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スケッチ:エリィ・スノウ

 大きな揺れがエリィを過去の夢から現実へと引き戻した。
 C556輸送機のカーゴ部分を区切って前半分だけを人間用に手っ取り早く改装した、旅客機とはとても呼べないような代物。鼓膜以前に薄っぺらなシートがエンジンのうなりを直接届けてくれる空間に、雑多な部隊の人間たちにまじって第一七七特務大隊の一員としている自分。
「夢か……」
 こんな状況でも眠れるようになった自分。
 夢の続きが見られるだろうか、そう思って目を閉じてみると、こんどは別の過去だった。
 父がいて母がいて兄がいた。十歳の誕生日、エリィがせがんだのが家族でのピクニック。二つ上の兄は渋ったが父に強い調子でいわれて最後には頷いた。そのときエリィは悲しかった。悲しい理由もわかっているつもりだった。
 ピクニックに行った野原で、兄はサッカーボールを使って一人で遊んだ。立ち木めがけて蹴ったボールが当たるたび、エリィは兄に拍手を贈った。一緒にやろうとはいえなかった。兄のボールさばきにはかなわないし、だいいち自分はスカートをはいてきてしまっている。
 どうして私がスカートだってわかってるのにお兄ちゃんはサッカーボール持ってきたんだろう、そんな疑問が浮かび、それへの答えも浮かびかけ、エリィは慌ててすべてを振り払うように声を出した。すごいね、お兄ちゃん。
 兄がサッカーボールでリフティングをしている横で、エリィはずっとそれを眺めていた。
 家の玄関をくぐるとき、エリィはピクニックが楽しかったのかを兄にたずねてみた。
 兄は頷いた。一瞬遅れて。どうしてなのか、エリィはその理由をぼんやりとわかっても、その先を考えるのが怖かった。

 入隊は兄の方が先だった。エリィが軍に入るのはその一年後で、それからは滅多に会えずにいる。エリィが民間人のままでいれば機会はもっと増えているはずだった。
 パワーローダー緊急展開を目的とする第一七七特務大隊、通称ドールズ。エリィ・スノウ特務軍曹の属するこの部隊は、定められた以外の休暇を取るなど、それこそ疾駆する敵戦車を一撃で倒すよりも難しい。出撃回数自体はそれほど多くはないものの、待機という名目の拘束時間が延々とあり、その間には汗も枯れはてるような戦闘訓練が待っていた。そして作戦となれば、要求されるものはそれ以上に苛酷だった。
 今、エリィは右のふくらはぎ数センチの皮膚を貼り換え、そこを滅菌フィルムでおおった上で野戦服のズボンをはいている。砲弾片による火傷程度の負傷で済んだのは、幸運といわなければならないだろう。今回の任務では、ドールズは定数が揃わなかったため四人だけという小隊編成で出撃し、そのうち二人が重傷を負ってしまった。だから、このC556に便乗している数十人のオムニ政府軍の人間の中に、エリィ以外のドールズ隊員は、部隊を指揮した中佐一人しか乗っていない。
 まどろみに誘われるまま、ふたたびエリィの顔がうつむいていった。
 顔を上げると、その先には小川に腰まで入って釣り棹を持っている兄の背中があった。
 広い兄の背中が好きだった。その背中を川にせり出した岩の上から見つめていた。
 そしてエリィは足を踏み外して川に落ちてしまう。兄はすぐさま駆け寄ってエリィを引き上げてくれた。エリィは兄の腕の中で顔を真っ赤にさせ、胸を隠すように腕を交差した。服が水で透けてしまっていたから。その日の夜が初潮だったこともあって、エリィはよく覚えている。
「夢……」
 C556はなお飛び続けている。クロノグラフを見るが、集結地到着までは長針がもう半分回らなければならない。頬杖つこうとして頬を預けたその指先が、髪のほつれを探り当てていた。

 一人の人間すべてをわかるなど不可能なことかもしれない。エリィがそう思い始めたのは、自分が誰に恋しているのかを思い知らされたときだった。
 その恋の相手は、ずっと同じ家で暮らしてきて、そしてハイスクールに通いだしてからは明らかに自分を避けている兄だった。なぜ兄なのか、考えても考えてもわからなかった。わからないというのに、気づいてしまった自分の心は、気づいてしまったからだというのか、一気に燃え上がってしまっていた。これは恋。間違い無い。兄が軍に入ると聞いたとき、立ち上がれなかった自分がいる。
 そして、士官学校の寮へと兄が発つ前日、エリィは決心した。このまま会えなくなってしまうくらいなら兄と妹でいられなくなってもいいと。
 両親が寝入ってから、兄の部屋の前に立ち、何度かノックを繰り返したあとで中に通されたエリィは、そこで酒臭い息をする兄と向かい合うことになった。ナイトガウンだけをまとったエリィを前にして、兄は濁った目を向けはしたものの、手を触れようとはしなかった。怯えてなのか、アルコールが回ってなのか、時折ひきつけのように体を震わせる、そんな兄に、自分を見てくれない兄に、エリィは何をいっていいのかわからなかった。
 兄に恋している、それは間違い無い。
 兄に抱かれたい、それも間違い無い。
 でも、魔法のようにサッカーボールを操っていたあの日の兄は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
 翌日、旅立つ兄を両親と一緒に見送った。父は、しっかりやれといい、母は、無理はしないでといった。エリィは、がんばってねといって、手を振った。
「兄さん……」
 不穏な世情にあわせるように、兄の入学年度から士官学校の在学期間が半年短縮された。
 エリィの住む村の出身者で、民間人でなく現役の軍人の中から初めて戦火の犠牲者が出たのは、それからまもなくのことだった。中身の無い棺が墓へとおさめられるさまを、参列者の人垣の中からエリィも見た。その前日、無理に無理を重ねて兄のもとへ映像回線を繋いでもらって数分の会話をしたはずなのに、エリィはスコップで土をかけられているのが兄であるような気がしてならなかった。
 郷土防衛隊という、顔ぶれは納税者協会と変わらない軍の地方組織があり、その会合に父の代わりに届け物をするだけというのでエリィは寄った。そこから家へ戻るとき、手には入隊志願書を握っていた。
 今となっては、なぜそうしたのか、自分のことだというのにわからない。軍に入ったばかりに、追いかけようとした兄とはますます会うことができなくなった。
 わずかな浮遊感、C556が着陸体勢に入っていた。

 独立戦役がオムニ政府の勝利に終わってからグラデンの蜂起までの三年という短い平時、エリィは故郷の村に近い駐屯地での勤務となったが、軍総省に配された兄は首都で一人暮らしを続けていた。兄の帰省は一月ごとだったのが、やがて半年に一度となった。父の愚痴が増えていった。
 グラデンで行われたゼネストが危惧された事態を通り越して流血の惨事となってから、オムニ政府が再び戦時体制を決断し動員令を下すまでのわずかな期間、エリィは連日のように兄と話した。兄を引き戻すのは今しかない。
 そうもいかないといって首を振る兄の心境は、エリィもわからないではなかった。前線で共に戦った人間同士の紐帯は他の何物にも代え難い。停戦後、四軍から選抜された人員で構成されていた自分の部隊が解散になったとき、それは痛いほど感じていた。
 でも、今のお兄ちゃんは書類いじってるだけでしょう、そんなの他の人に任せちゃえばいいじゃない。
 兄がわからなかった。そんな兄を愛している自分がわからなかった。そして、スノウ兄妹は、お互いがわかりあえないことを自覚するだけの理性を残していた。あの夜の二人を兄と妹にとどめたものが理性と呼びうるものならば。
 結局、兄に退役を説得することは出来なかった。最後の映話ではお互い疲れきった顔で自分のいる場所の天気の話をして終りだった。一つまた一つと自治区が中央を離反してジアスへとなびいていく情勢など、口に出す気力も無くなっていた。
 がんばってね、そういったあと、今し方まで兄の姿を映していた接続の切れているモニターに、エリィは顔をつっぷせて泣いていた。

「中佐ぁ」
 民間空港を利用するときのようにはいかない。すぐ側で大型機がエンジンを回す滑走路を自分の足で歩きながら、エリィは前を行く上官に向かって半ば怒鳴るように呼びかけた。
「なに」
「また、待機ですか」
「そうよ、待機」
 エンジンの排熱でかそれとも陽光の照り返しでか、うだるような熱気の中を、ズック地のバッグを肩から下げたドールズ隊員二人が歩いていく。
 滑走路の先、逃げ水を見る。
 ゆらゆらと輪郭をうつろわせるそれに、エリィはしばし見入った。
 右足に痛みはもうない。
 ジアス戦役勃発後、ドールズに戻ったエリィは兄と連絡を取っていない。

 end


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ver 1.00
2000/01/31
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