「スカート、やめた方がよかったですか、中尉」
ちょっと冒険だけどハンドルを握る二尉に中尉と呼び掛ける。この言葉に機嫌がいい時はこの人は更に機嫌をよくするけれど、そうでない時は下手すると殴られる。
「いいんじゃないか、その方が民間人らしい」
「そうですか」
すごいセンス。
本人、機嫌がいいらしい。バックミラーの中の顔がそういってる。ゴルフにでも行くような軽装が嬉しいんだろうか。私は軍服以外なら何でも嬉しいけど。
「ジオフロントにはこのまま入るんですか」
次に私の隣に座っている、濃い灰色の背広にきちんとネクタイをした七三分けの人に尋ねる。こちらは文民という話なのだけど、はいそうですかとは信じられないくらい目つきは厳しい。
「黙ってろ」
返答も手厳しかった。
第三新東京市まで残り三十キロを告げる標識の下を私達の乗ったジープは過ぎていった。
暗緑色のジャンビー。こんなものに乗っている時点で民間人でないといってるようなものだと思うんだけど。
ただの女の子でいたいというのは私には贅沢なのかな。
ただの女の子でいたいなら、今すぐこのいかつい車のドアを開けて飛び出して、逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて、どこへ。
逃げられないかな、どうせ。
窓にこめかみをくっつけてタイヤの下を流れていくアスファルトを横目で眺めているうちに一つひらめいた。今すぐドアを開けて頭から飛び出したら、私、死んじゃう。脳味噌飛び散った死体になっちゃったらおじさん達も打つ手なしだね。
「嬉しそうだな」
顔に出ちゃった。
「懐かしいか」
二尉の一言で思い出す。碇シンジ、車じゃなくて自分の足で第三新東京市まで歩いて行けたら、会いに行けたら、なんて。
答えないでそっぽをむいたけど、これは失敗。自分でもわざとらしいって思った。ごまかしきれないことがまだまだある。
沈黙がどんよりしだすような頃に隣の人は背広から携帯を取り出した。鋭い口調で二言三言、符牒のようなやりとり。そしてばちっと乱暴に携帯をしまってから焦りをにじませて怒りだした。
「あいつら何考えてやがる。くそっ、車を遮蔽物に入れろ、はやく」
背広男は運転席に向かって怒鳴った。民間人にこき使われて、戦自の二尉もかたなし。車は急カーブを切って過ぎたばかりのハイウェイのランプに向かった。私は頭を何度かぶつけてしまう。
「いたた」
ついでに舌を噛んじゃって、これがまた痛いんだ。
車が止まると背広男は窓から首を突き出した。その後ろから私も外を見る。青い空に白い雲、そして白い筋。白い筋が何本も何本も、ゆっくり第三新東京市目指して伸びてゆく。背広男の手が拳を握り小刻みに震えだす。
「あれ、何です」
「伏せろっ」
私は上半身をシートに押しつけられた。しばらく合成繊維とキスさせられて、そろそろ息苦しくなってもがき始めた頃に、私達は目のくらむような光に包まれた。そして軽くはないはずのジープがぐらぐら揺れた。幸い今度は舌は噛まなかった。
「な、何なの、これえ」
「もうN2弾か。一体あいつら何を焦っている」
「そんな馬鹿な」
二尉はびっくりしていた。私もだけど。
「じゃあジオフロント吹っ飛んじゃったってことですか」
私の問いに、背広男は黙ったままだった。
ジープ備え付けの無線とか携帯とかで背広男はあちこちに話をしていた。話す相手が変わるたび、声色は焦りまくったり偉そうになったり。そのあいだ、私と二尉は車の外でこの後のことの確認をしていた。だけどお互いこのまますんなり第三新東京市に入れそうに無いことがわかっているのでどうしても投げやりになる。
混乱に乗じた作戦をとる場合、混乱をコントロールすることが成功への鍵。それくらいは私でもわかる。二尉も、背広も、当然知っている。N2兵器の余熱たちこめる場所じゃあとても無理。
「延期かな」
ボンネットに肘かけた二尉が車内で怒鳴っている背広を尻目にぼそっといった。
「延期ですか」
中止じゃないの?
とにかく待機というのは私は苦手。特に今日はいい天気。青い空に白い雲。ミサイルの書いた飛行雲とかN2兵器の吹き上げたきのこ雲が台無しにしてるんだけど、それさえなければシンジとデートに行った時みたいな気持のいい空。こんな日におじさん達と状況の推移を見守るなんてことしたくない。
うん、と声を出して伸びをして空を見上げると、飛行雲をたなびかせる新たな一団が目に留まった。これも第三新東京市を目指していた。
「中尉、第二波です」
私の指差す方角を見た二尉はぎょっとなって、慌てて中の背広男に報告した。私はボンネットに置きざりの二尉のバイノキュラーを拝借して、最大望遠でそれを見上げた。高度がわからないけど、かなりの大きさの全翼機だった。数は九つでつまり一機あたり四つの飛行雲という勘定になる。
「すみません、ミサイルじゃなくて大型機です。所属は確認出来ません」
二尉はもう笑っていた。
「霧島、あれは味方だ」
私の早とちりを怒ることもなかった。
「四発の全翼機は戦自には配備されていないと思いますが……」
私が返すバイノキュラーを受け取りながら、二尉はまるでそれでバードウォッチングでもするみたいに楽しそうに、背広から教わったらしい答えをいった。
「UNから増援だ。イレギュラーはあったがこれで修正されるさ」
だけどそれは間違っていた。
この日の勝敗をいえば、はっきりいって戦自の負け。
ネルフ本部の接収には失敗したし、投入された九体のエヴァンゲリオン量産機は暴走して戦自特科に損害を与えるし、ネルフ側のエヴァは二体とも起動を許すしで、戦果といえばネルフに人的損害を与えただけ。しかも彼らは機動隊に毛の生えた程度の武装だったのに。
結局誰が決めたのか、第三新東京市を包囲するということになったらしい。一体誰が決めたんだか。
というわけで私も参加させられたペーパークリップとかいう作戦も中止、もとい延期。兵舎に戻る前に私服は脱がされた。
色々なことについて喜べばいいのか悲しめばいいのか私は正直いまだによくわからない。
色々悩んでもしょうがないのかもしれない。今の私は戦自隊員。逃げられない。特にネルフ中枢の人間の顔を知っている数少ない戦自隊員として求められている特殊任務がある現状、絶対に逃げられない。どんな偽名も、ネルフの人達に手伝ってもらった偽装も、あのおじさん達には役に立たなかった。もう逃げられない。私はもう戦略自衛隊員霧島マナであり続けるしかない。逃げられないから、もう逃げない。
だけど全てを振り切って生きるなんてそうそう出来ないみたいで、天蓋部がきれいに無くなってしまったジオフロントの底でエヴァンゲリオン初号機が戦闘中であるのを視認した時に私は泣いていた。
シンジの乗っている初号機。私のかっての任務の標的だった男の子、私が好きになっちゃった男の子、サードチルドレン、碇シンジ。
シンジが生きていることが嬉しかった。シンジに会えないことが悲しかった。
涙がごまかしきれなかった。
私の横で背広と二尉は仏頂面だった。
ペーパークリップ作戦。目標、碇ゲンドウ、赤木リツコの拘束。
これには色々と付帯事項が続く。優先順位は碇、赤木。どちらかを拘束した場合、もう一方はやむを得ざる場合は処分も可。両名の逃亡、特に国外への逃亡は絶対阻止。両名を拘束した場合の待機地点、碇のみの場合の待機地点、赤木のみの場合の待機地点。他隊と接触した場合の対処、戦自の場合、自衛隊の場合、UN、警察、エトセトラ。
私に求められているのは目標の同定、ようするに現場での面通しというやつだけだし気楽といえば気楽。背広や二尉、そしてその下で実際に手足を動かす人に比べれば危険も苦労も無い。だけどやっぱり気乗りしない。
状況によっては碇ゲンドウは私達の手で射殺される。ネルフ総司令の顎鬚のおじさん。それだけならいい。いいのよ、もう。
だけどこの人ってシンジのお父さんなんだ。
私がシンジにとって親の仇の片棒ということになったら、そうならなくてもシンジとはもう会えはしないのだけど、もしそうなったら、シンジは絶対に私なんかと会ってくれないだろうし私を許してくれないだろう。
好きな人にとって許せないことをしてしまったら、そんな自分を許せるのか、私はわからない。
わからない。
手を伸ばせば届く天井には細かい傷がいっぱいある。
そんなことまで気になって眠れない。
それでいて下からルームメイトが声をかけてくれた時は寝たふりをしてしまった。
第三新東京市に入れずに引き返してから十日くらい後、教官室に呼び出しを食らった私は、そこの応接用ソファーに例の背広男が座っているだけなのを見てげんなりした。ペーパークリップ作戦は中止じゃなくて、やっぱり延期されただけだった。だけど目標に変更があって、どうやら赤木リツコが綾波レイになったらしい。
綾波レイとはエヴァンゲリオン零号機パイロット、シンジの同級生でもあり、私もほんの短いあいだだけ同級生だった。そういうわけで幸か不幸か私は綾波さんを知っている。
「知ってます」
私が知っているってこと、この背広は知ってるはず。
「結構。では前回同様、我々と同行してもらう。長くかかるかもしれんのでその分の荷物をまとめて私服に着替えて五分後にまたこの部屋に来い」
この人は元軍人だなと思った。ひょっとしたら元自かも。五分後なんて単語がすっと出て来る。だから敬礼したんだけど、さすがというか予想通りというか、眉一つ動かしてくれなかった。
五分後とはいかなかったけど大慌てで手提げ一つに旅支度を突っ込んで教官室に戻ると、背広に加えて、中尉と呼ばれて嬉しがるあの二尉と、初対面の二十四五のセミロングの女の三人が私を待っていた。
二尉も背広だけどこちらはノーネクタイ、あの時よりも整髪料が多めで薄い髪がてかっている。そして女の方は膝の白くなったジーンズを履いて、足元もブーツじゃなくてスニーカー。上はプジョーと胸にワンポイントの入った空色の長袖のブラウスを裾を出して着ている。このブラウス、厚手の生地というのはいいにしても、袖の大きさと二の腕の太さがちょっと気になる。
私はというと、ノースリーブのコットンシャツにオレンジのチェックのミニ。四人が四人とも何だかちぐはぐ。
「はじめましてだねー、霧島マナちゃん」
女が笑った。私よりは上なんだろうけど、でもいきなり、ちゃん呼ばわりは無いと思うんだけどな。
「三島さんと木下二尉は知ってるわね。今度は私がドライバーよ。雪野ミカ三尉です、よろしくねっ」
遠慮が無いって、軽いってことなのか偉いってことなのか、よくわかんない。
指先の無い革グローブを嵌めた手をぐっと握って、開いて、また握ってみせてくれた。運転は慣れているというアピールみたいだった。
「はっ、よろしくお願いします、雪野三尉」
「それからねー、これから階級ぬき。なんたって家族でドライブだもん、私達は」
頭痛くなってきた。
どう見たって家族に見えないよ。
一応配役みたいなものはある。私を中心に説明すると、運転席の手袋女は姉、助手席の二尉は父親、またも私の隣に座る背広が叔父、私が戸惑わないようにと霧島一家。父親だけはすんなり思いこむことは出来たけど、そもそも姉とか叔父という設定自体が私にとって馴染みが無いので、またお芝居しないといけない。
シンジと会ってから別れるまで、普通の中学生ごっこはそれなりにやってのけた。多分大丈夫。
だけどこんなでこぼこカルテットで検問をすいすい通ってしまうので憲兵も結構いい加減だ。さすがにジープだったらばれていたろうけどね。
今回は基地の車をそのまま使うってことはなかった。手袋女が得体の知れない略称と番号で私達が乗っている4ドアの車種と出力を説明した時はとても嬉しそうな口調だった。彼女が今も口笛吹きつつ太いハンドルをさばいている。嬉しそう。
追い越し車線に入ると口笛がもっと弾んで嬉しそうになった。
「ねえ、マナちゃん」と手袋。
「なに、お姉ちゃん」と私。
二尉は私の方に振り向くと、煙草をくわえたまま、にやっと笑った。手袋女も笑っているらしいがフレームレスのサングラスが眼差しを隠している。
「上出来」と二尉。
私の本当の父さんはまた煙草を吸いだしたんだろうか。
私に姉妹がいたらどんなことをして遊んだんだろうか。
そんなことを考えながら、しっかりお芝居しちゃう私。
そんな自分が恥ずかしい。シンジに会ってから心のどこかで私はこう考えるようになっている。シンジと別れてからもなかなか変えられない。
車は中央自動車道を南に向かっている。
「おい」
背広は相変わらず言葉が短い。手袋がちょっと首をすくめて車線を戻した。
「一応、まっさらのナンバー用意したんですよお」
「なら汚すな」
今度は手袋はバックミラーに向けてはっきり舌を突き出してみせた。おてんば姉ちゃん、小言叔父さん。
「ま、そんなに急がなくても捕捉出来る」とりなし役の父さん。
「どこまで行くんですか」私は芝居上手の中学生。
飯田を過ぎても背広は道を変えさせなかった。このままでは第三新東京市には行かない。
「目標は西へ向かっている。先行する」
「どこまでです」
「相手次第だ」
「はい」
背広と話してもつまんない。話し相手を変えよう。
「……おねえ、ちゃん」
「なぁにぃ、マナちゃん」
「運転免許っていつ取りました」
「十八なって、すぐ。まあ無免でさんざ乗ってたから楽勝だったわね」
「それって入隊前ですか」
「そーなの。今から考えると受験料損したわ」
ほんと車好きみたい。話題は間違ってなかったね。
「普通科って免許取れますよね」
「取れる取れる」
「二輪も取れましたっけ」
「少年兵ってどうなんですぅ、お・と・う・さ・ん」
「ああ、少年兵のうちは任意だな」二尉はちょっと眠そう。
「マナちゃん、十六んなったらサイドカーかな。意外と似合うかもねぇ」
想像してみた。私と一緒に誰が乗るだろうか。ムサシじゃないことは確かだ。シンジが乗るのはエヴァンゲリオンだ。
話を続ける気が無くなった。
「ラジオつけてくれますか」
「はいはーい」
物悲しい弦が流れてきた。アダージョと背広がいって、二尉はプラトーンとかいった。ちょうどいい、これを聞きながら寝ちゃおう。おやすみなさい。
恵那山トンネルを通り抜けるあいだ私はずっと寝ていたらしい。起きると岐阜に入っていて、標識を見ると中津川となっていた。このまま一日走り詰めらしく、まだ寝てていいわよ、なんて手袋がいう。そうはいってもそろそろお腹が空いてきた。
「皆さん、御飯食べたんですか?」
「あちゃあ。マナちゃん食べ盛りだもんねえ、そういえば」
なにやらこれは絶食訓練をやらされそうな気配。
「ええっと、そこ開けてくれますか」
手袋にいわれて二尉はダッシュボードを探った。彼が取り出して私に渡したレーションって、酒保でも売ってるやつ。微かにガンオイルの臭いが付いていた。
「ごめんねえ、こんなのしか無いの。とりあえず、これ食べてて」
「あ、どうも……」
一応申し訳無さそうにしてパック詰めのシチューをスプーンで掻き出して私だけお昼御飯をもらう。食べ終わってレーションのケースを潰していると、背広が私に写真を何枚か見せた。目標こと碇ゲンドウの写真だ。顎髭なしとか口髭つきとか眼鏡を付けてたり外してたりと、バリエーション豊富。
「小細工をしても全体から受ける雰囲気はそうは変えられないものだ」
「はい」
綾波さんの写真は無かった。
夜になって小牧にまで来てようやく車はサービスエリアに入った。座りっぱなしでお尻が痛くなっちゃった私が車を下りて腰をさすっていると、手袋が私の肩を叩きながらいった。
「ごめんねえ、時間食っちゃって。なにしろすんごい安全運転だったしぃ」
恨めしそうな目で背広を見てた。よっぽどスピード出せなかったのが悔しいんだ。
「ここは一つ優しい叔父さんに奮発してもらうとしましょうかあ」
彼女の言葉に、ちらりと二尉も背広男を見る。背広は納得行かない顔だったけど、その場の流れでか私達は寿司屋に入ることが出来た。そういえば特殊任務なんだし、これくらいの役得はいいよね。
ネタの名前を余り知らない私に、手袋は手袋のまま説明しながら皿を取ってくれた。
だけど彼女は自分が満腹するまで食べると、さっさと車に戻ってしまった。次は二尉だった。一服吸うといって、こちらも店の外に出てしまった。私としては一番敬遠したい背広と一緒の食事になった。
ちらちらと横目で見ているうちに頬杖ついた背広と目が合ってしまった。どうにも間が悪くなって、ごちそうさまといって席を立とうとした矢先、背広がいった。
「ドライバーを寝かせてやれ」
「あ……そういうことですか、はい」
「射手にもストレスを溜めさせてはまずいしな」
「あの……」じゃあ私は?
「なんだ?」
「検分役も、ええと、疲れてると、その、ミスるんじゃないかな、なんて」
「ふむ」
背広は立ち上がって私の背後に回った。一瞬身構えちゃったけど、背広が背広らしくない優しい声を出した。
「好きなもの食べてていいぞ」
そういって、カードを置いて外に出ていってしまった。背広の座っていた席には無地のICカードだけがぽんと置かれたままになった。
困った。
「迷う、な」
どうしようか。
「ええと、」
逃げようか。
「イクラください」
カードが、ここに、ある。戦自の二尉を顎で使える人が持つスペシャルカード。
「甘エビお願いします」
逃げようか、逃げようか、逃げようか。
「トロ」
逃げたら……。
「……」
どうしようか。
「どうした、嬢ちゃん」
「あっ、何でもないんです。ワサビがちょっと」
「おお、そりゃ悪かった。んならサビ抜きっていってくれ。次、何する」
どうしよう。
「サビ抜きで……またトロ」
「へい毎度」
おしぼりで顔を拭く。すっかり冷たくなっている。
「逃げられないか……」
お茶をすすって勘定を済ませて車に戻る。
「どうだ、腹一杯になったか?」
ドアを閉めると車内灯が消えてしまい、二尉の顔がわからなかった。
「はい、お父さん。すっかり叔父さんには御馳走になっちゃって」
「ははは。そうか、腹が減ってはともいうしな……接触は零時過ぎになる」
語調が変わった。
「わかりました、中尉」
「二尉、だ。霧島」
失敗。
黙って手袋女がキーを回して、文句のつけようのない安全運転を披露してくれた。
小牧からは東に向かったのは覚えている。背広に小突かれてまどろみから戻ると、車は既に一般道に降りていて、片側二車線の道路に面したショッピングセンターの駐車場に停車していた。見通しがきくと同時に私達は丸見えだ。車は冷えきっている。全員無言。
渡されたノートパソコンのディスプレイには、大きなウィンドウで何かの建物に六人の男と一人の女の子が入っていく一分弱のムービーが繰り返し再生中、小さなウィンドウにはliveと表示がついて、その建物の扉の閉じられている映像があった。
ヘッドフォンをつけた背広が目配せで訊ねる。綾波レイは含まれているか。
リプレイムービーは解像度が今一つだった。その女の子は男達に守られるように取り囲まれながら歩いていたから全身像はほとんど捉えられてなかった。髪の毛も栗色だったし、ちらりと見せた横顔の瞳の色も少なくとも赤くはなかった。だけど、間違い無く、綾波さん。背広のいう全体から受ける雰囲気、まるで水晶のような透明感、一度会ったなら忘れようの無い、それがあった。
私は肯く。これは綾波さんです。
左後部座席の背広は左担当、油断無く周囲に注意を払っている。手袋女は右側担当、ハンドルに軽く両手を乗せ、昼間冗談をとばしていた時からは想像もつかない厳しい目つき。右耳からイヤフォンのコードが伸びている助手席の二尉はスターライトスコープをつけて一点を睨んでいる。
二尉の視線の先、私も目を凝らす。白い街灯のにじみからぼんやりと浮かぶシルエット、倉庫のようなものらしい。じゃあ、ノートパソコンに表示された扉は、あの……。
背広と手袋の視線が微かに動いた。夜目には目立つ白いバンが二台、その建物の前で止まった。それぞれから六人の人影が降りる様子がざらつくノートパソコンのディスプレイから見て取れた。
「ちっ、クァンだ」
二尉が舌打ちしてシートに深くもたれた。
「ネルフだと」
そういうと背広はさっきまでの触ったら火傷しそうな雰囲気をいくぶん和らげて、かわりに少しだけ焦った様子で私の膝に置かれたままのノートパソコンを操作して、直前の映像をリプレイしだした。
「クァンだけじゃない。どういうことだ、汚れ仕事専門が四人いる」
「加持を出さずにか。いや、出せんのか。ひょっとして第三東京で」
「内訌としても確認出来んな。直接連絡を受けるルートは潰された」
「クァンの雇い先はネルフ作戦部だ。他と契約したとは聞いてない」
口を挟めるムードじゃなかったけど、思い切って割り込んでみた。
「あの人達、武装してました」
「そうだ。敵味方不明だが、とにかくあの人数……」
二尉がいい終わらないうちに始まってしまった。最初の一発は拳銃らしかったが、すぐに小銃の音がかぶさり、それは私が聞いたことのない種類だったので、あっという間にわけがわからなくなってしまった。
「ベルト締めてっ」
小さいけど鋭い声を手袋が放つ。その右手はキーに、左手はギアにかぶさる。多分足はもうペダルを踏みこんでるはず。
「見落とすなよ」
背広が指で私にノートパソコンを注視しろといっている。
建物の扉が開け放たれた。転がるように人が出て来る。出て来た何人かはその場でうずくまって動かない。中からの光が逆光になって顔の見分けがつきにくい。だけど逆に背格好はシルエットになってはっきりわかる。ロングスカートの女の子。
「綾波、生きてます」
私の言葉に、二尉がスコープの光量をもどかしそうに調整する。そうこうするうちにバン以外の車が発進する音が聞こえた。そして二台のバンも別々の方角に走り去った。
「ふうっ」
手袋が深く息をついた。二尉がスコープを外して手の甲で眉間の汗を拭った。背広が拳で膝を叩いた。私達は動かなかった。
また失敗した。
終夜営業のスタンドに入って車の充電。わたしの燃料は麦茶だったけど、皆は缶ビールを呷っていた。特に背広の機嫌が悪い。自販機の前の長椅子で私は自然と端っこに座っていたけど、素手の手袋が私の隣に腰を下ろした。
「お疲れさぁん」
手袋の手はしなやかっていうのとちょっと違う。指は長いし爪もきちんと手入れしてあるんだけど、握力強そうだなっていう、平手よりも握り拳が様になるって感じの手をしている。
「あ、はい、三尉こそ」
「んー、ふふふ。お姉ちゃん、でしょー、そこは」
彼女は口をつまんだ缶を手首を支点に振り子のように揺らしていた。
「長くなるかもねー」
ちょっと顔が赤い。そういえば背広はドライバーがほろ酔い加減だっていうのに何もいいそうでない。
「検問いいんですか」
「もう今日は無理な移動はしないでしょ。ん……んぐっ、ぷっはあ」
二缶、空けちゃった。
「昼間の話さあ、マナちゃんって二輪免許取りたい?」
そんなこと、いったっけ?
「取らされるんじゃないんですか?」
「そんな考えじゃあ、だあめ。取るの。自分で、取るの。目指せ、全種制覇」
「全種ですかあ」
「そーよー。トライデント乗りのマナちゃんなら、楽勝楽勝」
危うく麦茶の缶を取り落としそうになった。トライデント級陸上軽巡洋艦、私を壊した欠陥兵器。この女、人の気も知らないで。
「もう……あれには乗りません……」
「乗れば。かっこいいじゃない」
「乗れません……」
「乗れるかもよ、色々新しいの作るみたいだしね」
「だって、あんなの乗ってたら、死んじゃいます」
「ネルフの子たちは乗ってるんでしょ」
知ってるよ。そんなこと、情報集めた私が一番よく知ってるよ。ついでにトライデントとエヴァがどんなに違うかも。
「雪野三尉、私は」
「あのエヴァンゲリオンってのでも死んじゃう時は死んじゃう」
「私は……」
手袋女は私が口籠もっているあいだに立ち上がった。ジーンズの尻ポケットから引っ張り出した革手袋を嵌めて車に戻っていった。口笛つきで。
それからしばらく背広と二尉のやりとりを何となしに聞いていた。二台のバンで乗り付けた人達はネルフの人間らしい。背広と背広に指示を出す立場の人はネルフに仲間割れがあったと考えているらしい。私達はこのまま待機ということらしい。二尉ははやく任務を終わらせたいらしい。
くずかご目掛けて空缶を放る。入った。
「生きたまま捕らえれば問題ない」
「それを許す状況とは思えん」
私に聞かせたいのか、私を気にしてないのか、二人は喋り続けた。
次の日、というかそのまま朝になっちゃった日、この日はホテルに籠りきりだった。
私は部屋につくなり寝ちゃって、起きた時には手袋が笑いながらお昼のワイドショーを見ていた。シャワーを浴びる。丸一日以上あいだが空いてしまったので気持ちよかった。洗濯をしようと思ったけど、ホテルのサービスは使うなということだった。自分で洗うといったけど、それも止めるように手袋はいった。
「でも、着替えって後三日分くらいしかないんですけど」
「さっきね、私らの親父さんがいうにはね、せいぜい三日だって」
「叔父さんの方は」
「叔父さんも否定はしなかったからね。それから、これは私の勘だけど、ゆっくりするのはこれが最後になるような気がする。濡れたもの抱えながら移動したくないでしょ」
迷うところ。三日目、着たきりになってるかもしれないし。
「あ、でも、やるならついでに私のも」
「止めときます」
「それが正解。いざとなったら買ってくれる、っていうか買わせればいいのよ、叔父さんとやらにね。はいどうぞ」
据え置きの冷蔵庫に据え置かれたままという感じだったけど、冷えたジュースを手袋がコップに注いで渡してくれた。
駐屯地じゃ見せてくれなかったテレビ、ワイドショーは今度のオスカー賞の予想をしていた。たしか第三新東京市は市街戦になっているはずなんだけど。
「どうなってるんですか、一体」
「なにが」
「戦争が、です。決まってるじゃないですか」
「報道管制」
手袋がチャンネルを変える。水戸黄門、二十世紀歌謡、アジア大会平泳ぎ二百メートル決勝。たどり着いたニュースチャンネルのヘッドラインは日本−コリア首脳会談の再延期。
「で、でも、ネットは」
「物理的に残った第三東京への回線ではどうやらネルフが優勢みたいでね。あっちの攻撃が統制の方向なのは意外だったけど、だから変な話だけどお互い隠しあってるわけ。えーと第三東京は例によって使徒襲来のため丸ごと封鎖中ってことになってんのかな。実際そういわれると信じちゃうよねー。あ、チャンネル戻すけどいいよね。座ったら」
どうやら私は右手にタオル、左手にコップ、髪から滴を滴らしたままで、ぽかんと突っ立っていたらしい。ジュースを飲み干してから尋ねた。
「N2兵器も無かったことになっちゃったんですか」
手袋は笑いながらいった。
「私はねー、全部終わった後で使った武器を二倍か三倍かに水増しして報道してくると思うな」
「ネルフがですか、それとも」
「勝った方が負けた方を強くいうのよ」
首の裏を掻きながら笑う手袋は素手だった。当たり前。くたくたの革手袋はサイドボードに置かれている。
「ごめんねー、私も何も知らないから何も教えたげれないの」
「叔父さん達は状況知ってるんですか」
「そこ。知ってて知らせてくれないならまだ安心だな」
「それって、いやです」
「まあそうだよね」
手袋が胸のあたりで手を組んで指の関節を鳴らした。彼女の視線が私から離れてしばらく宙を泳いだ後、全部の関節鳴らし終えた拳に落ち着いた。
「でもね、マナちゃん。最悪なのは叔父さん達まで何も知らないって時だよ。もしそうだったらヤバいかもね」
その夜、睡眠周期がお互いぐちゃぐちゃになってしまって寝つけなかった私と手袋は、少なくとも私の方は、意識してくだらないことを話題に選んで時間をつぶしていた。話しているうちに、話題が入隊の動機ということになってしまった。
走ってばかりもいられなかった。それだけ手袋はいった。
何のことか問いただそうとすると質問を返されてしまった。マナちゃんは?
殴られたくなかったから。それだけ私がいうと、手袋に大笑いされた。だけど誰に殴られるのかとは聞かれなかった。
手袋にはわかっていたのかもしれない。黙ったままの私に手袋は自分の家族のことを話した。
私に姉はいない。手袋には妹がいた。手袋の妹は私と同じ年に産まれたけど、手袋をお姉ちゃんと呼ぶまでに育たずに亡くなったという。十年程前はよくあった事例で、私もそういう話はたくさん聞いてきた。
「ろくな設備も無くてさ、つまんなかったってのもあるけど、あんまり小学校行かなくてね、んで家にいてさ、店の手伝いはまだ出来なかったから妹の世話ばかりしてたんだ。あの子って栄養取れなかったのかなあ、ただの風邪だったのにこじらして、だんだん弱ってっちゃって。そういうのをね、命が消えていくところをずうっと見てて、見てるだけで、自分が何にも出来ないってのは、ま、悲しかったねー」
手袋がそんなことをいった。
考えてみるとシンジとは家族の話をしてなかったな。
ムサシは私とケイタに色々なことを話してくれた。
ケイタは絶対自分の話をしなかった。
眠くなる前に手袋の携帯電話が鳴った。背広だった。増援と合流するので五分でホテルを出ろという。
背広って五分で何でもやるんだろうか。
二尉がかなり怒っている。理由は前を走る白いバン。
増援の七人の男達はネルフ保安部を名乗った。その一団の指揮官らしい、とにかく私が見て一番偉そうにしてる人と二尉の目があった時、二尉は唾を吐いてから低い声でいった。
「貴様となら加持の方がまだいい」
随分日焼けしたその人は、顔色も変えずに流暢な日本語を使った。
「自殺志願者と比べんなよ」
「奴なら少なくとも自信過剰になることはない。一昨日の貴様の様はどうだ」
「化け物相手じゃ我ながらよくやった方だと思うがな」
険悪な二尉を尻目にその人は背広に向かっていった。
「ところで情報の共有ってのはこいつの無駄口を聞けってことかい、三島さん」
背広は無言で首を振った。
「だいたい手打ちは済んでるんだ。戦自にとやかくいわれる筋合いは無い、違うか」
「そう聞いている」
こんな時でも、それともこんな時だからか、背広の言葉は短い。
手袋はサングラス。笑っているのかどうかわからなかった。私の方もどういう顔をしていいかわからなかったけど、私がどんな顔をしてもそれで作戦が中止になることなんてないんだろうから、とりあえず彼らに会釈だけはした。二尉は車に乗る時にまた唾を吐いた。
高速には乗らないらしい。一般道を私達はバンの後をつけて走っている。
「あーあ」
後ろを走るってところが手袋は気に入らないんだろうね。
二尉はというと、視線でパンクでもさせるつもりなのか、前のバンを睨んでいる。
「防衛省では、あくまで第一目標はネルフ前司令碇ゲンドウであって」背広が二尉に話す声は言い訳じみていた。「たが内閣の方針が変わった以上、文民統制ということもあって」
「また腰砕けとは。ネルフ非合法化も見送りですか」
「ネルフだけを相手にしてはいられない。コリアが既に中国支持で固まっている。時間が無い。この上アメリカがついたら安保理は押し切られる。第三東京を口実に北京いいなりのUN極東軍を動かされては国防の脅威だ」
「アメリカが?中国に妥協?」
「いや、中国の方が軟化した。ルソン島駐留の人民軍縮小も考慮するとかいったらしい。日本を締め上げられるなら安いと考えたんだろう」
「どいつもこいつも勝手なことばかりしやがる」
「早急に治安回復を宣言する必要がある。公安だろうとネルフだろうと協力できる相手とは協力するんだ。わかったな、木下」
「にしても、クァンとはね。広田がクァンになってからラオスで何をやったか御存知で」
どうせ知って楽しい話じゃないんだろう。二尉が降格したのはインドシナPKOのすぐ後らしいから、そこらへんのことなのか。背広は腕組みしたまま、つまり知っているってことなんだろう。手袋ってPKOの時は任官していたんだか微妙な年齢。
「私情は挟むな」
「ほっ」
二尉の鼻息が荒い。こんな時に中尉なんていったら歯が折れるまで殴られる。
「あのサディストは」背広を無視して二尉は前を行くバンを顎でしゃくった。「笑いながら奴らの目標とやらを処分しかねん。あいつはそういう奴だ」
ネルフの保安部っていう人達と私達とでは目標は同じでも順序が違う。彼らの第一目標って綾波さんだ。
「あの……三島さん」
「なんだ」
「私達の作戦目標って拘束ですよね。その、処理とか、処分とかじゃ、ないですよね」
私は背広の目を見ては尋ねられなかった。
ああ、の一言で返されてしまった。
まったく背広らしい答えだった。
「第二ラウンドだねー」
手袋にとってはそうだけど、背広に二尉、そして私にしてみたら三度目だ。
車内に残っているのは私と手袋。手袋はまたも妙な仕立の長袖。私も着替えが心配だったから下着以外は昨日と同じ服。二尉はハンチングまで被ったハンター気取りの格好をしてライフルを担いで、背広の方は背広姿のままゴム弾装備のショットガンを持ってヘッドセットをつけて持ち場だというところに行っている。
ネルフのバンはここから坂を下って三百メートルほど先にいるということになっている。そこに待機しているのは一人だけってことになっている。
「すぐ終わるって」
バックミラーでは手袋が笑ってる。
「私はね、マナちゃんの護衛でもあるのよ。知ってた?」
「え?」
「あはは」
グラスが触れ合うような音がしたと思ったら、手袋の両手にはもうナイフが握られていた。両刃で薄刃、グリップも細くて指の間に挟めるくらい。
「一本あげようかあ」
「……いいです。下手だし」
「これってお守りみたいなものなのよ」
だったらお守り持てばいいじゃない。
「幼年教程後半だよね。銃の方がいいかな」
「射撃も教官に怒られてるんです。ちっとも集束しないって」
「お守り、お守り」
そういって手袋が私に寄越したのは二連発のデリンジャーだった。確かにお守りというか、それ以前の気休めっていう感じ。だけどどうしようか。ホルスターなんてないし、まさかスカートに差すわけにもいかない。
「どうやって持てばいいんですか」
「ポシェットに入れて。口は半分開けといて」
私の手のひらに納まるくらいの銃、そんな小さな銃でもそれを入れた肩提げのポシェットはずいぶん重く感じた。
「こんなの支給されてたんですか」
「あは」
手袋がいうには背広の用意の中にあったのだという。それも最初から私に持たせるためのものだったようだ。だけど背広はそんなことはこれまでおくびにも出さなかった。
「お守り、お守り」
手袋がそういってナイフを持った手をひらひらさせた。
刃は鏡のように日光を反射していた。
背広は私に武器は持たせなかった。私に撃たせたくないとか、間違ってもそんな殊勝なことを考えてたわけない。その必要がないからだって背広は思っていたんだ。手袋が今になって持たせた。私も撃たなきゃならない状況が来ると、手袋がそう考えているなら、つまり彼女は今のこの事態をヤバいって考えていることになる。
「ネルフの人達は……」
「準備出来たみたいねー」
手袋が左耳をこんと指ではじく。そこから伸びたコードはラジオに繋がっている。私のイヤフォンだってそうなんだけど、どうやら手袋の話し相手は違うらしい。私と話しながら背広と話してたんだろう。
私がスロートマイクをオンにして話す内容はネルフの人達も含めて全員に聞こえる。クァンって人がそうするように言い張った結果だ。
「カウント」
手袋のナイフがない。袖口にしまったんだろうけど全然見えなかった。笑っていない。私は膝に置かれたノートパソコンに意識を戻さざるを得ない。
「六十」
さっきまでと違う、乾ききった手袋の呟き。時報にぴったり。
陽射しが強い。何か飲みたいな。今回は私達の車は直接碇ゲンドウ達の目に触れることの無い場所に停められているのでエアコンをつけていられる。これはありがたいと思わなくちゃいけない。
ノートパソコンには三つのウィンドウで廃工場が映し出されている。正面は二トントラック一台がようやく出入りできるくらいの大きさのシャッターだ。工場の大きさも、せいぜい三台分くらいの修理スペースといったところ。シャッターは閉じていて、その両側の壁を同時に撃ち貫いて第三ラウンドは始まる。
「三十」
ディスプレイには南側の正面のシャッターを映したウィンドウに、東西側の壁を映した二つのウィンドウ。その他にもサーモグラフとかアコースティックデコンボリューターとかわけわかんないのがあるけど私が見てもわからないのは裏側に追いやってある。突入三十秒前、廃工場の空調はこちらの手筈通りいっていればもう機能していないんだけど、綾波さんどうしてるだろう。
「二十」
ガスが建物を充たしている。工場のセキュリティプログラムに最後のアタックが仕掛けられる時。
「十」
動きなし。
「五」
壁がめくれたとしかいいようがなかった。
西側の壁で真ん中に縦に筋が入り、そこからかすかに赤い光が覗いて、まるでその光に押されるたみたいに壁が紙のように外側へとめくれあがった。このムービーに音声は無いけど一瞬遅れて重い音が車の外から伝わってきた。それで手袋にもわかったらしい。彼女が四といおうとする時だった。私がそのウィンドウを広げて倍率を上げるようとすると、もう一度聞こえた。爪を引っかけたような、何かが割れるような、とにかく耳を塞ぎたくなる音だった。
「な、なに?」
手袋のびっくりした声なんて、これが最初で最後だった。
建物には碇ゲンドウ・綾波レイを含めて六人いるとのこと。ショッピングセンターの駐車場で見張っていた時より一人減っている。私が求められているのはその六人から二人を速やかに判別すること。
エッジ抽出したサーモグラフをムービーに重ねてみる。やっぱりわけわかんない、止め、煙の切れ目に注意した方が速い。破れた壁から煙に霞んで人影が現れる。そこに加えられる牽制射撃が私の目から見ても効果が薄い。連携が取れていないんだな。後ろから見ている私でさえどれが目標か判別しづらいくらいだから射手は大変なんだろう。
やがて三人の男がはっきり煙の外に姿を現した。マスクは装備してないし動きも鈍い。一人目と三人目が自動小銃を持っている、というよりぶら下げてるだけ。二人目が持っているのは銀色の拳銃。振り回すたびにぴかぴかした。これだね、髭を剃ったのはいいけど却って頬骨の張りが目立っているよ。
「目標、碇、確認。二番目、グレーのスーツです」
自分の言葉がイヤフォンから流れた時、私は少しほっとしていた。
達成感からか、解放感からか。
妙な気分だった。
ディスプレイの中では煙が晴れないまま、ネルフの人達が目標との距離を縮め始めていた。打ち合わせと違う。
ちくしょうとつぶやいた手袋が耳に当てていた左手をギアに据えた。
「掴まって」
ベルトなんてする気になれないので前のシートの背にある手すりに掴まる。手袋はこれがほんとに電動車かと思うくらいのものすごいスタートをやってみせた。私も頭をぶつけるのは一回で済ませた。
「いったあ」
どうにかしてノートパソコンを抱えながら姿勢を立て直す。相変わらず手袋はぶっちぎりの運転。もっとも廃工場までの道に並んで走る車なんていないけど。
いや、いた。
ネルフのバン。
「気に入らないね」
手袋がサイドミラーを一瞥。後ろを走られても気に入らないみたい。
私はというと何だか妙な気分。
後部座席で手足を突っ張って体を支えて、左耳ではおじさん達の怒鳴り声を聞いて、同時にノートパソコンをかちゃかちゃさせて目標を追うという、妙といえば妙な状況に相応しい気分なのかどうか。
「目標、綾波、確認。五番目、髪は栗色です」
私って興奮しているんだろうか。
気乗りしない特殊任務の真っ最中なのに。
私の目はしっかりディスプレイに映るベージュの野暮ったいワンピの綾波さんを確認している。あれは綾波さんが選んだんだろうか、私みたいにいきなり荷物をまとめろっていわれたんだろうか、同行している誰かに買ってもらったんだろうか。
リアウィンドウが砕け散った。ガラス片のうち車内に入ってきた大部分が私に、ちょっとだけは手袋にも降りかかった。
「伏せてっ」
いわれなくても。
自然に体が動く。ポシェットからコンパクトを引っ張り出してひどくゆれる丸い鏡から後方の状況を把握しようとしている私。一瞬だけ捉えたバンの姿から即座にヤバいことを理解する私。
「バンには二人、助手席からショットガンで撃ってきてますっ」
手袋が気に入らないっていったわけがわかった。
彼女は応えるかわりに胃が捩れるんじゃないかってハンドル操作をした。
「わっわっ」
「アブラだからっていい気になんな、コラ」
手袋ってガソリン車嫌いみたいだ。
タイヤ四本ともがいやな音をたててのスピンターン、そして加速。まるでトライデントが最大戦速になる時みたいな加速。ほんとにこれって電動車なの。
あっという間にバンの向かって左側をすれちがう。そのついでに手袋はいつ取り出したんだか魔法のように右手に持っているハンドガンで二三発バンの運転席に撃つけどさすがに防弾で効果なし。すると手袋はそのままバンの後ろに回って運転席をバンに向けて道を塞ぐように停車してしまった。一体何考えてんだろう。バンは車体を傾けてターンしつつこっちに向かって来る、向かって来る。
「ばーか」
ドアを蹴って外に出した両足で地面を踏ん張って横向きに座った手袋は、冷たく嬉しそうに馬鹿といいながら、今度はきれいに伸ばした両腕で構えて撃った。六発、七発、八発、それで旋回中のバンはそのまま横倒し。
「ネルフってのは、どいつもこいつもっ」
吐き棄てると同時に手袋は当てつけるようにおもいっきり勢いよくドアを閉めた。私達は転がって燃え始めてるネルフの車を置いて廃工場に急いだ。
後ろの窓が無くなってしまって風音がうるさい。手袋は容赦なくスピードを出すもんだから喋るには声を張り上げないといけない。
「ゆきのぉ、さんいぃ」
スロートマイクはオフ。
「なあによ」
手袋も怒鳴り返す。
「ネルフの人達って一体っ」
「横取りしようとしてるっ」
「三島さんと木下二尉はっ」
「ピンチっ。援護に行くっ」
私も?
「私も行くんですか」
「どぅわいぢゃうぶ」
まさかあれ使えっていうの?
「私は何をするんですかっ」
「バックアップよっ」
「二発で何するんですかっ」
「マナちゃんは電子戦よっ」
予定通りにはいかないもので、結局検分役だけじゃ済まなくなってしまった。
もっとも私がお荷物状態であることには変わりはない。ジャミングにしろクラッキングにしろ用意されたプログラムを指示されたタイミングで走らせるしか出来ないんだから、ベルが鳴ったら受話器を取りなさいよっていうのと大差無い。
ただ死ぬかもしれないってところが電話番とは違う。
ノートパソコンでは吹き出る煙の薄くなりだした工場のムービーが、まだliveの表示で映っていた。ネルフの人達はカメラを潰していない。私と手袋を潰せばそれで済むと考えていたんだろう。
予定通りにはいかないんだ。
古タイヤとか錆ついた空っぽの車体とかが積み上げられた廃車置場で手袋はブレーキを引いた。この先の下りのカーブ、それを曲がれば工場が見えて、つまりは工場からも見えてしまう。銃声が散発的に響いていた。
手袋はラジオのチャンネルをいじって、私のイヤフォンとマイクも手袋−背広−二尉の話だけに加わるようにした。これでネルフの人達は私の声を聞けないわけだけど、ちょっと遅かったんじゃないかと思う。誰が碇で誰が綾波かっていう、多分彼らの一番聞きたがってたことは、もう叫んじゃった後なんだし。
「出来る?」
ハンドルをぽんと叩いて手袋が笑いながら振り返った。そんな、無茶です。
「そだね。じゃあ私もマナちゃんも外に出ずに二人を拾う。拾って一時離脱」
「二人って、綾波さんと……」
「違う。叔父さんと親父さん。目標はその後、いいね」反論を許さない口振り、手袋を嵌め直す手袋。
「二人は左側の生け垣の裏」ノートのディスプレイを指差しながら説明の雪野三尉。
「射線上を突っ切る直前に、グレーとブルーを同時に仕掛ける。ネルフがこの一週間でコードを替えてなければこれで奴等はバラバラ。そもそも連中に組み替える暇はないはずだし」グレーってのはネルフの使っているはずの帯域からの妨害でブルーは念のための民生帯域からの妨害。どっちも単純割り込みだけどキーワードがわかってない限り無力化不可能ということになっている。近所迷惑かな。
「回収は十秒掛からない。発煙弾も晴れる前に終わるから」手袋がミカ姉ちゃんって顔になって私を見た。
「マナちゃんは私の合図でクリックするだけでいい」
膝の上で握っていた私の手にその手を重ねる手袋。ささくれた革の感触がした。
「出来るよね」
「はい」
返事をした拍子にごくんと喉が鳴った。
バックミラーには上目遣いの私が映っていた。
震えてるの?怖いの?興奮してるの?
そんな目じゃなかった。のっぺりした瞳が私を見返していた。
私じゃないみたい。
「じゃ、行くよ」
「はい」
電動車らしく滑るように車は発進した。
ノートパソコンに入ってるジャムプログラムは五つでグレーとブルーはその中の二つ。私はどれにも触れないけど手袋が実行許可を持っているのでそれを使って起動。パスワードはPeugeotの鏡のtoegueP、単純。呼び出すと素っ気無いメッセージが二回流れて後はボタンを押すだけになった。
左折すると視界が開ける。こもって聞こえていた銃声が切り裂くようなスタッカートへ変わったような気がした。平屋の工場が見えた。正面シャッターは閉じたまま、左側の壁からもれるガスはもうほとんどない。風が無いにしても時間が経ちすぎてしまっていた。追加しないといけない。手袋がそのためのランチャーをナビ席に置いている。他にサブマシンガンが二つ。足元のゴムマットもひっくり返さない憲兵のいい加減な検問のおかげ。
アクセル。手袋はもちろん運転しなきゃいけないし発煙弾も撃たなきゃいけない。サブマシンガンで牽制するのも彼女がやる。私はバックシートで息を殺して、殺す必要なんて無いんだけどなぜかそうして、ただ合図を待っているだけ。私、やっぱり待つのは好きになれない。
待つ。芦ノ湖の檻を思い出した。
ムサシ。
シンジ。
喉が渇いてきた。
右耳からは直接、左耳からは通信で、手袋の叫ぶ声が聞こえた。
私は電話番、クリック。
ちょっと遅れたかもしれない。車に弾の当たる音を二度聞いた。私がプログラムを走らせたのは最初の着弾直後だった。横目に見た手袋はハンドルは左肘だけで取って、ランチャーを扱っていた。三度目まではだいぶ間隔があいた。その間は銃声自体も少なかったから、グレーが効いてくれたんだろうね。デジタル照準の精度を狂わせるのは簡単らしい。
私はガラス片だらけの後部座席に伏せながらノートパソコンを抱えて妨害コマンドを何度も何度もうちこんでいた。当たりませんように、当たりませんように。喉はどんどん渇いていった。
ネルフの人達のいる工場は手袋のばら撒いた発煙弾のおかげで直接は見えなかった。スピンを切った車は工場に前を向けて、だけど逆進した。そのせいで私はシートから転げ落ちてしまう。這い上がろうとした時に扉が開いて血だらけの背広が入ってきた。というよりは二尉に押し込まれたという具合だった。そして二尉が助手席に乗り込むときに三度目があった。着弾音はそれまでの二度の金属的な音とは微妙に違っていた。手袋が右肩を押さえていた。運転席のシートベルトの付け根辺りが真っ赤になっていた。
「おねえちゃ……」
それから手袋は左手だけで運転した。
ネルフは追っては来なかった。十か二十かの弾痕をあけられフロントガラスもひびだらけになった私達の車にはぴったりの廃車置場へ下がるまでに、私は何人かが地面に倒れているのを見つけていた。生きてるのか死んでるのかわからないその人達の中に碇ゲンドウ綾波レイの二人はいなかった。
「戻れ」
肩で息をしながらも二尉は大声で手袋に怒鳴った。
「任務は終わってない。たとえ死体でも奪還するぞ。戻れ」
二尉はがちゃがちゃ音を立てながらライフルやサブマシンガンの弾倉を付け替えていた。手袋は右肩を押さえながらゆっくり肯いた。
「そんな。まず三島さんと雪野三尉の止血をしないと」
「黙れ」
失敗。殴られた。口を挟む前に包帯でも出しておけば違ったかもしれない。
殴られた頬をさすると、かなり血が流れていた。拳の前にガラスの破片で切ったらしく、バックミラーの中の私は小さい傷をいっぱいこしらえて、特に顔の左半分は何度も引っかいたようになっていた。ひりひりするだけで大したことのない怪我だけど血の量だけでいえば背広を笑えない状態だった。
そして鏡に映った私は光の無いのっぺりした目をしていた。
父さんと一緒に暮らしていた時に髭剃りの最中に手元を狂わせた父さんを見たことがある。そんなどうでもいいことが頭に浮かんでくる。父さんは笑っていた。なあ、煙草吸っちゃ本当に駄目か、手が震えてガンより先に出血多量で死んじゃうぞ。
手袋が顔を歪めながら車を出す。工場の方にだ。横では二尉が怒鳴ってる。そう、父さんも怒鳴っていた。許さん、なぜ戦略防衛予備学校なんだ、父さんがマナを育ててきたのは軍隊に入れるためじゃないぞ。
背広はぜえぜえと息をついてシートを切り裂いて中から新しい銃を取り出す。二尉は蜘蛛の巣になってしまったフロントガラスを銃床でフレームからはたき落としている。
「止めてよ、お父さん、叔父さん。ねえ、お姉ちゃん、もう止めようよ。こんなこと、もう止めようよ」
私は相手にされない。
工場がもう一度見えてきた。
バンを潰しておいたせいでか、ネルフの人達は徒歩で私達から離脱しようとしていた。碇ゲンドウ達は六人、保安部だっていう人達のうち廃工場の方に行ったのは五人なんだけど、随分減って全部で六人。誰が誰だかわからないし、わかったところで敵か味方かはまた別の話。とりあえず背丈から中学生の綾波さんの区別だけは付いた。
二尉はその六人目掛けて喚きながら撃ちまくった。目標の生死なんて眼中に無いみたいだったけど、そこは腐ってもたたき上げ、逸らした射線を徐々に近づけるように薙ぎ払う射撃を蛇行する車に乗りながらちゃんとやっていた。追われる人達は散開出来なかった。こうなれば徒歩と車、すぐ勝負はつく。
背広がバイノキュラーを寄越した。血で滑るダイヤルを回しながら何とかフォーカスを合わせる横で背広がいった。
「かり……碇ゲンドウは……」
青い顔をしながら何でそんなことしかいわないんだろう。
「います。手錠を掛けられてるようです。綾波レイもいます」
私も人のこといえない。
風を切って弾の飛ぶ音が続いた。遅いとわかっても首を引っ込めた。横では額の血を拭った背広が逃がさんぞといって笑っていた。
「雪野、右へっ」
二尉の片言、これだけで手袋はスピードをわずかに落としてハンドルを右に切る。曲がりぎわ、二尉は両手に一挺づつライフルを持って器用に飛び降り、手もつかずそのまま駆け出した。私の父さんを演じられる年齢だなんて信じられない。
「銃を持ってるのは何人だ」
背広が怒鳴った。怒鳴ったのは背広も撃ち始めててその音に負けないためにだ。そんなことを聞くのは撃ってるくせに見えていないからなんだ。代わりに私に体を持ち上げてネルフの人達を見ろっていってるんだ。ペリスコープも用意しなかったくせに無茶いわないでよ、撃たれちゃうじゃない。
見る。怖い。興奮する。渇いた喉。
「四人がライフルを持ってます。目標の二人は手錠を掛けられてます。一体何がどうなってるんですか」
せっかく私が銃撃に身を晒して確認した情報だってのに背広は薄笑いをしただけで、私の質問なんか無視してこれまた車を飛び降りた。
そして手袋も長い弾倉をはみ出させた拳銃を撃ち始めた。三方から六人を狩りたてていった。
六人のうち、銃を持った一人が膝を折った。一瞬だけだったけど両手を伸ばして、まるで銃を空に向かって差し出すような格好をした後でばったり倒れた。これで五人。
もう一人、多分脚を撃たれたんだろう、つんのめって倒れた。立ち上がりかけて私達の方へ腰だめに構えたところで止めを刺された。タオルが風にはためくように体を捩じらせてその人は崩れていった。やったのが二尉か背広かわからなかった。残り四人。
飛ぶ弾が見えた。びっくり。グレネードの飛ぶのが間延びして見えた。
撃ったのはクァンって人で、撃たれたのは背広だった。着弾音の方を見ると土煙の横を転がっているところだった。どうやら背広は致命傷じゃないらしく、銃を離さずに立ち上がった。だけどもう走れないようだった。あれじゃじきに直撃されるかもしれない。
でもその前にむこうの一人がのけぞって動かなくなった。
残るは三人、しかもクァンって人しかもう武装していない。あとは立っているだけでお荷物の碇ゲンドウと綾波レイ。こっちの勝ちだ。ほら、あいつ、手を上げた。これで終わり。もう終わり。終わってよ、もう。
手袋はクァンに狙いをつけながら車を降りた。
私もつられて降りた。何が出来るってわけじゃないけど、ガラスまみれのシートは座り心地悪い。だけど降りても前に出るほど無茶をする気にはなれなかった。廃車寸前の車の陰で狩りたてる三人と狩りたてられる三人ともう動かない三人を見ていた。
輪を狭めて狩りたてる三人の狙いは全部クァンって人に向いていた。
「腹這いに、なれ」
「投降する。ヴァレンタイン条項に則った……」
「扱いをしろってんだろ、糞ったれめ」
二尉の拳骨、自慢じゃないけど私だって知ってるよ、お大事に。だけどあいつよっぽどタフなのかふらつきもしなかった。おまけにどうやら笑っている。
「腹這いになれ。手は頭の後ろで組め。レオン・クァン、貴様は今からヴァレンタイン休戦条約捕虜取扱条項に則った扱いをうける。どうだ、これで満足か、この皆殺し野郎が」
地面に伏せた捕虜ということになった人に二尉は唾を飛ばして喚いた。そんな元気の残ってる二尉もタフだ。
「それから、お前」
髭の剃り跡が妙に白いせいでかやつれたように見える碇ゲンドウに突っかかろうとしたところで二尉は背広に肩を掴まれた。背広はさすがにへばってるようで、黙って首を振って制した。
だけど続いて口をついて出た言葉は途切れ途切れだけど凄味があった。凄味というか、もう厭味かもしれないけど。
「碇ゲンドウ。貴様は、死体だ」
うな垂れていた髭無し男が体を震わせた。その手に掛けられた手錠がかちかちと鳴る。
「殺しはしない。自決は許さん。これから貴様は、ただのゾンビだ。綾波レイと同じくな。黙秘権は無い。人権など、無期限停止だ」
「ネルフの……」
「認めるさ、司令の冬月も」
髭無し男はそれを聞くと膝をついて、そのままぺたんとしゃがみ込んでしまった。
「喋ることを喋ったら、貴様はネルフにくれてやる。その後で、どうなろうと、我々の知ったことじゃない。どうだ、これまで部下への配慮は行き届いていたか、ネルフ前司令、碇ゲンドウ。貴様の人徳など、所詮は始末屋レオン・クァンを迎えに寄越される程度でしかない」
うつ伏せのままのクァンがくっくっと笑い、二尉はその脇腹を蹴った。髭無し男を見下しながら背広は血だらけの背広を着て無理して立っていた。手袋はまだ銃を左手に持っていたけど腕は下げていた。彼女も立っているのは辛そうだった。
綾波さんは碇ゲンドウのすぐ側に無言で立っていた。
私は喉をからからにしながらペーパークリップ作戦が終了するのを見ていた。
風が無くて暑さと湿気が気持ち悪かった。
二尉が呼んだ内務省だかの迎えが到着するまで三十分ばかり。待つあいだ、誰も一言も口をきかなかった。背広は車にもたれて立っていたけど、手袋は自分の脚だけで立ったまま。もちろん二尉もそうだった。この三人で、つまり三つの銃口でうつ伏せの一人と手錠をされた二人を取り囲んで、焦げちゃうんじゃないかっていう陽射しの中に黙りこくっていた。
私だけ穴のあいた車の作る小さな影に体を押し込めるようにしゃがんでいた。
わかった。
みんなどうかしてる。
でなきゃ、こんなことしていられるわけない。汗かいて突っ立ってるなんて馬鹿やってないで車ん中でクーラーつければいいじゃない。
二尉も背広も間抜けだ。たった四人でやろうなんて無茶だったんだ。増援だなんていうネルフの人達と協同作戦なんて無神経すぎる。そもそも第三東京って包囲したんじゃなかったの。そういえば手袋、いっていたね、ヤバいっていう状況のこと。結局肝心なことは知らされてなかったんだ。だからこんなややこしいことになったんだ。おかげで私は命懸けの電話番。
睫毛の滴、涙じゃなくて汗だ。拭おうとしてポシェットからハンカチを出す時に気付いちゃった。腕も脚も、とにかく素肌を晒してたところなんて傷だらけ。なんで私はこんな埃っぽいところで、汗で額に髪の毛貼り付かせて、あちこち生傷こしらえて、膝抱えてしゃがんでなきゃいけないの。
少年兵だから?
もう、うんざり。逃げる。今度こそ逃げてやる。逃げられるかどうかなんて悩んだりしない。逃げてやる。
どこかのお役所差し回しの黒い車が都合八台も到着したのはそう思って立ち上がろうと膝に力を入れた時だった。力が抜けた。
出発前に間近で確認させられた。碇ゲンドウはどう見ても碇ゲンドウだったし、綾波レイはどう見ても綾波レイだった。綾波さんは素直にカラーコンタクトを外して、印象的な赤い瞳をみせてくれた。髪の毛は染めていたらしく、かき分けると根元だけは栗色じゃなかった。
綾波さんについては背広は影武者の心配をしていたようだったけど、私にいわせれば、碇ゲンドウはともかく綾波レイの替わりが務まる人なんてこの世にいそうにない。
彼女の手錠を外す時、その手に触れた。白くてすべすべして、綾波さんって手には限らないけど特に手は、まるで置き人形のように整った輪郭をしていた。私は擦り傷だらけの自分の手がいやになっちゃって、それ以上は彼女と目を合わせられなかった。
私と二尉は最後尾の車に乗った。多分私達だけ駐屯地に直帰なんだろう。
先頭の車は碇ゲンドウ、二番目の車は手袋と綾波さん、三番目が背広とクァンって人を乗せている。それ以外が運んでるのはボディパックだ。
「手際よかったですね」
私は手早く後始末と撤収準備をした役人達のことをいったつもりだった。
「ネルフでも日向なんてのが出てこなきゃ、ここまで手間取らずにさっさと終わったはずだった」
でも二尉は勘違したらしい。皮肉だとでも思ったんだろうか。
「日向も単なる小僧と思っていたが、いや小僧は小僧だな、小細工がえげつない。新しい司令がそんな小僧とその作戦部にいいように引きずられていては先はないだろうよ」
わけのわからないことばかり喋り出した。だから放っておくことにした。今の二尉は機嫌がいいんだか悪いんだかわからないので下手に合いの手をいれたら殴られかねない。一日に二度も殴られるなんていやだ。
体がだるい。今日の運動量ってどれくらいだろう。信じらんないくらいハードだった気もするけど、別に私は自分で走り回ったりしたとかいうわけじゃない。どうしてこんなに疲れてるんだろう。
先頭の一台がランプに入った。それ以外は交通量ゼロの高速を走り続けた。あの車だけは関西方面に行くと。ええっと、あれは誰を運んでたんだっけ。残りは私達と同じ所に行くのかな。
「本格的な動員なしの実施を強いられたのが痛かったな、包囲戦を継続するにも予備が無い、ネルフに花を持たせてでも一時停戦ということになるか、あの碇と小娘が手向けの花ってわけだ、確かにこんな時にUNに平和維持軍などといわれて乗り込まれるよりは」
二尉は機嫌はともかく緊張はとけたらしく饒舌だった。勝手に話してる二尉の言葉を聞き流しながらぼんやり外を眺めているうちに体が傾いてきた。絆創膏を貼ったこめかみが窓にこつんと当たった。私の視線は後ろへ後ろへと流れる路面に移った。灰色の無意味な模様に既視感があった。
既視感の正体を考えている最中だった。ばあん、という音と急ブレーキの音が重なった。私達の車はそのままスピンしてしまった。どうやらこのドライバーは手袋ほど巧くない。
スピンの途中で窓ガラスに押し付けられながら、私は工場の壁がめくれ上がった時に見たのと同じ赤い光を目にしていた。前を走る車の一つからその光は出ていた。ただし正確にいえば、その時それはもう走っていなくて、車というよりはその残骸でしかなかった。
残りの車が次々と煙を吹く残骸を取り囲むように停まった。黒い背広をユニフォームのように揃いで着た役人達が降りた。みんな強ばった顔をして懐に手を入れている。駆け寄る先は車の残骸で、だけどそこに倒れている運転手らしい人を介抱するためじゃなさそうだった。
もう一人倒れているのは手袋だった。彼女を介抱するためでもなかった。
もう一人。倒れていなかった。綾波さんだった。立っている。怪我一つ無い。
役人達は綾波さんの前に立ち塞がった。
みんな銃を取り出した。
二尉はというと、もう一ラウンドやるって顔をしてサブマシンガンを掴んで降りていった。降りる時に私には出てくるなといった。勝手なことばかりいわないでよ。私は外に出た。だって手袋が死にかけている。
「気を付けろ、これは」
二尉が怒鳴った。誰に怒鳴ったかといえば、それは役人達にだけど、これってのがじゃあ何なのか、わからなかった。
「刺激するな」
背広の声だ。何をだろう。
手袋が倒れている。綾波さんが立っている。車の残骸は細々とした破片と大きな二つの部分に別れていた。縦に二つに車を割った断面は妙に直線的だった。煙も燻ってる程度だし、どうやら電池の爆発とかが原因じゃなさそうだった。だけど何が起ったかわからないことに変りはない。
ただ赤い光が見えた。
「動くなっ」
叫び声にびっくりして思わず足を止めたけど、これは私にいった言葉じゃなかった。
いわれたのは、綾波さんらしかった。
そして綾波さんはゆっくり歩きだしていた。
「止まれ、止まれといってるだろうが」
「待て。刺激するな、不安定だ」
「ならば早く、停止命令は」
「抑制剤はどうした」
綾波さんが歩く方向に立っていた男が「来るなあ、化け物」と悲鳴を上げた。これはどう考えても民間人を相手にした警告にはなってない。だけどその男はそんなことを気にしてはいなかった。がたがた震えていた。怖がっていた。綾波さんをだ。震えながら何発も何発も綾波さんに向かって撃っていた。
また赤い光を見た。
壁のように、綾波さんの前に、それはあった。
弾は全部が光に阻まれてしまった。装甲板に小口径の拳銃弾が当たったような情けない音がその度に響いた。発射音はすごいのに。
弾を撃ち尽す前にその男は突進した赤い光に押され、車の一台にめり込んでしまった。
綾波さんはゆっくりと一歩一歩を踏みしめるように進んでいた。
男達の列が乱れた。誰かが笑った。
「無駄だ。こいつは止められない。南沙紛争からずっと死線をくぐりぬけてきた仲間五人をまとめて肉塊にするような化け物だ。内務省の私服共に止められるわけがない」
クァンって奴の嘲笑う声が、信じられるはずのない馬鹿げた言葉が、私の喉がからからなのをいいことにすとんと心の底にまで落ちてきた。こいつって、化け物って、目の前の綾波さんのことなんだ。
「貴様か、活性化させたのは」
「動かせるのも止められるのも碇ゲンドウだけだ。俺に出来たら今頃お前等に捕まってるかよ、くははは」
すぐにあいつの笑い声は跡絶えた。二尉が黙らせたんだろう。
「これが……赤木のいっていた自己シンクロか……」
背広は呆然としている。
とうとう男達はパニックになった。
出鱈目に続く銃声、薬莢の路面に跳ねる音、そして弾が光にはじかれる音。私は焼けつくアスファルトに伏せていた。耳を塞いで震えていた。それでも男達が一人、また一人と、叫び声をあげるのが聞こえてきた。その都度、銃声が少なくなっていった。やがて静かになってしまった。
風が無かった。
陽射しだけが強かった。
「あの人はどこ」
耐えられないくらい静かだった。囁くような綾波さんの声もよく聞こえた。
「あの人は、どこ」
私を見下ろしていた綾波さんがいったいどんな顔をしていたのかは逆光でわからなかった。蚊の鳴くような声は単に言葉を伝えるだけ。表情がごっそり抜け落ちてしまって判断がつかない。
「あの人って……」
「たった一つの絆」
声に抑揚が無かったけど疲れているんじゃないんだろう。息があがってるようでもない。
「あの人は約束の時といったのに」
何かを読み上げるような言葉だった。
「私はそのために在るはずなのに」
泣いているのか、怒っているのか、わからなかった。
「今の私にはアダムもエヴァもリリスも無い」
「綾波さ……」
「私には何も無い」
二尉の独り言と変わらなかった。何をいっているのかさっぱりわからなかった。だけど二尉の時みたく放っておくなんてできそうになかった。綾波さんは私を殺せる。それはわかる。このままじゃ殺される。
ごめんなさいと謝ったら許してくれるだろうか。
ごめんなさい、私はあなたのことをあなたを追う人達に指差して教えました、あれが綾波レイですとけしかけました、許してください、綾波さん。
「どきなさい」
私が渇ききった喉に粘つく唾を飲み込むしか出来ないでいるうちに手袋の声がした。
歯をくいしばって、脂汗をたらして、傷の破れた肩の包帯はどす黒くしている酷い有り様の手袋が立ち上がっていた。
「その子から離れなさい、綾波レイ」
綾波さんが手袋の方に振り返った時には手袋と綾波さんの間に光の壁が現れていた。しかもその壁は手袋の右腕を横切っていた。次の瞬間きれいに切り取られた手袋の右肘から先がゆっくりと落ちていった。
うずくまってしまう手袋。血を吹き出しながら転がる右手は革手袋したまんま。袖口に仕込んであったらしいナイフがこぼれて、きんと音を立ててアスファルトに落ちる。
「お姉ちゃんっ」
綾波さんが私の方を向くのと私がデリンジャーを綾波さんに向けるのは同時だった。
弾ははじかれた。
残りは一発、外しようのない距離だったけど、そんなことは無意味だった。次弾もはじかれて、私が死ぬなんてのは決まりきったことだった。
だから引き金を引くのは無駄なことだった。
なのに私はそれをしていた。
指が止まらなかった。
私の狙いは正確に眉間に向けられていた。二発目が綾波さんの目の間のすぐ前で光の壁に遮られるのをはっきり見た。
その後に続いたこともはっきり見届けた。
綾波さんの目が大きく開かれた。がくんと顎が上がって、口が喉の奥まで見えるくらいに開いた。
うつ伏せに倒れ込んだ綾波さんの後ろからのしかかるようにして手袋が綾波さんの脇腹にナイフを突き立てていた。
倒れた綾波さんが身を捻って、片手で手袋を振り払った。抱きついたらそれだけで折れちゃうような華奢な子とは思えないすごい力だった。また光の壁が手袋を横切った。今度は袈裟切りだった。手袋は動かなくなった。
綾波さんは刺さったナイフを自分で引き抜いた。立ち上がり二三歩前へ歩いたところで倒れた。綾波さんも動かなくなった。
ただその前に、倒れた綾波さんがその瞳を閉じるまでに、何かをいおうとして口を動かしたのも私は見た。
イ・ア・イ、そんな唇の形だった気がする。
そしてまた静かになった。
終わった。
私は尻餅ついてへたり込んでいた。
汗と血で汚れた手には遮られるだけだった二発を撃った銃があった。
目の前のアスファルトに鼻の先から滴れた汗がはじけて何度か染みを作った時に人の声がした。
「壁、か。なるほどな。確かに一つの壁では正反対からの同時の攻撃は防げない」
私の肩をぽんと叩いたのはカーオイルをべっとり上半身に付けた二尉だった。車の陰にでも倒れてたんだろう。
だけど他にはいなかった。
私と二尉の二人しか残っていなかった。
「よくやった」
見上げた二尉の顔が逆光でわからない。
私の肩にある手は大きな手だった。
父さんと同じ手だった。
「よくやったな」
「黙ってよ父さん、あんたみたいなのがいなけりゃ、あたしだって、予備学校入ろうなんて、そんなこと考えたりはしなかったわよ」
きっと暑さのせいだ。
二尉は私を殴らなかった。
着ていた服は駄目になった。私服なので新しく支給というわけにもいかなかった。
二尉が経費の申請法を駐屯地まで帰る道中に一通りは説明したはずなんだけど、私の頭には残っていなかった。説明を聞き流して考えてたのはアスファルトから連想するイメージで、別れ際にようやくそれを思い出したので二尉に尋ねてみた。私が脳味噌飛び散らせたらどうします?
さっさと休めとだけ二尉はいった。
休めということなのか服のお詫びということなのか知らないけれど、妙な任務からただの少年兵の生活に戻った私にはいきなり一週間というかなり長い休暇が待っていた。
だからって急にいわれても行く所が無い。
休暇の三日目はいい天気になったので芦ノ湖まで遠出しようかとも思ったけど、出がけに教官が勿体つけて教えてくれた第三新東京市の戦況のせいで行く気が無くなった。
再三の発電所への攻撃もエヴァンゲリオンによって阻止され戦線は膠着しているらしい。
エヴァンゲリオン弐号機は戦争初日に敵だか味方だかよくわかんない量産機によって撃破されたはず。まだ稼働しているのは初号機のはずで、乗っているのはシンジのはず。シンジと一緒にボートを漕いだ湖に行くのは、第三東京方面に展開中の部隊の人達に対してもシンジに対しても何となく後ろめたく感じちゃって外出申請を取り下げた。
結局、周りをぶらぶらするだけで休暇は終わってしまった。帰省したらといってくれる人もいたけど、私にとって家はわざわざ帰っても気疲れする家族が待っているだけだし、それくらいなら近くの小さなデパートでウィンドウショッピングでもする方がよかった。
休暇の最終日には停戦が発表されて東京戦争は公式に終結した。
でも私は知っている。
国連の停戦案なんてほんとは必要無かったってこと。日本政府もネルフも、絶対に避けたかった全てを知っているという碇ゲンドウの国外逃亡を阻止するために、ずっと前から接触を持っていたし協同作戦までやっていたってこと。阻止が成功した時点で、つまり彼を乗せた車だけがスピードを上げて別の道へ曲がっていった時、既に停戦の用意は出来ていたってこと。発表までが長引いたのは、ぎりぎりまで値踏み交渉をやっていたからに過ぎない。
停戦後の第三新東京市へ通じる道に国連停戦監視団によって戦争の時以上に厳しい検問が実施されているのも、日本近海で国連旗を揚げた中国とアメリカの機動部隊が遊弋し続けているのも、同じように裏で何かがあるんだろう。
私が知らないだけで。
二尉に聞けば機嫌がよければ教えてくれるだろう。だけどあれから会う理由も無いので会ってない。
一度、綾波さんの夢を見た。水色に光るあの髪を染めていない、瞳も赤いままの綾波さんが、イ・ア・イ、と口を動かす夢だった。汗びっしょりになって夢から覚めた時、私はそれが「いたい」といっているのだと思った。ただ、時間が経つにつれ、「いかり」といっているようにも思えてくるから不思議。
夢に見るなんてことはないけど手袋とか背広のことを思い出す時もある。お寿司は美味しかったし、パジャマでお喋りしたのは楽しかった。楽しかったことだけ思い出すようにしている。楽しかったのだと思うようにしている。ムサシやケイタの場合と同じようにだ。シンジについてもそうしている。
例えば、ともかくも停戦ということになったんだから、碇ゲンドウは遠からず第三新東京市に移される。シンジにとってはお父さんに会えるっていうことだ。シンジとは家族の話ってしなかったけど、久しぶりに会えるとなればお互い嬉しいだろう、そう、思う。
あんまり予定通りにはいかなかったあの作戦、少なくともシンジにはお父さんと会わせてあげられた、とも、思える。
今は駄目だけれど、水晶のような綾波さんのことを、震えずに思い返せる日だって来るかもしれない。
その時には父さんのこともいい人だと思えるようになっているだろう。
end