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スケッチ:ミチコ・ネイデル

 短い夏が過ぎようとしていた。天使海の流氷は例年よりも多いという予報だった。漁師たちが冬の支度に入る時期だ。結氷する前に漁船を陸に揚げる必要がある。さらに別の遠洋船を持っているなら、それで長い漁に出ることになる。そうでなければ、海の氷が融けるまで、村の斡旋する仕事しかない。凍土の中に敷設されたパイプラインの維持管理という、きつい割に収入にはならない仕事だ。
 ミチコ・ネイデルはゆっくりと紫煙を吐いた。低い太陽が煙で汚れた。第三アルハサ村の冷たい潮風が煙をはらい、ついで防波堤の内側に立っていた彼女の鼻先をしびれさせもした。
 子供のころから何度も見た海が、目の前に広がっている。
 ミチコの父も漁師だ。短い夏の間だけ、八つあるアルハサ村の漁師たちと同じように氷海ザメをとっている。冬はヘルメットをかぶってパイプライン管理事務所に通っている。船とパワーローダーと、どちらが難しいかとミチコが聞いたことがある。船のほうが難しいということだった。相手にするものが違うからだという。たしかに、吹雪でもローダーの中にいれば死にはしないが、時化たときのマニュアル操船は命がけだ。
 だからか、子供のころに船に乗せてもらったとき、父は舵には触らせようとしなかった。膝の上に座る格好でローダーに乗ったときは、スティックに触らせてくれた。そんな経験もあってなのか、ミチコはローダーの初等ライセンスは簡単に取れた。軍に入ればさらに多くのライセンスが取れるというので、軍に入った。村役場で手続きするとき、まさか戦争になるとは思わなかった。
 戦場は、海の向こうだった。
 漁師になるつもりはなかったし、村を出たいとも思っていた。アークティカ大陸出身の入営者が一律にオムニシティに行けるとわかって、ずいぶんとはしゃぎもした。訓練はきつかったが、悪化するだけの世相と切り離された兵営では、短くも奇妙な平穏を経験した。いよいよ戦争になったときも、前線で銃を取ることに実感がわかなかった。
 実際はあっという間だった。ダドリア地峡は一週間で地球派遣軍に突破され、大豊穣大陸のほとんど全てが戦場になった。オムニ政府は新兵だろうと女だろうと、片っ端から編成しては戦地に送った。そうでなければ勝てなかったろう。だからミチコも最前線にいった。ローダー隊にまわされ、特殊戦隊の一員となり、戦歴の最後は宇宙港奇襲作戦だった。勲章をいくつか得た。
 停戦後に知ったことだが、アークティカ大陸では数えるほどしか戦闘がなかったという。それもすべて軽装のレンジャー部隊同士による小競り合いで、けっきょく重戦車が殴りあうような戦闘は生起しなかった。戦争前と同じように、極北の大地は見捨てられていた。だからだろう、平和だった。
 船が見えた。
 タバコをくわえたまま、ミチコは腕時計をジーパンの尻ポケットから取り出した。二時五分前だった。そうだ、昔から何でも、海の上でまで時間どおりにやってしまう父親。X32で戦車を仕留めるのに手間取ってしまう自分は、たぶん一生かなわない。
 アノラックの襟を立てると、ミチコは桟橋に出た。船はまっすぐ、すべるように入ってきて、停まった。舳先に立った父が、もやい綱をミチコに投げた。受け取って杭にかけてから、ミチコはまた時計を見た。二時ちょうどだった。
「とれた?」
 娘の問いに、父は小さくうなずいた。船倉を覗いてみると、一抱えほどの大きさの三匹が転がっていた。ウィンチで引っ張りあげてコンテナに移すまでを手伝った。もう何度も失敗してたから、その前に腕時計は外しておいた。生臭くなってしまうのだ。実家に置いているアノラックとかジーパンなら、臭いがついてもいいけれど。
「父さん」
「なんだ」
「海、いつまで」
「そうさな……」
 父は沖を見た。娘も見た。この季節、水平線近くを数時間転がるだけの太陽が、薄靄を通してわずかな光を放っている。薄灰色の空の下で低い太陽に照らされながら、北の海は徐々に輝こうとしていた。流氷の第一陣が点在していた。
「今週いっぱいというところか」
 父は海に背を向けた。娘はまだ海を見ていた。海の向こうを見ていた。戦場は海の向こうだった。そして停戦から三年が経ったいま、汎地球主義団体の抗議行動は抗議の段階を超えつつあり、軍の展開も治安出動以上のものを見せている。予備役の本格動員も時間の問題だということを、同じ部隊にいた人間から連絡されたばかりだった。
「あと少しね」
 ミチコはつぶやくようにいった。冷たい潮風が襟を揺らした。氷河から千切りとった流氷を運ぶ風だ。第三アルハサ村を雪と氷と平和とに閉ざす風だ。戦争をはばむ風でもあるのなら、ならばミチコは叫ばずにいられない、流氷くらい十年分まとめて来たって歓迎してやるってのに。
 ミチコは海の向こうで戦った。協同撃破だけでなく、文句のつけようのない単独撃破も記録した。ガンカメラのなかで炎に包まれていた敵影のことはよく覚えている。友軍機が木端微塵になるところも目の当たりにした。戦車が燃え、砲弾が飛びかっているなかを突撃した。無我夢中で戦っているときに、防塵フィルターの品質まで気にしてはいなかった。大多数の兵士と同じように、装甲に劣化ウラン繊維が使われていることを知らされないまま戦った。
 父と娘は家路についた。立てた襟の内側から魚臭がして、そしてミチコの思い出したのは硝煙だった。

 三日後、今年最後の漁に、ミチコも一緒に乗船した。父の腕は少しも衰えていなかった。銛も網も狙いたがわず撃ちこんで、ほとんど無傷のままのサメを二匹揚げた。結氷直前だから高い値がついてくれることだろう。
 港に戻るときになって、ミチコは初めて舵を任された。もっとも波も天候も穏やかだったから、自動航行装置をセットするというだけだ。それもGPSにリンクしているから、ボタンを数回押せばすむ。
 針路を港に合わせると、ミチコは操舵室にある魔法瓶を開けた。生臭さのとれない樹脂のふたで飲むコーヒーが、子供のころは嫌いだった。なのに、いま試してみると、すんなり飲めた。
 父は舳先にある投射機のそばにいた。投網を外そうとしていた。魔法瓶を持っていこうとして、ミチコは父の姿に既視感を覚えた。すぐにわかった。野営中に銃を分解している戦友にだぶらせてしまっていた。
「父さん、コーヒー」
「ああ」
 受け取るその太い手が、また戦友の誰かに重なった。
 ミチコは海を見た。正午から間もないにもかかわらず、はやくも日は沈もうとしている。この海の向こうが戦場だった。おそらく次なる戦いも海の向こうで始まり、終わる。パワーローダーの空挺降下資格を持つ予備特務軍曹が召集されるのは確実だ。だが、どちらからだろう。アークティカの自治州は、どこも中央政府寄りだが、日和見を決め込んでいるというのが正確だ。情勢次第で簡単に汎地球主義勢力へとなびくだろう。
 どっちだっていいわ。
 なかば本気で、ミチコはそう思っている。
 同棲相手と別れて帰郷したのは半年ほど前になる。あらかじめ、妊娠していることと、私生児として生むつもりだということは両親に伝えていた。二人とも何ら非難しなかった。暖かく迎えてくれた。死産に終ったときは悲しんでくれた。とくに母は、孫を抱く可能性自体がほぼゼロになったとわかったとき、ミチコ以上に落胆した。
 退院してから、ミチコは海を見ることが多くなった。海を見ながら、独立戦役中のことを思い出していた。停戦となってからを思い出すことは少なかった。命を与えてやれなかった我が子について考えることも少なかった。霞がかった灰色の海空に思い描くのは戦場の炎だった。放射能を帯びた粉塵の舞っていた戦場だった。自分のすべてが、いまもあの場所に留め置かれているような気がしてならなかった。村を出る前は何でもなかった潮風が、いまでは針のように身体を突き刺しているのも、そう考えれば理解できた。栄誉も罪業も摘出したあとの、うつろな傷を吹き抜けているからなのだ。
「あはは」
 ミチコは笑った。父が怪訝な顔を向けた。
「魚臭いコーヒーが飲めちゃうなんてね。水びだしですごい臭いの塹壕に隠れながらレーションかじったりしてたのが役に立っちゃったかな」
 父には、笑っている娘が、いまにも泣き崩れそうに見えた。娘の左手は船べりに置かれているが、右手は腹のあたりをさすっていた。だが、ミチコは泣きはしなかった。
「もう、冬ね」
「ああ」
 父は、ライフジャケットの内側からタバコを取り出し、だまって娘に突き出した。娘は受け取り、火をつけた。妊娠中ならもちろん吸いはしなかったが、いまでは父も娘も、命をはぐくむには娘は傷つきすぎた身体となってしまったことを知っている。遺伝子レベルの損傷だから、代理出産を選択しても成功率は低いままだ。
 ミチコはゆっくりと紫煙を吐いた。低い太陽を煙で汚した。煙の向こうにある、かつての戦場が、昨日のことのように思い出せる。砲火に灼かれ捻じ曲がった装甲から剥離した放射性ダストのただよう戦場で、多くの兵士たちと同じようにミチコも独立戦役を戦った。どんなベテランでもたった一発の銃弾で落命しかねない戦場で兵士たちの運命を決めるのは、数え切れないほどの偶然の積み重ねであって、それはミチコもまぬがれない。戦後、その経緯が論評されるとき、個々の兵士の名は捨象され、偶然を積分して得た統計だけが語られる。だから累積被曝量から算出されるわずかな遺伝子異常発生率の中に予備役陸軍特務軍曹ミチコ・ネイデルが含まれているとわかったとき、彼女には誰か特定の個人を恨むという道が残されていなかった。なぜわたしが、と絶叫しても、確率という単純で残酷な答えは変わらなかった。
 わずかな確率にすがって産もうとしたときも。
 それが適えられなかったときも。

 父と娘は船を下りた。これから長い冬になる。冬のあいだ、父の仕事はパイプラインの維持管理だ。
 ミチコは振り返って海を見た。海の向こうを見た。これから燃え上がる戦場が、あそこにある。
「始まるのか」と、父が聞いた。
 娘は小さくうなずいた。かつての上官が職権をもって伝えてきた情報だから、厳密には機密漏洩に問われる首肯であった。かまうものか、と思った。ついでに、もうひとつ漏らすことにした。
「始まるのよ。前よりも、もっとひどいことになる」
「前よりも?」
「そう、もっと……」
 独立のためであった戦争は激しかった。勝利のためにはあらゆるものが動員された。田舎育ちの少女も例外ではあり得なかった。停戦となったとき、すべては戦争のために動くようになっていた。あれから三年、政府は国家体制を平時のものへ転換しようと試みているものの、それはいまだに終わっていない。膨れあがった軍という名の官僚機構と軍産複合体による有形無形の抵抗は、ある意味、戦争よりも激しかった。戦時中、各地に散らばった兵器の回収さえ未完のままだ。いまの政情不安の一因もそこにある。
 そしてミチコは知っている。戦争を厭いながらも、平和に期待するところのなくなってしまった元兵士が、一定の割合でオムニ全土に、第三アルハサ村にさえいることを知っている。そんな人間が、どこへ行かねばならないかを知っている。
 幾千幾万のミチコ・ネイデルが敵味方双方にいるのだから、今度はもっとひどいことになる。それをミチコは知っている。
「いくのか」と、父が聞いた。
「いく」と、娘は答えた。

 end


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ver 1.00
2001/11/12
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