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 ゆらり、そんな三文字がぴったりくる。
 なにしろ帆足マリエは長身である。授業中に船を漕ぎまくったあげくようやく岸に戻ってきて突っ伏していた机から上半身を起こすさまは、ゆらりの三文字がぴったり当てはまる。
 だから目立つ。
 よって、洞木ヒカリにすれば、居眠り最中より寝起きの方がマリエの印象としては強い。

「よく寝るねわよえ、マリエも」
 中学生にもなって、という言葉が後に続くようなヒカリの発言にマリエがいいかえせないでいると、
「寝る子は育つっていいますし」
 フォローしてるのかしてないのかよくわからない山岸マユミの呑気な合いの手が入って、これにもマリエは何とも答えようがない。ので。
「ちょっと、眠かったし」
 眠くないのに寝るヤツはいないが、ここはそういう問題ではない。話が外れかけるとヒカリはすぐに戻したがる。
「だからって眠いから即寝るっていうのも珍しいんじゃない」
 相変わらずヒカリの言葉尻には、中学生のくせに、というのがちらついていた。
 休み時間ごとに何となく集まり何でもないような話をするグループはこの中学二年のこのクラスでもいくつかあるが、この三人もその内の一つ。
 放課後はこんな具合になる。
「何か食べに行かない?」
 誰ともなくいいだして、お互い頷いて。
 この三人に限ったことではないかもしれないが。

 マリエは鯛焼きを尻尾から食べる方だったが、他の二人に先んじて、さあアタマの部分を残すのみっ、というときになって今日のマユミはその横でこんなことをいいだした。
「マリエさん、図書の仕事やってみませんか?」
 生暖かいつぶ餡と一緒にマユミの言葉を咀嚼するマリエ。二度ほど噛んで。
「ほひょ?」
「ええ、図書」
「だいじょうぶなの?」
 ヒカリは心配そうな声を上げる。ヒカリは口にものを入れたままでは喋らない。
 マユミとマリエ、名前がちょっとだけ似ている。雰囲気はもうちょっと似ている。どちらも所作や顔立ちがおっとりしている方である。人によってはノロマシスターズという。姉妹とすれば体格の面ではマリエが文句無く姉だが、わりとぱっちりした目鼻立ちのマリエより細いフレームの眼鏡をかけているマユミを姉と見る人間もいるかもしれない。
 三姉妹とすれば、役回りからして長姉はヒカリだ。やや栗色の長い髪をゆるくまとめたマリエ、ストレートの黒髪のマユミに比べて、お下げ二つというヒカリの髪型は見様によってはいちばん子供っぽく見えるのだが、根の心配性なヒカリは意識せずともそういう位置にいる。なんだかんだで学級委員長までしている。
「どんなことするの?」たずねたのは、鯛焼きをのみこんだマリエでなくヒカリ。
「返却された本を棚に戻したりとか、新しい本が入ったらインデックス作ったりとか、そういう作業ですけど」
「ふうん」
「なんだか最近さぼる人が多くって」
「えっ、図書委員ってさぼってもいいの?」ヒカリにとっては、そういうところがまず気になるらしい。
「いいってわけじゃあない……と、思います、けど……」マユミはしばし、いいよどんだ。「でも、そういえば罰則とかって無いですね。司書の先生もあんまり厳しくないし……」
「そっか、野間せんせいだしねえ」
 なげかわしいナメられてるんだわ、学級委員長洞木ヒカリはこう考える。が、マリエはそこに達するまでに、まだ段階が必要だった。
「野間せんせい、って、ずっとまえ朝礼でしゃべった若白髪の人だっけ?」
「そうですよ」
「野間せんせい、は、図書の仕事しないの?」
「しませんよお」
「どうして?」
「どうしてって、それは、そういうのは図書委員がやる仕事だから」
「マユミちゃん、仕事だからやってるの?」
「私は、そういうんじゃなくって、好きだから」
「野間せんせいは嫌いなのかなあ?」
「ええっと……」
 そんなことまでマユミは知らない。一方、ずれた議題を修正するのはヒカリのおはこである。学級委員長の経験のなせるわざ。
「そんなことよりマリエ、あなたそういうのを好きになれる?」
「野間せんせいを?」
「図・書・委・員」
 スタッカートになってヒカリが修正した甲斐あってか、マリエも合点したようだ。
「うん、好きになれると思う」
「じゃあ、やってみませんか。試しに明日にでも」
「うん」
 マユミとマリエ、二人してにっこり笑った。
 マユミは、これで作業の負担が減るかな、とか考えて。
 マリエは、図書室だったら寝られるかな、とか考えて。

 三人の通う学校の図書委員は責任も権限もあまりない。別に選挙で選ぶわけでなし、好きな人間がなんとなくでやる、そういうものである。
 そんな人間が集まるのが図書委員。それでもさぼるヤツは出てくる。そういうものである。
 マリエの図書委員初日というのは金曜日で、返却棚には三十冊程度が並んでいた。マユミにとってみれば少ない日だ。一人でも軽く捌ける。連休明けの火曜日はこうはいくまい。
「じゃあ、マリエさんは四百番台までの本をお願いします」
 マユミは三分の一ほどをマリエに任せることにして、ワゴンも譲ってやった。本を乗せたキャスター付きのワゴンをごろごろと押していって、背表紙に貼られた番号シールで決められた位置に本を戻せばそれで終わりである。マユミはワゴンを使わなくとも経験的に最短作業工程を算出できるので、そのぶん速い。
 両者とも所用時間十分。
「簡単なんだね」
「簡単なんです」
 あとは基本的にカウンターに座っていればいい。貸し出し手続きといっても個人カードと本に貼ったカードにあるバーコードにリーダーを当てるだけである。
「簡単」
「でしょ」
 カウンターの裏側というのは、けっこう珍しいものがあった。記入され束ねてあった購入希望図書申請用紙なるものを見つけるとマリエは一枚づつめくっては、ふうん、とか、へえこんなの読みたいひといるんだ、とか声を上げ、マユミもそれに付き合ううちに笑い声を上げたりした。図書室相応の小声でではあるが。
 そしてマリエはうとうとしだし、閉館時間前の二十分ほどをまどろみの中で費やした。
 ヒカリを欠いた下校途中、マユミはクレープ屋に寄ることを提案した。マリエさんは鯛焼きよりクレープのはずよね、それもカスタードじゃなくてクリーム系の……、こんなことを考えながら。
「ストロベリーふたつ」マリエにいわせず注文したマユミは、「今日はたすかりました」と付け加えて、マリエの分まで代金を持った。
 鯛焼きは尻尾からのマリエも、さすがにクレープの上下をさかさまにして先っぽから食べたりはしない。
 マユミは、マリエのクレープの先っぽが口に入る頃を見計らってたずねた。
「来週からもやってくれます?」
「うん」

「ええっと、ふたつ下さい」
 二皿、十六個でもこのデパートのタコ焼きはけっこう大きめなんだし、三人でもこれで足りるわよね……。
 というヒカリの予想は外れた。
「よく食べるわねえ、マリエ」
 ヒカリの声に非難のトーンが混じる。今日の代金は三人で割り勘なのだ。
「寝れなかったし」
 八個目に楊枝を突き刺しながらのマリエの答えは、そのままではヒカリには解釈不能だった。
「今日はちょっと時間かかっちゃったんですけど、マリエさんのおかげでこれでもだいぶ助かったんですよ」
 マユミは嬉しい顔を隠そうとしない。ほくほく、という音まで聞こえそうだ。タコ焼きの熱さのせいもあるだろうが。
 火曜日の放課後、図書室の返却棚には二百冊ほどが鎮座していた。そしてこういう日に限って借りる人間もなぜか多い。どちらかがカウンターに座っていなければならず、それはマユミがこなした。マリエはワゴンを押しながら図書室の通路すべてを塗りつぶすように動き回った。
 早めに済ませてのんびり座っていようというマリエの目論見は二日目にして外れたのである。
「えーと、つまり、居眠りできないほど働いてお腹すいたってこと?」
「うん」
 はくっ、と八個目を頬張りながら、マリエはヒカリに頷いた。
「居眠りできないほど図書委員の仕事が忙しかったってこと?」
 頬張っているため、無言で頷くマリエ。
「ということはひょっとしてマリエってば居眠りするために図書委員になったってこと?」
 もぐもぐ。
「それってなんか違くない?」
「違いませんよ。大助かりでしたし」
 ヒカリの疑義に代弁したマユミは結果論を振りかざした。ついでに。
「もっと食べます?」
 三皿目を追加しようとしたマユミに、さすがにマリエは首を振った。眠そうな目で。

 帆足マリエの図書委員生活も二週間が過ぎた。
 その短いあいだに、やってらんないわよ級の忙しさも、ゆっくりねられる級のヒマも体験した。ちなみにマユミの奢りは最初の三日ほどで終わっていた。
「今日はすいてるね」
 と、図書室のカウンターに頬杖ついたマリエは、となりのマユミに眠そうな声でいった。
「そうですね」
 マユミは文庫本をめくりつつ短く答える。図書室のマナー。
「ふゅ……」
 それはかすかなあくび。それが聞こえると、カウンターに置いてあるペン立てやらカードリーダーやらを、マユミはさりげなくどけてやる。空いた平面にマリエの上半身が沈没するまで二分か三分といったところ。特にこの日は、寝ぼけまなこでいるところを教師に指されてしどろもどろということがあったので、マリエ基準でいえばマリエ睡眠時間は不足しているはずである。
 もう一度マユミの指がページをめくるのと、マリエの上下の瞼が重なるのは同時だった。
「ごくろうさま」
 小声でひとこと。図書室のマナー。そしてマユミはしおりを挟む。
 閉館時間まで一時間弱、本を読む以外にも最近のマユミはすることができていた。マリエの寝顔を眺めることだった。ゆるくまとめたマリエの長い髪が肩から前にこぼれているときは、それも傾けた顔の前に投げ出すようになっているときなどは、まるで尻尾で体を包むように丸くなっているリスのような可愛げあふれる寝姿となる。体格からすれば子ギツネくらいはあるが、たとえキツネ眼でも寝てまでキツネ眼のままでいられる人間は多くないし、そもそもマリエの愛敬のある顔はキツネ眼というくらいならタヌキ眼に分類した方がいい。タヌキではあんまりなのでリス。それがマユミ分類である。
 マリエが寝られるような日というのは、貸し出し件数も多くない日であるので、つまりカウンターに余人がほとんど寄って来ないという状況でもある。それはマユミにささやかな独占意識を芽生えさせることにも繋がっていた。このリスちゃんはワタシのよ。
 けっこう危ないかもしれない。
 予鈴が鳴って、本鈴が鳴って、者共さっさと下校せいというアナウンスがあるまで、マユミはその寝顔を見ていられる。そしてそっと肩をゆする。ゆらり、マリエが起き上がる。その日の日誌はマユミが寝顔鑑賞のかたわら端末に入力済みなので、あとはもう帰るだけ。
「帰りましょ」
「うん」
 頷くマリエのうるんだ寝ぼけまなこを見ると、マユミは嬉しくなる。

 司書教諭であるところの野間先生は、実はあまり図書室には来ず、奥の書庫に引っ込んでいることが多い。
 書庫というのは、正しくは補修室。痛んだ本の表紙を補強したり綴じを直すための一画だ。とはいえそもそもそんなに蔵書量も無い中学校の図書室、実質は書庫、というよりは物置になっている。主に教材資料など、生徒に開架する必要も無いだろうと教師側が教師側の都合で判断したものが保管してある。そこで本の補修などせずお茶を飲むのが野間先生の仕事である。
 たまに、図書委員もそのおこぼれにあずかることができる。
 紅茶にケーキなら大人気だったろうが、緑茶にお煎餅というところでポイントを落としている。もっとも、三十五にしてすっかりロマンスグレーという容貌には、似合っているかもしれない。
「帆足さんは」ばり。「本は好きな方なのかな?」ぼり。
 野間先生、若白髪のわりにといっては失礼かもしれないが、歯と歯茎は丈夫。マリエは目の前でばりぼりと煎餅をかじる若白髪がなぜ図書室に出てこないかがわかった気がした。だって、うるさいよ。
「そんなに読む方じゃないですけど」
 書庫には野間先生、マユミ、そしてマリエ。下校を促すアナウンスが十分ほど前に鳴り響いているが書庫にはスピーカーは繋がってないので、ああ遠くで鳴ってるなあ、と聞き流そうと思えば聞き流せる。それに状況からして教師公認。
「私がお願いしたんです、図書委員」と、マユミ。
「そうか。仲いいんだ」ばりん、野間先生、煎餅なみに薄っぺらい所感。
「はい」否定するべきことではないので、マリエは生返事。
 わたし、本って好きなのかな?
 斜めに差し込む夕日のせいでか、湯呑みからのぼる湯気がくっきり見えていた。本が好きってどういうことだろう、ふわふわとまるで湯気のようなぼんやりした疑問がわく。
 好きな本を読むのは好きだけど、それってたぶん違うよね。
 ちらと横のマユミを見ると、なんですか? そんな微笑を返される。
 マリエは両手で湯呑みを包むように口元に持っていき、ふう、と吹いた。乱れる湯気もよく見えた。
「まゆ……えと、山岸さんほど本は読みませんけど……」
 お茶のにおいと本のにおいが混じると、なにやらマリエは眠くなってきた。それをマリエ流に翻訳して、以下の表現になった。
「でも、図書室は好きです」
 マユミの顔が緩やかにほころぶ。野間先生は煎餅をばりん。

 ゆらり、マリエが起きる。これで今日の授業はおしまい。そういえば今日は図書の日。
 そういう日、マユミとマリエは連れ立って教室を後にするようになっていた。ヒカリはその教室で学級委員長的雑用がなんだかんだと待っているのでついていけない。
 そういうなんだかんだを済ませたヒカリは、がらんとした教室で天井を見上げて長い息をつき肩まで叩いた。かなりオバさんくさい。
 いつもならこのまま帰るところだが、この日のヒカリはオバさんくさかった。雑用疲れがそうさせたのか、人恋しさ半分、好奇心半分、教室を出てからは図書室へと歩いていた。どうせなら閉館時間までいよっかな……。
 マユミには図書室手前の廊下で出くわした。
「あれ、マリエは?」
「マリエさんなら……」
 ここでどうしてマユミが困ったような表情を浮かべたのか、ヒカリにはわからなかった。
「いないの?」図書室の扉を指差すヒカリ。
「いますけど……」と答えるマユミの位置は、ヒカリの行く手をはばむようにも見えた。
 だが、まさかそんなことはあるまいと、ヒカリは通ろうとする。
「あの、ヒカリさん、声出さないで下さいね」
 道をゆずる際にマユミのいったことは、ヒカリにすれば図書室に入るときのいわずもがなの注意に過ぎなかった。
 そこに別の意味も含まれていたことには、貸し出しカウンターを見て、ようやくわかった。
 マユミはいたずらっぽく笑った唇に人差し指を立てて交差させ、沈黙のジェスチュアを示すと、ヒカリをカウンターの内側に案内した。
 その位置からは、手枕して首を傾げているマリエの寝顔がよく見えた。
 いつもなら髪をまとめてあるゴムがなく、波うつ髪は背中に流れている。ほんの少しだけは肩から首筋に。ひとすじだけは口元に。
 寝入ったマリエの髪からゴムを外したのは実はマユミ。乱れ髪の演出も実はマユミ。
 かすかなマリエの寝息にあわせるかのように、ヒカリの声もささやき声になっていた。
「見てるこっちまで眠くなるくらい気持ちよさそうな寝顔ね」
「でしょう」
「授業中もこんなふうに寝てたのかしら」
「さあ」マユミも、授業中までは鑑賞してない。「でも、ここの方が寝心地いいんじゃないでしょうか」
「なんで?」
「このあいだマリエさん、図書室が好きって、そういってくれたんです」
「そっか」
 お気に入りの寝室で、お気に入りのベッドで眠ったら、人間誰しも幸せよね、ヒカリはそんなことを想像した。
「じゃあ、今は、図書室の夢でも見てるのかな」
「そうかもしれませんね」
 さらにヒカリは想像してみる。夢の中の図書室で眠りこけてしまうマリエ、当然そこでも図書室の夢を見て、その中でまた寝てしまう。夢が夢を呼ぶ、どこまでも夢の中。それはとても、とてもとても、
「幸せな夢ね」
「そうですね」
 起こすなんて野暮はしない。
 二人はやさしく見守っていた。
 目の前の妹の寝顔を。

 end


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ver 1.01
1999/10/11
copyright くわたろ 1999