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人類補完計画

 指先が目頭をなぞり、流した涙が乾いていたことを知った。
 泣き続ける力が私には欠けている。
 目を開き、耳をすまし、独房の暗闇を確認した。
 私には闇と語らう能力がある。
 闇は鮮烈に誘った。静寂は能弁に駆り立てた。無に抱かれた私は流されるまま過去へ向かった。
 逡巡、蹉跌、一つ一つ過去の自分の愚かさを遡及する度に、胸の中では何かが消えていった。枯れていったのであるならば、それは涙だ。
 だから、乾いた脳は、光に飢えた蛾のように、ある一点を目掛けて飛ぶことを止められなかった。
 やがて、答えが出た。
 しばらく、それに酔った。
 そして、黒一色の独房の中、扉の隙間からの光条の上にのみ色彩が甦った。
 拘禁は解かれ、その前に答えは出た。いずれを歓ぶべきだろうか。
 光の上に影を作っているのは顔を知らないスタッフだった。
「わかってるわ、MAGIの自律防御でしょ」
 碇ゲンドウではなかった。
 総司令ともなれば、さぞ今は忙しいのだろう。こんなところに自ら来るはずもない。私が捨てられた女であることを補強する現実だ。
 私を闇に捨てた男が再び私を光の元へ引きずり出すのは、男にとって最後の瞬間まで必要であるMAGIという第七世代人工知能の保守をさせるために過ぎない。
 赦されるでなく、ただ拘禁を解かれ任務を与えられると告げられた時、私の口は私の心を偽れなかった。
「……エゴイストな人ね……」
 それは妙に濡れた声だった。
 私はこれほど諦めを表に出す類の人間だったろうか。
 澱んだ空気のせいだろう。私には諦めるつもりなど無いのだから。
 暗闇に馴れた目には通路の淡い照明も眩しかった。
 独房を出されて、まずは城に戻った。散らばったプリントアウトも吸いさしの残った灰皿も元のままだった。この部屋は赤木リツコの城なのだから、私の許可なしには誰も入れないのだから、当たり前だ。
 いや、私以外にただ一人、この城に足を踏み入れることの出来る人間がいる。碇ゲンドウが、私の出した答えが何であるかを気付いているとしたら、ここの端末からサルベージ体の人格定着状況についての情報を引き出したかもしれない。
 だが、その形跡はなかった。
 何もかも、私が独房に入った時のままにあった。
 全てが元のままの空間は、時間というものを忘れさせる。
 椅子に掛けてあったままの白衣に袖を通す。
 自分の白衣に糊を当てられなかった間にも、世界は、ネルフは、私と私の部屋を捨てて動いていた。
 私が愛してしまった男、私を捨てた男、碇ゲンドウを中心に、世界は補完計画へと動いていた。彼が私に何らこだわりを持っていない今、私が闇と戯れていようと世界が動くのは当然のことだった。
 そしてまた碇ゲンドウという渦は私を引き寄せようとしている。
 そして私はここにいる。闇は教えてくれた。もう渦に溺れることはない。
「母さん、気分はどう?」
 デスクの上で半年ほど電源を落とさずに点り続けているモニターの一つが、MAGIの陥りつつある状況を教えてくれた。
 五台のコピーによるクラッキング。演算速度の面ではオリジナルMAGIはやや劣勢といえた。部下の対応も後手に回っていた。
「また死んでみる?」
 MAGIオリジナルの陥落はネルフ本部占拠と同義であることは認めざるを得ないのだろう、エヴァンゲリオン初号機を有する碇ゲンドウであっても。
 実にいいタイミングだ。
 この程度はしのげるだろう。
 第拾壱使徒にはMAGIをほとんど占拠されかけた。今の状況はあの時に比べればはるかにいい。スピードはこちらが不利だが相手の打つ手は完全に予測可能であるし、こちらの守るべき領域と放棄可能な領域も、第拾壱使徒侵入以来、何度もシミュレーションを繰り返した。防壁の展開には余裕をもって間に合うだろう。
 だからか、私はメンソールを一本くわえていた。
 ライターの火花、揺れる炎、先を焦がす暗いおき火。
 最初の一口、ゆるゆると煙が立ち昇った。
 吸っていなかったのは一月にも満たない期間だけであったというのに、とても甘美な、とろけるような一服だった。
 私の脳髄を痺れさせた紫煙は、天井にたまると、ゆっくりと部屋全体に拡散していった。
 不可逆過程だ。

 暗闇は沈黙という言葉で私に饒舌に語りかけてきた。
 その中で私はあらゆる可能性を考えることができた。
 ネルフ、その前身ゲヒルン、その悲願のE計画。
 輝ける新世紀、新たな人類、エヴァンゲリオン。
 人類補完計画。
「もう終わりよ、母さん」
 もう答えは出た。
 綾波レイも、碇ゲンドウも。
 もう。
 闇との語らいは私に答えを見せてくれた。
 だから私は独房を出ている。


 端末一つを携えて、MAGIのMPUブースへと向かった。
 MAGIとはメルキオール、バルタザール、カスパーの三つの大きな演算単位から成り立つトロイカだ。走らぬ馬車に意味など無い。
 私が携行端末を中核部へと直接結線した時には、三頭の内の二頭は既に走る方向を見失っていた。
「そっちは違うわ、母さん」
 まずは波状的に続けられている五つのMAGIコピーによる不正規侵入を排除しなければならない。
 侵入経路はほとんど全ての外部端末に渡っていた。攻撃パターンから見てそのうちの約半分は五つの内の一つだけが担当しているらしい。
 攻勢圧力差はそのまま綻びへとつながる。
 他愛無いものだ。
 手法もクラシカルなものだった。前もって組み上げられた防壁をアレンジすることなくぶつけるだけで済むだろう。
 それで元に戻ってしまうのだ。
 所詮はロジックだけの世界。リセット可能な世界。
「かあさん、また綺麗になってゆくのね」
 吐息をつくあいだにも膨大なステップがMAGIの中では動いている。
 私がカスパーを拠点に展開した防壁はメルキオール、バルタザールへの侵入者をセグメントの一つづつから排除していった。
 これとて再侵攻される懼れはある。無限小の確率で妥協するのだが。
 ステップ毎にMAGIは元の姿へと戻ろうとしていた。
 人格移植OS、MAGI。焼きつけられた私の母、赤木ナオコの三つのエゴ。
 少なくともコギト・エルゴ・スムという詭弁はクリアしているロジックだけの存在。
 老いを知らず、熱力学の法則をものともせずに走り続ける、母の生き様、演算の様を見るにつけ、最近の私は皮肉な気分に囚われることが多い。
 なぜなら人間であった母は自ら死を選んだからだ。
 迷走から立ち直りつつある目の前のトロイカの電算回路も、もしかしたら死へと走ることを望むものがあるのかもしれない。
 微妙なケースがあった。
 第拾壱使徒として、その顛末をネルフ内だけに秘匿されたケースだ。
 あの時、母が何を感じていたのか。予備サルベージ体を破壊した責を問われて入った独房の闇にいた私の心をとらえた命題の一つだ。
 使徒に演算回路をレイプされネルフ本部もろとも自爆を実行に移そうとした母。死を望むバルタザール、メルキオールと、生にしがみつくカスパーの葛藤は、私が介入しなければ前者が勝利していた。
 はたして母が本当に願っていたのはどちらだろう。
 ロジックだけの存在なのだから答えはあるはずだ。
 だが、今も私は母のロジックを完全にトレースすることは出来ずにいる。
 私が未だに生身の女であるからだろうか。
 生身の赤木ナオコが今の私の立場にあれば、どういうロジックを展開するだろう。
 死者のロジックは追えないものの、私に対する反応は想像がつく。
 笑うのだろう。
 なぜ防壁展開などするのかと。
「馬鹿なこと……してる……」
 物言わぬMAGIはプログラムをこなしていた。
 メルキオール、バルタザールとも外部からの侵入は排除できたようだった。
 後は内部に取りついた膿の排除だ。展開中の防壁に走査プログラムを許容するように修整を施す。
 タイプしたコマンドへの応答が一瞬間延びしたように思えた。
 たまたまタスクの重なりが大きくなったのであろう。世界屈指の単位時間当り演算量を誇るMAGIとはいえ、これまでにもあったことで、何とも人間らしい仕草にも思える。
 ふと、母を感じた。
 男と女はロジックではない、母が自ら死んだ日に私に遺した言葉だ。
 母は碇ゲンドウを愛していた。
 二人は愛しあっていたように見えた。
 かつて私は碇ゲンドウに情夫としての何事かを期待し、今もなお碇ゲンドウが私に期待しているものは私の職能だ。
 私達二人が愛しあっているか否か、ロジックだけの母の判断はきっと興味深いものであるに違いない。
 黒光りするMPUのカバーを撫でてみた。
 金属のカバーは冷たかった。

 五年前、またあした、と発令所で私と別れてから六時間後、母はこのブースからさほど離れていない発令所で身を投げて死んだ。
 状況から、綾波レイと名付けられたサルベージ体を絞殺した後の衝動的な自殺とされた。
 今、母は冷たい。
 今、母はロジックだけで延々と冷たく生き続けている。
 死への道が拓けた綾波レイ以下といえる。
 ファーストコアに対するディープサルベージはこれ以上は行われないだろう。少なくとも私はその気が無い。私を除いてその作業を遂行できるスタッフはいないから、サルベージ体綾波レイは現在活動中のモノが最後だ。
 それ以外は既に壊してある。
 よって、綾波レイ人格は、更なる継承を重ねることは不可能だ。
 初めて綾波レイ人格は永遠の死の可能性を手にした。
 だが、母の歪められた三つのペルソナはどうだろう。
 コピーされ、世界遍く存在する母。これ以上は、どうやっても、死ぬことは出来ないだろう。MAGI分散化計画自体は生前の母がサインを通していたものだ。これは死を選んだ母と矛盾する。
 衝動的な自殺という。何故か。
 答えを知っていたであろうサルベージ体は、頭蓋の割れた母の近くで、首に痣を残して息絶えていた。
 その後、綾波レイ人格を宿した次代のサルベージ体へのブレインスキャンを、サルベージ体管理者として提案したことがあった。
 だが、それは、止められた。
 止めたのは、碇ゲンドウだった。
 その時は理由がわからなかったが、今ではその意図も知れた。
 ビープ音に手元の端末を見ると、MAGIプロテクト作業は終わっていた。Bダナン型防壁展開完了。チンパンジーの出鱈目にタイプした文字列がシェイクスピアの戯曲と一致するよりも破られる確率は低い。
 コピーとそれを扱う人間は戦況を把握はしているようで再侵攻する様子が無い。MAGI同士の共食いは、オリジナルがその存在を守ったところで痛み分けというところか。
 こちらから撃って出るというプランが私の中で芽生えた。
 MAGI中核部の設置されている、錯綜するケーブルがまるで洞窟の壁のように四方を覆っている窮屈な空間に身を屈めているにしては、随分と攻撃的な対応を思いついたものだ。
 可能だろうか。
 不可能ではない。
 必要だろうか。
 不要。
「さて……」
 可能不可能を検討するのは私の仕事だ。
 要不要を決定するのは私ではない。ネルフ総司令碇ゲンドウ、または副司令冬月コウゾウ。あるいは少々状況を曲げて解釈し、作戦部長葛城ミサト。
 彼らに可能性があることを伝えるのが私の仕事だ。
 伝える相手がミサトなら、攻撃を即断するだろう。他の人間にしても、あるいはそうかもしれない。
 連絡は取れる。
 手元の端末で可能だ。白衣のポケットにボールペンと一緒に入っている携帯電話でもいい。簡単なことだ。
 ごく簡単なことだ。
「どう思う?」
 答えは瞬時に出た。メルキオール、バルタザール、カスパー、三者一致。成功確率72%、直ちに攻撃すべし。
「母さん、元気ね」
 ならばと別のプランをMAGIに検討させる。成功確率75%。
 次々と条件を付加し、設定を変えてシミュレートを実行した。その度に、プランは私が闇と語らっていたものに近づいていった。
 都合、二十をシミュレートした。最後に試したものは最も高い確率を示した。92.5%。
 その時、私は成功確率だけを検討させ、目的の妥当性は一切検証させなかった。
 独房の中で、既に結論は出していた。
「これをやれというの……」
 だが、結論を出し、MAGIによりその確実性を検証させながら、なおも私は迷っていたともいえる。
 しばらく時間を使った。
 結論は動かなかった。
「そう……」
 総司令にも作戦部長にも連絡せずに私はそこを離れることとした。
 これが私のロジックのたどり着いた答えだった。
 端末の接続を切る前に、ネルフを取り巻く状況を確認する。
 事態の進行は急だった。本部周辺の観測所を皮切りに防御システムの低レベルでの異常が複数箇所で同時に発生していた。
「母さん、またあとでね」
 侵入は物理的手段をとりはじめていた。MAGIはともかくネルフという組織はその本部施設の脆弱な点からも、こういった事態を想定して創られたものではない。何をするにしろ忙しくなる。
 結局は、時間に急かされ、行動に移ることになった。


 MAGIのMPUブースから更に本部の下層への道を進むあいだ、一本、また一本と、私は煙草を灰にしていった。
 歩きながらというのは、味気無いものだった。
 本当は煙草よりもアルコールが欲しかった。酔うためではない。紛らわせるために。
 高揚と恐怖は、相反する二つは、私の歩調をせわしなくさせていた。
 最初のエレベーターの中で携帯電話を取り出した時の私は、碇ゲンドウへの秘匿回線を開くつもりでいたようだ。
 だが、しなかった。
 ベルが鳴り、エレベーターの扉が開く。
 Dクラスのスタッフが、待ち受けている運命も知らず通路を歩いていた。
 見知った人間にも一人すれ違った。父が生きていれば今はこの位であろうという年配の男は会釈をし、久しぶりですねといって、歩いていった。
 三番目の感情が生まれた。違う、それは嘘だ。無視しようとしていた感情が無視出来なくなっただけだ。
 罪悪感は速まっていた歩みを遅くさせた。
 次に入ったエレベーターで、私の左手は携帯電話を持ち、私の右手は発令所にいるはずの直属のスタッフである伊吹マヤの番号を押そうとしていた。
 だが、手は、そこで止まった。
 答えは出たのだ。その必要はない。
 見上げれば階層を示す数字が一つづつ切り替わっていく。
 これが私の罪の重さを測っているのだとしたら。
 だとしたら、もう一度エレベーターを上がることが出来るだろうか。出来たとして、その時の私はどれだけの罪を背負っているのだろうか。
 ベルが鳴り、エレベーターが開く。
 足はすっかり重くなっていた。
 それでも私は歩いた。
 最後のエレベーターに乗り込む。
 扉が閉まった拍子にどっと壁にもたれてしまった。
 かちかちと切り替わる数字を見ながら、ミサトに連絡を入れなくてはという思いが、波のように繰り返し私の心を洗った。
 だが、手は、動かなかった。
 答えは出たのだ。
 ちん、とベルが鳴った時、私の両手は顔を覆っていた。
 それでも私は歩いた。
 答えは出たのだ。もう、答えは出たのだ。
 短い距離を、足を引きずるように進み、保安照合を要求されるダミープラント深奥のゲートに立つ。
 私のカードはセキュリティに対して有効だった。白衣の中にしのばせた拳銃もチェックに引っ掛からなかった。当然だ。MAGI自律防御のついでに操作しておいたのだから。だから扉が開く。
 もう、私を遮る扉は無い。
 ついに私は碇ゲンドウに先んじた。
 先んじてたどり着いてしまった。
「しばらくね、レイ」
 LCL充填槽には、私の破壊した予備サルベージ体の肉片と共に漂う、綾波レイ人格を宿した最後のサルベージ体綾波レイがいた。私の声に、サルベージ体はその蒼銀の髪を電解液になびかせながら、ゆっくりと振り返った。
 葡萄酒のように赤い瞳が私を捉えた。
 裏切りの使徒を裁く赤。
「お久しぶりです、赤木博士」
 水槽内のマイクがノイズを混ぜて声を拾った。

 第拾六使徒との戦いはエヴァンゲリオン零号機の自爆を以ってして我々ネルフの勝利に終わった。
 零号機を操縦していたのはファーストチルドレン。
 その正体は二代目のファーストコアサルベージ体。
 それを操縦していたもの、綾波レイ人格。
 目の前で肺胞内LCL除去段階にあるサルベージ体にも綾波レイ人格はある。だが、それは記憶定着が不完全な現段階において、過去の人格をそのまま継承するものではない。
 記憶定着作業中、効率が上がるにもかかわらずブレインスキャンは許されていなかった。またも碇ゲンドウによってだ。自分自身に都合のいい記憶操作を行いたかったのだろう。それがミスだ。
 後悔するがいい。
 己の甘さを償うがいい。
「よく聞きなさい、レイ」
 LCLを滴らせながら歩み寄る全裸のサルベージ体。この綾波レイ人格の器を操作するに最も長けているのは私だということを忘れ、あの程度のクラッキングに対処させるために私を独房から出したことを思い知るがいい。
「今ぞ契約の日、よ。碇司令があなたのレゾンデートルを具現すべく、まもなくここにやってくるわ」
 うなずく少女のかたち。
 人形の実直。
「補完計画発動に必要な鍵、知ってるわね?」
「アダムとリリス」
 刷り込まれた言葉。
 人形の反射。
「そう。そのどちらが欠けてもいけないわ。そして鍵だけでは駄目。依代に足る存在が必要。それは何?」
「コアを宿すモノ」
「それは何?」
「エヴァ」
 人形。
「そう。鑓が失われた今ではエヴァが不可欠。そして、レイ。残念だけどあなたでは、たとえアダムを食んだところで鍵にも依代にもなりはしないのよ。よく覚えておきなさい」
「はい。覚えさせてください」
「そうね」
 これで終りだ。
 最後となる記憶定着作業は数分で済んだ。
 サルベージ体に備わる、人類の未来を左右し得る最大最強の忌むべき能力は、これで封じられた。
 作業中、サルベージ体の真紅の瞳は、私を射貫くような輝きを放ち続けていた。
 そして終わった。
「終わったわ、レイ……」
 終わったのだ、もう。
 スキャンの結果は作業の成功を告げていた。それで充分だった。後遺症への措置などどうしてする必要があるだろう、銃に込めた弾は六発、私とサルベージ体には多すぎるくらいだ。サルベージ体はもはや自分が何者であるかを知らないのだから。
 そんな木偶人形に過ぎないサルベージ体が私に手を差し伸べる。
 私はといえば両手で顔を覆い震えている。
 なぜだ。震えが止まらない。内側に大きな虚を抱えたような、独房の中に置いてきたはずのこの感覚はどういうことだ。
 私は碇ゲンドウを出し抜いた。
 私は人類補完計画を阻止した。
 私の取った行動は、ネルフ構成員からは呪われるにしろ、一方的に補完計画に消費されるはずだった人類の大部分からは賞賛される行為であるはずだ。私を捨てた碇ゲンドウは、その生涯の目標への路を絶たれ、失意の内に失脚するはずだ。
 歓ぶべきことではないか。
 だというのに、なぜ私は涙を流しているのだろう。
 なぜ、その涙が、歓喜とは程遠いもので私の胸を穿つのだろう。
 そして、なぜ、サルベージ体の透き通るように白い手が私に差し伸べられているのだろう。
 ダミープラント内の二十七の予備サルベージ体を一度に破壊し、今また後遺症の危険を無視した矯正を施したこの私に。
 涙を枯らすことのできないこの私に。


「これは、なみだ」
 サルベージ体は涙を知っていた。
「赤木博士」
 かすかな声でサルベージ体がたずねた。
「私は涙を流したことがあります。初めて涙を流した時、初めてでないように感じました。それはなぜだったのでしょうか」
 私の涙は、サルベージ体の白く小さな指を濡らしていた。
 その指先は、ゆっくりと頬を下からなぞり、睫毛に留まっていた涙をこぼれさせた。
 なんだというのだ、この現象は。
 涙を拭う、そんな行為を記憶させた覚えはない。涙、そんなものを流す情動を植え付ける時間はなかったはず。
 信じられない。
「レイ……それは……」
 白い指は滑らかだった。
 赤い瞳は容赦無かった。
 信じ難い事実だが、まさに眼前で進行している以上、受け容れざるを得なかった。
 その意味するところも。
 サルベージ体は恐るべき告白をなすことで、情夫と属する組織に対する背信などとは比べ物にならない罪状を以ってして、私を断罪していた。
「それは……」
 涙。
 それは二人目のあなたの記憶。
 碇ゲンドウが書き込むことを拒んだ記憶。
 ネルフに戦力として消費されていった二人目のあなたの、おそらくは最も人間に歩み寄った瞬間に得た記憶。
 記憶。
 綾波レイというメカニズムは、記憶を、感情を、それが後天的に獲得した情報であっても異なる個体の間で継承してゆく能力を、既に有していたというのか。
 それは狂気の補完計画に代わり、人類を次なる段階へと導く新たな不死の可能性。
 嫉妬に狂った私は、母が目指した新しい人類の進化の道を、ダミープラントを破壊することで根こそぎ葬り去ってしまっていたというのか。
「レイ、あなたはもう……」
 最後の晩餐に、救いの御子を前にして、裏切りの使徒は何を思ったのだろう。
 世に伝わる書は彼を告発するのみだ。
 彼の心は知れない。残る事実は、その信念がローマの貨幣で購われた時、自ら首を括るに終わったということだ。
「碇司令、もう、もうどうしようもありません」
 サルベージ体の眼差しに耐えられず、私は無様に逃げ出していた。

 あちこちのシャッターは既に物理的に閉鎖されており、電子的な解錠はならなかった。
 闇雲に駆け、閉ざされた扉に突き当たる度に出鱈目に曲がっていた。たどり着いたのは忘れ去られた資材搬入通路の行き止まりだった。
 汚れた壁に手を付いて肩で息をしているうちに、戦闘配置を告げるアナウンスが遠くで鳴り響いていた。
 もう遅い。もうネルフ最大の切り札は、私が、たった今、この手で永遠に封じてしまった。ネルフの活路は、パイロットの精神状態からすれば起動するかも怪しい二体のエヴァによる反撃しか残されていない。
 侵入者、おそらくは委員会の意をうけた日本国戦略自衛隊。仮にも一国の軍隊だ。エヴァに拠らずしてネルフに勝利はない。
 そして私には見える。ミサトの姿が。偽善に歪められた補完計画が醜い女の嫉妬によって頓挫した今になっても、信念を貫き戦おうとするミサトの姿が。
 だからエヴァが出る。
 そして私には見える。野辺山の再現だ。委員会はもはや第拾参使徒のような偽装の手間は取るまい、手にあるエヴァを直接投入するに違いない。使徒迎撃用決戦兵器エヴァンゲリオンが牙を剥き互いに食らいあうその時に、人間などその下で立ち尽くすだけの存在でしかない。ミサトが生き残るのか、まさに神のみぞ知ることだ。
 だが、委員会、ネルフ、どちらが生き残るにせよ碇ゲンドウに未来は無い。それは私が確定した。私の未来などもとより無い。それはもう捨てたのだ。
 それなのに、涙だけは止まらない。
 まだこだわっているのか、まだ愛しているのか。
 なぜ私は捨てることが出来ないのだ、碇ゲンドウに出来たというのに。
 電源が落ちた。
 闇が来た。
 あの人はこだわっている。そんなことはわかっている。私でない人にその心の全てが向けられているだけ。そんなことはわかっている。闇に囁かれるまでもない。
「やめて」
 どうやってもどうしようもないこと。
 男と女。
 ロジック以前の行為。
「やめて、私は」
 闇は饒舌だった。
 独房の時以上に何もかもを暴きたてた。
 目を閉じたところで闇は去りはしない。
 一度でも闇に逃げ込めば、闇はもう放してくれない。
 がたん。
 何かに躓き転ぶ。
 かび臭い埃にむせる。
 かすかに聞こえてくるのは銃声だろうか。
 あれは悲鳴だろうか。久しぶりですねとこの私に声を掛けてくれたあの初老の男は、まだ生きているのだろうか。
 床についた手から振動が伝わる。くぐもった爆発音が届く。侵入者はバリケードを爆破しようとしている。それともこれはネルフ側の行動か。
 がたん。
 なぜ私はこんな所にいる。
 携帯電話のコール音。
 慌てて白衣のポケットを探るがそこには携帯電話も銃も無い。転んだ拍子に落としたのだ。暗がりに床を手探りしているうちに音が跡絶える。
 これは誰が。
 ひょっとして私は捨てられてなどいなかったのか。
 まさか。
 いや、でも。
 大きな振動に埃が舞い上がる。
 過去が闇の中に浮かび上がる。
 鮮やかに。
 母が手掛けて未完に終わったエヴァ零号機を再設計する際に標準値とした、二代目綾波レイ人格を有するサルベージ体。汎用のエヴァ駆動キーとしてのダウンサンプリング綾波レイ人格、ダミープラグ。LCL槽に漂う破壊された二十七の予備体の断片。ブレインスキャンの空白を衝いて記憶矯正をしてしまった最後のサルベージ体の白い指先と赤い瞳。
 綾波レイを綾波レイを綾波レイを。
 あの人のために。
 なぜ。

 闇の中を走った。
 切れ切れに思い出すのは、五年前の、母の血のこびりついた発令所の一角だった。
 なぜ母が自ら頭蓋を割らねばならなかったのか、私は理解できたような気がした。
 身を投げる場所がわかっているなら、今の私も、そこを目指しているはずなのだ。
 闇は続いた。
 どこまでも続いた。
 涙は枯れてくれなかった。

 end


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ver 1.00
1999/05/25
copyright くわたろ 1999