きのう、下校途中に見た、車道の側溝にいた小猫。
体はんぶんくらいに黒っぽく血がこびりついていて、足は変な具合に宙ぶらりんになったまま、ぴくりとも動かずに固まって。あれはたぶん、もう何度も車にはねられちゃったりしていて、文句なく死体。
「どうしたの、アスカ」
じゃんけん三連敗でカバン持ちしっぱなしのシンジが声をかける。なんでもないわと首をふって、一緒に家に。あれから二十七時間と三十五分と少し。いまは目の前に使徒。戦闘配置。弐号機のエントリープラグのLCLの揺り篭につつまれながら繰り返し繰り返し思い出してる猫猫猫の死体死体死体死体死体死死死体死死死体体死。
ときどき泡が泳ぐ。
肺にLCLが充填されているのだから呼吸に不要なはずのエア。つまりは私の息が乱れている証拠だ。モニターしてる人間たちにはもうわかっているんだろう。呼吸が乱れている。私は動揺している。A10シンクロナイゼーションもおそらくは。
「弐号機、状況」
「弐号機より発令所。状況。空中目標に変化なし。地表目標に変化なし。もう、変化なさすぎよ。動いてないもの。太陽が動いてるのに。影のクセに」
声に出すことで気持ちが少し静まる。ダンケ、ミサト。
「了解。警戒続けて。がんばってね、アスカ」
「ヤー」
猫の死体。血のかたまり。目に焼きついて離れない。心拍数がふらついてる。
私たちは殺してきた。死にそうにながらも殺してきた。天使。使徒。エイリアン。名前なんかどうだっていい。とにかく敵。エヴァでなきゃ相手にできない敵。その敵ってのは、それはそれは強くって、なに考えてんだかわっかんないやつで、攻撃力とか防御力とかいう前に見てくれ自体が謎なぞナゾで。
それでもって今回は極めつきだと思う。
これまでみたく殺せるのかわかんない。
空中に浮かんでる直径三十メートル以上はある球形。それが影。その下、地面にでろっと広がってる影としかいいようのないもの。それが本体。理屈はわかる。超四次元体の三次元切片。文句つけてもしょうがない。でも、だからって取りこまれてもいいのかっていうと、それは違う。違うはず。バカシンジの乗ってる初号機が取りこまれたまま十八時間。ああもうなんで。次元が違うっていうのはこういうこと。使徒からすればバカらしくってしょうがないんだろう、そんなことまで考えて、泡が泳ぐ。
時空あわせてようやく四つのミンコフスキとはワケが違うマジでマジな超四次元体。そんなものが実際にあるなんて、その切片が目の前にあるってのに、いまでもやっぱり信じられない。地平線をブッ飛んだ相対論的事象ってのが、エヴァとおんなじくらいのサイズで、目の前に静止してるなんて。悪夢。ここにこいつを存在させているエネルギー総量がどんだけのものなのか。悪夢。エヴァが強いっていったって、しょせんはニュートン近似で片付く物理。TNT換算できる桁の破壊力。そんなんじゃぜんぜん足りない。リツコはわかっているはずだ。ミサトだって、たぶん。N2爆弾992発で足りるかも怪しい話。だいたい1000発ブチ込んだからって3桁増えるわけじゃなし。それでも戦闘配置は爆撃開始まで継続される。そしてN2攻撃が開始される。もう初号機のことなんて誰も気にする余裕はない。とにかく使徒を殺さなきゃって。
死体になった猫。
死体を死体で済ませられない惣流・アスカ・ラングレー。
死体になる瞬間が、死体になんかなったこともないくせに繰り返し繰り返し死死死死死。
自分で死体になったことはないけれど、他人の死体は見たことある。
私が関わったといえるのもたくさんある。オーバー・ザ・レインボーで日本に移送されるときの遭遇戦。あのときは国連軍の水兵たちが行方不明になったり死んだりした。防水布にくるまれた死体を遠目に見た。ドイツ支部での最初のエヴァ弐号機起動試験。筐体装着がまにあわなくって外部に置いていたジェネレーターが暴走して。ガス中毒で死者が出た。このときはお葬式で何本もお花をあげた。私がエヴァのパイロットに選ばれた日。あの日、ママは精神病院で、私に何もいわずに死んでいた。首をつったママの第一発見者が私。
泡が泳ぐ。
どうして忘れられないのよ。あんなのただの死体でしょう。猫の死体の。ママの死体の。ちくしょうちくしょうちくしょう。
わかってる。私は動揺している。死ぬかもしれないということに動揺している。なんのための訓練だったってのよ、もう。
使徒だっていう、あのケタちがいのイカれたボール。見上げるしかない高次元体。圧倒される巨大な無機質。黒い影。ねえ、小猫ちゃん、あなたが轢かれるときってどうだった? どうしようもない運動エネルギーが目の前に顕現したときってどうだった?
私はね、こわかった。
泣いたりなんかしなかったけど、誰にもいわずにいたけれど、ドアをあけたあの瞬間、ママが天井からぶら下がっているのを見たときは、かわいそうとか悲しいっていう前に、やっぱりどうしようもなくこわかった。
ママのかたちをした、ママじゃないものが、目の前にあるのがこわかった。
どうしようもないものが私を押しつぶそうと迫ってくるようでこわかった。
そしていま、ATフィールドだとか一万二千枚の特殊装甲だとかそんなものなんてまったく関係なしに、エヴァそのものを取りこんじゃったりしている三次元切片を前にして、エヴァもネルフも血塗れになるしかない猫以下だ。
惣流・アスカ・ラングレーなんて、猫の耳の裏の蚤。
シンジが心配、それもある。自分の弱さが情けない、それもある。だけど、やっぱり抑えられない、どうしようもないこわさ。
どうしたらいいんだろう。
どうしようもないときに限って、ぐるぐるとつきまとって離れない言葉。
どうしようどうしようどうしよう。恐怖のはざま、LCLにこぼしてしまうエアのように、浮かんでは消えてゆく。
「弐号機、状況」
「弐号機より発令所。状況に変化無し。警戒続行」
「了解。がんばって、アスカ、もうすぐよ」
ああ。
もうすぐ。
シンジが死ぬ。
そして役にも立たない一万二千枚の特殊装甲に包まれたエヴァンゲリオン弐号機の中で私が震えるしかできないでいるうちに状況は急転した。
N2弾頭使用直前、まるで卵の殻かなにかのように次元の断絶をぶちやぶるという、あらゆる物理法則を鼻で笑うようなやりかたで、初号機とシンジは帰還した。
初号機は無事だった。シンジは生きていた。ネルフは勝った。使徒に勝った。人類はまたも危機を乗り越えた。
だから。
「わたし……、こんなのに乗ってるの……」
いまはエヴァがこわい。
「どうしたの、アスカ」
学校への道すがら、カバン持ちしてるシンジが問い掛ける。
アタシ、エヴァもシンジもなにもかもがこわいのよ。
などということが口にだせるわけもなく、ただ首を振って、なんでもないわとやり過ごした。
使徒とのてんやわんやのあいだに猫の死体も片付けられてしまっていた。
アスファルトにかすかに赤いシミひとつ。
end