僕は外、彼女は中。
現実はシンプルだ。乗り越えられない場合は特に。
僕が乗り越えられないもの、立場とか常識とか、しがない平の研究員って身分とか。
彼女が乗り越えられないもの、それは壁。生まれてこのかた羊水の中にいる彼女を取り巻く透明なクリスタル。平面の縁にあるわずかなその曲面は、裸で漂う向こう側の彼女を艶めかせてやまない。
「おはよう、あやなみ」
ガラスを挟んだコミュニケーション。乗り越えられない僕を尻目に、声帯から出た空気振動はマイクを勃起させ、感じちゃったマイクが周波数をずらした喘ぎ声をあげて、発生した水中波は羊水の中の綾波レイの耳に届く。いつも通り。
「おはよう、いかりくん」
逆順。僕は聞く。壁の向こうの彼女が生み出した水中波を感じ取ったマイクの奏でる合成音。脳味噌のどこかが勃起せずにはいられない。
いつだったか、ペニスまで勃起した。
精液は壁を越えられなかった。
ガラスの壁をたれる精液と、にっこり笑う彼女の顔が重なった。
あれから僕は不能だ。
僕は越えられそうに無い。
綾波レイ。
僕の天使。
もちろん僕には一から遺伝子マップをこしらえる才能も、卵割から二ヶ月の微妙な期間を順調に成長させるという能力もない。なかった。しなかった。
ガラスの内側で育つ彼女を眺める以外に僕がしたのはたった一つ。
綾波レイ。
声に出さずにもう一度、綾波レイ。
この名前を付けただけ。
綾波レイ。
自分の考えたこの名前、酔った。
「あやなみ」
と、呼ぶ必要は、本来無い。
人工進化研究所で彼女とコミュニケーションをとるのは、その担当であるところの僕一人。考えてみるといい。彼女にしてみればこの世には自分を含めてたったの二人。そんな二人に名前は要らない。君と僕、それだけで事足りる。
「あやなみ」
「なあに」
「あやなみ」
「なあに」
越えられない。
僕は天使じゃない。
あやなみ、と呼ぶたびに、天使ならざる一介の研究員である碇というこの男は、クローン実験体、コードeva-00を、所有する。綾波レイ、なんと甘美な僕だけの言葉。僕だけがeva-00を綾波レイと呼びうるこの甘美な事実。あやなみ、そう呼ぶことで、彼女は彼女の名前だけでなく、僕の名前を、僕個人を、必要も無いのに否応無く意識させられるはず。そのために何度も何度もあやなみれい。
そういえば、射精した時も、あやなみ、と叫んだ。
「あやなみ」
「なあに、いかりくん」
「きれいだね」
いつも通りの綾波レイ。ちょっといつもと違うけど、それも初めてのことじゃない。
経血の処理をすませて、彼女は少し憂鬱そう。
「あやなみ」
「なあに」
「気分は」
「ちょっと……」
後で鎮痛剤を処方するように生体維持機能担当者に頼もう。
「あやなみ」
彼女、視線をうつむかせる。
睫毛の下の瞳の光が、羊水をくぐり、ガラスを通って、やってくる。
「きれいだね」
僕の脳味噌の中で、どこかがまた勃起する。
怪我一つ、病気一つしたことの無い、することの出来ない彼女。雑菌一つ無い彼女。
一度、担当者に聞いたことがある。
彼女はセックスは可能かと。
笑われた。
そもそも彼女は外に出たら死ぬようになっているんだから、セックスはできなくて当たり前だ。
受胎は可能かとも聞いた。
笑ったその人がいうには、仮にインサートできたところで子宮内で免疫機構が作動して精子は残らず死んでしまうだろうよ、とのことだった。そういう、念の入った設計らしい。
でも、不能の僕にはぴったりじゃないか、あはは。
「おはよう、あやなみ」
「おはよう、いかりくん」
神よ、我らに祝福を。
そういえば彼女に神の概念を教えていなかったけど、それでむくれるような狭量な神様でもないだろう。そもそもヒトにこんな実験を許しているくらいだし。
神よ、彼女に祝福を。
福音がガラスの壁を越えられないというならば、僕が代わりに伝えればいい話。僕は彼女のインターフェイス。僕の上を素通りしていく情報の数々。肉体面、精神面、eva-00のあらゆる反射。それにこそ価値がある。と、されている。実験対象、観測対象のeva-00。僕はそれを見つめる色眼鏡。
ただの、観測の、道具。
道具自体には何も期待はされていない。
してみれば、僕とeva-00は似ている。
僕と綾波は、似ている。
やっぱり僕にはぴったりじゃないか、あはは。
「あやなみ」
僕は越えられない。
「あやなみ」
壁はとてもとても高い。
「あやなみ」
「なあに、いかりくん」
「あいしてる」
この瞬間も、彼女の心拍数やら脳内温度分布やらが余すところ無くモニターされているだろう。
そんなことはどうだっていい。
僕にぴったりの彼女。
彼女の内側を覗きたいなら勝手に覗けばいい。ついでに僕の内側も見せてやるよ。観測装置の特性の把握は精密な観測の必要条件、そうでしょ、わかってるよ、わかってる。僕の番号がeva-01ということもわかっている。
でも、彼女は、僕のものだ。
綾波は、僕のものだ。
「eva-00」
きょとんとする彼女。ああ、そうだった。この呼び名は教えていなかったっけ。
いいなおすよ。
「あやなみ」
「なあに、いかりくん」
「僕をあげる」
「それは、どういう意味」
「だから、あやなみを、ちょうだい」
「どうすればいいの」
「笑えばいいと思うよ」
すると彼女はにっこりと笑った。
それは僕の教えた笑い方だった。
end