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捕虜

 聞き間違いかと耳を疑ってしまったが、確かにヤオ・フェイルン隊長の指示は作戦の失敗を告げるものだった。
「各機、後退」
 だから、下がらねばならない。だが、下がればどうなる。私が下がれば、目の前で乗機を擱座させられたアニタはどうなる。
 その思いがライザ・モリーナ中尉に自らの乗るパワーローダーX4に射撃体勢を取らせた。即座にヤオの通信が入った。
「ライザ、下がれ。ここでは的になるだけだ。下がれ」
 続けざまに衝撃。
 至近弾に揺れる視界、見えない敵、射線の解析すらかなわない。第一七七特務大隊ドールズは一秒ごとに寸断されつつあった。状況はヤオの出した後退命令が的確なものであることを示していた。
「隊長、07がスタックです。救出します。掩護を」
「下がるんだっ!」
 シルバーフォックス十機のうち残存六機。いままたアニタ・シェフィールド少尉の七番機が失われ、動けるものは五機。こうなっては一機でも無事に帰還させねばならない。
「アニーっ!!」
 ライザの絶叫が届いた機体には七番機は入っていなかった。既に白煙に包まれていたそれは送受信可能な状態になかった。
 涙を振り払うようにライザはX4を反転させた。シルバーフォックス隊は退却戦闘に入った。最も苛酷な戦闘の一つである。


「服くらい着てなさいよ」
 岩の陰からうかがい見た光景はまったく予想外のもので、アニタを面食らわすのに充分だった。
「発砲不可って状況じゃない」
 半裸で傷を洗っているところを撃ったら軍事法廷行きになるだろうか。
 投降を勧告すべし。これが、敵であっても非武装の者に対しての、マニュアルに記載された対応である。
「拳銃一丁でどうしろってのよ、おまけにこっちからは撃てなくてさ」
 十五発と一発の入った拳銃。アニタの武器は、いや武器に限らない、手にあるものはそれが全てだった。そしてそれすら重くなりはじめている。
 出撃前にクラッカーを口にしてから三十時間経過。以来何も食べていないし、ほとんど寝ていない。沢を下りて川伝いに下流へと歩いてきたが、まだ標高がかなりあるらしく、一帯の地衣類主体の植生は見慣れないものだった。解毒剤無しに食べられそうな植物など見当たらなかった。
 解毒剤も入っていたメディキットは既に灰。小屋のようなものは一度見掛けたが、複数人の気配があった。ジアス制圧下のこの地方で、はたして政府側の喧伝通りに協力的な人間に出会えるかは疑わしく、さっさと発振機作動可能な安全圏まで歩く方が確実に思えた。
 あと五十キロ。
 何でもない距離のはずだったが、ローダー脱出時に引っ掛けた右足は腫れ上がってしまい、ほとんど膝が曲がらなくなっていた。水を飲もうと河原を歩き何度か転びかけていた。
 そんな彼女がせせらぎに交じる不自然な水音を聞き分けられたのは幸運な風向きのおかげで風下に位置していたからだ。既に彼女の注意力は散漫になりかけていたから、逆だったら上半身裸で傷口を洗っているその男と鉢合わせするまで気付かなかったろう。
 男がジアス軍兵士であることは間違い無い。河原に脱ぎ捨てられた戦車兵のジャケットからそれは明らかだった。魚が五匹跳ねている側には焚き火の用意もあった。傍に転がっている枝の先に糸を結んだだけの竿で釣ったらしい。銃は見当たらなかったが、山刀が一つ置いてあった。非武装状態ではなかったと主張できるかもしれない。
「でも呑気に水浴びする奴に無警告で発砲したら交戦規定の第何条だかの第何項に引っ掛かるんじゃないかしら……」
 思い出せなかった。

 こちらは風下。曇り空、急に雲が晴れてもあの男の方が逆光。
 深呼吸。
 まっすぐ右腕を伸ばして狙いを着けてから、おもむろにアニタはいった。
「動かないで」
 スライドが作動音を響かせると、男の動きが止まった。
「両手を頭の上に」
 彼女のいうまま、男は両手を上げた。その背中は血の滲む真新しい傷だけでなく、古傷も縦横にあった。上背は彼女と同程度、兵士としては貧弱な方だ。
 照星を男の背に据えたまま体重をずらして右足の負担を軽くすると、アニタの心に逡巡が生じた。どうしよう、情報など取らずこのまま殺してしまえば話ははやい……。
「官姓名を、」
「女か……」
「官姓名をいえ!」
「一等陸曹ヘンリー・チャン」
 名乗ると同時に男は両手をだらりと下げた。緩慢なその動作には疲労が色濃く現れていた。
「いいわ。ゆっくり振り向いて、ゆっくりよ」
 男は東洋系の顔立ちだった。アニタにとっては区別の付けにくいタイプである。つまめる程に伸びた髭がこけた頬を更にやつれているように見せていた。肌はアングロサクソンのアニタと違い黄色人種のそれ、黒目に黒髪、もっとも頭髪は戦車兵の御多分にもれず随分とさみしい。そこを割り引いて三十台後半だろうか。
 男はアニタのパイロットスーツを見るなりいった。
「ドールズか」
 殺すか、今から。
 アニタはまた迷った。距離は二十メートル強。体のどこかには当てられるだろう、動きを止めるのに二発、だから三発もあれば……。
「どうする」彼女の内心を見透かすしたような男の言葉。「俺を撃つのか」
「あなた、今ドールズっていったわね」
 アニタは動揺を悟られまいと懸命に平静な声を出そうと努めた。
「何者?」
「俺は名乗った。次はあんただ、少尉」
 階級章はパイロットスーツの襟に縫い付けてあった。それを読まれたらしい。こんな男は放っておくんだったとアニタは舌打ちした。
「お前は捕虜だ」
 彼女はそれだけをいうと、足の痛みを隠すように大またで男に近づいて銃把で顔を殴りつけた。

 チャンはおとなしくアニタの言葉に従った。抵抗せず手を伸ばして腹這いになったので、容易に後ろ手に縛れた。縛るものが問題だったが、彼は簡単なメディキットを持っていて、そこの中の包帯を使った。ついでにアニタ自身の足の湿布にも拝借した。
 包帯を水に浸す時には、どうしても水面に映る自分の顔が目に入る。この顔をジアス兵にも見られていると思うと彼女はげんなりした。
 落ちくぼんだ目や、土埃と砲煙で茶色に煤けた元は銀の髪を何とかしたかった。捕虜を取るといってもマニュアルに書かれていないことが多すぎる。化粧道具一式、標準装備よね……。
「焼いてくれないか。腐っちまう」
 現在、彼女の捕虜である男がいった。
 どこかおかしい。空腹と疲労で霞みがちなアニタの頭の隅でも警報がなっていた。
 戦車兵がなぜ単独行動しているのか。ひょっとしたら手のこんだ偽装かもしれない。
「頼むよ」
 訛りは新規移民のようでもあり、旧移民のようでもあった。
 チャンが顎をしゃくった先には彼の釣った小ぶりな川魚があった。青鱒といわれるオムニで改良を受けた鮎の一種であり、地球生まれの解凍者にはこれにアレルギーを持つ者が多い。アニタは試してみることにした。
 焼く場所は、念のために河原から少し引っ込んだ所にぽつんと生えている灌木の下にした。雲は低いが、煙が見つからないとも限らない。
 地面は褐色の地衣類に覆われていた。その表面は粉状に乾燥していたが、すこし押せば水が染み出してくるので、男が用意していた粗朶を組むには石を並べた上でなければならなかった。その作業をしながら、横で手を縛られて座っているだけの男を見て、アニタは自分の手順の悪さを呪った。悪態の一つもつきたくなった彼女だが、ふと男のジャケットのエンブレムが、目についた。
「ピンクパンサー、7Bね」
「ああ、これ」
 縛った上から羽織らせた男のジャケット。部隊章は尻尾で砲弾を放り投げようとしている眠そうな眼のコミカルな豹だ。アニタはそれを笑うことができる。一方、男の薄笑いには影が差したかに見えた。
 ドールズを知ってるって、こういうことね。いい気味。
「7Bって、じゃあここは地元ね」
「よく知ってるな」
「おかげさまで」
 ジアス第七機甲旅団。過去にドールズはサンホセという小都市でこの旅団からの抽出部隊と見えたことがあった。派手な豹のマーキングの戦車や歩兵戦闘車をドールズ全体で五十台ばかり鉄屑に戻し、サンホセ入口はさながら納骨堂と化した。アニタもその時は、ツキというものに全く見放されたかのような今回の戦闘とは違って、大いにスコアを伸ばしていた。
「この州だと、パネーの上流に行けば鮎がたくさんとれるわね」
 こんなことを喋ったのは目の前の川魚にアニタの意識が行ってしまっていたからだった。
「まあな」
「鮎はライムを添えると美味しいわ」
「そうだな、そうだった」
「今は……あなた、ライムなんて持ってないわね」
 男の曖昧な受け答えを聞く一方で、アニタは火にあぶられている五匹のうちのいくつを食べようかとも考えざるを得なかった。鼻孔をくすぐる魚の匂いは空腹には拷問に近いものがあった。
「せめて、岩塩でも……」
「なんだ、あんたも食う気か?」
「ふん、さっさとあんただけ食べなさいよ」
 途端にアニタは目の前の魚が美味しそうに見えた。彼女は物欲しそうな表情をしていないか内心焦った。
「解いてくれってのは贅沢かな、少尉さん」
 チャンは体を捻って縛られている手を見せた。アニタは後ろ手に縛ってある手を、前向きに縛りなおす。
 器用に串ざしの魚をかじりながらチャンはいった。
「こいつは鮎じゃなくて青鱒だよ、似てるがね。青鱒はライムも生姜もいらない。これで充分いける」
 一瞬、アニタの全身を憎悪が駆け巡った。空腹も忘れた。
 間違い無い。
 こいつオムニリングのくせに。
 少なくとも男がオムニでうまれ育った人間だということをアニタは確信した。
「裏切り者」
 アニタが毒づくのと炎の向こう側で男が小骨を吐き出すのは同時だった。
「何だい」
 男のぞんざいな言葉が自分を小馬鹿にしているように思え、彼女は語気強く罵った。
「あんたは恥知らずの薄汚い裏切り者だってのよ」
「ああ」
 チャンの目が細くなった。
 東洋系の人間にこの目つきをされるとアニタはそれが何を意味するのかほとんどわからなくなる。東洋系でも中には部隊長のヤオのようにポーカーフェイスのまるで出来ないような人間もいるが、眼前の男については自分の問いに対して肯定しているのか否定しているのか、それとも単にかじりついている魚に舌鼓をうっているのかもわからなかった。
 この男から何かを聞き出せるものか怪しかったが、とりあえずアニタは銃のセイフティを外した。その音に彼はちらと銃の方を見やったが、すぐに視線を手元の魚に戻した。
「ホルダンへの補給路は北ルートよね」
「そう聞いている」
「ホルダンに駐留してる部隊の規模は?」
「さあ」
 焦れたアニタは銃を男の広い額に構えた。しかし無言の相手からは曖昧な笑みのようなものが返ってくるだけだった。
「いいなさい」
「知らないんだ。そこに追及する途中で」
「一曹、あなたの所属は?」
「B中隊第二小隊」
「集結するのはあなたの大隊だけ?それとも旅団全体?」
「さあ、行けといわれただけで」
「あなた、こんなとこで何やってたの?」
「釣りだよ」
 馬鹿らしくなってアニタは銃を下げた。
「眠っていいか」
 落日にはまだ間がある時間だが、二匹目を平らげた所でチャンはいった。
「勝手にしなさい」
 もうアニタにはチャンを捕虜にして五十キロを歩くつもりはなかったので、後ろ手に縛りなおすことはしなかった。チャンは彼女に背を向け縛られた両手を手枕にして横になった。
「毒なんか盛りようがない」
 いきなりそういわれてしまい、アニタは火の周りでいい具合に焼けている魚に伸ばしかけた手をぴくっと引っ込めてしまった。
「食べろよ」
「ふん」
 結局食べた。空腹には耐えられず、残りの三匹をあっという間に口に入れてしまった。何の味もついていなかったが、一日半ぶりの食事には違いなかった。
 だが、睡魔には必死に耐えた。杖になる枝を見繕うと、ジアスの戦車兵を置いて、アニタは歩き始めた。


 時間を戻す。アニタが沢を覚束ない足取りで下りて川にたどり着こうとする頃である。
 作戦目標を断念したシルバーフォックス隊残存四機は追撃をかわしつつ懸命に回収地点へと急いでいた。アニタの乗機が擱座の後、更に一機が大破放棄されていた。
 最後の斜面。この沢を横断し、向かいの尾根の中腹に見えるやや開けた場所、そこに取り付けばそこが目指す回収地点だった。
 時間的には問題ない。問題は敵の追撃だった。
「シルバーリードより、各機」ヤオの通信は少し苦しげだった。「対空射撃可能な機は、装備と残弾数を報告」
「シルバー04、ARX2、残弾1マガジン」
 即座に四番機のアリス・ノックスが応える。しかし、彼女だけ。
「そうか……。よし、私と04で後衛だ。04、ミチコとマフィルを10に預けろ」
 預けるようにいわれた二人は対衝撃服に全身を覆い、アリスの機体の左腕にしがみついている。これではアリスはまともな戦闘は出来ない。そこで十番機に彼女達を任せようというのである。
 十番機の手には既に同じ様にしてマーガレットが抱えられていた。つまりヤオの指示は十番機をイジェクトした後でまだシルバーフォックスの掌握下にある三名の乗員の運搬に専念させるというものだった。
「しかし!」十番機の乗員はジュリィ。アニタ・シェフィールド、セルマ・シェーレと共に敵拠点ホルダンへの北からの隘路に取り残されたジュリア・レイバーグの妹であった。ジュリィの胸中は姉を残して後退してしまった無念さで張り裂けんばかりだった。
「いいか、ジュリィ」そして諭すようなヤオの通信。
 荒い息をつきながらも、ヤオの声は決して隊員に不安を与えることはない。これまでがそうだった。
「マフィル・ハティ以下三名を回収点まで運んでくれ。いいな」
「……はいっ」ジュリィは震える声で応えた。
 四番機と十番機が作業をしている間に、ヤオはライザの乗る五番機を呼び出した。
 ライザのモニターに現れたヤオからの通信は映像を伴っておらず、音声だけだった。
「ライザ、ジュリィのカバーを」
「わかっています。隊長、負傷されましたか」
 すると笑いを含んだ答えが返ってきた。
「かすり傷よ」

 残る四機。索敵型はなく、X4ないしはX4+だけであった。哨戒装備の機は真っ先に撃破されていた。その意味する所は隊員全てにとって明瞭だった。
 自分達は罠にかかったのだ。
 目を潰された部隊ほど脆弱なものはない。ドールズにとってお馴染みの戦術だった。目となる索敵機を遠方から叩き、しかる後に通常装備の敵機を駆り立てる。
 だがドールズが潰される側に回ったのは、これほどなす術無くやられてしまったのは、ライザには経験したことのない事態だった。
 そしてアニタを置いてきてしまったこと。
 ライザは自分を許せそうになかった。
 自機の一歩一歩の移動による振動が、彼女を苛んだ。私は帰投する、アニタはホルダンに取り残されたまま……。
 『待ってよ、ライザ』
 アニタの笑い声が聞こえるような気がした。
 『待ってよ、ライザ。ここの四小節は難しいんだから、雑にやっちゃだめだって』
 最後に合奏したのはいつだったろう。十日前か、一月前か、疲れきったライザの頭にはとっさには思い出せなかった。
 きっかけとなった出来事は逆にすぐに甦ってきた。

 とん、とん、とん。
 食堂の大テーブルにぽつんとアニタが座っている。彼女は目を閉じて頬杖を突き、空いた手の指先でテーブルを小突きながらリズムをとっていた。何のリズムかといえば、それは自分の弾いている曲にあわせているのだと、食堂の隅にあるアップライトピアノに向かっているライザはわかっていた。
 その日のライザは趣味になっている曲を作るためというよりは、ただ時間を潰すためだけにピアノを弾いていた。手の動くまま、脈絡もなく色々な曲を奏でていった。
 アニタがじっとこちらを見ていることに気付いたのは、バッハの平均律を弾いている時だった。
 とん、とん、とん、とん。
 アニタのテーブルからのリズムは続いている。
 ライザのピアノと同期している。
 ばらん。
 気を取られてか、ライザは左の手をもつれさせた。重い不協和音がこぼれる。
 ちらりとアニタの方を見て舌を出して肩をすくめると、そのままライザは続けた。
 とん、とん、とん、とん。
 同じリズム。但しライザがまごついた分だけ正確に先にずれていた。
 今度はライザがそれに合わせた。
 アニタがにっこりと笑った。
 そのつもりはなかったが、結局休憩時間が終わるまでライザはピアノを弾き続けた。終わる頃にはアニタのテーブルを小突く音がメトロノームのように精緻なことはわかった。
「アニタってリズム感すごくいいのね」
 その時、ライザはアニタにそんなことを口走っていた。これを思い出すたびにライザは穴があれば入りたくなる。アニタが音大出の経歴だということは、アクセス可能なファイルの中にちゃんと記載されていたのだ。
「あなた、ピアノ弾けるの?」
 弾けるどころではない。
「子供の頃に」だがアニタは笑って答えた。「ですがこちらに配属になるまではチェロを弾いてました」
「へえ、チェロかあ。持ってきてるの?」
 アニタは首を振った。
「私物には大きすぎるので」
 ライザはいたずらっぽく笑ってみせた。
「手が無いわけじゃないわ、私物じゃなけりゃいいんだし」
 怪訝な顔のアニタに向かって問うライザ。
「ね、どうする」
「出来るんですか」
「まかせて」

「シルバー10よりシルバーリード」
「シルバーリード」
「方位040、アコースティック感度微弱」
 ジュリィとヤオの通信にライザはこわばった。040とは後続のヤオ、アリスの方角、回収地点とはほぼ逆の方角。回収部隊とのランデブーにはまだ二十分以上の時間が残っているはずだった。
「解析は?」
「一瞬でしたので……、ですがローター音であることは間違いありません」
 索敵型X4Rが残っていれば。せめて滞空プローブ一個でもあれば。ライザは心底そう思った。入り組んだ尾根を縫う風はカオス的に振る舞い、パワーローダー搭載の戦術コンピューター程度では予測出来ない。それに乗ってくる音を頼りに攻撃することは無理だった。
 対空射撃にはどうしても電磁波で目標を探知する必要がある。X4やX4+の内蔵レーダーでは地形に遮られてまだ探知できない。
 だが、いる。
「対空戦闘隊形」
 ヤオの押し殺した声を合図に、脅威軸を方位040に置いた逆三角形が形作られた。前面にアリスの四番機とライザの五番機、中央にヤオの一番機、後ろに十番機のジュリィ。
 十番機に抱えられていた三人は降ろされ、沢の下方に退避していく。びっこをひいているマフィルが途中で手を振り上げた。ライザは彼女の唇をズームで読んだ。その言葉こそ励ましだったが、表情ははっきりと絶望を語っていた。
 対空装備はアリスのアサルトライフルとヤオのガトリング。ライザにも肩装備の速射砲があるが、高角では気安め程度の命中率しかないし、弾幕を張るほどの弾薬は出撃の時点から装備していない。そしてジュリィには対空装備は全くない。
 どうしてこうなってしまったのだろう。
 あの時は隊長も私も……
 ライザが出撃前の自信ありげなヤオの表情を思い返していた時、耳元のけたたましいロック警報が、彼女を死地にある現実へと引き戻した。警報は攻撃ヘリの敵性IFF表示よりも先だった。
 稜線越しの対地ミサイルは、五番機に四発、四番機に二発。アリスは実に五発までを撃ち落とす。すり抜けた一発がライザの射出したデコイを吹き飛ばす。僅かに間に合わず、距離が不足した。破片は五番機のIRセンサを破壊した。
 戦果を確認しようとしたのか、ジアスのヘリが高度を上げてその姿をさらけ出した。深緑色の迷彩の機体は曇天にかえってはっきりとそのシルエットを浮かび上がらせた。ライザの速射砲が咄嗟射撃。至近弾。茶色の煙を曳きながらバンクするとそのヘリは反転後退した。だが一機では終わらなかった。
 間を置かず三機のヘリが舞い上がった。今度の敵はミサイル攻撃の手間は取らなかった。直接照準のロケット砲の雨がシルバーフォックス隊に降り注いだ。
 最も近い四番機が両腕を持っていかれた。バランスを崩し横転してゆく間にも四番機には命中弾を意味する閃光があがった。ライザが悲鳴に近い声で呼んだものの、アリスからの応答はなかった。
 ヤオは砲身が過熱するのも構わず弾幕を張った。しかしジアスのヘリパイロットは冷静だった。二機が回りこみながら対空射撃を行っていないジュリィの十番機に狙いを定めると、ポッドの半分のロケット砲弾を叩きこんだ。十番機、沈黙。
「来るなあっ」
 その時、ライザは対戦車用の信管がセットされた徹甲弾をヘリ目掛けて撃っていた。彼女はもう自分が何をしているのかわからなくなっていた。わかるのは目の前で壊れて欲しくないものが壊れていっているということだけだった。
 なぜ、なぜいつものように当たらない。なぜ信管が作動しない。なぜ敵の弾ばかりあたる。なぜ味方は回避できない。
 なぜ目標の油槽車輌は現れなかったのだ。なぜ情報に無い敵ローダーが現れたのだ。なぜ敵は潜伏中の私達を発見出来たのだ。なぜ敵はセンサの有効域外から索敵機を撃破出来たのだ。なぜこうも早くヘリが追撃してきたのだ。
 なぜだ。
「ううあああああっ」


 どさりと網のシートに腰を下ろすなりヤオは目を閉じて長い息をついた。
「うまくやられたな……」
 パワーローダー四機を搭載可能な輸送ヘリのローター音は凄まじい。ヤオの口からこぼれた一言は隣のライザにもかき消されて届かなかった。
 ジュリィは火傷がひどく皮膚を貼り替えなければならないだろうが、臓器に達する傷はないようだった。退避していた三人も手足の骨折程度で済んでいた。だがアリスは重傷だった。砕けた肋骨が肺を脅かしているのはわかってもヘリの中では処置不可能だった。彼女が基地までのNOEに耐えられるか危ぶまれた。
 担架に横たえられているアリスが苦痛に体を震わせた。彼女の手に繋がっている血液剤を掲げているのはライザだ。
「代わろう」
 ヤオがライザの手にしていた血液剤を取っていった。
「ライザ、コクピットに行ってベースに送信して。目標現れず、作戦失敗。我が方の損害……」
「私が、ですか」
「お願い……」
 ヤオに包帯を巻いた右手で力無く肩を叩かれると、ライザはレポートは部隊長の役目だとは抗弁できなくなった。
 報告する気力すら無くしてしまった目の前のヤオ。出撃前にうまくいくわと笑っていた時の彼女と比べ何という変わり様だろうとライザは思った。
 そして自分がどういう顔つきでいるか、ライザはわかっていた。
 コクピットの騒々しさはカーゴ以上だった。ヘッドセットを借りて、ようやく話が出来た。
「三つも要らなかったな」
 コパイが振り返らずにいった一言に気色ばんだライザだが、沈黙で応じるしかなかった。
 シルバーフォックス隊は十機のパワーローダーでもって出撃した。当然、回収にはローダー四機まで搭載出来るヘリを三台揃えた。しかし回収地点に到達できたのは中破二機、小破二機。一台で足りてしまう数には違いなかった。
「まあこんなこともあるさ」とパイロット。
「あの……」
「エスコートの連中に礼をいうんだな」コパイがレーダースクリーンを一瞥。「あいつら、だいぶ奥まで入ってくれている」
 護衛のF231二個小隊が牽制しているからこそ、鈍速の輸送ヘリが錯綜した戦線を重いローダーを抱えながら飛行していられた。そしてシルバーフォックス全滅の窮地を救ったのも、結局彼らだった。急行した彼らが自らの位置を暴露することを恐れず派手な妨害電波を掻き鳴らしてくれたので、ジアスのヘリは攻撃を断念して退避していったのだ。
 二個小隊の護衛の戦闘機、三機の迎えの輸送ヘリ。
 失敗することなど考えもしなかった作戦。
「……ラジオ、借ります」
「おう」
 サイドパネルからマイクを引っ張りだしてスイッチを入れると、ライザは基地周波数に合わせ、所定の暗号化プログラムを選択した。これは双方向交信用ではなく、発信者の発言をデジタル録音して、それを圧縮暗号化して送信するものである。
「シルバーフォックスよりウェディングベル」聞き耳を立てていたコパイが鼻で笑う気配がライザにわかった。
「目標現れず、作戦失敗。現時点で戦果は不詳」
 そこで彼女の言葉は途切れた。今の部隊の状況を報告するのは、ヤオだけでなく、無論ライザもやりたくはなかった。
「我が方の損害、出撃十機中、大破放棄はX4R二機、X4+三機、X4一機。中破回収、X4+二機。小破回収、X4+一機、X4一機。人員、負傷五、うち一名は重傷、要レベルAケア。行方不明三」
 ぐっと唾を飲み込んでから一気にまくしたてて最低限の報告を終えると、ライザは叩きつけるようにしてマイクを戻した。
「こんなこともあるさ」もう一度パイロットがいった。
 だがライザの耳にはそれは聞こえていなかった。
 行方不明、三。
 彼女はたった今、自分が使った言葉に身の凍る思いだった。アニタがMIAになってしまったのだ。

 ある朝、部屋の前にチェロケースがあった。
 目を白黒させているアニタの背中に、「グッモーニン、チェリスト」と高らかな声を浴びせたのはライザだった。
「あ、あの、モリーナ少尉。これは……」
「チェロよお。見てわかんない?」
 ライザは飄々とかわす。
「いえ、そうではなくて、一体どうやって……」
「このたび第一七七特務大隊第三中隊は福利厚生充実のためチェロ導入を決定するに至りました」
 ライザが懐から二枚の紙を取り出した。備品申請書と納品書、いずれもサインがすでに通っている。
「つまり、これ私物ってわけじゃないの。あくまで隊の備品。だけどねえ、困ったことにアリスがバイオリン弾けるけどチェロは弾ける人いないのよねえ、あなた以外には」
「は、はあ……」
「備品管理お願いできる?」
 ライザの笑顔と書類とを見比べているうちに、アニタは書類のサインの筆跡が見覚えあることに気付いた。
「このサイン……」
 すかさずライザが口を結んで人差し指をあてた。ついでにウインク。
 ようやくアニタもわかった。
「はいっ、よろこんで管理させていただきます!」
 アニタはライザに向かって芝居がかった敬礼をしながら破顔した。

「夢、か……」
 まどろんだ程度だったので疲労はほとんど回復せず、頭に靄がかかったような気分も抜けきらなかった。
「チェロどころじゃないわよね、この状況」
 眠っていた間に汗が乾いたらしく、額や頬に髪が乱れて貼り付いていた。唇もかさついていた。空気は乾燥しきっていたが、体重を掛けていた地面の地衣類だけは湿っていて不快だった。
 クロノグラフを見る。脱出してから五十時間になろうとしていた。
 脇腹には人肌に暖かくなっていた銃の感触があった。
 男の持っていた山刀を持ってくればよかったとアニタは悔やんだ。地衣類が広がる中にもまばらにではあるが、立ち木はあった。山刀で木の皮を剥いでホルスターを作ったならば、片手を銃を持つことで塞がれずに済む所なのだ。
 こんなの重いだけで役に立たないじゃない、魚せしめられたくらいで……。
 ハッチを爆開して髪の毛の端を焦がしながら脱出してきた時、どうして自分が拳銃を持っていられたのか、アニタは覚えていなかった。だがそれが利口でなかったことは、今いやになるほど思い知らされている。メディキットの一つでも引っ張り出していたなら、この状況がどれだけ違ったことか。
 銃も捨てようか。
 それは一度ならず考え、そして踏み切れずにいた。
「さっ、いくわよ」
 アニタは声に出して自らの二本の脚を立たせた。
「みんなが待ってるんだから、もうちょっと我慢して、私の右足」
 杖をつきつつ、一歩一歩痛みに耐えながら、発振機を作動できる範囲をアニタは目指した。左手のクロノグラフと太陽とで大まかな位置を算定、川伝いに残り四十キロを切ったはず。

 そして水音の大きくなった先が滝になっているのを目の当たりにして、アニタはへたり込んでしまった。迂回するのに、更に距離を歩かねばならない。
 迂回するって、どっちに?地図も無いのよ。
 イジェクトした後でも作戦地図を携行しているはずだった。メディキットも、食糧も、当然持っているはずだった。マニュアル通りにいけば。
 軍の機関紙の隅にいつも載っていて見飽きた広告のうたい文句が脳裏を過る。
 このメモリーカードだけでサヴァイヴァビィリティが格段に上昇します、水無しに摂取可能な高カロリーレーション、手のひらにおさまる診断プログラム付きの治療セット……
「無理よっ!そんなっ!焼け死ぬかどうかって時に、そんな、そんなもの……持ち出せるわけないじゃない……」
 こんなことになるなど考えもしなかった。
 いつもいつも当然のように出撃して当然のように帰投していた。
 だからこれは罰……
「違う!」
 消化装置のチェックを怠った罰……
「みんなそんな所までやってないわよ!」
 メディキットの上によりによって燃えやすいタオルを置いたのはだれ……
 地図の入ったメモリーカードを鬱陶しいからって身に付けていなかったのはだれ……
「そんな、そんなことくらいで、こんな……」
 自分だけは大丈夫なんて考えていたんじゃないの……
「だって……」
 自業自得よ、あんたのせいよ、アニタ・シェフィールド。
「違う!!最初から、最初から間違ってたのよ!潜入して、タンクローリー壊して、それで終わりだって、そういったはずじゃない!ヤオ隊長!ニューランド司令!なんであんなとこにジアスのローダーが陣取ってたの!こんなの、こんなのうそよおっ!」
 胸の奥で何かが弾け、アニタはしばらく泣いた。顔を覆う指の間からこぼれた涙は地衣類を濡らし、すぐに吸い込まれていった。

 泣き疲れると共に、高ぶった感情も程なく退いていった。アニタの衰えた体力は体を激情に任せることも許さなかった。動悸が少しずつおさまるにつれ、しかしアニタは自分の体に違和感を覚えていた。
 手足が痺れる。
 喉が焼ける。
 頭が重い。
 高山症──その言葉がアニタの脳裏をかすめた。
 即座に意識の別の部位がそれを否定した。そんな高度であるはずがない。ホルダンの高度が三千メートルに届かないのだ。基本的に脱出してからは下ってきたのだから、今いる場所はもちろんそこより下方だ。
 ならば感染症だろうか。小さい傷はかなり拵えてしまっていた。しかし人の手のほとんど入っていないこの山で何かしら発症する雑菌に感染する確率は無視していいはずだった。右足の痛みは、骨折と内出血のためだが、それで喉が腫れるようにも思えなかった。
 結局わからなかった。
「下りなきゃ」
 だが泣いているだけでは駄目だということはわかる。ここでは症状を抑える術はない。
 呼吸を落ち着け、杖を手に立ち上がる。ゆっくり、立ちくらみを起こさぬように。滝に至るまでは片手で握っていた杖だが、今のアニタは両手でそれにもたれ掛かるようにしないと体を支えていられない。
 もう銃は持てない。
 だから捨てた。


 回収部隊の三機のヘリのうち二機がそのカーゴを空にしたまま帰投した。ほぼ二十四時間前に出撃した十人のうちブリーフィングルームに戻ってきたのはヤオとライザの二人。
 戦闘記録の分析は重苦しい雰囲気のうちに始まった。そしてファン・クァンメイ中佐の制止の声も聞かず、ライザはブリーフィングルームを飛び出していた。
 戦訓を得るのに戦闘経過を振り返る必要があることは承知していたが、ヤオに対するハーディ・ニューランド部隊司令のまるで詰問するような口調が、同席していたライザには耐えられなかった。
 ハーディによって積み重ねられるフレーズはまったく戦術的に正当なものだった。ヤオはいわれるままだった。ミス。警戒を怠った第一線のミス。敵の出方を勝手に決めて独り善がりな部隊隊形を取った第一線のミス。
 ヤオは反駁せずにいた。だがライザは耐えられなかった。
 自分達のミスがアニタ・シェフィールドをMIAにしたということに。
 それがライザに言わでものことを声を荒げて言わせ、最後はハーディに対して罵倒にも近いことを口走らせていた。
 その夜はライザは眠れなかった。彼女に夜など来なかった。自分の個室の壁を見つめたきりの彼女の頭の中はホルダンに続く山道で停止していた。
 最初はジュリア・レイバーグ少佐搭乗のX4R。爆発音で初めて気付いた時には既に擱座していた。ほとんど同時にセルマ・シェーレ大尉のX4Rからデコイが射出されるのが見え、しかしそれは間に合わず、彼女の機体は多方向からのミサイルで撃破される。そう、複数の方角からのミサイル。この時点で、索敵型を失い、包囲された時点で、既に大勢は決していた。
「どうしろっていうのよ、あんな」
 立て続けに三番機、八番機が被弾、両機とも一瞬にして戦闘不能。そしてアニタの七番機が駆け出す。
「アニー……そうよね、アニー。仲間を救い出すのにためらうこと無いのよね……」
 MM30、そろそろ旧式になろうとしている低速の対戦車ミサイルだった。だがドールズの方も充分な弾幕を張るだけの対空射撃可能な機体が既に無かった。弾幕をすり抜けて七番機至近に三発が炸裂。その左腕が持っていたグレネードと左肩部のキャノンごと吹き飛ぶ。続いて直撃弾、左脚部全壊。倒れ込み、そこに更に二発。
 間を詰めるミサイルの排気煙がライザからもはっきり見えた。姿勢制御系が既に損傷していたのか、七番機は右腕をついている。残るハードポイントは右肩部。そこに装着されているのはスモークディスチャージャーで二秒後に到達するミサイルに対しては何の効果もない。デコイやフレアを射ち出せる姿勢でもない。もう間に合わない。
「ごめん、ごめんね」
 アニタは諦めなかった。右腕を犠牲に一発を薙ぎ払った。閃光、X4の巨体が揺れる。仰向けになりさらけ出される胴体。そこに、残る一発。
 弾着直前の七番機からの通信がライザには忘れられない。
「ごめんね、ごめんね、私、下がっちゃったよ。呼んでくれたのに、下がっちゃったよ。臆病だよね、卑怯だよね、私だけよ、怪我しないで帰ってきちゃったの」
 白煙が七番機を覆う。
「許して……」
 回収された四機の内蔵カメラからは、七番機搭乗員の脱出を確認出来なかった。

 翌朝、シルバーフォックス隊を率いていたヤオ・フェイルンの姿が、基地から消えた。
 ライザがその事実と理由を知ったのは、部屋に閉じこもりきりの彼女を、ファン・クァンメイが呼び出した時のことである。
「まだ逮捕ってわけじゃないわ」
 悄然とした表情のファンがいった。傍らのモニターの光が横顔を青白く照らしていた。デスクに肘をつき、額を手の甲で支えている彼女もまた一睡もしていないようであった。
「査問だそうよ、戦意不足とかいう嫌疑でね」
「そんな馬鹿な!隊長に何の落ち度があるっていうんですか!」
「あるわけが無いでしょう!」ライザが食ってかかると、ファンは即座に応じた。「私も何度も見たわ、あの戦闘経過。誰がやってもあれ以上のことは出来ないわよ。それにヤオに限って戦意不足なんて、そんなの信じられないわ」
「では、なぜ!」
「なぜですって……」
 ファンは今度は言葉を濁して天を仰いだ。唇を噛んだり、唾を飲み込むといった、動揺を表に出すことのない彼女にしては珍しい神経質な所作がしばらく続いた。
 あえてライザは尋ねた。
「中佐、告発したのは誰です」
「匿名だそうよ……」
 ライザの予想通りの答えが返る。
「どこの誰ともわからない人間の告発にしては、妙に早い査問じゃないですか」
「ドールズ全体が……微妙な状況なのよ……」
 ライザの手のひらがデスクを打った。
「味方同士で!こんな、こんな、足の引っ張り合いをしている場合ですか!」
 アニタの生死すらわからないままだというのにとライザが言葉を続ける前に、ファンが手で彼女を制した。
「ライザ、あなたを呼んだのはヤオの件でじゃないの。装備を整えるのを手伝って欲しくて」
「どういうことです」
「次の任務」
 つぶやくようなファンの言葉には諦観が色濃くにじんでいた。
「内々に得た情報なんだけど、あなたには知らせておいた方がいいと思って。なにしろ他のみんなは、負傷してるか、その……ね」
 ファンが視線で示した先には青白い光を放つモニターがあった。ライザがそこを覗きこむ。
「第二十一旅団からの増援要請に……ねえ、ライザ、ちゃんと読んでる?」モニターの前で肩を震わせているライザにファンが声をかけた。
 ライザの目の前に表示されていた指示には、ドールズの次なる進出先について、サンサルバドル北方にあるハロ基地とあった。
 ホルダンからは直線距離で百キロの懸隔がある。
 戦線の焦点は既にホルダンから離れていた。

 川以外の道しるべを知らないアニタは、流れの聞こえる範囲を歩くようにしていたつもりだった。その水音が突然跡絶えた。慌てて歩いてきた道を逆にたどってみたが、いっこうに川には出なかった。するとはたしてこれまで自分が川の側にコースを取っていたのかも怪しくなった。軽くではあるが耳鳴りがしていた。
 これが前から続いていたとしたら、川の流れだと思っていた音が実は耳鳴りだったとしたらどうだろう……
 不安に囚われたアニタが杖を下ろした先に石があったのか、それが傾いた。持っていた両手ごと、彼女も転がってしまった。
 手をつき、体を立たせようとするが、右足は彼女の意思を拒絶した。
「下りなきゃ……」
 杖を地面に突き刺し、それにすがるように体を持ち上げる。
「みんなが……」
 そしてもう一度体が崩れ落ちた時、アニタの意識が遠くなった。


 前線部隊が乗機から脱出したパワーローダー搭乗員ないしは航空要員の救難信号を受信すると、それは最も近い航空基地に通達され、防空軍のピックアップチームが出動する。
 ドールズによるホルダン奇襲作戦が失敗に終わってから丸三日後、規定通りの周波数、発振パターンが、その付近で活動中の政府側部隊に捕捉された。その地域を受け持つ防空軍指揮官は、あまりに戦線奥深い場所からの信号に難色を示したが、軍総省からの強い要請もあり(ドールズは軍総省の直属という異例の部隊だった。緊急展開部隊としての必要性から決められたその所属だが、単なる戦線補強任務が多くなるにつれ、現場の部隊と指揮系統の点で摩擦も生じていた)回収部隊が出されることとなった。
 回収部隊がその任務を全うして帰投したことを自分の目で確認するまで、その指揮官は不安を押さえきれず、また軍の高官に対する憤懣を隠そうとしなかった。
 だが、ともかく回収は成功。二名のローダーパイロットは衰弱しているものの、無事に確保。それよりも彼の部下のヘリパイロットが無事だったことが、彼にとっては嬉しかった。派手に立ち回る部隊のとばっちりで自分の経歴に傷を付けられることが彼には何より許せなかった。
 防空軍からのパイロット救出の一報は直ちにドールズ司令ハーディ・ニューランドの許に届けられた。前線の小基地に進出中のドールズ分遣隊にも、無論その報は伝えられた。
「ジュリア・レイバーグ、セルマ・シェーレ両名救出せり」
 そこに書かれていないもう一人のことを思うと、ライザは喜ぶことが出来なかった。

 夢うつつの中。
「平均律が課題曲だったことがあって」「ずっと音楽やってればあ」「調弦だけ様になってるって人、知ってるわ」
 頬に微かな火照りを感じた。
 また夢に戻りかける。
「きっかけは……」「カザルスみたいな生き方は、尊敬するけれど、でも」
 闇の中を炎が揺れている。
「軍楽隊なんて考えなかった」「前線志願はお互い様でしょう」
 夢が追いすがる。
「敵襲っ」
 容易に悪夢に変わる。
「五番機、被弾」「散開しろっ」「熱い、熱い、あつい……」
 ぽきん。
 なに、何の音?動作不良?こんな時に、こんな時に。動け、ちくしょう。ミサイル?どうして?来るなっ!
「おい」
「来る……な……」
「少尉さんよ。水、飲むかい」
「え、」
 ぽきん。
 すっかり日が落ちていた。
 焚き火の向こうにジアスの戦車兵の姿が照らし出されていた。どこからか拾ってきた枯れ枝を揃えていて、枝を折るたびに乾いた音がしていた。
「あなた……」
「脱水気味だ。飲んだ方がいい。ただしゆっくりだ。でないと吐く」
 男の視線をたどり水筒を見つけると、アニタはそれに飛びついた。男の止めるのも聞かず喉に流し込むが、むせてしまう。
「いったろ。ゆっくり飲むんだ」
「え、ええ……」
 半分ほど無駄にしてしまったが、残りをアニタは全て飲み尽くした。ヘンリー・チャンと名乗った、アニタが捕虜と宣告した兵士はそれを見て笑った。
「タフだな、あんた」
 肩で息をしているアニタは答えられない。
「ぐるぐる回ってとっくにくたばってるかと思ったんだが。サヴァイヴァル習ってないにしては大したもんだ」
「……後、つけたの」
「苔の足跡は消えにくい」
 ぽきん。
 枝が火に投げ込まれると、炎が揺れ、二人の影も揺れた。
 右脚を伸ばしてしゃがんでいるアニタは、呆然と目の前の火を見つめるしかなかった。
 銃が無い。
 この場の主導権が枝をくべる戦車兵に完全に握られていることを、炎が揺らめくたびに、アニタは思い知らされていた。
「ここ……どこ……」
 彼女のつぶやきに、チャンはひとしきり笑うと答えた。
「あんた、南東に抜けるつもりだったんだろ。川からつかず離れずに。実際は幾らも距離は進んでない。あんたと会った所から三キロってところか」
 彼はそういって懐からクロノグラフを取り出すとアニタの目の前に放った。それが自分の左腕にはめていたものであることに気付くまで、彼女はしばらくかかった。そして次の瞬間、弾かれたように首の周りを手で探っていた。そこにペンダントとIDチップがいつものようにあることを手触りで確かめて、ようやく安心できた。
 男はそんな彼女に構わず、クロノグラフに視線を落としながら続けた。
「噂通りまるで航空兵気取りなんだな、パワーローダーに乗ってる奴は。現地時間に合わせることもしない」
「そんな……」
 否定しきれずアニタはほぞを噛んだ。時差くらいは位置を求める時に無論考慮に入れたはずだったが、疲労に混濁した意識のうちにミスをしなかったのかと思うと、確信は持てなかった。
「どこかといわれてもな、あの川に名はついていない。ずっと下流に行けばナガ川だがね。とりあえずここはホルダンからは三十キロ、それとも二十マイルっていった方がいいか」
 航空兵はマイル表示を使う。
「ふん」
「元気が出たじゃないか」
 次にチャンが差し出したのは火であぶった青鱒だった。
「この辺りで摂取可能な蛋白源はこれだけだ」
 ひったくるようにそれを奪うアニタに、チャンは笑いながら、ゆっくり食えといった。
 笑われようが、アニタは空腹が押さえがたかった。小骨も肝も構わず一緒に咀嚼して、頭と尾鰭だけにしてしまった川魚を散らかした自分がどう見えているかなど、彼女は気にしていられなかった。
「元気だな。飯が食えないようじゃ駄目だと思ってたんだが、大丈夫だな」
「……私のために?」
「タバコ持ってやしないかと」
「ごめんなさい」
 アニタの一言に、ジアスの戦車兵は目をむいた。彼女も口走ってしまってから、自分の言葉に驚いていた。
「と、とにかく、水と食糧ありがと。だけど煙草なんて吸わないわ。おあいにくさま」
「骨折り損か」
 愚痴る男はまだ笑っていた。アニタにとっては相変わらず意味の取りにくい曖昧な笑みだった。その表情のままで男はいった。
「俺は捕虜か?」
 虚を突かれ、アニタは答えられなかった。
「まあいいさ。食い終わったら寝ろ。一人で歩こうなんて思うな」
「ちょっと、あんた」
「勘違いするな。何するってわけじゃない」男は手のひらを見せて丸腰だというジェスチュアをした。「それにお互いひどい臭いしてるぜ、きっと」
 くっくっと声を立てて笑うと彼は横になり、いくらもしないうちに寝息を立てはじめた。
 男の態度は腹立たしく、また合点のいかないことが多すぎたが、アニタもそう長くは気を張り詰めてはいられず、じきに眠りを受け入れた。

「きっかけは……」
 だが、その眠りも浅く、夜明けまでに何度も起きた。眠ったかと思えば夢の続きだった。
「きっかけは……」「知り合いが戦死したって聞かされた時に」「慰問先でね、みんな喜んで聞いてくれていた。拍手してくれた。だけど、それで、それでいいのかって」「音楽は人の心に残るのよ、譜面じゃなくて。でもね、じゃあその人達が、ついこのあいだ私のチェロを聞いてくれた人達や話をしたような人達が、何人も何人も死んでいくような時に」「志願したの、抑えられなくなって」
 夢でチェロを弾きながら、アニタはライザに告げていた。
「抑えられなくなって。後悔はしてない。自分で決めたんだもの」


 アニタの疲労は一晩では回復しなかった。右足の痛みはむしろ悪化していた。差し出された水筒に這うようにして手を伸ばすとき、薄笑いを浮かべた男の視線は彼女にとって屈辱だった。
「いい飲みっぷりだがな、水汲む方のことも考えてくれよ」
 そういうチャンに色々と問いたださねばならないことがアニタにはあった。しかし衰弱した自分に目の前の男が素直に答えるかは疑問だった。
「川までは、遠いの?」
「遠くはないが、少し上り下りしないといけないんでね」
「じゃあ、昨日の魚も」
「そこで釣ってここに持ってきた」
「なぜ?」
「あんた、動けんだろ。俺もあんたを抱えるほどの体力はない」
「そんなことじゃないわ。なぜなの?なぜ私を?」
「なぜって、なあ」
 突きつけるべき銃は既に捨てていたので、チャンに笑って言葉を濁されるとアニタにとってはそれまでだった。
「人は人の側にいたがるもんだろ」
「それだけ?」
「そう」
 男の言葉が本心かどうか、確かめる術はなかった。
「……あんた、ドールズだろ。サンホセでは出ていたかい?」
 しばらく続いた沈黙をチャンが破った。
 アニタは顔を背けた。肯定したということだ。
「あの時は俺の小隊では俺の戦車しか残らなかった。まあ、元々定数揃ってなかったんだが、それでも四輌あって」
 男の右手の指が四本、三本、二本、一本と折り曲げられていくのを、アニタは黙って横目で見ていた。
「いいようにやってくれたもんだ」
 男は火の跡を枝でつつきながら喋り続けた。
「人形に乗って高い所から見下ろす戦車ってのはどう見えるもんなんだかな。カモにしか見えないんだろうな。戦車のキューポラからパワーローダー見上げると、あれは何とも胃に悪い眺めで」
 憮然とするしかないアニタ。
「仰角とれないポジションつかれると、載せているのが百二十ミリだろうが百五十五ミリだろうが、こっちはもうどうしようもない。だから空挺降下するローダーなんて見ると、ぎゅっと胃がよじれる。こいつはいけねえ、もう駄目だってな。ローダーってのはタバコ以上に胃に悪い。旨くないんだよ、何でか知らんが。戦場のローダーっていうと敵のやつばかりなんだ。味方のローダーに助けてもらったって記憶が俺にはあんまり無い。一回だけだ」
「そんなこと……私に聞かせて楽しい?」
「聞いてくれよ、最後まで」
「ふん」
 吐き捨ててそっぽを向くアニタの背後からチャンの笑い声が追いかけた。
「何よ、そんな埒もない恨み言聞かせるためにわざわざ介抱したってわけ?いいこと、私は求められることをやったまでよ。それよりあなたの方こそ、やるべきことをやってないわ。私には交戦規定に乗っ取った捕虜としての正当な扱いを受ける権利がある。少なくとも精神的拷問を受けるいわれなんて、私にはこれっぽっちもないのよ」
「あっははは」男の笑いは更に大きくなった。
「そうか。あんた、捕虜のつもりか」

 チャンの言葉が咄嗟にはアニタは理解できなかった。笑い続ける男の顔をまじまじと見るうちに、しかし一つの答えは出た。慄然とするものではあったが。
「あたしを……どうする気……」
 アニタの問いに答えず、チャンはのそりと立ち上がった。アニタは思わず身を硬くしたが、少し離れて男が拾い上げたのは釣り竿だった。
「例によって釣れるのは青鱒だが我慢してくれ」
「どうする気よ!」
「鱒で我慢して貰うのさ」
 笑いながら竿を肩にかついでチャンは歩いていった。殺気のかけらもうかがえなかった。釣人といわれれば、そうに違いない後ろ姿だ。
 だが信じるわけにはいかない。アニタは自分が女であることをこの時ほど恨めしく思ったことはなかった。
 死人に口なし。体力の衰えた今の自分は男にとっていつでも死体にできる。そしてその前に何かしようと思えば、それを邪魔するものなどいない。端からジアス軍の部隊に連行する気などないのだ。そうに決まっている。そもそも自分が川であの男と出くわした時に最初に考えたことが、殺すかどうかだったではないか。同じことをあの男もにやにやと笑う裏で考えているに違いない。いや、それ以上のことを考えているから笑っているに違いない。
「そんな……そんなこと、させるか、ちくしょうっ」
 見ればアニタの杖にしていた枝は手の届く所にあった。クロノグラフさえあった。投げ出されたクロノグラフは地衣類にめり込んでいて、表面は汚れてぬめっていたが、我慢して左手首にはめた。
「あんたみたいな、裏切り者の、なすがままになんて、なってたまるか」
 杖つきながら、アニタは歩き出した。


 同じことの繰り返しだった。アニタは意識を取り戻すと、夕闇の中、自分の目の前で火が燃えていることに、チャンが枝を折っていることに、暗澹とした。
「よう」
 男の軽薄に響く笑い声が、彼女はもう我慢ならなかった。
「何のつもりよ、この卑怯者っ!」
「俺を罵るのはいいがな、少尉さん」チャンは首を上に傾げてアニタの背後を見上げていった。「そういうあんたは、あの岩の上から足を踏み外してここで無様にのびてたんだぜ。元気なのは結構だが、そんな足で闇雲に動くもんじゃない」
「何よっ、そもそもあんたが」
「水だ」アニタの言葉を遮って、チャンは水筒を突き出した。「鱒は釣れなかった」
 アニタは出された水筒を払いのけた。
「飲まないのか」
「裏切り者から施しなんか受けないわ!寄らないでよっ!」
「……裏切り者、ね」
 チャンは肩をすくめた。目を細めた彼の顔は、アニタにはせせら笑っているようにも見えた。その表情のまま、彼は着ているジャケットから豹の部隊章を千切り取った。
「これならどうだい」
 男の手から放られた部隊章はそのまま火の中に落ちた。アニタは吐き気さえした。
「あんたって人は……一体どこまで腐ってんの……」
「死に損ないに堅いこというな」
「殺せるもんなら、あんたみたいな奴は一秒だって生かしておかないわよ」
「俺はあんたに生きてほしい」
 チャンは転がった水筒を拾って、今度はアニタの足元に置いた。
「だから飲め。飲まなきゃ死ぬ。あんたはこの苔のことを知らんようだが」
 地面から地衣類をむしると、男はそれをアニタの目の前に突きつけた。
「デハイドロモス。空気中の水分はみんなこいつに奪われちまう。ここは土壌改変が終わってないんだ。わかるか、これは原生種だ。この山の中はまだ原始のオムニなんだよ。テラフォーミングされたのは川沿いだけだ。それも計画されたものじゃない。独立戦争中に放棄された水質管制所が暴走して有機剤をぶちまけた副作用さ。魚がいるのも、だから上流だけだ。下流は逆にかなりの範囲が富栄養で滅茶苦茶にされちまった」
「あなた……」
「そして戦争が続く限り、ホルダン一帯は川以外は原始のままだ。ほったらかしだ。雨に見放されたこの地方では苔が水源なんだ。こいつが無ければ川は干上がっちまう。しかしだ、こんなものがある限り、耕作なんぞはとても出来やしない。あんたも見たろう、苔はびっしり生えていても、それ以外はぽつぽつと背丈にもならない木が生えているだけだ。ここを本格的にテラフォーミングしようと思ったら、少なくとも表土を替えるまでは局所気象操作が絶対に必要なんだ。そんなことは戦争中はまず無理だろうがな。どう操作しようと一方に戦術的優位をもたらす。そして必ず相手がそうはさせじと邪魔をする。そうだろう、少尉さんよ」
 まくしたてる男の口調から嘘を聞き取ることは出来なかった。
 アニタは地衣類に覆われた地面を撫でてみた。空気が乾燥しきっているのに、強く押せば確かに湿り気がある。彼女は指先に付いたそれを口に含んだ。舌が地衣類のかけらに直に触れてしまい、瞬時に強烈な苦味が口腔を充たして、彼女は激しく咳き込んだ。
「干からびたくなかったら飲むんだ、飲め」
 チャンは水筒の口を開けて、さあとばかりに彼女に突き出した。
 気圧されるようにアニタはそれを受け取り口を付けて傾けた。ゆっくりと喉を動かすと、目の前の男は笑った。
 作り笑いと思えなかった。
 何のために笑ってるの、韜晦の微笑、逃避、虚勢、それとも拒絶……。
「あなた……オムニリングよね……」
「だったらどうするよ」
「ここの出身なのね」
「それがどうした」
「この苔のこと詳しいのね。仕事は何、土壌設計、それとも水質管理?」
「pH維持だ。気温で苔から出るイオンが微妙にずれる……」
 しゃがみこんだアニタが両手で持っていた水筒を取り上げると、チャンは一口含んだ。
「ずれてる?」
「まさか。舌でわかる程じゃない、僅かな変化の調整だ。米作可能にするためにはそれが必要だった。有機剤が撒き散らされた後じゃ意味の無いことだが」
 投げ出された水筒からの数滴の水が地衣類の表面を濡らした。濡れて変色した部分は目にそれとわかる速さで水分を吸収し、また乾燥していった。
 肩を揺らして男は笑った。

「水、ありがと」
「苦かったろ、デハイドロモスは」
 チャンは明日の準備のつもりか釣り竿代わりの枝をいじっていた。
「もう一度聞くわ、あなたこの山の中で何してるの」
「釣りだよ」
 銃を突きつけて尋ねた時と変わらない答えだった。だがアニタがそれから導き出した結論は前回とは違った。
「テラフォーミング未完の山中で自活しつつ時機を見て脱出。そういうことね」
 男の口の端がかすかに歪む。
「そうでしょう、脱走兵」
 アニタは惑わず、それを肯定と取った。
「ホルダンに部隊を追及中というのは嘘。最初に川であった時、あなたは既に脱走兵だった。ここは土地鑑があるから逃げ切れると踏んで部隊がホルダンに移動となった時に脱走した。そうでしょう」
「あんたには関係ない」
「あるわ。あなたは知ってるんでしょう。サンサルバドルに通じる二十六号線への出方を。お願い、教えて」
「サンサルバドルに、その足でか?」
「発振機の作動可能域までよ」
「無理だな」首を横にするチャン。
「這ってでも行かなきゃいけないのよ」
「這って行けば死ぬ。二十六号は簡易航空基地建設の資材搬路に指定された。警備が厳しくなっている。五体満足でも無理だった。今のあんたは論外だ」
 チャンは自分の背を手で叩いて見せた。アニタは川で見た彼の傷を思い出した。
「案外俺を探すために憲兵が増強されたかもしれない」
 そういって男は己を脱走兵だと認めた。
「悪いことはいわない。警備が手薄になるまでは山にいた方がいい」
「それって、どれくらい先?」
 チャンは首を横に振ることでその問いに答えた。アニタもそれが一下士官が知り得る情報ではないことはわかっていた。この脱走兵のプランに従うならば長期の潜伏を覚悟しなければならない。
 だが彼女には別の危惧もあった。はたしてジアス軍がホルダンとそれに連なる街道の警備で事足れりと考えるだろうか。ホルダン奇襲作戦から既に四日目、参加兵力が第一七七特務大隊による攻撃であると露見しているのは確実だった。状況から見て自分以外にも乗機を捨てて脱出し山中をさ迷っている仲間がいるだろう。そしてこの状況は一方の当事者であるジアス軍も当然掴んでいることだろう。
「憲兵じゃ済まないかもね……」
 アニタのつぶやきに、チャンは眉を寄せた。
「その簡易基地って、垂直離着陸機はもう使用可能なの?」
「コンテナ抱えたヘリが往復しているって話だった」
「まずいわね、無人機でも飛ばされたら丸見え」
 アニタは空を見上げた。作戦当日は低く垂れ込めていた雲が嘘のような星空だった。彼女にとって呪うべきもののリストに新たに天候が加わった。手ぶらの彼女にとっては赤外線以上に可視波長がやっかいだった。空からの監視は文字通り穴にでも入らなければごまかすことは出来ない。
「……あんたにはそれだけの価値があるってことか」
「山狩りだってあるかも。それだけの人員はホルダンにいる?」
「さあ」
 チャンがホルダンに移動する前に脱走したのであれば、これも知り得ないことだった。
 その晩、彼は火とアニタとに背を向けて寝た。彼女は男の寝入ったのを確かめてから寝た。


 悪夢あるいは膝の痛みからアニタは何度か眠りを破られたが、チャンがその場を去る時は寝入っていたらしく、彼女は何度かの目覚めと同時にくすぶった灰の向こうに男の影が消えていることを認めた。
 動く気になれなかった。諦念と微かな期待を抱きつつ、彼女はその場に居続けた。
 日の出から一時間ほど経ったとき、チャンはそこに戻ってきた。
「二匹だった」
 川魚と粗朶を携えた男の足取りは頼りなかった。以前からそうだったかもしれないが、アニタは初めてその事実に気付いた。彼にしても食事の量はろくなものではない以上、通常の健康状態ではなくとも不思議ではなかった。
 だがこの男を利用しない限り自分は絶対に脱出できない……。
 目の前の炎がアニタを思考の海に沈みこませていた。
「一曹」何度か口篭もってしまったが、彼女は階級でチャンを呼んだ。
「何だい」
「……協力してほしいの。二十六号線が駄目ならそれ以外で南東へ抜けるルートはわからない?」
「険しすぎる」チャンは断じた。
「その……協力してくれたら……そう、あなたの身分については保証してあげられる。自由市民としての社会生活がおくれるわ。戦災基金給付資格だって何とかなる」
「随分偉いな、少尉さん」
 アニタは男の言葉に含まれている刺にも気付かず説得を続けた。
「もし万一、市民カードが満点で発給されなくても、わたしの出来る限りのことはするから、だから」
「ジアス従軍歴有りは公民権審査じゃあ厳しいだろ」
「将校を救出。立派な軍功よ。帳消しになるわ」
「軍功ね」
 チャンは興味無いという顔のまま頭の後ろに手を組むと、地衣類に覆われた地面に身を横たえた。アニタは彼の髭面を覗きこむようにして頼んでいた。
「ねえ、あなたにとっても悪い話じゃないはずよ。政府軍に保護された方が……」
「条件がある」
 チャンはアニタの言葉を遮り、着ているジャケットをつまみ上げて部隊章を引き剥がした跡を彼女に見せつけた。
「俺はやめた」
「何を」
「やめたんだ。あんたはまだ戦争中だろうが、俺はやめたよ、軍隊も、戦争も。ジアスもオムニ政府も俺にとっては大差ない」
 自分の属する組織を反政府武装勢力と同列に扱われるのはアニタにとっては心外だったが、今は協力をとりつけることが先だったので、反論するのは思いとどまった。
「だから俺は政府軍の世話にはなりたくない」
「どういうこと?」
「かなり距離を損することになるが、十キロほど南のアビハオ峠を回りこめば二十六号に配置されている警備兵も少ないだろう。そこまではあんたを連れていく。その先は俺は行かない。助けを呼ぶなり這って歩くなりしてくれ。これが不服ならここでおとなしく魚でもかじっていろ。案外その方が長生き出来るかもしれない」
「……それであなたはまた山に戻るの?」
「そうする」
「それでいいの?」
「そうだな、ジアスの兵隊が山の中さまよってるなんて政府軍に通報しないでくれるか」
「そう……」
 チャンにとってこれではメリットの無さ過ぎる取り引きであるように思えたが、アニタは彼が政府軍を都合の悪い存在とする理由の詮索は手控えた。
「それでいいわ。行きましょう」

 アビハオ峠。標高二千二百メートル、二人のいる場所からは南南西、直線距離では五キロも離れてはいない。ホルダンから放射状に伸びている尾根の一枚をまたいだ所である。
 しかしアニタはチャンの肩を借りてようやく歩ける程度だったから、本来ならば半日あれば充分なはずの行程であっても、日のあるうちに終えられそうになかった。眠るには峠の近辺や稜線近くは避けたかったので、二日かけて峠を下方に回りこんで街道を抜けることとした。これはジアス側が山頂近くの基地への戦闘ヘリの配備を既に終えていたという事実を知らない二人にしてみれば、現実的な妥協案と思われた。
「容器はこれだけだから」
 チャンは水筒一本をかざした。これで二人二日分の水であった。
「汗をかかずに歩かないといけない」
 前夜より、空には雲一つ無い。
「それは無理だと思うわ」
「痛みに歯を食いしばるのを止めるだけでもずいぶん違う」
「モルヒネでも持ってるの?」
「……そうだな、無いな」
 チャンがアニタの左手を自分の肩に回す。アニタは右足の痛みに顔をしかめたが、辛うじて男にうめき声を聞かせずに立ち上がった。
 杖に体重をかけて左足を踏み出す。次に右足、引き摺るようにして、一歩。この繰り返し、繰り返しているうちに街道沿いの警備兵の目もかわせるはず。山を下りて、助けを呼ぶの。みんなに、また、会える。そして、もう一度……
「済まない」
 出し抜けにチャンにいわれた言葉の意味がアニタにはわからず怪訝な顔をした。
「鎮痛剤は撃たれた時に使った」
「……あなたが謝ることじゃないわ」
「ああ」
 男が例の曖昧な微笑を浮かべてアニタと目を合わせた。その髭面が彼女は前よりは気に触らなくなっていた。そしてそういう自分に気付いて、彼女は内心ひどく慌てた。
 それからほとんど口をきかずに二人は歩いた。アニタの方には問いただしたいことがまだあったのだが。彼女が無言でいたのは気まずさもあったが、それよりは口をきくだけの気力が無かったというのが真実に近い。やがて彼女の視線が足下に落ち、息が大きくなっていた。
「休むか?」
 チャンがそういったのは昼を回った頃だった。
 わずかに肯くアニタを見て男は肩を傾けて、彼女を下ろした。アニタはそのまま全身の力が抜けたかのように地面に身を投げ出した。
 一帯にはそれこそ地衣類しかなかった。日陰になるような起伏もなかった。褐色の地衣類に覆われた、だらだらとした斜面。空からではどんな間抜けな無人機でも見つけられるだろう。
「あつ……」
 だがそんな心配をする以前に、陽射しがアニタには堪えた。
 傍らに腰を下ろしたチャンが水を出した。ただし水筒の蓋に注いだ分だけだった。
 温くなったその水を口に含む。これだけかと思うと、アニタは一瞬嚥下するのをためらってしまったが、ゆっくりと喉を動かした。
 チャンが飲んだのも蓋一杯分だけだった。

 そのチャンの目を細めた奥の心がアニタは急に知りたくなった。
 目の前の男は何を笑っているのだろうか。私の不満気な顔か、それともまともに歩けない私の非力さか。まさか今になってジアスに私を売るというなら、私のお人好しさ加減か。
「私の顔、何か付いてるの」
「あア?」
「さっきからじっと見て」
「あっはは、付いてるかっていったら、そりゃ埃だらけだし垢だらけだし」
 私って、はぐらかされてばっかり。
「お互い様でしょうが」
「違いない」
「ねえ」アニタは笑おうとした。疲労のせいか、ぎこちない。「釣り、得意?」
「ん、ああ」
「戦車と比べたら?」
「ああ……釣りの方がいいな」
「よかった」
 何いってんだろ、私。
 でももしこの男の乗ってるMBTが照準にのったら、私は引き金を引けるかしら。
 サンホセでは出来た……。
「あなた、志願兵?」
「おいおい、そんなこと聞いてどうする」
 そうね、聞いたって仕方ない。
「私は志願した。前の戦争の時にね。それからずっとパワーローダー」
 こんなこと、喋ったって仕方ないのに。
「だからね、戦車兵の気持なんてあなたのいうようにわからないけど、でも、志願したのを後悔するくらいの状況はしょっちゅう。胃が痛くなる思いも何度も」
「戦車相手にでもか」
「そうよ」
「サンホセでは」
「……背後を取られた時は覚悟したわ」
「逃げちまえ」
 チャンはつぶやく。
「逃げちまえばいい。政府軍からもジアス軍からも」
 アニタは首を振る。
「あんたは戦争中か」
「出来ることをするの。カザルスみたいな生き方は、私には似合わないわ」
 意外にもチャンは六百年前の地球時代のチェリストを知っていた。
「『故郷カタロニアの鳥はピース、ピースと鳴く』だろ。反戦運動ってのも結構だとは思うがな」
「それじゃ戦争は終わらないわ」
「どうやったって終わらないさ」
 チャンが立ち上がった。
「歩くぞ」
 彼は腕を取ってアニタを立たせて支えた。
「夜は歩けん。日のあるうちに進むんだ」
 二人とも自分達がどういう栄養状態にあるかの自覚はあった。夜目など効かないのだ。
 日没まで歩いた。だがアニタの足はほとんど力が入らなくなっていたせいか、次第にチャンにもたれかかることが多くなっていった。そのため予定していた距離を歩くことは出来なかった。
 途中、かすかな断続的な破裂音が二人を立ち止まらせた。アニタはそれがまた自分の耳鳴りのせいではないか、そうあってほしいと願ったのだが、チャンも彼女と同時に立ち止まってその音の方角に頭を向けた以上、耳鳴りでは有り得なかった。
 耳鳴りや幻聴でないのならばローター音を聞いたことになる。
 音は十数秒ほど続いて、それきり跡絶えた。
「近いのか……」
「どうかな。気流次第で遠くからでも聞こえることがあるが」
「逆も有り得るわ」
 日中の気温は高かったが日没とともに肌寒さを覚えるまでに下がった。だが暖を取るための燃料はなかったし、そもそも遮蔽物のない所でわざわざ人体以外にも熱源を作ることは危険すぎた。
 ともかくも、残りは無理すれば一日行程。街道を南に抜けることが出来れば、政府軍のピックアップチームの活動可能範囲に入る。渇き、飢餓感、そして足の痛みに耐えながらアニタは浅い眠りを取った。


「へえ、やってるやってる」
 個室が与えられるのは将校以上だった。アニタがライザの部屋でチェロの調弦をしていると、ライザが顔を覗かせた。お互いシフトオフだが第三装のままであった。
「弦を張り替えたの。まだ馴染んでないけど、聞いてみる?」
 セミロングのスカートはいささかチェロを弾くには向いていない。少なくともライザが見た所、見栄えはしない格好だった。もっともアニタはそれを気にしているようではなかった。
「ほんと、嬉しそうね。このチェロそんなに気に入った?」
「そりゃあせっかくライザが署名偽造してま……」
「だあーっ、ちょ、ちょっと、声が大きいっ」
「防音だって」
「いーや、わかんないわ。このあいだなんて、ちょっと時間見つけて部屋でフィルム見てたら、すかさずヤオがね『ヒマそーじゃないかあ、詳報まとめるの手伝って』って、あれは絶対タイミングよすぎるわ」
「気のせいだって」
 アニタがそっと弓をあてる。
 弦が揺れ、胴が響き、柔らかな音が二人を包んだ。
 ここが無骨な内装の兵舎であることを忘れさせる音だった。
「ねえ、アニー」
「なあに」
 アニタの左手はペグをいじってピッチを合わせている最中。
 その手を見下ろすライザ。自然、座っているアニタと目が合う。
「軍楽隊とかは行こうとは思わなかったの?」
「あれブラスでしょ」
「オーケストラもあるじゃない。アニーだったら即採用よ」
「そうね……」
 ピッチを加減していた手を止めると、アニタはライザの視線を避けるように俯いてつぶやいた。
「軍楽隊なんて考えなかった」
「……だったら、音大生と軍ってあんまり接点ないんじゃない」
「うん、まあね……」
 自分の膝の上に置いた弓が揺れるさまを見つめながらアニタは続けた。
「慰問ということでね、最前線じゃないけど、ある部隊で演奏したことがあって」
「へえ、チェロが聞けるとこなんてあったんだ」
「あの時、周りから軍楽隊みたいじゃないかって、どうしてそんなことするんだっていわれた。大学ってね、ライザのいう通りあんまり軍とか警察とかに馴染みがなくって、だから皆が軍の依頼に協力的なわけじゃない。実は私、あの時はあまり深く考えずにバイトのつもりだった。そうね、OKした人はみんな軽い気持で、反戦集会とかに出ていた人達の方が色々深刻に考えていたかな」
「……でも今は、」
 ライザの両手がアニタの左手を指板の上で包んでいた。
「でも今は違うんでしょ……軽い気持ちのままここまで来たなんていわないでよ……」

「そうよ、今更逃げたりしない」
 薄明、アニタは目を覚ましていた。
 乾燥しきった空気の中では視界はかなり遠くまで開ける。東の尾根裾の方角は白々とした空と山肌との見分けが既につき始めていた。
 首筋に貼り付いてしまった髪をはらおうとしたが、さすがに手櫛は容易に通らなかった。自分では体臭はわからないが、少なくともチャンのいう通りほつれた髪は埃だらけだし体の汚れもひどい。
 独立戦争が一応オムニ側の勝利に終わってから経済が混乱の度を深めるにつれ慈善病院の利用も出来ない最底辺のホームレスが増えていった。自分の今の外見は服を除けば彼らとさして変わらないのではと彼女は思った。
 いえ、軍服姿の浮浪者も多かったわね……。
 独立戦争後のジアスとの戦闘が始まる前、今にして思えば実に短い停戦期間でしかなかったがともかくも社会不安の発露が小さな抗議集会の段階であった時、勲章を並べた制服を着た凍死者が街頭に発見されたというニュースが報じられたことがある。この時のマスコミの報道姿勢は二つに別れていた。これはそのままオムニ連合政府とジアス、二つの勢力のスタンスの違いに継承されていった。
 チャンは逃げろという。どちらからも。
「逃げないわよ、私は」
 胸元をさぐる。ペンダントとIDチップ。それをきつく握り締めると砲火に友を失った時の無念が甦ってきた。入隊後はそれを敵愾心に転化することを覚え、凄惨な戦場の中に戦意を保つ術とした。ペンダントを胸に押し当ててアニタはつぶやいた。まだ戦える。
「起きてる?」
「ああ」
 アニタのもたれている岩の背後からチャンの答えが返ってきた。
「行きましょう」
「疲れはとれたのか」
「まさか」
 アニタは笑った。彼女は自分のその顔が、かっての彼女であれば意味の取れない東洋的な曖昧な表情だと考えていたものと同じ種類のものだとは気付かなかった。
「行きましょう。あなたが山に戻るというなら尚更早く出発した方がいいでしょう」
「そうだな」
 水を一口。そしてチャンの右肩を借りてアニタは立ち上がった。

 それが聞こえたのは正午になろうとする頃だった。
 ローター音。
 街道を見下ろす位置でパトロールのパターンを見極めようとしていた二人は音の聞こえた方角を見上げたまま凍り付いた。
 ぬけるような青空、何も見えない。
 その一方で途切れることなく続いているローター音。
「あんたの迎えか……」
 チャンが尋ねたがアニタは唇を噛んで首を振った。
 音は少しずつ大きくなるようであった。それが音源の接近を意味するのか、それとも気流の気紛れに過ぎないのか。
「急げ」
 その判断をする前に二人は動き出した。
 戦闘ヘリは戦車兵にとってもパワーローダー搭乗員にとっても理屈抜きの恐怖を呼び覚ますものであった。チャンもアニタもパニック寸前だった。
 二人は転がるように、実際アニタは何度か手を付いて、斜面を下りていった。
 舗装された路面に出ると地衣類の上よりもかえってアニタの膝には堪えた。そしてまた別の音が聞こえた。ディーゼル音。つまり軍用車。
 二人は街道の屈曲点ではなく遮蔽物のない直線状の見晴らしの良い場所で立ちすくんでしまっていた。何故ならパトロールの車を発見しやすいようにその場所を選んで街道を監視していたからだ。決してここから突破しようと考えていたわけではない。一日余裕を持ったのも、そもそも日没前後にあわせて突破するためであった。白昼、警戒網の直中に身を晒すためではない。
 全て裏目に出てしまった。
「何してる。速く」
 チャンに引きずられるようにしてアニタは足を前に出す。一歩一歩が骨に直に響く。奥歯を噛み締め額に脂汗を浮かべながら歩く。歩くしか出来ない。走れない。道を横切ると再び地衣類に覆われた斜面を登る。更に歩みは遅くなる。
 もう疑いようもなかった。空からの音は山頂方向から稜線沿いに下ってきていた。二人の視界に機影が認められた。対パワーローダー戦闘用に特化された精悍なシルエットではなく兵員輸送任務も兼ね得る形式のやや胴の膨れたものだった。それがいやになる位に機敏に飛んでいた。
 地上からは歩兵戦闘車だった。上部ハッチを開け、搭乗員の一人が上体を覗かせていることが見て取れた。褐色迷彩の車両はそれほど急ぐでもなく、しかしまっすぐ二人の方へと進んでいた。急ぐ必要はないのだ。二人のうち一人は杖をついてびっこをひいているのだから。
 間もなく歩兵戦闘車からの連絡を受けたのかヘリが針路を変えてアニタ達に向かってきた。
 アニタに聞こえる音の全てがその五翅のローター音だけになった時には、機首の三十ミリバルカンの照準も完了していた。ホヴァリング中の機からライフルを抱えた兵士が一人、二人と出てきた。
「腹這いになり、両手を、広げろ」
 拡声器からの割れた声。
 チャンがアニタの手を離す。
 アニタは杖にすがり体を支える。
 彼女ががくりと左膝をついた時、しかしチャンはジャケットの内の左脇から拳銃を取り出していた。駆け出し、引き金を引くチャン。撃てたのは一発だけ。次の瞬間にはジアス兵の単発で放ったライフル弾に眉間を撃ち抜かれたチャンの体が宙に浮き、そして地衣類に覆われた地面に落ちる。
 アニタはそれを呆然と見るしかなかった。


 這うように死体に近づくアニタを脅威にはなるまいと見たのか、ジアス兵は止めなかった。ヘリもいつの間にか接地してエンジンを停止していた。
 アニタは弾痕の穿たれたチャンを間近に見た。
 頭部貫通、即死だった。
 そうでなければこの笑っているような死に顔をどう説明すればいいだろう。
 目を開いて仰向けになったチャンはまるでぼんやり空でも眺めているかのようだった。
 そんな彼の死体の右手に握られている銃はアニタが捨てた銃だった。
「どうして……」
 アニタの頬に涙が伝っていた。
 そしてのろのろと銃に手をのばしかけた時、さすがにジアス兵がライフルを構え直してアニタに警告した。
「動くな。その場で腹這いになり両手を広げろ」
 いわれるままにアニタは伏せた。すぐ側にはチャンの頭部があった。後頭部からは確かに脳漿と血とが流れ出している。その下の地衣類が赤く染まっている。
 だが変色した地衣類はほんの僅かの面積だった。歩兵ではないアニタも頭を撃ち抜かれた場合の出血の量は実際に見て知っていた。派手な血溜りができるであろうに、目の前のチャンの死体にはそれがなかった。
 それが何故なのか、アニタは自分の涙が地面に落ちるのを見て理解した。
 デハイドロモス。
 チャンの言葉の通りだった。水分を奪う苔。それは血だろうと涙だろうと貪欲に吸い取ってしまう苔だった。

 アニタの周りを取り囲んでいた兵士達が踵をあわせて敬礼した。伏せているアニタにも軍靴の種類が違うことがわかった。敬礼の相手は副官を連れて歩兵戦闘車から降りてきたジアスの憲兵少佐だった。
「確かに連絡のあった脱走兵だ。射殺してしまったのは遺憾だが……」
 チャンの死体を見下ろしていた少佐は一人の兵にアニタを立たせるよう指示した。
「こいつはそれを補って余りある。ご苦労だった」
 野戦服ではなく憲兵の制服の少佐に、副官が耳打ちした。すると少佐は一瞬きょとんとした表情になったが、すぐにその顔を引き締めると、両脇をジアス兵に抱えられているアニタを見据えた。
「官姓名を名乗れ」と少佐はアニタにいった。アニタはうなだれたまま答えなかった。
「まあいい」
 失礼と一言いうと、少佐はもうその手にアニタの首にかけられていたIDチップとペンダントをむしり取っていた。
 次に咳払いをして胸のポケットから簡易端末を取り出し、それに表示されているところをアニタに向かって読み上げた。
「貴官はただいまより捕虜である。貴官の安全は二千二百年一般平和条約の定める所により可能な限り保障される。貴官は拷問及び身体的圧迫下に強要される利敵行為からは自由である。以上をパネー根拠地防衛司令に代わりここに宣言する。陸軍少佐ブライアン・クルーガー」
 更に少佐はうつむくアニタの鼻先にその端末を突きつけた。だが腫れ上がったアニタの右足に気付いてか事務的な口調を崩した。
「負傷しているな、お嬢さん。移送は車にしよう。衛生兵も乗っている」
 その言葉にヘリから降りた兵士の一人が不服そうな顔をするがもちろん憲兵少佐はそんなことは気にしていない。
「そんなに怯えることはないぞ。ヒルトンとはいわないが、ちゃんと交戦規定の基準を満たした収容所がある。階級に見合った扱いがされるし担当官には女もいるんだ、安心しろ。何か聞いておきたいことはあるか」
 アニタは顔を上げると焦点の定まらない眼差しでその少佐を見やった。ややあって彼女はぼそぼそと口を動かした。
「あ、何だって?」
 聞き取れなかった少佐は耳に手をあてる。
「……苔の名前よ……」
「ああ?」
「デハイドロモス。何もかも吸い取ってしまう苔。両軍全ての兵士の血が吸い取られた時に戦争は終わるのよ」
 少佐はアニタのつぶやきの意味がわからず副官の方を向いたが、副官も肩をすくめるだけだった。アニタが何をいっているのか、もしわかる者がこの場にいたとしても、その人物は既に死んでいる。
 唯一少佐にわかったのは、脱走兵の死体と目の前の捕虜とが妙に似通った笑っているとも受け取れる表情をしているということだけだった。

 end


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ver 1.0
98/05/27
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