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Evangelion

 昼間から鴉が甲高く鳴いている。一羽や二羽じゃない大合唱は、一度気にしだすとうるさいなんてもんじゃない。
 ここは雑木林の端だから近くに巣でもあるんだろう。私有地じゃなさそうだし証拠写真を市役所に提出したら駆除してくれるかもしれない。だけどそもそも鴉って害鳥だったか、そこんところがうろ覚えだ。
 でもうるさいし気味が悪いのは確かだ。
 死体を啄ばんでいるって噂がある。これは確かなことじゃなくて、あくまで噂。真っ最中でも死体が六時間以上放置されるなんてことは無かったはずなんだ。少なくとも俺は見てない。
 ロケット砲の音が山の向こうから聞こえていた時は鴉の話をする人はいなかったように思う。過ぎ去った後で膨れ上がるのが噂なんだ。
 気がつくと始まっていて、わけがわからないうちに過ぎ去っていった──東京戦争について俺も含めてみんなが思っていることは大体こんなところだ。間の悪い人が死んで、ラッキーな人はそのままで、運の悪い建物が壊れて、そうでなければ無傷で残って、そして二十日間で停戦、平静が戻った。
 傷跡は生々しい。ジオフロントは剥き出しになったし、市内の通信網は停戦時点で八割減、主要路の半分が精密爆撃で耕された。個人的なことをいえば同じクラスだった惣流・アスカ・ラングレーと鈴原トウジは死んだし綾波レイはどこに行ったのかわからない。だけどその中でみんな元どおりの生活をしている、ないしはしようと努力している。
 復旧工事は急ピッチで進んでいる。避難していた人もかなり戻って来ている。新聞を見れば第一面は戦争関連っぽい見出しがあるけど、社会面にまでいくと戦争前と全く変わらない。俺がトウジと一緒に学校に通っていた時と同じようなニュースしか載ってない。新聞書く人も読む人も生き残ったラッキーな人なんだから今更思い出したくないのかもしれない。
 それだけ読んでると戦争って何だったのか、ネルフと戦自のどっちが勝ったのか、それさえもぼやけてくる。
 そして誰も噂にもしないけれど、もう一つはっきりしないことがある。
 本当に東京戦争は終わったのかということだ。
 この問題に比べれば鴉が太ったかどうかなんて、啄ばまれたかもしれない死んだ人には悪いけど些細なことなんだと思う。


「ブタ」
「五のワンペア」
「なんぢゃ、こりゃあっ」
 悪運の強い中学生、相田ケンスケというのは俺のことのはずなんだけどな。今日はどうも運が薄い。
「ワンペアを笑う者はワンペアに泣く。つーわけでケンちゃん、今日も海岸の方」
 訂正、負けるのは今日に限ったことじゃない。
「今更文句無しだぞ」
 確かにそうだ。眼鏡を外しても掛けなおして見ても俺の手はブタ。
 そんな俺を、にやけた顔でタケは見下ろす。
「負けは負け」
「ちっくしょー、このはったり野郎」
「んならもう一戦、バッテリパックの1セット賭けよ、どうする?」
「やめとく……」
 ポーカーといえど運だけでは勝てない。サマも口三味線もまだまだタケにはかなわない。ここは引き下がる。
「でもあそこでも、もう低空アプローチするラプターなんて撮れないと思う」
「気合だ気合」
「気合で召喚呪文唱えればF22が飛んで来るってかい」
「気合で見つけるんだってばよ」
 そういってタケはカードの横にあるデジカメを指で小突いた。レンズは俺のだけど二百万画素の本体はタケの金だ。そして撮った写真をニュースサイトに投稿して、謝礼は折半して小遣いに。こういうことが、この一月ほど続いている。
「海岸、よろしく。こっちは西の第七ヘリポート覗いてくるから」
「撤収作業中じゃないの、あそこ」
「UNマークの輸送機は最近ご無沙汰、ひょっとして珍しい機体が来るかもしれないし」
 タケぇ、そういうネタはカード配る前にいってくれぇ。
 学生鞄片手に口笛鳴らして教室を出ていくタケの鞄の中は教材なんて入っちゃいない。代わりに九十分録画可能なムービーカムがごてごてとレンズを付けて入っているんだろう。いいよな、ヘリポートの近くはコンビニもあるし涼めるし。
 俺の方はまた午後は被写体が出て来るのを待ちながらの日光浴。あーあ、袖の日焼け跡がまた一段とくっきりすることになる。誰のせい? 気紛れな国連軍のせいに決まってる。
「誰のせい? 自業自得でしょ」
 洞木にいわせると違うようだけど。
「相田君だけじゃなく竹山君まで授業さぼってまであんなものの写真撮って」
 洞木ヒカリには去年までの”委員長ぐせ”がだんだんと戻ってきた。停戦直後は気の抜けたみたいだったけど、最近はまた他人にお節介をやく元気が出てきたらしい。
 もっとも口で注意するだけだ。以前なら教師にチクるとかしてでも俺達がさぼるのを止めたはずだ。
 もう一つ、変わったといえば、はっきり本人から聞いたわけじゃないけどエヴァンゲリオンについてだ。彼女はあのネルフの人型兵器を嫌っている。
「あんなものっていうけどさ」
「あんなモノ、でしょう」
「まあ」
 気持ちはわからないでもない。
 洞木は惣流と仲がよかった。エヴァンゲリオンのために惣流はこの街に来たが、エヴァンゲリオンのために死んだともいえる。俺だって生き返るものなら惣流には生き返ってほしい。
 トウジのやつもエヴァンゲリオンに乗って死んでいる。
 それでも美しいものは美しい。俺はエヴァンゲリオンは美しいと思うしラプターも艦上型フランカーも美しいと思う。ハリアープラスはどうかと思うけどシュペールミラージュなら合格点。だから写真に撮る。投稿が掲載されるかどうかはおまけみたいなものだ。
 午後の授業の前に帰り支度をする俺を洞木は止めなかった。
 以前のような学級委員長ではないのだ。

 夕方まで粘ったが目標現れず本日戦果無し。今日は夜間撮影までする気力はない。
 無駄足に終わった日はなんとなく視線が下がる。いつものように雑木林の脇の坂道を自転車を押していた時のことだ。
 足下が先に目に止まった。
 ピクニックに行くにしてももうちょっと考えるだろうという、つっかけ履きに白い素足だった。
「あの……」
「へっ」
 顔を上げた拍子にずり落ちかけた眼鏡を直すと、目の前にはくせっ毛のショートヘアの、十一か十二くらいの女の子。どこかで会ったような気もする。
「あいださん?」
 白いワンピース、小さな肩に羽織った薄黄色のカーディガンを、胸の前に交差した手で押さえている。
「ええと、俺は相田だけども……」
「覚えてません? 中央病院801号室」
「ひょっとして……ミチルちゃん?」
「はい。あの時は、どうも」
 ぺこっと腰を折って礼をしたその子は鈴原ミチルだった。
「ああ、でも何か、随分と」
 前にトウジと一緒に病院に見舞った時、この子は枕の上に投げ出してるのが勿体無いくらいの長い髪だった。
「焦げちゃったんです」
 耳にかかる程度の髪をつまみながらつぶやくミチルの声には全然深刻そうな気配が無かった。だけど俺のクラスにも髪が焼けたやつがいないでもない。
「ひょっとして砲撃とか爆撃とか?」
 小さく肯くミチル。
「たまたま転院する途中で、車が巻き込まれちゃって」
「そりゃあ」
 災難だったなあ、とかいおうとして、だけど目の前の女の子の顔を見ているとなぜかそんな言葉は口の中で消えてしまった。
 わざわざ口にしてどうする、そう思ったわけだ。
 相田ケンスケはラッキーということでいい。生き残ったし。
 惣流はアンラッキーでトウジの奴も結局アンラッキーに終わった。綾波の場合、札は伏せられたままだけど、日ごとベットが吊り上がっていくようで今となってはめくられるのが怖い気がする。
 生き残って雑木林を散歩出来るまで怪我が治った鈴原ミチルはラッキーといえるだろうか。髪のことだけじゃない。彼女はトウジの妹だ。
「相田さん、この道知ってるんですか?」
 ベッドの上で胴体を固定されていた時と比べれば、元気そうではあるが。
「よく通る。山抜けると岸壁まですぐだし」
「泳ぐんですか?」
 泳がねーってば。
「船とか、写真撮ったり」
「そういえば相田さんカメラとか詳しいって、お兄ちゃんいってました」
「あ、ああ」
 どう切り返したらいいか迷ったけど、切り返す間もなかった。
「お兄ちゃん、誉めてました」
「俺のこと?」
「シャッターチャンスを逃さないハゲタカだっていってました」
「それ、誉めてない。ったくトウジの奴」
 口にしてからまずいかと思ったが、特に気にしてはいないように見えた。
「でも嬉しそうに話してました」
 彼女は笑ったままでいた。
「たいてい話すのは相田さんのことでした」
 笑ったまま過去形で続けた。
「病室で私は寝てて、お兄ちゃんは横に座って、そうしてそんな話を入院中ずっと聞いていました」
 それから二言三言話して、それじゃあと別れた。
 頭上で鴉が思い出したようにグアと鳴いて飛んでいった。追かけるように羽音が二度三度。鴉って夜行性だっけ、それとも巣に帰ってきたところなのか。などというどうでもいいことを考えてるうちに気付いたことが一つ。
「いけね……」
 不覚、鈴原ミチルを撮っていなかった。


 第三新東京市立第壱中学校は週休二日半。週に四日は午前午後で一日は午前中だけの時間割だ。洞木は真面目に全部出ている。彼女の自由。俺は多いと思ってるので全部出る気にはなれない。
 疚しいところなく午前中で授業を切り上げられる日の帰り道、鈴原ミチルのことを話すとタケは誤解を招きかねない表現を使った。
「お前、小学生も守備範囲?」
 いや、悪意に基づく誤解そのものだ。
「それとも思わずフェンス乗り越えて追いかけちゃうような可愛い子だったわけ?」
「なんか誤解してないか、タケ」
「ゴカイもロッカイもないわよお〜お」
「似てない」
「誰に似せようと思ったわけじゃないぞ」
「そうだ、似てないんだよな」
 夕闇迫る小道で出会った女の子を思い返す。
「なんか、兄貴とは雰囲気が違う」
「何つったっけか、その子」
「鈴原ミチル」
「トウジと違うってどんなふうに? ジャージ着てないとか?」
「さすがに」
「性格控えめ、とか?」
「そうだなあ、どっちかというと……」
 怪我は治ったんだよな、あんな所を歩いていたくらいだから。顔色も、別に悪いようには見えなかった。だけど、どうもな。
 病人くさい。
 比べるのがあの熱血兄貴だからか。
「まあ、控え目ってわけでもないけど、影が薄いっていうか、はかないっていうか」
「もしもしケンちゃん」
 タケは俺より頭半分くらい背が高い。そんなあいつに、にたりと笑って肩を叩かれると、もう勘弁してくれという気分になる。
「何だよ」
「ひょっとして本気でその子……」
「おいっ」
 ハンバーガーショップの前で大声を出している自分に気付いた。タケも俺と同じで根が小心者なんで、どちらともなくそそくさと中に入った。
 店内の端末でニュースサイトを眺めるとタケがヘリポートで撮った写真の一枚が使われていた。話題は当然次の一枚ということになる。
「御殿場まで行ければいいんだけども」
 もう氷しか入っていない紙コップを振りながらタケは嘆いた。振ったところで氷は融けないし、融けたってコーラが出て来るわけじゃないが。
「芦の湖から先、まだダメか」
「ダメダメのダメダメ」
 クリック二回で画面は交通情報になる。相変わらず御殿場演習場は検問の向こう側にあった。
「ダメ、か」
「ケンスケ、お前の父さんなら時間制限無しのカード取れないか?」
 親父にはしばらく会っていない。戦争前、エヴァンゲリオン参号機が空輸されてからほとんど毎日職場に泊まるようなことが続いて、端末を介しての話だけだった。
「取れないだろ、だいたい検問やってるのは国連停戦監視団でネルフがやってるんじゃないし」
 第一、親父に何て頼むんだ。
「UNねえ、誰か知り合いいない?」
「去年の、ちょっとだけいた転校生の女の子、親が国連職員だって話だけども」
「霧島?」
「じゃなくて、山岸っていう方。タケはおぼえてない?」
「あー、あの頼みごと出来そうにない方」
「そうそう、何か頼むのは悪いなって思っちゃうようなおとなしめの方」
「ははあ」
 タケはにやりと口を曲げた。嫌な予感。
「そういうのがケンスケのタイプか」
 どこをどう突っついたらそう考えられるんだ。
「関係ねえだろ」
「鈴原ミチルに山岸なんとか、どっちもおとなしめってのがポイントなんだろ、ケンスケは」
「どうでもいいけどな、トウジの妹ってのはつまり兄貴に死なれた女の子ってことになるんだぜ。ふざけるネタにするのはないんじゃないか」
 さすがにタケのコップを振る手が止まった。
「だな。トウジが生きてたら張り倒されるか」
「だろ」
 鈴原トウジというやつがいた。
 エヴァンゲリオン参号機搭乗員でもあった。東京戦争で戦死。黒枠に入ったトウジの写真も惣流のと並んで麗々しく慰霊祭の祭壇の上にあった。きっとそういうことなんだろう。
 親父に聞けば確かなんだろうが、未だに聞いていない。
 綾波レイの生死を確かめる気になれないのと同じだ。
「タケ、そんなことより週末の分担」
「決めよっか。えーと、広報された分だと哨戒飛行区域は……」
 航空機及び船舶の航行の支障にならないようにと国連艦隊の遊弋区域と艦上機の飛行区域は事前に発表されている。その通りに行われているかなんて俺には確かめようがないけど、一応それをもとにしてシャッターチャンスを作る。時々は発表された通りの編制の攻撃機が示威するような高度で飛んでくれるので、こういうアナウンスも無駄にしない方がいい。
 何より自分が何かでかいことやってるような雰囲気も出るというもの。
「また撮れるといいけどな、F22」
 そうとも、大物撮れることだってある。
「だよなあ、ありゃあ」
「美しかった」
「なあ」
 F22ラプターはタケと俺の趣味があう数少ない機体、飛行回数が少ないから稀少価値もある。
 先週はそんなのがなんとダイヤモンドを組んで海岸に沿って低空をパスするのをとらえてしまった。超の字のつくラッキーなのはいいとして、俺の運はあれで使い果たしたかもしれない。だったらこの先ポーカーで困る。
 撮った写真は当然その場で携行端末を使って即投稿した。採用されたけど実はタッチの差だったとは後で聞いた話。同じことを考えている人間は結構いるらしい。
 一度は出し抜いた。夢よ、もう一度。
 ただ近頃は別の機体が飛んでいるのを多く見かける。
「最近フランカーが多いな」
「チャイニーズフランカー」
「マニラを出た中国海軍の二隻目、あれも確かフランカー積んでた」
「哨戒飛行のローテーションに二隻分組み込まれたってことかあ」
 コップを持つタケの手の振りが少しだけ大きくなる。正直なのはいいことだよ、タケちゃん。せめてポーカーの時もこれくらい素直になってくれ。
「タケはあんま好きじゃないよな、フランカー」
「あれ、どうもコブラの鎌首みたいで気に入らない」
「首を傾げる優美な鶴なんだけどな」
「そうは思えない」
 どうもタケには並列複座型の印象が強すぎるらしい。艦上型は単座だってのにな、哀れ。


 相田竹山合同偵察班の週末に挙げた戦果を報告しよう。
 聞いて驚け、イントルーダー。まさかこんな掘り出し物が拝めるとは思わなかった。俺もタケも空いた口をふさぐ前にフォーカスを合わせようとしたんだけど、そんなふうにして撮った写真やムービーはやはりそれなりの出来でしかなかったようで、ニュースに使われるということはなかった。残念。
 だけどな、目に焼き付いてんだよな、これが。
 美しいってわけじゃないけど、愛敬あるあのフォルムが、また。
「あ・い・だ・くん」
 そちも見るか。雲間より舞い降りんとするA−6イントルーダーの姿を。近う寄れ。
「あらぬ方に視線をさ迷わせながらそういうふうにニヘランと笑うの止めた方がいいわよ」
「あれ、いいんちょ、俺って笑ってた?」
「馬鹿殿様夢見心地におわしますって感じでね。あ、写真なんか出さなくたっていいから」
 つれない、つれないぞぉ、洞木ぃ。
「それより相田君、週番じゃなかったかしら」
「んな堅いこと、洞木ももう委員長じゃないんだから」
「だったら”いいんちょ”も止めてよね。いいかげん」
「終身学級委員長」
「たーけーやーまーくん、それじゃ私ってまるで一生中学生みたいじゃない」
「でも洞木さん、学生服以外を着てるとこってイメージ湧かないんですけども」
「なっ、なによ。それ」
 タケってば、いってはならんことを。
「……ケンスケ。洞木さん、むくれて教室出てっちゃったんですけど」
「お前のせい」
「は?」
 洞木は洞木なりに変わろうとしている。きっかけがクラスメート二人の戦死という最低最悪のきっかけだけど、変わること自体は悪くないと思う。
 さて俺はどうしよう。
「何か傷つけること、いったか?」
「服のセンスが素のトロロ並に味気無いっていったようなもんだと思うけど、違うか?」
「は、」
 死んだ二人の写真を洞木に分けてあげたことがある。
 写真を本人に選ばせる時に、俺は前もって当たり障りのないカメラ目線でちょっとはにかんだ程度というような物をアルバムの前の方に並べておいた。
 前半でギブアップして、そこから選んでくれればと考えていた。
 でもアルバムをめくる手は止まらなかった。こっちに止める権利があるはずもなかった。
 後の方になるにつれ天真爛漫ぶりを存分に撒き散らす惣流とか、ガハハと大笑いするトウジのスナップがこれでもかと並んだ。食い入るようにそれを見つめる洞木がいつ泣き出すのか、横で見ていて気が気じゃなかった。
 そして洞木は目を潤ませはしたけど結局泣かなかった。もうさんざん泣いたからかもしれないし、それとも俺の前で泣きたくなかっただけなのかもしれないが、とにかく洞木は泣かずに二人の写真をそれぞれ一枚づつ選んで、俺に笑ってありがとうとまでいってくれた。
 あれから洞木の委員長ぐせもまた戻りだした。
 だけど前と同じじゃない。そしてその変化は自分で変わろうとしてのものだ。
 全部俺の想像だから全然当たっていないかもしれないけど。
 タケはそんなことは勿論知らない。
「しょうがない、今度の課題代わってやるかな」
 洞木が他人にやらせるなんてことないだろう。
「お気持ちは嬉しいのですがと断られてオワリってパターンと見た」
「ケンスケ、お前の方がよっぽどヤな奴」
「どーも」
 俺って変われるんだろうか。
 エヴァンゲリオンは美しい。
 惣流・アスカ・ラングレーは、鈴原トウジは、美しいエヴァンゲリオンに乗って死んだ。
「でさ、撮影プランさ、どうするよ」
「どうしよっか」
「またUNのヘリポートが一つ撤収するらしい」
「一般ニュースでもやってたやつだな」
「なあケンスケ、ここらでもっと衝撃的なの撮りたいって思ってんだけど」
「エヴァ、とか?」
「まさか」
 エヴァンゲリオンを撮るのは絶対に無理だろう。国連停戦監視団が展開してからは一度も姿を見せていないらしいし、ついでにそのパイロットについても似たようなもの。
 綾波レイ、エヴァンゲリオン零号機パイロット、こちらは東京戦争勃発以来行方不明。
 碇シンジ、エヴァンゲリオン初号機パイロット、こいつは停戦後の合同慰霊祭で遠目に見たっきり。
「まさかエヴァとはいわないけどよ」
「じゃあエヴァのパイロットとか?」
「おい、ケンスケなら惣流の写真なんてもう腐るほどあるだろ」
 口走った方も口走られた方も腐るという単語が引っ掛かってしまう。死んだにしてもついこのあいだという人間を語るのは難しい。
「じゃなくて、現役の、パイロットの、」
「碇って名前だっけ? でも写真撮って誰かありがたがったりするのか?」
「それ以前に一体どこにいるんだろうな、碇」
「どっかにいるんだろ。スクランブル発進の待機中とかじゃないの。停戦なってもそれくらいあるんじゃないの。よく知らんけど」
「待機中か……」
 碇も綾波も、いわれたらずっと待っているような性格ではある。
「なあ」
 と、今まで横に座っていたタケは俺の正面に椅子を持ってきた。
「ケンスケはあいつらと同じクラスだったから仲良かったみたいだけど、エヴァに乗れるってのは、あれだ、いわゆる一つの特殊技能ってやつなんだし」
 そうだよな。
 碇に綾波。
 惣流。
 そんでもって鈴原トウジ。


 後から思うと鴉がうるさい日でもあった。
 特にどこかへ何かを撮りに出かけるというでもなく、学校の帰りに何となく一人でゲーセンに寄って、千六百万色で描かれたクルスク平原で戦車十三台を吹っ飛ばして十四台目に吹っ飛ばされて、それなりに満足して外に出たところで出会った。
 道に落ちてた鴉の羽根を拾い上げる鈴原ミチルがいた。
 白いリボンのついた麦藁帽子。
「こんにちわ」
 拾った羽根をさすりながら、そんなことをいう。
 妙なことするやつだなと思った。
「ああ、どうしたの」
「今日は暑いですね」
 兄貴とは違うな、こいつ。
「まあ暑いねえ」
「だから、海まで行こうかなって」
「泳ぐの?」
「散歩です」
 そうだよな、手ぶらだし。
「相田さん、道わかりますか?」
「ビーチならガイドパネルにでてるよ」
「このあいだの雑木林の抜け道です。私、あの時あそこから海へ行こうと思ったけど、結局わかんなくて行けなかったんです」
「あ……」
 あんない? あそこまで? あんたと?
 等々、頼るような目線を使うミチルにいいたいことはあったはずなのだが。
「ああ、それじゃ一緒に行ったげよ」
 胸の辺りで祈るように握られた小さな手、そこに挟んだ黒い羽根を揺らしてみせて、ついでに小首を傾げてみせる鈴原ミチル。ねらってやってるなら末恐ろしい小学生だ。
 それともタケのいうとおり俺の守備範囲が広いんだろうか。
 恐い考えになってしまった。

 学校帰りの俺は鞄に制服。当たり前だ。
 小学生は制服じゃない。当たり前かな。
 ちょっと遅れてつっかけをかたかた鳴らしながらついてくるミチルは白い長袖、クリーム色のスカート。白系統というのがなんとなく、引っ掛かる。
「ミチルちゃん、白い服が好きなの?」
 笑うなら笑ってくれ。ほとんど知らない相手に間を持たせる話題なんてしれている。
 だけど本当に笑われるとちょっと堪えるな。
「俺、何か変なこといった?」振り返らずに聞いた。
「お兄ちゃんのこと考えてませんでしたか、相田さん」
「なんとなくね」
「どんな暑い日も黒いジャージ、見てる方が暑くなる格好で」
「ジャージはだけると黒いランニングだもんな、参った」
 振り返るとミチルは口を押さえて笑っていた。
「だから私までそんな格好するとか考えたんでしょ、お兄ちゃんって、ほんとにもう」
 胸のポケットから覗いている一本の鴉の羽根。白い服にそこだけ黒のワンポイント。
 何もねらってないんだろうな、多分。
 虫やら鳥やらの声を聞きながら雑木林を通り抜けた。いつもは自転車の道をミチルの歩幅に合わせたので小一時間ほどかかった。つっかけ履きの女の子では下りだからって走れともいえないから。
 ただ、最後の短い下り坂で、俺は早足になっていた。
 何故か苛々していた。
 もう潮の香りが届いていた。
 後ろを小走りでミチルが追いかけてきていた。
 抜け道は終わりでここから先は一応舗装された道だ。漁船の並ぶ岸壁へも行けるし磯へも行ける。歩きではかなり辛いが海保の巡視艇が繋留されているところへも一本道で行ける。
「はあ、はあ、」
 つっかけがようやくアスファルトを踏んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
 俺のせいだな。
「ここらは遊泳禁止なんだけど」
「泳ぎませんよ」
「最後まで聞く」
 ミチルはちょっと縮こまる。
「禁止の理由は波が高いとかじゃなくて汚染なんだ。ついこないだの沈船から十五年前の廃棄船までのタンクに残った重油とかが少しずつ漏れていて、それも一つや二つじゃないんでずっと処理されてないんだ。だから磯浜に出て足下浸すくらいならいいけれど、飲むのは勧めない」
「飲みませんよ」
「あと堤防の上は歩くな」
「歩きません」
「あと……」
「まだあります?」
「……ない」
 笑ったミチルが爪先立ちで伸びをすると、かぶっている麦藁帽子がずり落ちて、胸にあった黒い羽根も落ちた。
 ミチルは羽根を先に拾った。俺は帽子を拾った。
「ありがとうございます」
 目深にかぶりなおしたミチルは、磯に降りられる方へと歩いていった。
 後ろに組んだ手が持っている羽根が白い服の上でコントラストになっているミチルの後ろ姿をしばらく眺めてしまった俺。
 さっきのありがとうが道案内の礼なら俺はこのまま帰ってもいいはずだ。
 単に帽子を拾い上げたことへの礼ならそうもいかない。
 追いかけてどっちなのか問い質すのは間抜け過ぎる。
 そういうわけで抜け道の入り口の木陰でしゃがんでいることにした。
 言い訳をすれば一応ここら辺りで対潜ヘリの写真を撮ったことはあるし、ひょっとして今日だって現れるとも限らない。だけど言い訳にならないのは鞄の中のカメラに望遠がマウントされていないってことだ。
 間抜けだ。
 寝ちまえ。
 鴉がうるさかったがいつの間にか寝ていた。
 目が醒めたのも鴉。
 これも間抜けくさいけど、ふて寝して寝過ごして置いていかれるってのは、もう救いようの無い間抜け。跳ね起きると星空で、慌ててミチルを探したが見当たらなかった。先に帰ったか。
 枕がわりにしていた鞄を持ち上げた拍子に何かが落ちた。
 鴉の羽根だった。
 やることが読めないってところも、兄貴と違うな。


 親父は相変わらずまともな時間には帰宅できないほど忙しいようで、一ヶ月くらい話もしていない。だけど一日おきくらいの五十文字程度の伝言で済まないようなトラブルも別に無い。
 第三新東京市沖合いにいる空母が四隻になって、そのうち三隻が中国海軍になったという日、アメリカの国防次官補の記者会見をディスプレイに垂れ流して自動翻訳させた発言を保存しながら、その脇のウィンドウでいつものように届いていた親父からの手紙を開いた。
 妙だった。名前以外は空白だった。
 署名も、認証署名ではなかった。
 アドレスを手繰られての悪戯だろうと考えて取り合わなかった。
 それよりももう一通の鈴原ミチルから届いていたのが気になってしまって親父の変な手紙は忘れてしまった。
 ミチルはまた海を見たいと書いてきていた。
 今度連れて行くと返信してしまった。

「その頃、私は根府川に住んでいたのですが……」
 教卓では数学教師が授業を脱線して定例の独演会。
 誰も聞いていない。
 聞いてもしょうがない話だ。それはそれは御愁傷様とか、そんなリアクションしかしようのない話だし初めて聞く話でもない。
「旧東京が廃墟となった折りに……」
 子守り歌代わりにして寝ているのがざっと四人に一人。このループする話、実はBGMというか、ひょっとして摺り込み催眠教育なのかもしれない。数学と全然関係ないのは謎だけどな。
 俺も聞き流して中国艦隊のこととかを考えて、そのうちに寝てしまった。
 起きると黒板には試験範囲が書かれていて、それを週番の洞木が消しているところだった。

「頼んます、この通りや、いいんちょ」
 こう頼んではいけない。トウジの口調を真似るのは、洞木は許してくれない。
「ごめん、さっきのノート見せてくれないか」
 これくらいで見せてくれる。ただし、苦笑しながら。
 必要な範囲を俺のノートに転送してるあいだ、念のために聞いてみた。
「あの先生、昔話の他に何か話してた?」
「うーん、今と昔と似てるって話はしていたかな」
「何、それ?」
「ええっと、災害出動とか、そういう……」
 困ったように洞木が視線を投げる先にはタケがいた。
「あたしちょっと用があるから竹山君に聞いてね」
 教室を出ていった洞木と入れ違いに、カードを切りながら嫌われたねえとかほざくタケが目の前にいた。余計なお世話だ。
「タケは聞いてたんかよ」
「だれかさんと違って寝てませんし」
「似てるって、何の話」
「前にもあったことの繰り返しですねえって話」
 タケは器用に片手で持ったカードをその親指で一枚づつ弾きながら五枚並べる。
「前って、何」
「セカンドインパクトの話しかしないだろ、あのセンセ」
 手札をめくると九のワンペアが出来ていた。フラッシュに持っていくにはばらけて辛い手で、連番も無かったからストレートも苦しく、九を残すことにした。俺が三枚交換するとタケは一枚だけ換えた。俺の手は結局ワンペア止まりだった。
「降りる」
「あっそ。つまんね」
 だけどそういいながらいやにあっさりカードを山に戻してシャッフルしなおすタケ。はったりかまされたかも知れない。
「じゃあセカンドインパクトの繰り返しって、何」
「セカンドの次ならサードインパクト。今度は降りんなよ、ケンスケ」
「セカンドインパクトの何が繰り返すのかってのを聞いてんの」
「戒厳令がしかれて自衛隊が出たのが停戦監視団のいる今と似てますねえって話」
「あっそ」
 次に配られた五枚はどうしようもないクズ手。あえて二枚だけを換えるとキングのペアが出来た。タケも二枚換え。勝負。
「キングのワンペア」
「フラッシュ」
「サマってないか、お前」
「日頃の行いがいいんだよ」
 次に新横須賀に遠征撮影する時の昼飯は俺の負担ということになった。
 その代わり、鈴原ミチルをついでに連れていくということをのませた。
 ごちゃごちゃとタケは冷やかしたが、無視。


 二日続けて夜中に停電があった。
 停電なんて一年振り、戦争中でも無かったのに。
 国連停戦監視団の規模の縮小が進んでいる。市の中心部を走り回っていたUNペイントの装甲車はめっきり減って、南側のキャンプアルファという場所を中心に固まるようになった。仮設ヘリポートも、そこ以外は全て撤収していった。
 戦自は入ってきていない。取り巻いているだけだ。
 そういえば親父からの連絡が無くなって五日になる。
 今日はタケのいう衝撃的な代物を撮るべく厚木の方に二人で行こうとしたがさすがにそこは検問が厳しかった。あんまり時間がかかりそうだったので断念。帰る途中、ついでということで少し見飽きた気がしないでもないネルフの高射部隊を見にいった。いつも思うんだけどネルフの制服ってのはダサい。野戦服とは思えない。
「警備員だよな」
 タケに賛成。
 でも何たら総合警備みたいな服を着たネルフがN2弾まで使った戦自空挺師団の攻撃を二十日間しのいだ。戦争は見てくれじゃない。
 だけど俺は戦争が撮りたいわけじゃない。
 美しいものが撮りたい。
「美しくないよな、警備員だけじゃあ」
 戦争が美しいかというと難しいところだ。エヴァは出てきたけど、結局ラプターは飛ばなかった。
「エヴァってもう出てこないのかな」
 タケはフェンスにもたれて投げやりに答えた。
「もう一回始まったら出てくんじゃないの」
「勘弁してくれ。冗談きついよ、タケは」
「でもな、もし始まったとして、エヴァが出なかったらネルフは負ける」
 そりゃそうだ。エヴァが無かったらそれこそただの警備会社だ。
 だけど東京戦争にネルフが負けたらどうなっていただろう。別にどうもならなかったんじゃないだろうか。
 だってネルフと戦自の戦闘だろ。国と国がどうこうって話じゃない。勝った方が負けた方を解体とか接収とかする程度だろ。
 まあ、親父が失業するとなれば、それは困るかな。
「タケの父ちゃんってネルフだっけ」
「下っ端だけどね、一応」
 俺と同じか。
 確か洞木の家もネルフだ。
 トウジの親父さんはネルフの研究所だったか。
 重いエンジン音を立ててフェンスの向こうを地対空ミサイルのバッテリー車が通り過ぎていった。
 被写体としての魅力なんてかけらもない、要するにトレーラーだ。でもタケはカメラを構えた。
「珍しいな、タケがあんなの撮るなんて」
「珍しい。戦争の最中も市内にあるエヴァ用の電源使ってたろ、高射に限らず」
 つまんないのまで、よく見てるな、タケは。
「じゃあ要するに予備の電池ってことかな」
「予備電池だな。何を想定してるんだかな」
「電池撮って楽しいか、タケ」

 モノレールも新横須賀までは工事が終わっている。無駄足だった厚木までがバスだったのに比べればありがたい。
 土曜の朝、乗客はまばらだった。混んでるよりはいい。
 だけど問題が一つ。
「学生証って、持ってる?」
 当然ミチルは困ったように首を振る。まずった。小学生連れてくるんじゃなかった。新横須賀港に着いても身分証のないミチルは見学者ゲート以前に検問所をくぐれない。
「参ったなあ」
「参る前に何とかしろよ、ケンスケ。そもそもお前が連れてきたんだろ」
 ぎりぎりまで気付かなかったのはお互い様のくせにタケは俺のせいにする。俺のせいは俺のせいだけどな、本人目の前に、いい方ってものがあるだろ。
「俺が保護者……ってのはダメかな。兄と妹、妹の保護者」
「どう説明するんだよ、名字違うぞ」
「両親が夫婦別姓でとか」
「検索されたら一発でバレる」
「実は、いとこで」
「同じだ同じ、はとこでも同じ」
 次は新横須賀などと車内アナウンスが響き渡る。
「すいません、わたし……」
 右隣の縮こまってるミチル、左隣でいわんこっちゃないとかいう顔のタケ。
「あ、その、別にミチルちゃんのせいとかじゃ、なくて」
「そうだ、ケンスケ、お前が悪い」
 だから、どうして背中から刺すんだ。
「私、いいです。一人で帰りますから」
 まあまあとタケは宥めているが、顔は正直だ。いーや、そんなことあってたまるか。ポーカーフェイスは得意なんだから隠すつもりがないんだろう。
 ご乗車ありがとうございました終点新横須賀です、とどめのアナウンス。
「しょうがない」
 ナップザックからデジタルビデオと百八十分のディスク二枚を取り出して、それでもって本日の偵察任務をタケに任せることを宣言した。検問所を通らずに出られる海岸は遠回りになるので、そこまで俺がミチルを案内しないといけない。
 タケは一瞬ぽかんとした顔になってそれからにやりと笑って俺とミチルの顔を見比べて最後に偉っそうにふんぞり返って俺の肩を叩いた。
「相田軍曹、戦果を期待している」
「何のだっ」
 脛、蹴ってやった。
 改札口で別れてタケは俺達を置いて港に向かった。
 俺達ってのが誰かというと俺ともう一人は鈴原ミチルなわけで。


「かぶってないね、帽子」
「今日、曇りですよ」
 白い服だ。
 話題が無い。
「ミチルちゃんてさ」
「何ですか?」
「海、好き?」
 検問を避けて出られるビーチからは繋留している護衛艦は見えなくなる。タケにデジカムは預けたから背中のナップザックには使い捨てのカメラしか入ってない。
 何を撮るでもないから、まあいい。
「海、好き」
 ミチルは小さな声で答えた。
「修学旅行で去年行ったんだ、海」
「沖縄でしたね」
「トウジのクロールは飛沫が派手で」
 俺とミチルの共通の話題は鈴原トウジしかない。
 そうだ。それで苛々する。
「壱中の修学旅行って毎年沖縄なんですか?」
「そうだよ」
「来年、再来年。私も泳げるかなあ」
 六年生か。来年は中学生、再来年には中二で修学旅行、その次は中三で高校受験。
 三年経ったら俺は高校三年生……だよな、多分。
「泳げないの?」
「泳げる体になってると思いますよ」
「それって、怪我がまだ……」
 俺の馬鹿丸出しの質問を、ミチルは何もいわずに笑ってやり過ごした。
 ミチルってほんとに十二歳かと思った。ちょっと目を伏せて曖昧に笑う仕草は、単純を絵に描いて額に入れたら出来上がるような兄貴よりもずっと大人だった。
「お兄ちゃんのお土産は貝殻のネックレスでした」
「そういえば、そうだったっけ」
「はよなおせやって、病室まで持って来てくれました」
 所詮は軍港の新横須賀、駅前の繁華街はすぐに終わる。
 名前通り再建都市でもある新横須賀、公園もある。
「あ、あれ」
「……ガイドパネルか」
 小さな公園の中にある案内用端末を目ざとく見つけたミチルは、例によってかたかたとつっかけを鳴らしながら歩いていった。白い袖無しのワンピースから細い手足が突き出しているその後ろ姿に被写体としての魅力はどれだけあるか考えながら後に続いた。
 ミチルの頭越しに見たガイドの表示は滅茶苦茶だった。ほとんど赤く塗りつぶされたようになっていた。
「なんだよ、これ。検問ばっか」
「通れないんですか?」
 不安そうな声が返ってきた。
「市警のはともかくUNのMPは通行人でも時間掛ける」
「通れるんですか?」
「どうかな。学生証は二次証明扱いだし、これ一枚で二人すんなり通してくれるか」
「父さんのカード持ってきちゃえばよかった」
「そういうことは、やらない方がいい」
 きょとんとした顔のミチルが俺の方を見上げたのでいってやった。
「一度それで酷い目にあった。次の日、家の端末立ち上げた途端に侵入されて、もう」
「そんなこと出来るんですか?」
「簡単なんだろな、ネルフとかUNとかなら」
「ネルフなら……」
 肩を落としてつぶやいたミチルが赤い画面を撫でていた。
 これは圧力感知型のパネルだった。指先が動くたびに現在地からの経路と所用時間の表示が目まぐるしく変わった。
「ここは?」
 ミチルの小さな指が止まった。
「ああ、行けるか」
 経路を示す黄色の線が、奇跡のように赤の印と一つも交わっていない。歩いて三十分くらい。でもこのパネルじゃ坂道なんて考えてないからもっと多くみておいた方がいいかも。
 紙は切れていてプリントアウトは出来なかったけど、何とか覚えられる程度の道だった。そこを通ればビーチの端に出られる。

 雲が低かった。
 爆音だけでは雲の上を飛ぶ飛行機の機種はわからず、ただうるさいだけだった。鴉はデフォルトでうるさい。
 無茶な飛び方をしたのが一機あって、木の葉を揺らす衝撃波まであった。残響の方に首をめぐらせたけど、やっぱり灰色の雲しか見えなかった。
 そのまま後ろにいるミチルの方をみると、うつむいて耳を押さえていた。
「どうしたの」
「……何でもないです」
 そうは見えなかった。震えていたし、すこし青ざめてもいるようだった。
「ちょっと……びっくりしただけ……」
「ほんとに?」
「だいじょうぶ……」
 それからは鴉を聞きながらてくてくと歩くだけ。
 話題が無いんだ。しょうがない。
 着いてみるとビーチは閑散としていた。
 垂れ込めた雲に、白い波頭が所々見えるような海面、おまけに汚染区域からそう離れていない。よっぽど好きな奴しか泳ぎはしない。
 砂浜にミチルのつっかけの黒い跡があっちにこっちに出来るのをぼけっと見ているうちに、俺は妙なことを考えていた。
 白い服のミチルがそのまま灰色の空に溶けこんでいくような気がした。
 何というか、ミチルは原色の兄貴と違って、色が無い。白じゃない、無色透明なんだ。
 そうだ、惣流とも洞木とも違う。綾波とも違う。
 年下だからそう思うんだろうか、トウジの妹だからそう感じるんだろうか。
 撮りたくなった。
「ミチルちゃあん」
 砂浜を駆けていくのはちょっとしんどかった。
「何です?」
「あの、写真、」
「え……」
 息せき切って駆け寄っていった俺の一言に、ミチルは不思議そうな顔をした。
「写真、撮っていい?」
 不思議そうな顔はしたけれどミチルは理由を聞かずに頷いた。ありがたい、撮っておかないと風で飛んでっちゃいそうだったからなんていえたもんじゃない。
 まず一枚、突っ立ってる写真。もう一枚、立ってる写真、日の方向変えて。次、横から。それから、ローアングルは、まずいかな。
 五枚撮った後は、あっちにこっちに歩いているミチルを勝手に撮った。使い捨てのカメラなのでそれなりのものしか撮れなかった。要するに絞りも露出も自由が利かなかったってことだ。それでも二十四枚使い切ってしまった。勢いというのは恐ろしい。
 最後の一枚は何かを拾おうとしているところを横から撮ったものだった。
 俺がカメラをナップザックにしまうとミチルも戻ってきた。
「みんなだめ」
「ふえっ?」
 ミチルがそういった時、写真の講評されたのかと思ってしまった。
「みんなどこか欠けちゃってて」
 広げられた小さな手のひらには、こぼれるくらいの貝殻があった。
「だめ」
 うつむいたミチルは首を振った。だめ、だめ、そういいながら、貝殻を砂の上に捨てていた。
「貝、探しに来たの?」
「ううん、違います」
「海が見たいってメールしたよね」
「はい、だけど」
 一つづつあらためるのが面倒になったのか、ミチルは手のひらに残っていた貝殻全部をぶちまけると、沖の方へ首を捻った。
「今日の海って、こわい感じで」
「こわい?」
 沖には、かすかに水平線に何か突き出ているのが見えた。
 俺はすぐナップザックから双眼鏡を引っ張り出して構えた。
「げっ」
 思わず双眼鏡を落としそうになった。
 そこに見えたのは箱型の玩具みたいな格好の船、VTOL用フライトデッキと、舷側に取って付けたようなクレーン。
 小学生ごときを撮ってる場合じゃなかった。いや、使い捨てカメラじゃどうせあんな遠い物は撮れないからしょうがないけど、それでも惜しい、口惜しすぎる。
「殲二千型強襲揚陸艦……」
 ビーチには俺とミチルしかいなかった。
 沖合いには中国海軍の最新鋭戦車揚陸艦がフリゲート艦を従えていた。


 携帯電話が通じない。タケに連絡がつかない。
 ただ見てるしか出来ない。
「七隻、八隻……」
 爆音が空を突き刺した。雲の下を通ったのは短い翼がちょっと趣味にあわない、だけど珍品には違いないYak−141、赤い星、中国軍。
「すっげえ」
 俺はミチルがしゃがみ込んで耳を押さえていたのを気付いていなかった。
 何度目のYak−141だったか、バンクした時に機体下がシルエットになって、腹に何を吊り下げているかまでわかった。真ん中にタンデムに並んだやつが妙に太かった。フィンが付いているからドロップタンクってことはない。
「爆装? AAMじゃないのか?」
 海から陸へ、確か八編隊数えたと思う。
 腹に響く爆音の切れ間は鴉がぎゃあぎゃあ喚いていた。
 ミチルのすすり泣く声が耳に入るまで、何分くらい俺は双眼鏡を持って一人で浮かれていたんだろう。
 うずくまって、顔を覆って、ミチルは震えていた。
「ど、どしたの?」
「……だいじょうぶです……」
「戻ろうか、もう」
 ゆらっと立ち上がったミチル。俺はよっぽどこのままこいつが風に溶けて消えていくような気がしてならなかった。そんなことはいやだった。

 このビーチは、特に今日は、妙だった。
 鴉だ。
 どこにこんな数がいたのかと思うくらいの鴉だった。
 普段は鴎とかも飛ぶんだけど、今は見えるのは黒い影ばかり。まるで、海岸の雑木林を覆う黒い雲だ。
 ぎゃあぎゃあと出鱈目に重なる鳴き声はきりが無かった。
 ミチルは耳を押さえて歩いていた。俺も空を見上げる時には腰が引けた。
 鴉にまぎれて、遠い音が届く。
 耳慣れた音だ。
「まさかYakが……」
 爆撃の音だ。
 携帯が震える。出てみると相手は親父。ひどく慌てていた。
「……んだっ、今すぐっ」
「え、なに?」
「……を西へ行けばまだ封鎖は……秦野には叔父さんが残っ……」
「聞こえねえよ、もっとはっきり」
「……はネルフを売った、始まったんだっ、UN極東軍との交渉は打ち切」
 ぶつん。
 ノイズのひどい通話は唐突に途切れた。
 だけど、その前に、二回の銃声と短い呻き声を電波は運んできやがった。
 一体、親父は今までどこにいたんだ。どこから電話してきたんだ。
 かがんだミチルが携帯を差し出している。
 ああ、俺、携帯落としたのか。
「さっきの飛行機ですか……」
 ミチルが、街の方を指差して、つまり爆音の方角を指差して、いった。
 そうなのか、本当にそうなのか、マジで極東軍はジオフロントを攻撃してるのか。
「ミチルちゃん。ミチルちゃんの親父さんの、職場の番号って、今わかるか」
 しょんぼりしてミチルは首を振った。
 くそったれ。
 タケの携帯にかけるが、さっきと同じく通じない。
 学校、通じない。秦野に住んでる叔父さん、通じない。警察、病院、通じない。ついでに時報も天気予報も通じない。電波が全滅ってどういうことだ。
「うっせえぞ、あっちいけ、鴉」
 ナップザックから取り出した端末、何度トライしても回線が確保出来ず、どこにも入り込めなかった。
「どうなってんだよ、これ」
 そうこうするうちに、これまでと違う音が響いた。
 爆撃をかき消すくらいの大きさの、獣が吼えるような音。
 ミチルは知っていた。
「エヴァンゲリオン」
 膝を抱えて木の根本にしゃがんでいたミチルが教えてくれた。

 もう、一年以上も前になる。
 俺とトウジはエヴァに乗った。
 もとはといえば、俺がそそのかして、トウジと一緒に使徒と戦っているエヴァを見にシェルターを出ていった。そして期待違わず凄まじい映像が取れた。
 誤算だったのは、エヴァと使徒とが俺達が見物している方に戦いながら来てしまったことだ。そのエヴァに乗っていたのは碇シンジだったんだけど、あいつは俺達を助けるためにエヴァの中にかくまった。エヴァのコクピットってのは水がはってあって、せっかくの迫真の戦闘シーンを捕らえたカメラは台無しになってしまった。ただし命を助けてもらった手前、感謝こそしても文句はいえなかった。
 トウジも、後で、妹を怪我させやがってとぶん殴った碇と仲直りした。
 その一つ前の使徒が来た時も、碇の乗ったエヴァが出た。
 本人曰く、よく覚えてない、そんな危うい戦いぶりだったらしい。俺が知っているのは、使徒は市街のジオフロント直上まで入って来たということ。そこでエヴァと使徒が大立ち回りをしたということ。
 そして、そこには、逃げ遅れた鈴原ミチルがいたということ。
 崩れたビルの中でミチルはエヴァが吼える声を聞いていたんだ。救助されるまで半日以上も瓦礫の隙間にミチルは取り残されていたんだ。
 何で思い出さなかったんだ、俺は。ミチルが一年近く入院したのは、それが原因じゃないか。
 エヴァが吼えている。
 ミチルは耳を押さえてうずくまっている。
「碇……なのか……」
 零号機か、初号機か、それとも弐号機か。木に遮られてわからない。


「行こう、こんな所にいたってしょうがない」
 だけどミチルの手を引っ掴んで歩く俺だって、どこに行けばいいかなんてわからない。
 第一、俺は、どこへ何をしに行くんだ。
 キオスクで使い捨てカメラでも買ってエヴァンゲリオンを撮るのか。
 ちくしょう、タケはどこにいるんだよ。あいつ、ゲートの内側いたらまずいぞ。市内と違って、港はまだUNの……。
 そうだよ。
 なんでUNは市内に展開しないで海岸一帯を押さえているんだ。
 なんで戦自は市の外側で関越自動車道と東海道を押さえているんだ。
「まさか、」
 UNの停戦監視団がジオフロントの周りからいなくなったって、こういうことだったのか。平和になったってことじゃないのか。UN極東軍って、海上臨検のためじゃなくて、もう一度戦争するつもりで遊弋してたのか。
 あの戦車揚陸艦って、実際に、第三新東京市を占領するための機械化部隊を積んでるのか。
「何だよ。一体、何がどうなってんだよ。何もニュースでやってなかったぞ、こんなこと。ちくしょう」
「何も知らせないんです」
 俺の手は、立ち止まったミチルに引っ張られた。
 腹立ちまぎれの俺の独り言に、ミチルは涙声で答えていた。
「ネルフなんて、なにも、なにも、いってくれないんです」
「どういうこと?」
「お兄ちゃんは戦争で死んだんじゃない」
 二の句がつげないっていう、そういう顔を、俺は多分していたろう。
「お兄ちゃんが、最後に、病院に来てくれたのは、戦争になる一ヶ月も前で」
「それって……」
 親父が家に帰らなくなったのと同じ頃だ。
 トウジの乗る参号機が日本に来た時だ。
「エヴァンゲリオン乗ることんなったさかいって、お兄ちゃんは病室で私にそういって」
 そうだ、学校で俺が碇に参号機のことを話題に持ちかけた時、初号機に乗ってる碇でさえ、それは知らなかった。
「だから、これからちびっと忙しくなるから見舞いは無理やけど、その代わり毎日消灯前に電話したるって、そういって兄ちゃんはネルフのおじさんたちに連れられてエヴァンゲリオン乗りに行った」
 トウジは俺には何もいわずに、学校に来なくなった。それが最後だった。
「兄ちゃん、おっちょこちょかもしれんけど、約束破るような人と違う。なのに、それから一度も電話もメールも無くって。父ちゃんはずっと忙しいとかいうて来てくれへんし、電話で話してもなんかはぐらかすような感じやったし、はっきり口に出して聞いた時は接続勝手に切れてしまうし。おっきい病院移る時も、兄ちゃんどこ行ってるんですかって、看護婦さんとかお医者さんとか聞いてまわっても、誰もなんもいわへんかった。そのうち戦自が攻めて来よって、戦争始まって、それが終わってみたら、兄ちゃん、戦争で死んだことになっとったんや」
 涙をぼろぼろこぼしながらミチルは叫んでいた。
「嘘や、そんなん嘘や。兄ちゃん、殺されたんや。ネルフに殺されたんや。エヴァンゲリオン乗って殺されたんや」
 それは違う。
 そう、いいたかった。
 だけど、俺は何もいえなかった。泣いているミチルの言葉に反論する材料を何一つ持っていなかった。俺は何も知らなかった。

 ミチルが泣くのを止められずに、俺は突っ立っているだけだった。
 ついでに鴉がうるさくて。
 鴉の上には厚い雲がでろんと広がっていて。
 そんな時に、いきなり爆発が来た。てっきり、至近弾かと、そう思った。
 無様に転んだ俺が起き上がってみると、木の葉やら枝やら、ついでにカラスの羽根がいくつも落ちていた、落ちてくるところだった。
「だ、大丈夫?」
 口に砂でも入ったのか、ミチルはしきりに唾を吐いている。
 二発目が来た。今度は方向がわかった。爆風じゃない。空の上からだ。
 咄嗟にミチルをうずくまらせて、その上に覆い被さって、そして見上げた。
「……杭?」
 排気炎の無いミサイルなんて、俺は聞いたことが無かったから、それは杭に見えた。
 だけど、それがどんなサイズかは見当もつかない。
 とにかく、その杭のようなやつが、後ろに土埃を盛大に巻き上げながら、俺達の上を通っていった。
 方向は、ジオフロントから、海の方へ。
「ネルフの反撃なのか、これは……」
 ミチルを強引に立たせて、抱えるようにして林の中に入った。また来られたんじゃ堪らない。道を少し脇にそれて戻ることにした。とにかくミチルを何とかしなきゃいけない。市内に戻るにも、脱出するにも。
 峠に立った時だ。
 俺達は見た。
 遠目にかすかに見えるエヴァ。
 長さはエヴァの背の半分くらい、槍というには少し太いそれを、片手に持って肩に担ぐように構えるエヴァ。
 エヴァが動いた。
 思わず俺達は伏せた。
 俺達の上を、灰色の槍とも杭ともつかないものが、雷のような音をたてて飛んでいった。
 推進機関の無い、純粋な大質量。
 撃墜不可能な運動エネルギー。
 それが沖合いのUN極東軍の艦艇目掛けて飛んでいく。
 もう中国軍のYak−141は飛んでいなかった。爆弾売り払って帰投したのか、エヴァンゲリオンに撃墜されたのか。それともバッテリー車を引き連れた高射部隊があの辺りにいるのか。
 俺達の上を飛んでいたのは鴉だ。
 群れを作って、ぐるぐると雑木林の上を飛んでいた。
「帰ろ、ミチルちゃん」
 やっぱりエヴァンゲリオンは強い、そういうことなんだ。
 俺とミチルは、その後も何度か頭上を飛ぶ物の音に頭を殴られるようにしながら、とにかく街へ向かった。
 だから鴉の群れが海へと移動するところは見なかった。


 東京戦争は終わっていた。
 過ぎてしまえば、あっという間ともいえる。普通は間に挟まれた停戦期間を無視して二つを一括りにして東京戦争という。あるいは後半を無視して東京戦争という。
 戦自空挺師団の攻撃がその最初の始まりとするならば、日本政府とネルフとで「第三新東京市に関する治安の合意」というのが公表されるまでの二十日間が戦争の第一の期間だ。
 UN極東軍所属の中国軍機のネルフ本部空爆がその第二幕の幕開けとすれば、相手を戦自からUN極東軍に代えた後半戦は一日で終わったことになる。
 俺は海岸から遠回りして市内へ帰ってくる時、まさかネルフが負けるなんて思わなかった。音速を超えて飛ぶ杭なんて見たもんだから、極東軍がすんなり上陸出来るわけないと信じていた。
 実際、上陸なんてなかった。
 戦争をネルフの負けに終わらせたのは、Yak−141でも、中国の海兵隊でも、エヴァンゲリオンでもなかった。
 鴉だった。
 タケはUNのMPに、その日一日拘束されて、写真器材はあらかた没収食らったらしい。あいつに持たせた俺のビデオも取り上げられてしまった。だけど、とにかくお互い生きていたということで諦めた。
 機密漏洩の現行犯でネルフ保安部に拘束される時に抵抗して、銃撃されながら俺に戦争が始まったことを伝えようとした親父は、撃たれ損の馬鹿を見たということになる。
 その日のうちに俺は会うことが出来た。
 病院で、青い顔をしながら、親父は肩を竦めていた。
「あの空白メールで気付いてくれればよかったんだがな。あの時点ではあれが精一杯だった」
 気付くわけないだろう。
「まあ、もうじきネルフは消える。この傷も結果論だが今後の立場を考えれば有利に働くことになる」
 なかなか親父は抜け目が無い。
 今、第三新東京市は、ネルフの色を剥ぎ取ることに忙しい。

「お前、すっげえチャンス逃したんだぜ、わかってんのか」
 あれから、会うたびにタケはこの話を持ち出した。
「ピュリッツァー賞間違いなし、世紀のシャッターチャンスだったってのに」
「何度もいわせるな」
 あの時、あと四時間も海岸に止まっていれば、俺の目の前でその光景が繰り広げられていたという。
 夕暮れの海岸、漂着する艦艇の破片、海兵隊員の死体、そして、鴉。
 だけど俺は正直そんなのを撮る気がしない。実際問題、俺はミチルのきょとんとした顔の写真だけで使い捨てカメラのフィルムを使い切っていたし。
「フィルム、無かったんだよ」
「だあーっ、このロリコン野郎。小学生の写真撮るのと、たった一枚で戦争終わらせるような超衝撃的ショットとどっちをとるかなんて考えなくてもわかるだろ」
「しょうがないだろ」
 閑散としたビーチで、だけどその中に、やっぱり俺達みたいな軍用機の写真を狙っている奴がいたらしい。
 そいつは撮った。
 うちあげられた海兵隊員が鴉に啄ばまれている写真を。
 即投稿、即採用。世界の世論はその一枚で決まった。
 中国にやらせて様子を見ようとした他の安保理の国も、なし崩しにネルフどころか日本そのものに対して強硬派になった。
 日本はネルフを切り捨てた。
 半日後にはネルフは白旗を上げていた。
 親父に理由を聞くと、親指と人差指とで環を作って、鼻で笑った。戦自相手の二十日間でもそんなことはなかったのに、今度は金融その他の世界市場に三時間でそっぽを向かれて、信用が資金がどうのこうの。
 と、例の写真が載っている雑誌を手元に広げながら、親父は他人事のようにいった。
「ネルフが負けるって、わかってたのかよ」
「勝ち目は無かったな。こんな写真が出てこなくても、いずれはな」
「けっ」
 俺の足は親父の横になっているベッドの足を蹴っていた。
「碇は、じゃあ、何のために」
「ネルフ総司令碇ゲンドウ」
 親父は冷ややかな声を使っていった。
「よりによって、トップが第二東京の政府に洗いざらい喋ってくれたからな。あそこに長期的プランを持つ腰の据わった政治家はいない。UN極東軍に南アジア軍から更に二艦隊増派されると聞いて腰を抜かして、結局ネルフ内情をUNに丸渡しにされてしまった。たとえエヴァがどう戦おうと……」
「ふざけんな」
 別に親父がふざけていないってことくらい、わかる。
 だけど、その時の俺はもう一秒もそんな話を聞いていたくはなかったので、病室を飛び出していた。
 第三新東京市中央総合病院。
 親父が入院しているこの病院は、俺にとって初めてじゃない。
 トウジと一緒にミチルの見舞いに行ったことがある。
 廊下の奥から兄と妹の声が聞こえてくるような気がした。

 とにかくも戦争が終わってから、ミチルには一度だけ会った。
 ばったり道で出くわしたその時は、お互い学校に行っているはずの平日の昼前という時間帯で、かなり気まずかった。
「サボリ?」
 ミチルは白い服を着ていた。
 長袖のコットンシャツで、左胸のポケットから鴉の羽根がのぞいていた。
 ほっとしたような、悲しいような、よくわからない笑いを作って
「つまんないから」
 と、彼女は答えた。
「相田さん、わたし、このあいだ、言葉訛ってませんでしたか」
「さあ」
「だったらいいですけど、もし変な言葉使っちゃってたら、すみませんでした」
「謝ることじゃないって。だいたいトウジはずっと、」
「そうでしたね……」
「使いたいなら使えばいいんじゃないの。ミチルちゃんも」
「でも」
 ミチルは首を振ってつぶやいた。
「いじめられる」
 なるほど、兄貴とは違う。
「中学に進んだら、そういうの無くなると思うよ」
「そうですね」
「壱中なの?」
「違います」
 ふっとミチルが顔を空に向けた。
 鴉が一匹、おとなしく電柱にとまっていた。
 ミチルは鴉には屈託なく笑えるようにみえた。
「お父さん、北京に転勤になるんで、引っ越すんです」
「じゃあ、関西弁だって何だっていいじゃん」
「北京語なんて知らない」
「みんなそうだよ。みんな何も知らないんだから」
「相田さん」
 と、ミチルは黒い羽根を取り出した。
「お兄ちゃんが、最後に病院に来てくれて、その次の朝」
 頭上で鴉が羽ばたいた。
 ミチルは鴉のとまっていた電柱を見上げながらいった。
「私の寝ているすぐ横の窓に、鴉が止まって、じっと私を見てくれたんです」
「鴉が?」
「私がおはようっていったら、オハヨって答えたんですよ、その鴉」
「本当?」
「本当」
 そういって、ミチルはその羽根を撫でた。
 それが兄貴の代りのつもりなんだろうか。
 立ち去るミチルに、俺は声を掛けていた。
「海で撮った写真、現像したんだけど、見る?」
 ミチルは首を横に振って、さようならといって、歩いて行った。
 浜辺で感じた無色透明という印象は、最後に街中で会ったこの時も変わらなかった。


 洞木も引っ越すそうだ。
 洞木の家に限らない。ネルフが解体されているんだから、第三新東京市全体が引っ越しラッシュ。
 タケは上海に行くという。父親が技術者ということで、つまり、ばら売りネルフの中国の取り分の中にタケの親父さんが入っていたと、そういうことだ。
 洞木家の引っ越し先はソウルの近郊だという。
「どうしよ、わたしキムチ苦手だな」
 準備を少しづつしている洞木の家に行くと、彼女は食べ物の心配を、まずは述べた。
「時間ある?」
 玄関先で聞くと、ちょっと逡巡した後で洞木は頷いた。
 そんなに俺って顔に出ちゃうかな。
「何かあったの?」
「大した話じゃないけど」
 言葉を濁すと洞木はついてきてくれた。
 歩きながらの話は溜め息が多かった。洞木には第三新東京市を離れる予定の無い俺が羨ましいらしい。
 相田家が引っ越さないのは解体直前のネルフが俺の親父を懲戒免職にしたのがその理由で、世帯主が失職中の扶養家族である俺としては喜んでばかりもいられないんだが、そういう事情までは聞いていないらしい。
「思い出つまった場所だしね、やっぱり離れたくないよ」
 何度目かの溜め息をつく頃、俺と洞木は街を見下ろせる高台にある公園に来ていた。ここは俺とトウジにとって、ゲーセンの帰りに通り抜ける場所だった。
「これがアスカたちが命懸けで守った街なんだよね」
 その通り。
 街が見下ろせる。
 ざっと見て、半分は、蓋の開いたジオフロント。傷跡は生々しい。
 惣流・アスカ・ラングレーはエヴァンゲリオンに乗って、この街を守るために死んだ。
 目の前にあるもの全てを心に刻み付けるような、洞木はそんな眼差しをしていた。
「極東軍の船を沈めた投擲兵器さ、使ったのはエヴァ初号機らしい」
「初号機?」
「碇の乗っている方だよ」
 碇は生きている。
 綾波はわからない。
「頑張ったんだね……」
 洞木が碇を誉める口調は歯切れ悪いものだった。
 中国兵の死体が並んでいる写真が載ったネットニュースとか夕刊紙とかは、洞木も知っているはずだ。
「碇君、どうしてるのかな」
 洞木は空に向かって問いかけた。
 俺は洞木に話さなきゃならない。
「ねえ、いいんちょ」
「またあ。やめてよ、それ」
「ミチルっていうんだ。知ってるだろ、トウジには妹がいる。退院していたよ。このあいだ、会った。それで、話を聞いた」
「鈴原の、妹さん?」
 俺は洞木に話さなきゃならない。
「ミチルちゃんて白っぽい服でさ、なんか随分トウジとは印象違って」
 話さなきゃならない、トウジのこと。
「その子がさ、どうやら鴉が好きみたいで、変わってるだろ、ひょっとして死んだトウジの代りみたいに思っているのかもしれない」
 トウジは戦争で死んだんじゃないって、話さなきゃならない。
「はは、なんかおかしいよな、黒いジャージ着ていたからって、鴉ってのはないよな」
 街が見下ろせる。
 惣流はこの街のために死んだ。
 じゃあ、トウジは。
 俺は洞木に話さなきゃならない。
「じゃあ……」
 だけど、洞木が街を見下ろしながらつぶやくのが先だった。
「戦争終わらせたのは鈴原だね……」
 そうかもしれない。
 そうでないかもしれない。
 そんなことを考えているうちに、それじゃあ元気でねといって洞木が家に戻ろうとしたので、俺の方も、元気でなといって手を振った。
「そうじゃねえだろ」
 鴉の鳴き声ってのは人を馬鹿にしているように聞こえる、俺はその時そう思った。

 世の中、美しいものは色々とある。
 どこかに消えてしまったエヴァンゲリオンも美しかった。
 ただ、エヴァンゲリオンがどこかの国で再び建造されたとして、俺はもうそれを撮らないだろう。
 昨日はタケから中国海軍の観艦式の写真が送られてきた。
 俺はあいつに手紙で馬鹿にされながら、今日も鴉の写真を撮っている。

 end


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ver 1.00
1998/11/19
copyright くわたろ 1998