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右手

 その日が来てもサードインパクトは起こらなかった。人類補完計画も発動されずに終わった。そしてエヴァの敵は使徒ではなくなった。


「もしもし」と電話をうけた僕の声はどうやら疲れを隠しきれてなかったようだった。日向さんは優しく言ってくれた。
「大丈夫かな、明日は出てこれるかい」
 正直その事は考えたくなくって、だから今まで忘れていたんだけど、
「ええ大丈夫です。やっぱりやらなきゃいけない事ですし、それに僕でないと」
 こう言っちゃう。
「そうか。じゃあシンジ君、おやすみ」
「わざわざどうも。おやすみなさい、日向三佐」
 左手に持った受話器を戻すと僕は寝室に行こうとした。だけど明日の事を思い出したせいでなのか、電話台に置いてあったミサトさんの白い十字のペンダントに意識が吸い寄せられてしまった。
 何となしに左手でそれを触っているうちに、ズボンのポケットの中で握っていたはずの右手が、いつの間にか震えてた。こうなると眠ろうとしてもしばらくは眠れない。背中から、脇の下から、手のひらから汗が出てきた。嫌な感触が甦って来た。
 右手の先の震えがだんだん肘に肩にと登ってくるような気がして、それを押さえようと左手で右の肘の辺りを押さえつけて、震えがおさまったかなって思って力を緩めると、また右手が指先からぴくぴくと震えだして、それでぎゅうっと左手に力をいれて右肘を押さえてというのを繰り返して、汗も流さず寝間着にも着替えずにベッドに倒れこんでそのまま寝ちゃって、目覚ましが鳴った時は鈴原トウジの夢を見ている最中で、とうとう僕は慰霊祭当日を寝不足気味で迎える事になってしまった。

 喪服はネルフが支給してくれた。僕は喪服なんて着るのは初めてなんだけど、まあごく普通の物なんだろう。だけどネクタイピンをよく見ると小さくネルフのロゴマークが彫りこんであってなんとなく着ける気が失せて、それは胸ポケットに入れておいた。代わりにミサトさんのクロスのペンダントを、わざと黒ネクタイの上になるように首にかけた。あわないけど、僕はそういう気分だった。
 ネクタイにちょっと手間取ったけど、それでもなんとか身仕度を終える頃にアパートの呼び鈴が鳴って、ネルフからの迎えの車が来た事を告げた。バイザーをかけた、多分保安部所属の人が、玄関口から車のドアまで僕にぴったりとついていた。僕を守ってくれているようでもあり、僕を逃がさないようにでもあるのだろう。
 車はかなり車高のある古めかしいリムジンで、後部座席には赤木博士が乗っていた。一台で二人まとめて運ぶのは危険なんじゃないかと思ったけど、中学生に気付く様な事は保安部だってとっくに判っているはずだろうから文句は言わない。
 赤木博士も喪装だった。手袋にベールまでしている。こうしてみると博士って結構色白な人だ。たまに会っても白衣を着ている事がほとんどっていう人だし、こんなかっこうは新鮮だ。だけど喪服姿が似合うというのは褒め言葉とは思えなかったので、何も言わずに会釈だけして車に乗った。
 色白といえばやっぱり思いだしてしまうんだけど、綾波はどうしてるだろう。綾波は今から慰霊祭があるって聞いたらやっぱり喪服で来るだろうか。それとも学校の制服なんだろうか。それとも知っていて無視しているんだろうか。どこか遠いところで知らずにいるんだろうか。一体どこにいるんだよ綾波。父さんを信じるってこういうことだったの。
 父さん。今日のこの日に父さんがいない。笑うしかないな、もう。
「シンジくん」会場までの道程を半ば過ぎたところで赤木博士は初めて僕に口をきいた。
「それ、ミサトの……」
「そうです」
 僕は左手でペンダントに触れた。爪を立てると微かに透明な音が車内に響いた。でもそれっきり、また僕達は黙ってしまった。次に口を開いたのは僕の方から。車から降りる時。
 僕はネルフに残る時に一つの条件を出していた。見つけてほしい、見つかったら真っ先にあわせてほしいと。でもまだ報せは無い。不可能なんてないようなネルフのこと、本当はもう見つけてるんじゃないか、僕に隠してるんじゃないかって思えてくる。
「父は見つかったんですか」
「いいえ、まだよ」
「綾波もですか」
「ええ……」


 慰霊祭の会場は二千人位の席が用意されたホールだった。警備はそこそこ。金属探知器を一回くぐる。僕と赤木博士はステージ上の、参列者席に向かって左側の最前列に座るようにいわれた。気乗りしなかったけど、たった一人の適格者という立場上まあ仕方ない。博士は僕の左側に座った。いつ右手が震えるかもしれないので、これはありがたい。
 見ると日向さんは右側の席で、やっぱり最前列。どうやら左が民間人で右の席は軍籍の人という席次らしい。例外は冬月司令で、軍人じゃ無かったはずだけど右の席にいた。
 ステージ中央、死者の名の刻まれた黒いプレートが、うずたかく積み上げられた白い菊の花に埋もれるようにして、そこにあった。この式典はネルフ関係者に限ってのものだという事で、三百人分位の名前しかなかった。それでも僕が知っているのは更にほんの少しだけ。ミサトさんの他には青葉さん、伊吹さん……なんだ、これだけか。
 そしてアスカとトウジ。適格者だけは特別扱いで、黒枠の写真が掲げられている。ミサトさんよりも扱いが上になるって訳なのか。

 戦略自衛隊がネルフ本部接収のために乗り込んできた時、つまり東京戦争の初日がネルフにとって一番被害が出た時だ。ミサトさんの命日でもある。ミサトさんは僕を初号機に乗せようとして、僕を庇って撃たれた。言い訳できない。僕のせいで死んだ。ケイジに降りるリフトに僕を押し込めるように乗せたとき、ミサトさんは笑顔だった。撃たれたのに、撃たれて痛いのに、僕を送り出すために笑顔を作ってくれた。優しくキスしてくれた。ミサトさんの死体は爆発に巻き込まれたとかで発見されなかった。撃たれて死んだと思いたい。焼け死んだとは思いたくない。
 青葉さんと伊吹さんは戦自と交戦して射殺された。これは日向さんが目の当たりにしたので間違いない。その時、青葉さんと日向さんは銃を手にしていたけど、伊吹さんは持っていなかったそうだ。青葉さんは戦死扱い、そして伊吹さんだけど、撃たれる直前に両手を挙げようとしたらしい。降参だっていう人間を撃ったんだから戦自ってひどい事をするって思ったけど、手を挙げたからって戦死を殉職って事にして弔慰金を減らそうとしたって日向さんから聞かされた時は、ネルフもけちな所なんだなって思った。もっとも戦傷特進とか何とかで今では三佐の日向さんがかなり強い調子で掛け合ったらしく、伊吹さんも戦死という事になって黒いプレートに大きめの字で名前がある。

 鈴原・トウジ、四番目の適格者。トウジが死んだのはジオフロント攻防戦でじゃない。戦争前の松代での参号機のテストの時だ。だからこの場でやるっていうのは、あの時のネルフの不手際をうやむやに済ませるためじゃないかって、僕はそう考えている。口さがない人達は英雄は多いほどいいとか言っている。だったらトウジを英雄にしちゃった僕って何なの。
「やっぱり、トウジの分もまとめてやっちゃうんですね」
 横に座っている赤木博士は答えない。
 言われた時は冗談としか思えなかったけど、式典では僕も献花する。トウジをエントリープラグごと握りつぶしたのは僕が乗った初号機の右手だっていうのに。
 一般参列者席にはトウジの妹も来ているんだろうか。顔が判らないけど、彼女から声を掛けてきたら、一体どう答えたらいいんだろう。
 もし名乗られて、右手が震え出したらどうしよう。

 惣流・アスカ・ラングレー、あの娘は二番目の適格者。
 輝いていた。
 僕には無いものを全て持っていた。
 僕は間に合わなくって、それでアスカは量産機に食い散らかされて、そして僕の右手が動いた。

 碇・シンジ、それは僕の名前、三番目の適格者。
 妹に怪我させたって、最初の出撃の後でいきなりトウジに殴られた。思えばあの頃から人を傷つけてきた訳だ。殉職者はヤシマ作戦の時から出ていたけど、僕は浮かれて気付かなかった。エヴァに乗るのは辛かったけど、だけど心の底から嫌だって感じていたら乗れないはずだ。ねえアスカ、シンクロ出来なくて落ち込んでた事があったよね。あれはアスカが悪かったからじゃ無いんだ。あれはアスカがエヴァを卒業したっていう事なんだ。僕はいまだに駄目だ。僕の中にはエヴァに乗ることを求めている部分がある。
 僕の右手はエヴァに乗るとはしゃぎ出す。
 ダミーシステムに操作された初号機の右手がトウジを握りつぶした時に感触が伝わってきた。僕の本当の右手が震えた。カヲル君を握りつぶした時、これはダミーシステムじゃなかったので、リアルだった。アスカの乗った弐号機をついばんでいた白い量産機を一機づつ潰していった時は、それは全部右手でやった。
 この頃はエントリープラグに入っていなくても、たびたび右手が震え出す。


 始まった。
 日向さんの敬礼。普段と違って儀杖隊のユニフォーム。後ろに五人従えて、なかなか貫禄ある。この六人が機械仕掛けのようにステージ中央に進んで、敬礼。どういう種類の敬礼なのか判らないけど、随分といかめしい。服が違うせいなのか。
 弔辞。冬月司令、遺族代表、ネルフ軍籍者代表、ネルフ一般職員代表、などなど。日本政府からは弔電一本無い。
 その間、スピーカーから会場に”平和の礎”とか”尊い犠牲”とか、そういう言葉が流されているのをステージの上でじっと座って聞いているのは辛かった。言葉の一つ一つがすわりが悪かったし、菊の花の匂いがこの時に限って妙にむずかゆかったし、そもそも寝不足で頭が重かったから。

 プログラムが進んで献花の段になった。
 例によって色々な所属の人が出て来ては祭壇に花を添えていった。赤木博士もその一人だった。
 最後は僕。たった一人の適格者の生き残りとして写真の掲げられた二人に花をささげるのが今日の僕の仕事。
 ソデの方に用意された一抱えほどの大きさの花輪を取りにいき、祭壇正面に進んだ。そして、当然の事ながら、写真の二人と向かい合った。

 トウジは口を結んでまっすぐ前を見ていた。まるで証明写真の様だった。ネルフの持ってた写真にはこんなのしかなかったんだろうか。確かに笑ってとか言われても素直に笑うような奴じゃなかった。だけど僕はもちろんトウジの笑った顔を知っている。そんな時はとてもきれいな感じがしたんだ。こっちがくさった気持ちの時でも、自然と清々しい気分にさせるような笑顔なんだ。
 参号機が使徒に侵食された時、トウジは何を感じていたろう。赤木博士からこのあいだやっと聞き出せたけど、その時パイロットに意識が残っていた可能性は五分五分。僕の右手はどう見えたんだろう。

 もう一つの写真、うつむき加減ではにかんでるアスカ。さすがは自称天才美少女女子中学生、写真映りもモデルみたいだ。波打つ豊かな赤っぽいブロンド。きらきら輝く青い瞳。誰だって振り向く、こんなにかわいい愛らしい、まるで妖精。
 僕は気付かなかった。こんな事になってやっと判った。僕はアスカが好きだった。アスカ、僕から好きっていわれたらどうする。鼻であしらうかな。平手打ちかな。あんたバカァって言ってくれるかな。ねえ、どんな事したっていいんだ、だから写真の中で笑っているだけなんて、やめてよ。アスカが初めて好きになった人なんだ。だからアスカに好きって伝えたかったんだ。
 僕は間に合わなかった。
 アスカアスカアスカアスカアスカ。
 もう遅い。
 アスカ。

 右手が震える事もなく、慰霊祭は終わった。
 世界で唯一のエヴァンゲリオンである初号機をただ一人動かせる僕は、来た時と同じ様に護衛を引き連れリムジンに乗って帰宅した。
「ただいま」応える人もいないのに。
 引き剥がすように喪服を脱ぐ。これほど着心地の悪い服も無い。返す前に洗濯しなくていいもんだろうかとか考えながら脱ぎ散らかしたネルフ支給の喪服を眺めていたら、そこにミサトさんのペンダントも埋もれていた。何かの拍子にきらりと光ったそのペンダントを僕は左手で拾い上げた。
 気が付くと僕はそれをかじっていた。とても硬い。歯の方が欠けた。


 三日後、ネルフから連絡があった。碇ゲンドウを収容したとの事。知らされたのは夜も遅い時刻だったので、会うのは次の日の朝という事にしてもらった。その晩は右手が盛大に震えっぱなしだったのでほとんど寝れなかった。
 それでも短い夢があった。
 何も言わずに笑うだけのカヲル君。

 翌朝、僕は病院に案内された。以前アスカの見舞いに来た事のある病院で、だけど今度は外科病棟だった。その病室の前には赤木博士がぽつんと立っていた。微かにその目がはれていたから、ひょっとして泣いていたのかもしれない。
「病気なんですか」
「大怪我だったの、ずっと治療していたのよ」博士は力無く答える。
「していたって、じゃもっと前に見つけてたってことですか」
「よく聞いて、シンジくん。潜伏してた碇司令をネルフが押さえようとした時」今でも博士は父さんを司令って呼ぶ「司令の逃亡の協力者が武装していて、それで銃撃戦になって、司令の身柄は確保したんだけど弾が四五発体の中に残って」
 そんな事よりも、
「綾波は、綾波はそこにいたんですか」
「ええ、でも……」
「綾波はっ」
 僕は赤木博士の服の袖を掴んでいた。右手でだ。
「レイは司令をかばって……死んだわ」
 ぴくり。
 おさまれ、右手。
「そうですか……」
 アスカ、トウジ、カヲル君。今度から綾波まで夢に出てくるんだろうか。
 左手で右肘を押さえた僕は視線を病室に振りながら博士に聞いた。
「あえますね」
「シンジくん、司令は今朝まで面会謝絶だったくらいなの、だから無理に」
「僕一人で父と話をしたいんです」父という単語にアクセントを置いて言った。博士は寂しそうな顔をした。ついでに僕もその単語のせいで居心地が悪くなった。
「そう……」
「あえますよね」
 僕は右手をポケットに突っ込んで左手で病室のドアノブを回した。
 一つだけあるベッドには碇ゲンドウが横たわっていた。


 碇・ゲンドウ、僕の父親といえばこの人を指す。
 たっぷりあった顎鬚が髪の毛ごと剃られていて別人の様だった。頭に包帯が巻かれて、左腕に点滴が二本。喉にも包帯があったが、どうやら自分で呼吸できているようだった。静かに眠っていて、心電図は乱れずにパルスを刻んでいた。
 点滴が邪魔なので父さんの右側に座った。これは窓の光を遮る位置で、父さんの頭の所に僕の影がきたけれども、気付いた様子はなかった。
「久しぶり、父さん」
 僕は左手で軽く父さんの肩を叩いた。
「ネルフはね、一段落。父さんがあれから綾波を連れて逃げ回っているあいだに僕達でね」
 父さんは眠っている。
「もうまるで独立国だよ。箱根の検問なんて国境みたいだし、関越トンネルなんか封鎖されて十日かな、二週目かな」
「日向さんがね、なんていうかすごく張り切っていてね、もうじき二佐だろうけど階級なんて関係無いね。どんどんやっちゃってる。つまりさ、この世で一つしかないエヴァンゲリオンだよ。これさえあれば怖いもの無しっていう事になっちゃうんだ。大人が考える事って判んないな」
「それでね、そのエヴァって僕しか動かせないんだ」
「赤木博士が新しいエヴァとか次のパイロットとか色々やってるみたいだけど、僕が世界中でエヴァにシンクロできるたった一人の人間って事は当分変わりそうにないんだ」
「VIPなんだ、僕が」
「みんな大事にしてくれる」
「父さんがあの日僕を呼んでくれたおかげだよ」
 父さんは眠っている。
 いいな。
「ねえ」
 父さんの肩を揺さぶった。
「どうして僕はエヴァに乗るの」
 父さんの答えはない。
「どうして僕を乗せたの」
 答えはない。
「大事にしてくれるんだ、機嫌とってくれるんだ、エヴァに乗りさえすれば」
「大事にしてくれるんだ、機嫌とってくれるんだ、エヴァに乗せようとして」
「みんな機嫌とるばかりなんだ、まるで腫れ物みたいな扱いで、誰も僕の事を本気で構ってくれないんだ。父さんみたいに必要だから手元に置いておくっていうだけなんだ。逃げないようにしておくってだけなんだ」
「テロの危険があるんだってさ。学校も行かせてもらえない」
「行く気は無いけどね」
「だって洞木さんにもケンスケにもあわせる顔無いじゃないか。トウジは僕が殺したんだ、アスカは僕が殺したんだ。僕はもうずっと一人で生きていくしかないんだよ」
「トウジとかアスカとか、それからカヲル君の夢を見ながら、ずっと一人で生きていくんだ」
 父さんは眠っている。
 僕の右手がぴくりと震える。
「夢の中でもトウジはジャージ着てるんだ。大抵一人で壁に向かってキャッチボールしてる。僕は後ろから眺めていて、それで、そんな僕に気が付くとトウジは僕にもグローブ貸してくれて、ボール投げてくれるんだ。だけど僕は一球も取れない、確かに受け止めたのにボールがグローブを突き抜けてくんだ。そんなんだから五球か六球くらい投げたところでトウジが、しゃあないなぁとか言って僕を置いて行っちゃうんだ」
「アスカは初めて逢った時のワンピース着てる事が多いんだ。言っとくけどプラグスーツ姿は一度も無いよ。エヴァに乗ってる夢なんて絶対に見ない。夢のアスカとは食事したり買い物したりするんだ。なかなかそれ以上は出来ないんだ」
「カヲル君は僕を置いて行く事はないけど、近寄ってもこない。追いかけようとしても追いつけないし、そのくせ本気で逃げる訳でもないんだ。ただ笑って、何も言わずに僕を見てるだけなんだ」
「そんな夢が何度も何度も」
「綾波まで夢に出てきたら父さんのせいだよ」
 心電図の表示。緑色というのは多分平常値って事だよな。
 眠ってるんだよな、父さん。
「父さんは僕の夢なんか見た事無いんだろ」
「母さんの夢なの、それとも綾波の夢なの」
「綾波だったら一人目、それとも二人目、三人目」
 父さんの答えはない。
 眠ってるんだ。
「ねえ、どんな夢見てるのさ」
 僕の右手が震える。
「何か言ってよ」
 右手が震える。
「僕に答えてよ」
 右手が震える。
「僕を見てよ」
 右手が。
 だめだ。
 もうだめだ。もうだめだった。
 僕の右手は碇ゲンドウの頭を枕に押し付けていた。


 すぐに病室のドアが開き、僕は赤木博士に取り押さえられた。
「やめて、もうやめて」
 博士は泣いていた。膝をついて僕に取りすがって言った。
「もうやめて、もうこの人を許してやって」
 いいな、父さんは。眠っていられて。こんな人がいて。
「お願い、シンジくん、もう許してあげて」
「許すだって」
 振り上げた右手を下ろす。震えている。
「許せるもんか、こんな」
 博士は泣きじゃくっていた。碇ゲンドウは開いたまぶたを閉じられないといったように焦点の定まらない視線を中空に投げていて、口も半開きだった。
「こんな奴」
 僕の右手は震えたまま、博士は泣くばかり、父さんは何も言わない。
「許さない」
 いつものように僕は左手で右肘を押さえた。博士を突き飛ばして、病院を飛び出して、意味の無い事を喚き散らしながら走っているうちに、いつしか見覚えのある場所にいた。

 そこは僕が最初に使徒を倒した後でミサトさんに連れてこられた所だった。
 この見晴台でミサトさんは僕を誉めてくれた。
 あの時僕は泣いた。
 今の僕も泣いている。
 もう誉めてくれる人はいない。使徒もいない。エヴァだけがある。

 地べたに大の字に寝転がって、涙が流れるまま右手が震えるまま、自分の体を放って置いた。雲が空の端から端まで流れるのを見ているうちに、泣き疲れて、それから多分右手も震え疲れたんだろう、涙も震えも収まった。
 このままずっと寝転がってるうちにいつの間にかアスカの所に行けないかなって思ったりもしたけど、泣くというのは意外に疲れる。おなかが減ったのでそれは止めた。コンビニで弁当を買って帰宅。明日は九時半から新しいエントリーシステムのテストがある。さっさと寝なきゃいけない。
 アスカには夢で逢えた。

 肩を叩かれ、振り向くとデコピン。ぐ〜てんもるげん、笑うアスカ。
「お、おはよ」
 アスカは小首を傾げてみせた。声も躍るよう、よっぽど上機嫌。
「ふふ、ここって夜も昼もないの、知ってた?」
 輝いているアスカの流れる髪。
「え、だって……」
 明るいよ、昼でしょ、違うの?
「ここでは望む物は何でも、全てが手に入るの。時の流れすら思うまま」
「へえ……」
 それにしては殺風景な所だ。何もない。壁も床も天井もない。空も地面もない光の世界。そこに僕とアスカだけ。
「今日はお礼」
「え……」
 目を閉じて微笑んでいるアスカは胸の前で手を握っている。夢見るシャンソン人形ってこんな感じだったりして。
「シンジにお礼」
「お礼?」
「お葬式のお花のお礼」
 そしてアスカが翼のように両手を広げる。しなやかなその指の先からきらきらと光の雫がこぼれれば、辺り一面は咲き乱れる花、花、花。ポインセチアが、フリージアが、ダリアが、蘭が、水仙が、名前も知らない幾つもの花が脈絡無くそこら中に溢れ出る。色とりどりの花びらが舞い散る花園の中に僕は惚けたように立ち尽くす。
「どう、シンジ。綺麗でしょ」
 後ろからアスカが抱きついている。
「いい匂いでしょ」
 吐息が頬の辺りをくすぐる。
「いい所でしょ」
 アスカの長い髪が僕の胸に垂れ下がる。
「ここはアタシだけの場所」
 アスカは頭を僕の肩に預けて囁いた。
「アンタはここに来ちゃいけないの。アタシをほっといて初号機の中で愚図ってたバカシンジに此処に来る資格なんてあるわけない」
 とても甘い声で囁いた。
「アンタは苦しむの」
 僕の胸に回されていたアスカの白い腕は二本とも僕の右手をさすっていた。
「アタシの分までね」
 アスカの腕、骨になってる。
 目が醒めた。


 迎えの車、ネルフ本部に向かう。
「おはよう」
 元気だな、日向さんは。
「おはようございます」
 ミサトさんのペンダントを外し、プラグスーツに着替える。
 手首のスイッチをオン。右手を見ればスーツ越しに血管が浮き出ているのがはっきり判る。元気じゃないか、僕も。
「第一次接続開始」「LCL注水」
 エヴァに乗る。
「神経接続開始」「50終了」「720クリア、ナーヴフラックス適性値です」「1125終了、新システム起動します」「シンクロ率75%、変動2%以下、全て誤差範囲」
 嬉しいか、エヴァとシンクロするのはそんなに嬉しいか、僕の右手。
「お疲れ様。碇さん、上がってください」

 ケイジに降りるとそこにはいつものように初号機がいた。汎用決戦兵器エヴァンゲリオン初号機。般若みたいな顔してるけど、案外こいつ笑ってるのかもしれない。
 上に戻る時に手を振ってやった。
 あれ、泣きそうになってる。
 大丈夫、寂しがらなくていい、すぐに君に乗ることになるよ。UN極東軍が第三新東京市に上陸作戦をやるんだってさ。そしたら君の出番だ。
 右手の出番だ。

 end


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ver 1.3
98/06/12
copyright くわたろ 1998