置かれた。これはレイのエヴァンゲリオン初号機とのシンクロが安定するまでにかかった時間である。万一を考え、隣接する第五実験場に起動状態のレイが乗る初号機が待機していた。この組み合わせしかなかった。弐号機の損傷は酷く、アスカは眠り続けたままだった。シンジは虚脱状態だった。
 樹脂の中からはマユミの体格そのままの空洞が現れた。超音波のエコーが空洞を確認できなかったのは、その空洞の表面が予期せぬ変性を受けていたためだった。その状態から、ごく短時間、数千度の高温になっていたことはわかった。それしかわからなかった。
 第拾八使徒山岸マユミに関する以上のような報告が、マユミの部屋から発見された一冊の本の炭素同位体測定結果とあわせて、ゲンドウを驚愕させていた。
「シナリオは潰えた……海図なき航海か……」ゲンドウを知る者にはにわかには信じ難い弱音である。
「だが……二千年前の羊皮紙があのような状態にあるなど……」
 口にした冬月も、口調から不安は除けなかった。特殊樹脂中から忽然と消失する使徒に物理法則が通じるだろうか。
「ありうる……だろう……」
 ゲンドウの声はかすれていた。執務机の上に握っていた両の手の拳は小刻みに震えていた。
「ならば碇よ、認めるか」
 冬月が卓上のレポートをかざしていった。
「これが死海文書だと認めるのか。これによるならば我らの未来は白紙だ。認めるのか」
 ゲンドウは答えなかった。答えられなかった。

16

「カヲル」
 目の前にそびえ立つ半壊の女神像。
「ばか」
 その女神像には首が無い。
「ばか……」
 湖と化した爆発孔の波打ち際にマユミは一人しゃがんでニケの像を見上げていた。とうとうマユミは一人になった。もはや本も持ってはいなかった。一人で聞く太陽の歌は何もかも押し潰してしまうような耐え難いさびしさで彼女に迫ってきた。

 第一部:終


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ver 1.0
98/03/07
copyright くわたろ 1998