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たき火

 私が小さい頃、父はよく庭でたき火をした。
 ついでに焼き芋を作ってくれたことも、たびたびあった。そのうちの何度かは、かじったら生焼けだったりしたのだけれど、それもちゃんと焼き直してくれた。
 今はもう集めた落ち葉を燃やすこともない。火曜と金曜の燃えるごみの日に出すだけだ。父がたき火をしなくなったのがいつかはわからないけれど、私も現金なもので食べ物の方ならよく覚えている。
 最後の焼き芋は十二年前の記憶になる。

 私は大学生になる。
 二度目の受験シーズンが昨日終わった。
 第二志望の不合格通知を昨日受け取って、けさは久しぶりにゆっくり朝ごはんを食べてから、たったひとつ受かっていた学校へ入学金の残額を納めに出かけた。
 窓口の職員が一万円札を数えるその指先が動くたび、高木有美は浪人生から大学生へ近づいていった。
 この大学は、私の家からバスで三十五分。
 国公立でなければと言い張っていた父はともかく、母は私に一人暮らしをさせなくてすむと喜んでいた。あるいは無理に喜ぶ理由を作っていた。
 三月中旬、コートを着てきて正解なくらいで、桜はまだつぼみだった。
 でも、これから、花粉症の私には憂うつな季節になる。
「もしかして、高木さん?」
 事務の窓口がある棟から正門までは、ちょっとした桜並木になっている。その寂しげな桜の枝を見あげているとき、声をかけられた。
 マフラーにうずめてた首をそろりとひねると、高校では同級生だった江田くんが後ろに立っていた。
「あ、江田くん……ちがうね、江田先輩、だね」
「え、んじゃーなに、高木さん、ひょっとして四月からここ通ったりするん?」
「そ。よろしく」
 と、笑ってみる。
 今の江田くんは両耳ピアスをあけて、髪は後ろでしばっていられるくらいまで伸ばして、しかも茶色。どれかひとつでも、高校の時なら生活指導の教師に怒鳴られて校門で追い返されていただろう。
 私はというと、たぶんセーラー服を着てコートを学校指定のものにするだけで、もぐりこんでも怪しまれない。それくらい、変わっていない。
「へえー」
 江田くんの声は間延びしている。
「意外?」
「んー、そりゃまー、高木さんがってなるとねー。学部どこ?」
「文学部」
「ふーん」
 抑揚のあまりないせいか、ことさら間延びしていると意識してしまう声。
 だというのに、これは特質というか、人徳というのか、とにかく江田くんならこういわれても私は怒る気にならない。高校の頃からなのだけど、馬鹿にしているようにも、さげすんでいるようにも聞こえない。それが、知り合い程度の、親しすぎない友達という間柄のせいならば、それはそれで心地いい。
 だから、このままで、いいだろう。
「桜」
「ん」
「去年も、ここにあったの?」
「あー、高木さん、去年うち受けなかったん?」
「うん」
 私の声は、江田くんには、卑屈になっているように聞こえているのだろうか。
「去年の新入生歓迎コンパ、それがさー、ちょうど桜が散る頃だったなー。なんか、俺ってあっというまに潰されちゃって、あんま覚えてないんだけどなー、花びら散りまくって汚かったってのは覚えてるよ、うん」
「ふうん……」
 私も、来月には新入生ということになる。
 楽に単位の取れる授業リストというのがあって、それは江田くんのいる経営学部と私の文学部とでほとんど重なるそうなので、それを電話で教えてもらうことになった。
 ただ、江田くんは、自分の電話番号を教えなかった。人づてに聞いたことだけれど、彼は一人暮らしをしているはずだ。
 私は違う。だから私の電話番号は高校の時の名簿に載っているものがそのまま使えて、そこにかければ高木家にかかるので、でもたぶん江田くんは親が出るかもしれない番号に電話なんかしないだろう。だって、どう見たって、電話の相手に不自由しているふうではない。
 俺これからバイトなんで、そういいながら江田くんは大学の裏門の方角へ足早に消えていった。
 腕時計を見る。十一時半。これから始まるアルバイトってなんだろう。
 あたりを見まわすと、まばらな人影が、なんとなく流れらしきものを作っていた。
 その先には学生食堂があった。江田くんは、そこでは昼を食べないでアルバイトをするということなのか。
 これから何度となく使うであろう食堂に入ってみた。
 コーヒーとサンドウィッチで税別三百円。安いといえば安い。
 壁の一面はガラスで、私が外で見あげていた桜も、並び全体がよく見わたせた。もうすぐ、季節になれば、綺麗なながめになるのだろう。ガラスのこちら側にいれば、私だって、くしゃみをせずに花見ができるかもしれない。食堂内の自販機にはビールもあるけど、これは花見のためなのだろうか。
 お酒や煙草も覚えた方がいいのだろうか。

 入学手続きをしたとき、いろいろなものを手渡された。
 その中の、大学生活のしおりなる題のついた冊子をめくった。
 コンパでお酒を無理に飲まないようにしましょうと書かれていた。
 コンパでお酒を無理に飲ませないようにしましょうと書かれていた。
 外食に頼らないようにしましょうと書かれていた。
 アルバイトは節度をもってしましょうと書かれていた。
 悩みがあったら学生課の窓口に相談に来てくださいと書かれていた。
 私は大学生になる。
 キュウリのサンドウィッチと香りの抜けたようなコーヒーがその証拠だ。私は四月には大学生だ。学生証用の写真も撮った。そこに写っているのは高校生の頃とぜんぜん変わり映えのしない重苦しい長い髪の高木有美でしかないけれど、横三センチ縦四センチの枠に合うように切り取ったその写真が貼られた名刺サイズの紙が私の身分をこの先四年間保証する。
 コーヒーを飲んだ。ぬるかった。苦いだけだった。
 学生課にコーヒーの味の苦情をいいにいこうかと思ったけれど、テーブルの上に置かれた十センチほどの高さの三角形の紙の柱に、苦情を持っていく先が別に書かれていた。メニューについて意見のある方は生協ポストに遠慮無く投書してくださいね、そんなセリフを私の知らない漫画のキャラクターが喋っていた。
 ああ。
 止めた。

 正門まで続く小道に桜は合計二十六本あった。片側だけだと十三本で、縁起という点ではどうかとも思ったけれど、これも学生課に相談することではないのだろう。
 桜を数えると、それでもう疲れてしまった。
 だから出た。
 出てすぐがバス停で、そこで待つ。十分。バスが来た。乗る。
 定期券を買わないと。
 受験に来たとき、受験からの帰りのとき、そんなことは考えもしなかった。試験慣れするため、滑り止めのため、だから通うなんてこと想像できなかった。馬鹿な受験生もいたものだ。もう私は受験生じゃない。浪人生じゃない。大学生だ。
 涙が出た。
 花粉症だ。
 満開の桜並木、きっと私は涙を流しながら、慣れないお酒で酔っ払うのだ。
 そして、だれか男の子と、ひょっとしたら江田くんと、きゃあきゃあ騒いだりもするのだ。もう私は大学生。ヒステリー気味の生活指導の教師なんていない。チョークの粉を撒き散らしながら板書する予備校講師と会うこともない。
 三十五分揺られて、家に最寄りのバス停へとたどりついた。
 通学時間帯なら、もうちょっと余裕をみておいた方がいいかもしれない。

 父は会社勤め、母はパート、私は先月までは予備校通いで来月からは大学に。平日の、こんな時間に私ひとりが家にいるというのは、たぶんこれからも滅多にないことだ。
 玄関先には、一週間前まで使っていた参考書だのなんだのが縛って置いてある。私がやった。ゆうべ、思いついて、衝動的にやってしまった。
 そのせいなのか、自分の部屋は、なんだかがらんとしていた。
 ここにまた、四月からは、いろいろなものが増えていくことだろう。
 テキストとか辞書とか。そうだ、第二外国語を決めないと。江田くんにもっといろいろ聞いておけばよかった。
 辞書を買って、お酒飲んで、それから。
 いろいろ、やってみよう。
 何も思いつかないけど、思いついたことからやっていこう。
 意気込んで予定表まで作ってやってきた一年の結果がこのざまだ。もうそんなもの作らない。
 まずは、思いつきの第一を実行すべく、父の部屋に入った。
 我が家でライターがあるのはここだけだ。
「借りるね」
 テレビの上に、灰皿と並んでライターがあった。

 庭の中ほど、こころもち芝の薄くなっているところがある。
 小さい頃は、そこで父がするたき火の炎を何度も見た。いつしか私は見なくなり、そしていつしか父はたき火をしなくなった。
 参考書の束は五つもあった。受験産業に栄えあれ。その場所に積み上げて、ライターを寄せ、火をつける。
 めらめらと燃えた。
 束がばらけて、崩れて、ページの端が丸くなりながら灰になっていった。だけどそこにあるはずの炎がはっきりとは見えなかった。さすがに真っ昼間にたき火をしても風情は出ない。それを私はしゃがんでながめている。
 頬がほてった。
 足元にこぼれた燃えさしは、真っ黒にはなっていたけど、鉛筆の書き込みがまだ読めた。
 それを取ろうとして、さわって、当然のことなのだけど、指先で粉のようになって散ってしまう。指紋のあいだにすり込まれてしまうほど小さくなった灰のつぶ。
 見あげると、二階の高さくらいまでは煙らしきものを見分けることができた。その中を、ときどき小さな灰が舞っていた。
 ほてった頬に涙がしみていった。
 花粉症だ。
 これは単なるたき火。燃やしてるのは使い古した参考書。そんな煙を見あげるだけで涙腺を刺激されてしまうのは、きっと花粉症のせいなのだ。
 とりかえしのつかないことをしてしまった、とりかえしのつかないことなんてあるものか、そんな考えがさっきから頭の中をぐるぐる回ってしまっているのも、紙が灰になるという元には戻らない化学変化を目の当たりにしているから、それだけのことなのだ。
 やがて全部が燃え尽きてみると、私の顔は、涙とそれにこびりついた細かい灰で、大変なことになってしまっていた。

 end


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2000/03/09
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