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弔う

 お父さんの職場から葉書が届きました。
 亡くなった人達の合同の慰霊祭をやるのだそうです。
 停戦になって平和が戻ったのだけど、お父さんは前のようには元気がありませんでした。だからその日も夜遅くに帰ってきたお父さんに葉書を渡そうか、私はちょっと迷いました。
「どうした、ヒカリ」
 お帰りなさいといったあと、私は口籠ってしまって、結局お父さんに気付かれてしまいました。
「あ、今日ね、こういうのが届いて」
 とっさに私は、何でもないような、まるで勝手に送られて来るDMのような、そんな感じでその葉書をお父さんに見せました。目を通すあいだ、お父さんは無言でした。外しかけたネクタイもそのまま、身じろぎもせずに玄関に立ったままでした。私はせめて居間に落ち着いてから見せるべきだったと後悔しました。
 お父さんはそれを持って黙って自分の部屋に行ってしまいました。背広から部屋着に着替えるだけだったのですが、お父さんが居間に戻るまでがその時の私はとても長く感じられました。でも気のせいでした。実際冷めた煮物をレンジで温めなおすくらいの短い時間でお父さんはいつものように食卓についていました。たださすがに嬉しそうな顔はしていませんでした。
 お父さんの食事の量は普段とそれほど変わりませんでした。
 あらかた食べ終わってお茶と沢庵だけになったころに、お父さんがコダマお姉ちゃんは葉書のことを知っているのかと尋ねました。
「ううん、まだ見せてない」
 もう少しで停戦という時にお姉ちゃんの恋人は亡くなりました。その人もお父さんと同じ職場で働いていた人です。一度、家までお姉ちゃんを送ってきた時に顔だけ見たことがあります。すらっとしてて浅黒い肌の人で、今から思うと目の細い所がお姉ちゃんのタイプだったかな。私はその日さんざんお姉ちゃんをからかいましたが、お姉ちゃんは惚気っぱなしでした。
 その人が流れ弾に当たって死んだという報せにお姉ちゃんは泣きました。人にはこれほど涙を流せるのかというくらいに泣きました。私も泣きましたが、顔を見ただけという人にはそこまでは泣けない。お姉ちゃんにとって大事な人が亡くなったというのにです。やっぱりクラスメイトのアスカの時の方が私の流した涙は多かったでしょう。
 アスカが亡くなったのは停戦後に学校の先生から聞かされました。
 戦争の間も学校は途切れ途切れだけどありました。勉強とか部活とかよりも、消息を確かめ合うために学校や避難所に集まり、ホームルームをしていました。クラスで行方不明だったのは三人。惣流・アスカ・ラングレー、鈴原トウジ、綾波レイ。みんな私の大切な、とても大切な人達です。
 その三人のうち、アスカと鈴原は亡くなっていました。綾波さんの消息は今もわかっていません。
 鈴原トウジがこの世にいないと知った時、私は泣いたのかどうか、よく覚えていません。
 最近の私は、ひょんなことでアスカや鈴原のことを思い出したりすると、泣きそうになります。そして涙をこらえます。楽しかったはずのことを思い出したのに泣いてしまうと、思い出自体が辛いことになるような気がするからです。そんなのはいや。私は覚えていたい。アスカのことを忘れたくない。鈴原を忘れたくない。
 コダマお姉ちゃんはもう泣きません。笑いもしません。

「ネルフもどこへ行くつもりなんだかな」
 独り言のようにお父さんはいうと、席を立ちました。仕事の愚痴のようで、最近のお父さんはこれが多くなりました。
「片付けるね」
 私は湯呑み以外の食器を流しに運ぶと、エプロンをつけて洗い始めました。背中からお父さんの静かな声が聞こえました。
「コダマにも知らせないとな」
「なんでよ」
 私は振り返らずに、少し声をとがらせて答えました。
「なんでわざわざ」
「送るということは大切なことだ。コダマが好きな人だったというならなおさら」
「そんなの駄目よ」
「どうしてだ」
「……だって、だって、そんなことしたら、お姉ちゃん壊れちゃうよっ」
 お姉ちゃんは笑わない。信じられないくらい泣いて、泣き疲れて、その後は一度も泣かない、笑わない。呼んだら返事はするけどお姉ちゃんの方からは話し掛けてくることもない。部屋に閉じこもったまま。そんなお姉ちゃんには無理じゃない。お父さんみたいに強いわけじゃないんだよ、お姉ちゃんだって、私だって。
「駄目……お姉ちゃん壊れちゃう……」
「そうもいかんだろ」
 後ろをぺたぺたとスリッパの音が遠ざかっていきました。
 蛇口からつながった水が細い糸のように落ちるのを私は見ていました。お父さんがお姉ちゃんの部屋をノックするのを聞いていました。
 片言のお姉ちゃん、諭すような口調のお父さん、そしてだんだん声が大きくなっていきました。最後はお姉ちゃんの金切り声でした。あんたのせいよ、とお姉ちゃんはいいました。そしてばたんとドアが閉まって終わりでした。
 ぺたぺたとスリッパが近づいてきて、おまえはどうする、と聞かれたとき、私の手は止まっていました。洗い物は全然はかどっていませんでした。
「なにが?」
 振り返ると、ちょっと持て余すようにしてお父さんはあの葉書を持っていました。私も文面は読んでいます。本人だけでなく家族であれば会場には入れるとあります。お父さんは誰かに付いてきて欲しいのでしょうか。
「行かない」
 蛇口をいっぱいに捻って私は食器を洗いました。


 お父さんはお母さんを送りました。
 私が小学校にあがった頃でした。
 私と妹のノゾミは正座が辛くてお母さんのお葬式の読経の間に悪いと思いながら途中で足を崩しましたが、お父さんは背筋を伸ばして固まったように姿勢を崩しませんでした。
 お父さんの世代は沢山の人を送った世代でもあります。私が生まれる直前に起きた地球規模の大災害に、人類は半減しました。その中をお父さんとお母さんは生きてきました。私たち三人姉妹を育ててきました。
 お父さんは強い人です。
 お父さんはネルフという所で働いています。滅びかけた世界を再びよりよいものへ導くために働いていると以前いっていました。ただ戦争が始まってから愚痴が増えました。冬月さんまで乗せられると昨晩はつぶやいていました。お父さんでも耐えられないということがあるようです。
 そして私はお父さんほど強くない。
 アスカと鈴原は亡くなりました。
 二人がどうして死んだのか、誰も教えてくれません。
 戦争によるものなのでしょうが、でも流れ弾に当たるとか、崩れた建物の下敷きになるというありふれた死に方ではないかもしれない。二人はエヴァンゲリオンのパイロットでしたから。今も行方がわからない綾波さんもそうです。エヴァンゲリオンというのは使徒という全ての人間にとっての敵を撃ち破るための切り札ということでした。今ではただの武器です。
 エヴァンゲリオンは国連軍でなく自分の勤めるネルフによって運用されているのだと、お父さんがいったことがあります。戦争前のことでした。その時はそれを聞いて嬉しい気がしました。
 でも今はそう思えなくなってきています。いつかのお姉ちゃんではないけれど、お父さんに向かって何か叫ばずにはいられない、そんな気持ちになってしまうことがあります。筋違いだと、八つ当たりしてるだけだとわかっていても、つい心の中で叫んでしまっているのです。鈴原をかえしてって。
 私はお父さんほど強くない。

「行ってきます」
 玄関を出るとき、私は声に出していいます。
 今年は高校受験なので本当ならもっと身を入れて勉強しなきゃいけない。クラスの中には塾だって行く人もいるでしょう。でもクラス替えの後、なんとなく学校に行きたくなくなっちゃう日が増えました。行ってきますも、家にいるお姉ちゃんにではなく、半分は自分に言い聞かせるために声を出しているようなものです。
「おはよう」
「おはよう」
 みんなと顔をあわせる大通り。
 道路の補修もだいぶ進んで回り道をしなくても登校できるようになりました。半月前と比べれば、五分くらいだけど朝は余分に寝られます。
「おはよう、相田君」
「おはよ、洞木。髪どうしたの」
 私はいつもは髪を左右に分けてまとめています。だけどたまには真っ直ぐに下ろすこともあります。
「なんだか、いつもの髪止め気に入らなくって」
「へえ」
 多分髪型なんて、男の子にとってはどうでもいいことなんです。アスカとだったらこのことで三十分も話が出来るのに。
「なあ、ネルフがなんか合同葬儀だかをやるって話、聞いた?」
 相田君は妙に耳聡い所がある。指で眼鏡を押し上げながらの彼から”特ダネ”を聞かされるのは前からのことです。
「そうらしいね……」
「あれ、知ってんだ」
「お父さん、出席するし……」
「洞木は」
 私は小さく首を振りました。すると彼は話題を変えてくれました。

 それからしばらくアスカを思い出すことの多い日が続きました。

 明日は慰霊祭という日のことです。
 私は教室で窓枠にもたれながら、ぼんやり外を見ていました。校庭のポプラのてっぺん辺りをつがいの小鳥が輪を描いて飛んでいました。
 視界の隅で相田君が趣味のカメラを私の方に向けているのが見えました。私はポプラの方に向いたままでいました。不意に相田君は私の方に近づいてきました。
「なに?」
「何見てるわけ?」
 ちょっと彼の口調は険しいものがありました。
「えと、鳥が飛んでて、ほら……」
 私はポプラを指差しました。さっきまでその木の周りを飛んでいた、文鳥に似た小鳥は私がそういうと同時に校舎の裏の方に羽ばたいていきました。
「飛んでっちゃった」
「なあ、いいんちょ」
 いいんちょ、去年学級委員だった私のあだ名です。
「このままでいいのか、行けばいいじゃないか」
「何のこと」
「今のいいんちょ、何も見てないじゃないか」
「何いってるの、相田君」
「被写体の視線がどこにあるかなんて簡単にわかるんだよ」
 そういって彼は間近でカメラを構えると、一枚撮りました。私は一体どんな顔で写っていたんでしょうか。相田君は見せてくれませんでした。
「行けばいいじゃないか」


 その日は土曜日でした。私はいつものように家族四人の朝御飯を作りました。お姉ちゃんの分だけは部屋に持っていってあげました。食事中、お父さんの普通の背広とはちょっと違うかっこうに気付いたのか、ノゾミはいいました。
「お父さん、どっか出かけるの?」
 お父さんは生返事。
 私は黙ったまま箸を動かしました。
「あの葉書にあった式典?」
 お姉ちゃんと喧嘩になった後、お父さんはあの葉書をファクスの横に置いたままでした。でもノゾミに見せるつもりだったとは思えません。
「ネルフ主催なんでしょ、碇先輩も来るの?」
「さあ」お父さんはまた生返事。
「私も行っていい?」
 ちらりとお父さんが私を見ました。私は目を伏せました。
「ねえ、行っちゃだめかな?」
 重ねてノゾミは頼みました。ノゾミはテニス部ですが、使えるコートはまだ少なくて球拾いが多いといっていました。退屈しのぎのつもりで行きたがっているらしい。
 どういうつもりかお父さんは認めました。
「じゃ、仕度してくるね。ねえ、ヒカリ姉ちゃん、どんな服着てったらいいと思う?」
「知らないわよ、そんなの」
 私は怒鳴ってしまいました。ごめんね、ノゾミ。

 お父さんはノゾミを連れて行きました。ノゾミ自身は違う服が着たかったようですが、お父さんの意見で学校の制服でした。空模様が怪しかったので傘を持っていくようにいったのですが、駐車場から濡れずに会場に行けると二人は傘を持たずに車で出かけていきました。
 私は家に残りました。
 お姉ちゃんは自分の部屋にいる。私は居間で本を広げている。
 それは不思議な話がつまった大好きな本でしたが、でもこの時は入り込めませんでした。
 時計の針がゆっくりゆっくり動いていく。なのにちっとも読み進まない。わけもなく苛立たしくなっていく。こんな時、私は何度も同じ行を読んじゃいます。”朝風に蝶のような軽い羽根をひらひらさせながら、ロビン・グッドフェロウは語り終わりました……”
 はあ、また二度読みじゃない。何か別のことしよう。じゃあ、何を、何しよう、お菓子でも作ろうかな。そうしよっか。じゃあ何にしようかな……。ぱらぱらとめくると”チョコレット”という単語。そうだ、チョコレートが残っていたから、それを使って何か。紅茶も煎れてお姉ちゃんとお茶にしよう。そうだね、お姉ちゃんを部屋から出せるもんね……。
 とにかくお父さんとノゾミが何のために出かけたのか、考えたくなかった。
 私は強くない。しおりを挟んで本を閉じました。

 お姉ちゃんは居間に出てきて私が作ったクッキーを食べてくれました。チョコチップ入りと、チョコ無しで蜂蜜を多目に入れて焼いた二つが今日の私の自信作でしたが、チョコの方がおいしいといってくれました。ありがとね、チョコレットに入ったロビンさん。
「でも太っちゃうかな」
 焼き加減は満足でしたが、かなり甘い仕上がりのクッキーでもありました。
「ヒカリ、ダイエットしてるの?」
「そうじゃないけど」
「前はしてたね」
「前にね」
 それからしばらく二人で黙ってお茶を飲んでから、お姉ちゃんが壁の時計を見て、お昼はどうするのと聞きました。
 あと三十分くらいで正午でした。これからお昼御飯というのは、それこそ本気で太っちゃう。
「私いいよ、これで」とお姉ちゃんはいいました。
「じゃあ、もっと食べてよ」
「そんなに作ったの?」
「ノゾミとお父さんの分」私は口に人差し指をあてて内緒だよという仕草をしました。お姉ちゃんは少しだけ顔が緩みました。これでもいつもの無表情よりはいい方。
 ポットがぬるくなったので、もう一度やかんを火にかけました。ポットの紅茶の葉を入れ替えていると、洗濯物は干してないかとお姉ちゃんが声をかけました。今日は朝から雲が厚かったので洗濯はしていませんでした。
「ううん、干してないけど」
「じゃあよかった。降ってきたから」
 窓を見ると、雨のすじが窓ガラスに一本づつ付いていく所でした。
「涙雨ね」
 つまんだクッキーを口に運ぶでもなく鼻先に持ったまま、お姉ちゃんが独り言のようにいうのが聞こえました。
 ぽつぽつと雨が優しく降っていました。
 涙雨。
 たくさんの人を送るこの日に降る雨。これが別れの涙の代りというなら、こんなに少なくていいわけがない。この街みんな洗い流してしまうくらいに降らなきゃいけないのに。
 窓越しに見上げた灰色の空から下りてくる優しい雨。
 急に私は泣きたくなりました。自分の体がまるで内側に沈み込んでいくような気分になりました。くしゃくしゃに折れ曲がってそのまま床に崩れてしまいそうでした。雨が降ってるだけなのに耐えられなかった。何かが耐えられなかった。何もかも耐えられなかった。助けて。誰か助けて。誰か、誰か、だれか……。
「すずはら……」
 その時の私は窓の前にうつむいて立って額をガラスにくっつけていました。窓にうっすらと映っている私は涙をこらえているようでした。泣きそうで、でも泣かずにいる私。
 窓に映った私の肩にお姉ちゃんの手がありました。
「その人も亡くなったのよね」
 私の横で、同じように窓に体をくっつけるようにしてお姉ちゃんが立っていました。お姉ちゃんも窓の外を、涙の雨を見つめていました。
「お茶、煎れ直しておいたから」
 沸騰すると鳴るやかんの笛に私は気付かなかったらしい。お姉ちゃんがやってくれたようでした。
「暖まるのよ、ブランデー滴らしてみる?」
 どこかまだぎこちなかったけれど、お姉ちゃんは私のために笑ってくれました。
 その日は午後はずっと雨でした。


 月曜日、一時間目が終わった後の休み時間に相田君は私の机に来て話しかけてきました。先週いきなり私を撮ったときは少し苛立った口振りでしたが、この時はそうじゃなかった。
「洞木、行かなかったんだね」
 慰霊祭のことです。
「うん……」
「碇がいたよ」
「知ってる。父さんとノゾミ……妹が行ったから」
「そっかあ。あれって、いいんちょの妹さんなのか。う〜ん、なかなか」
 やおら写真を取り出す相田君。中学生の女の子なんてノゾミくらいだったようで、黒い服の人達の中にぽつんと制服姿のノゾミが座っているのが写っていました。だけど、なかなかって一体どういう意味?
「てっきり、いいんちょかと思ったんだけど、望遠にしたら違ってたんで」
 確かにもう一枚はアップで写っている。でもねえ、ああいう所ってカメラ使う場所じゃないと思うけど。
「相田君、行ったんでしょ。どうだったの?」
「どうってまあ、黙祷とか、偉い人の弔辞とか、そんなのが続くわけ。強いて見所を探すとするなら赤と金の肩章を付けた儀仗隊のびしぃっとした敬礼かな」
 行かなくてよかったかな。
「行かなくてよかったかもよ」
 一瞬、見透かされたかとびっくりしましたが、この言葉は私の顔色を読んだからではなさそうでした。相田君は腕組みして天井のあたりを見ながら、多分会場の様子を思い返しているのでしょう、溜め息混じりにこういったのです。
「碇がさ、かっこよすぎ」
 そういった時の相田君は寂しそうでした。
「碇君とは何か話ししたの?」
「なんも」
 相田君は首を振りました。
「碇は壇上にいたよ。式典の間はずっと。それで終わると引っ込んで、そのままどっか行っちゃった」
「そうなんだ」
 碇シンジ。去年同じクラスだった人です。
 エヴァンゲリオンのパイロットは考えてみると今では碇君と綾波さんだけです。そして綾波さんは行方がわからない。相田君によればエヴァンゲリオンで動いているのは碇君の乗っている型式のものだけだそうです。
「ねえ、綾波さんはいなかったの?」
 相田君はちょっとうつむいて考え込んでから首を振りました。
「どこにも」
「そう」
 私も相田君も、それで言葉が途切れてしまいました。
 二時間目の先生が教室に入って来ました。
「あ、これ、一枚しか撮れなかったけど碇の写真」
 そういうと相田君は私の机の上に写真を置いて自分の席に戻っていきました。

 授業が始まってから、私はロックを解いて広げたノートのキーボードの上に写真を置きました。先生にはディスプレイの陰になって見えません。
 そこには背筋を伸ばして立っている碇君の後ろ姿がありました。両手で一抱えもある花束を持っています。碇君の前には菊の花が敷き詰められて、その中に黒い碑のようなものが見えています。送られる人達の名前が彫ってあるのでしょうか、それとも停戦の記念の言葉があるのでしょうか。
 菊の花は段になっていて、その高いところには、黒い枠に入った写真が二つ並んで立てられています。目をこらすと誰が写っているかもわかりました。
 惣流・アスカ・ラングレー。
 鈴原トウジ。
 そうでした。二人に一番近いのは碇君でした。二人のこと、私よりも彼の方が知っているのでしょう。
 エヴァンゲリオンに乗るためにこの街に来た転校生、碇シンジ君。アスカとは時々喧嘩もしていたけどやっぱりいい雰囲気だった。鈴原と碇君が話している時、私はどこに自分を置いていいのかわからなくて、入っていけなかった。
 その碇君は今は登校しないで在宅履修コースに移っていると先生は話していました。でも先生もなぜか碇君の連絡先を知りません。私が去年おじゃましたことのある碇君の下宿していたマンションのその部屋は、もう空き部屋になっていました。電話番号も検索できませんでした。何度か送った手紙も返事が来ません。最近はアドレスが抹消されたのか、配信もされないで戻ってきてしまいます。
 だけど碇君は、いる。今も二人に一番近いところに、いる。
 ちょっとうらやましく思いました。


「手伝おうか、お姉ちゃん」
 明日は雪になるかな?
 キッチンに立っている私にノゾミが珍しく声をかけてきました。今日は部活は無かったらしい。それともさぼったのか。
「じゃあ、衣の用意して。今晩は鯵のフライ」
「ええー、アジぃ?」
「安かったの。文句は魚おろせるようになってからいいなさい」
 魚が捌けるのはうちではお父さんと私だけです。
 ノゾミはぶちぶちいいながらも小麦粉とパン粉を出して、開いた鯵に衣を付けてくれました。あとは付け合わせのサラダと味噌汁。これは今晩はお父さんが早めに帰ってくるというので、それからの方がいいかな。
「ヒカリ姉ちゃん」
 エプロンを外してキッチンを出ようとした私を、ノゾミのすがるような声が立ち止まらせました。
「碇先輩、学校来なかったの?」
 どうやらこれを聞くために私を手伝ったノゾミ。
「もう来ないのよ、碇君」
「でも、ああいう式典が終わったっていうことは、もう元通りに学校来れるってことじゃないの?」
 今日は学校でノゾミの顔を三年生の教室しかない三階の廊下で見掛けました。ひょっとしたらという期待があったのでしょう。
「見なかったけど」
「はあ……そっか、来なかったんだあ」
 座って頬杖ついたノゾミは残念そうにいいました。
「あの時の碇先輩ってね、ぴりっとしててかっこよかったけど……何だかすっごい距離があったなあ」
「ステージの上だったんでしょう。しょうがないわよ」
「そんなんじゃなくってさあ、なあんか置いていかれた気分」
 もう一度、ノゾミは溜め息。
 ノゾミが感じているのは私が花束を抱えている碇君の写真を見たときに感じたのと同じ物なのでしょうか。むしろ会場の様子を話したときの寂しそうな相田君に近いのかもしれない。
 ノゾミは碇君に下りてきてほしいのでしょう。
 私は鈴原の近くにいる碇君がうらやましい。
 だけど私は碇君のようにはあの場所に上れません。
 怖いんです。
 私は強くない。
 鈴原は二度と下りてきてはくれない。
「いつかは憧れの碇先輩もエヴァンゲリオンに乗らなくて済むようになったら学校に戻って来るわよ。せいぜいその時までに料理の練習でもしておきなさい」
 私が自分の涙をごまかすためにそういうと、さすがにノゾミはむすっとふくれました。

 やっぱりお姉ちゃんは夕食は自分の部屋で食べるといってききませんでした。だから食卓には私とお父さんとノゾミの三人。食べ終わって、ノゾミが自分の部屋に行ってしまってから、私はお父さんにお母さんのお葬式の時のことを尋ねました。新聞を広げようとしていたお父さんは少し驚いたようでしたが、すぐに優しい顔を作ってくれました。
 お父さんは細かいところまでよく覚えていました。
 死に水を取らせた時に顔がほころんだような気がしたなんてことまでいいました。そういわれても私は死に顔まではよくは思い出せません。ただ、癌にしては珍しいほどの安らかな死だったとお通夜の席で集まった人達が喋っていたことは記憶にあります。私が”眠るように”といういいまわしを覚えたのはその時です。
 確かに混乱期の中では恵まれた方の平穏な死をお母さんは迎えることが出来ました。だけど送る方が心穏やかでいられるはずはありません。結婚した相手が亡くなって辛くないわけがない。お父さんも私の目の前ではなくても泣いたはずです。
 私は自分がお父さんを傷つけているのかもしれないと思いつつも、そのことを問いただしました。
「泣いたよ」
 伏し目がちにゆっくりというお父さん。
「今でも思い出して泣いたりする?」
「さすがに泣きはしなくなったが」
「でも、お母さんが死んですぐの頃は泣いたのよね。思い出すのって、思い出って、辛いことだったんでしょう?」
「切なくなる思い出もあるな」
「じゃあ……どうして覚えてるの?」
「ヒカリは忘れてしまいたいのかい?」
 私は髪止めが外れるくらいに首を振りました。絶対に忘れたくない。
 なのに、絶対に忘れたくないのに、耐えられない思い出。
「でも……でも、その思い出が自分を押し潰してしまうんじゃないかって……そんな風に考えたことは、お父さんには一度も無いの?」
「無い。それが父さんを支えてくれているんだ」
 噛み締めるようにお父さんはいいました。
 目を閉じて、お母さんを思い出しながら。


 碇君たちが大勢の人を送った日からはっきりしなかった天気が、ようやく晴れになりました。ノゾミに朝御飯の仕度は手伝ってもらいながら、私は大急ぎで数日分の洗濯物を片付けて登校しました。
 その日の私、授業なんて上の空でした。ずっとお父さんの言葉を考えていたから。
 思い出が支えてくれるって、どういうことなのか。それに逃げるのか、それに麻痺するのか、それにすがるのか。
 どれも違うような気がする。
 窓の外ではポプラの周りをまた二羽の小鳥が飛んでいました。私の中ではそのうちの一羽はアスカになったり、鈴原になったり。
 そしてもう一羽は私。一緒にさえずったり、えさを食べたりしている私達。
 相田君は私のことを何も見ていないといった。
 私は机の中に置いてあった写真をもう一度取り出してみました。
 そこに写っている花束を抱えた碇君は二人の遺影に正面から向き合っている。

 帰り際、思い切って私の方から相田君に声をかけました。アスカの写真、鈴原の写真、やっぱり相田君はたくさん持っているようで、プリントしてもらうことにしました。
「写真以外もあるけど、コピーしようか」
 相田君はそういってくれましたが、私はすぐにはそれに答えられませんでした。
 画面の中で、画面の中でだけで動いたり喋ったりするアスカ、鈴原。
 私はそれを見ることが出来るのか、正直いって自信が無かった。
 相田君、写真とかディスクとか、いっぱい持っている。それは、あなたの支えになっているんですか。
「……お願いしていいかな」
「んじゃさ、どれがいいか選んでよ。学校のモニタじゃ小さいから今度うちに来てさ」
 これって誘われたってことかな。
「今からでもいいけど」
「明日ね」
 相田君とは校門を出てすぐに別れました。道路工事の区間が朝とは変わっていたので、登校と下校の時とで違う道を歩かなければならなかったせいです。
 一人で帰る途中に公園の側を通った時、ついさっきまで誰かがそれをこいでいたのか、ブランコが振れているのが目にとまりました。小さく動き続ける空のブランコの前で、私は立ちどまっていました。
 前髪が風に揺れて目に垂れ下がるまで、私は自分が公園の中でぼうっと立っていることに気付きませんでした。
 ブランコには乗りませんでした。

 家に帰ると物干し竿の下で揺れている洗濯物は、ノゾミのジーンズまで全部がすっかり乾いていました。これでお姉ちゃんの部屋の窓のブラインドが開いていればいいのに。
 洗濯物を取り込む時に空を見ると、西の方は鮮やかな夕焼け空でした。
 真っ白なブラウスたちの合間の金色の夕焼け。背伸びした姿勢のままで、私は見とれてしまいました。そのあいだ、どこからともなく耳に届いてくるひぐらしの声が、だんだん大きくなっていくように聞こえました。
 そして空を見ているうちに、
「あ……」
 思い出していました。
 いなくなってしまった人と私が夕暮れの教室の中で話していた時のこと。
「こんな色だった……」
 その時とそっくりの光の中、まるで今も私の横にその人が立っていて、いつも通りの口調で私にお弁当の催促をしている、そんなこと一度もなかったのに、これからもあるはずがないのに、そんな気がしてそれが懐かしい。
「すずはら……くん」
 泣きたいくらい懐かしい。
 でも涙雨を見上げていた時のような心がしぼむ感覚がありません。
「支えてくれるの?」
 答えは返ってきません。
 振り向いても誰もいません。かなかなというひぐらしの声と、髪を撫でてゆく風の中に一人でいる私。だけど涙雨の鉛色の空を見ていたあの時ほどこの胸は痛くない。ほんの少し暖かい。
 陽の光のせいかな。
 もう一度、家並みにかかる太陽の方を見ました。
「アスカ、どう思う?」
 金色の空。
 暖かかった。
 私は泣いていました。涙も拭わずにお姉ちゃんを呼んでいました。
「コダマお姉ちゃん、夕焼けがきれいだよ、出ておいでよ」

 end


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ver 1.0
98/06/27
copyright くわたろ 1998