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 歌奈を抱いたことを、知裕は後悔していない。
 夜空が白々と塗られて、否応無くその日が来たことをひとり思い知らされても、後ろめたさや、やましさという類いの感情は湧いてこなかった。
「俺は、歌奈を、愛している」
 唾をぬぐい、涙を振り払うと、知裕は身支度をして家を出た。
 歌奈はこの日を家族と共に過ごすといっていたが、知裕の家族は終末騒ぎが持ち上がった時には海外にあったためその頃から音信不通だった。
 ひとりには慣れていた。
 慣れていたはずだった。

日曜の過ごし方

 その日、耕野知裕は遠回りになる繁華街をぬける道を選んで、高校へと向かった。
 道すがら見る街の様相は、この二ヶ月の変化の終極とでもいうべきもので、予想通りではあった。
 死相、という単語が知裕の脳裏ではじけた。
 街並みが世界の終わりに先駆けて死んでいるのだ。
「死……」
 ふと、声が出ていた。
 もっとも、それを聞きとがめる人間はいない。既に街は死んでいる。略奪者さえ見当たらない。
 知裕は、無軌道な行為に走る人間が、いよいよこの段階になっていなくなったということの理由を思いつくまま挙げていった。自警団がまだ動いている、奪うものが無くなった、この日になって最後に良心が勝った、単に飽きた、めんどくさい、それから……
 風が通り過ぎる。
 梅雨明けの生ぬるい風は、人の息吹を思わせた。
 ならば、死の間際の弱々しい呼吸ということになるのだろうか。
 知裕にはわからない。
 知裕は死者を見たことも、死を看取ったこともない。

 校門をくぐる。
 いつもなら、ひとりランニングを続けている瑞沢千絵子の姿が、この日はなかった。
 そのランニングをぼんやり見つめているはずの、自称詩人、松原の姿もない。
 知裕が怪我で陸上を断念したのは、終末騒ぎの前のこと。千絵子とも先輩後輩という付き合いはない。
 あるはずのものを欠いた状態というのが死相ならば、知裕はふと思った、俺の顔ってもう穴だらけだな……。
 校舎の中にも人の気配はない。
 世界の終わる日であるせいか、日曜日であるせいか、それともその両方なのか。
 ときおり風の通り抜けるだけの無人の空間は、無人であるということならば逃げるように出てきた家と同じなのだが、知裕にはいくぶん心地よく感じた。
 理由は、わからない。
 なぜか笑いたくなった。
 同時に、笑いを抑えていた。
 この状態は笑声一つでこなごなに崩れてしまうのではないか、そんな気がした。
 そして教室に入り、自分の席に座る。
 笑わず、怒らず、静かに目を閉じる。
 眠りは訪れず、かえって神経は鋭敏になった。眼鏡をかけたままでいることにまで意識が向いた。
 右手が放り投げた眼鏡が黒板に届かずに教卓のあたりに落ちて音を立てるさまは、裸眼であるためにぼやけて見えた。
 風が通り過ぎる。
 昨日、学校の戸締まりに手抜かりがあったらしい。知裕がやってきたとき無人の教室の窓はそのいくつかが空いており、そのせいで床や机が砂っぽい状態だった。
 風が通り過ぎる。
 目を閉じる。
 何を見るわけでもない。
 そもそも、眼鏡を何のためにしてきた。
 なぜ、この教室の、この席に座る。
 くだらない理由が、否定しきれない感情が、いくつもいくつも通り抜けていった。
 知裕は通り抜けていくままにさせていた。
 でなければ、空いている窓から一足先に飛び降りていそうで。

 乾いた音とともに、扉が戸袋へとおさまった。
 その直前の足音はとらえていたから、知裕にとって驚きは少ない。
 ただ、そこに立っていた少女が、キュロットにタンクトップといういでたちの大村いろはであることには、意外な気がした。
 いろはは窓際の列に座る知裕を認め、ついで床に落ちた眼鏡に目をとめると、それを拾い上げながらいった。
「耕野くんの?」
 問うまでもなかった。知裕の顔に眼鏡がない。
「それ、もういらない」
「なんで?」
「いまさらって、そんな気がするんだ。なんとなく」
 いろはは、くすりと笑った。
「そうだね。ぜんぶ、いまさらな日だね」
 そして笑いながら、知裕の眼鏡をつまむように持ってそれを窓の外につき出して、じゃあ捨てるよ、といった。
 お互い、探るような視線が数秒交わった。
 いろはの腕が手元に戻った。眼鏡もまだそこにあった。
 知裕の声が低くなる。
「……からかってる?」
「捨てないでくれって顔だった」
「俺が?」
「かけたら、眼鏡。かけなくてもいいけど」
「どっちなのさ」
「どっちでもいい日」
 いろはは、緩く笑った。
「もうすぐなんだよね」
 知裕には心なしか、いろはが普段よりも多弁になっているように思えた。この二人でいる場合、どちらかといえば話しかけるのは知裕の方である。
「もうすぐよね……」
「大村さん、うれしそうだ」
「そう?」
「そう見える」
「どこらへんが?」
 おどけるように眉を曲げたあと、いろはは手を広げてバレリーナのようにつま先立ちでまわって見せた。うれしそう、どころではなかった。表情の乏しいいろはを見慣れている知裕は狂ったのかとも思ってしまったが、微笑をたたえるいろはの瞳には少なくとも狂気の光は見出せない。
「体に悪いんじゃない」
「これくらい、いいのよ」
「だけど発作が起きたら、もう」
 学校の保健医も頼れないと知裕が指摘する前に、いろははいいきった。
「だから、いいのよ」

 知裕は稲穂歌奈を抱いた。
 小柄な歌奈が自分の腕の中を泳いでいたとき、知裕はたしかに歌奈を捕らえたと思った。
 これから訪れる終末へのどうしようもない不安を吐露していた歌奈の心をつかんだと、そう思った。
 星座早見盤の扱い方を教える歌奈のにおいが自分の肌にも残っていることが、気恥ずかしくも嬉しかった。一緒に星空を見上げ、望遠鏡の視野に霞のように広がるアンドロメダを二人で交互に眺めている間、知裕の心から終末の影は失せていた。
 そして終末の日の朝。
 体を重ねた余韻は残っていた。
 歌奈のあどけない笑顔も、強がりの笑顔も、涙目の笑顔も、キスの笑顔も、記憶に鮮明だった。
 そのすべてが今日のこの日のためにあるのなら。
 知裕は寝床を跳ね起きて便所に駆け込んだ。吐くためだった。星空晩餐会などといいながらゆうべ歌奈と食べたサンドイッチのなれのはてが便器に落ちていった。吐くものがなくなると胃液だった。吐き気は止まらなかった。酸っぱさに耐えているうちに胃液が途切れ途切れになった。最後は涙と鼻水だった。
「俺は、歌奈を、愛してる」
 知裕の肩の揺れが便器をつかむ手を伝わったのか、濁った水が揺れた。

「体は正直、だね」
 いろはは、知裕の胃が空腹の抗議を主張するや、知裕に反論の隙を与えずにいってのけた。
「んなこといったって」
 わずかに赤くなりながら、知裕は朝から胃の中身を空にしたままであったことを思い出した。
「あさごはん、大村さんは食べたの?」
「食べた」
「家族の人と?」
「そう。普通通りに、普通通りの」
「それなら、その、そのまま家族一緒にって、そうするんじゃないか、普通」
「散歩」
 世界の最期を吹き抜ける生ぬるく湿った風が通り過ぎる。
 いろはのショートカットの髪が乱れた。
 知裕に風は止められない。
「いいのか」
「親が揃っていうの、あまり遠くに行かずにって」
「だったら、もう帰った方がいい」
「耕野くん、ご両親とは離れてるんだよね」
「知ってんの?」
「歌奈からね、聞いた」
 いろはの、緩く笑みをたたえた表情は変わらない。
「歌奈、耕野くんのこと話しているとき、嬉しそうだった」
「会ったの?」
「電話。ゆうべ、じゃなくて今日になったあたりかな。不通になる直前。もう携帯じゃなくても駄目になってる。知ってた?」
「……知らなかった。まあ、かける相手もいないし」
「歌奈には?」
「歌奈ちゃんは……」
「電話でね、歌奈、こんなこといってた」いろはは、おそらく最後になるであろう歌奈との会話の内容を、風に吹かれながら話し出した。「祈るって。どうにもならないことかもしれないけれど、それでも祈らずにいられないからいっしょうけんめい祈るって。どうか世界が終わりませんように、耕野くんの分も私の分も、一緒にお願いするって」
「歌奈ちゃんらしい」
「うん」
「だけど大村さんはさ」
「なに?」
「祈ってないだろ」
「どうかな」

「クール・ミュージック・ウィ・プレイ、ダンス・アンド・セイ」
 ささやくように歌いだすいろは。
 記憶をたどりながらなのだろうか、とつとつとした歌いだしだった。
「カーニバル・トゥサウザン」
 その息の細さに、知裕は、いろはが先天性の心臓疾患であることを思い出していた。
「ライヴズ・カム・アンド・ゴー、バット・ライフ・ノー・ディナイアル」
「イズ・オールウェイズ・イン・スタイル」
「ウェルカム・トゥ・カーニバル・トゥサウザン」
「ラヴズ・カム・アンド・ゴー、バット・ラヴ・アバヴ・オール」
「イズ・ベル・オブ・ザ・ボール」
 砂っぽい教室に、風にかき消されそうなささやき声が続く。
「カーニバル・トゥサウザン……」
 なにかを祈るように。

「なんて歌?」
「西暦二千年を楽しんじゃえっていう、カーニバル・トゥサウザント」
「能天気」
「でもないんだけど」
「歌じゃなくてさ、大村さんが、いい方悪いけどやっぱり能天気っていうか、その、少なくとも俺はそんな気分じゃない。やっぱり死ぬのは怖い」
「怖いよ、私も」
「だからさ、うまくいえないけど、こう、怖いの種類が違うんだ」
「そう。私も、歌奈も、耕野くんも、みんな違う」
「それでどうして歌うわけさ?」
「散歩の途中で学校の側まで来て、それでなんとなく入ってみたら律義に制服着た耕野くんがいた。だからおかしくって、カーニバル・トゥサウザント」
「そんなもんなんかな」
「そう思えた」
「へえ……。ライヴズ・カム・アンド・ゴー、の後、なんだっけ」
「ライヴズ・カム・アンド・ゴー、バット・ライフ・ノー・ディナイアル・イズ・オールウェイズ・イン・スタイル」
「人生行ったり来たり?」
「違うってば。ええとね……“生まれて死んで、だけど生きることまで無かったことにはできないさ、そいつはいつもスタイリッシュ”だいたいこんな意味かな」

 歌奈は祈り続けているという。
 いろはは歌をくちずさみつつ家へと戻っていった。
 知裕に家は無い。
 眼鏡を拾い上げる。
 ぼやけた世界が元に戻った。
 死相を呈していた街並みを思い出す。いよいよ訪れるという終末を前にした悪魔の饗宴とも天使の祝祭とも対極の静寂。ついに人類は迎えられない西暦二千年のカーニバル。
 風は止まない。
 風に押されるように教室を出てみると、廊下も下足所も、うっすらと砂が積もっていた。そんなことにいまさら気づくのはなぜだろう。眼鏡をかけたせいなのか。
 校庭に出てみれば、トラックの白線が消えかかっていた。
 世界が霞んでゆく。それでも世界は知裕を圧倒した。再び知裕の胃が蠕動した。唾と胃液が少量、足元の土の色を変えた。
 この瞬間まで胃液を作り続ける自分の肉体に驚きつつも、知裕は折り曲げた体を戻して空を見上げた。
 雲が切れ切れに浮かんでいる。
 風は止まない。
 終末の日。
 何もかもの意味が霞んで消えてしまうその日、どこまでも人間でいたいと、そう思いながら、知裕は最期の疾走を開始した。

 end


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ver 1.01
1999/10/11
copyright くわたろ 1999