鼻腔から口腔から。
皮膚にあいているあらゆる裂け目という裂け目から流れ落ちるLCL。
今まで私のいた目の前の恒温LCL槽にはまだ肉片がただよい続けている。私と肉片とのあいだをへだてる緩い曲率のガラス壁。
壁には半透明の裸の私が映っている。これも私。その向こうでただよう肉片。これも私。なのにLCL槽の外からLCL槽に映る影とその中にただようものを視認しているのも私。
私はたぶん三人目。一人目でなかった理由はあるのだろうか。二人目でいけなかった理由があるのだろうか。なぜ三人目としてここにこうしているのだろう。四人目となるのを待ちながら今ではばらばらとなってただよっているものと私とは何が違っていたというのだろう。
きっとそこには理由もなければ意味もない。
口を開ける。空気を取り込む。もう肺胞にLCLは残っていない。合わせるように背後から足音が響いてくる。合わせる? まさか。碇司令にはそんな理由もなければ意味もない。
碇司令が私にいった。約束のときだといった。
約束。そういうことなのだ。私が三人目としてここにいるのは。地下深くでLCL槽をながめていたのは。
歩き出す碇司令。その背中が命令している。ついてこいと命令している。今日この日のためにお前は肉片にならずに綾波レイとしていたのだからと命令している。だから私は肉片たちに背を向けて碇司令の背中のあとについていく。これは理由と呼べるだろうか。
悲鳴が聞こえる。
たくさん。とてもたくさん。
ナイフで刺される人。機銃掃射で引き裂かれる人。火炎放射器で焼かれる人。速乾樹脂に固められる人。装甲シャッターに押し潰される人。とてもたくさんの悲鳴があちこちから聞こえてくる。私が碇司令について下層に降りているあいだ悲鳴の途切れることがない。
喜んでいる人もいる。弐号機パイロット。エヴァンゲリオン弐号機が動くたびに悲鳴が起きる。パイロットの嬉しがる声を交えながら。
くやしがっている人がいる。葛城三佐。何がそんなにくやしいのだろう。血が出ているからなのか。
無我夢中の荒い息。銃を撃っている人たち。
絶望の震え。発令所の人たち。
遠いどこかからはこれから起きるはずのことを期待を込めて待っている人たちの息づかいも聞こえてくる。
前を歩く碇司令は少しも歩調を乱さない。
うずくまったままの初号機パイロット。
悲鳴が聞こえる。みんなの悲鳴が聞こえる。嬉しい人も悲しい人もわめき散らしている人も押し黙っている人もみんな悲鳴をあげている。
聞こえるはずのないその悲鳴を聞いてしまうということも私になされた約束のうちなのか。
髪に手をあてるとLCLが乾いている。約束はとまらない。
葛城三佐が死んだ。
R−20エレベーターの前で血溜りをつくって倒れていた。ゆっくり冷たくなっていった。冷たくなりきる前にフロアごと爆破される。悲鳴。葛城三佐が千切れていった。千切れた三佐が灰になった。
赤木博士がいた。
碇司令に銃を向けた。碇司令が立つ位置を変えた。私をかばうように横にずれた。なぜ。約束されているならどうしてそんなことをする。
博士は撃たなかった。碇司令が銃を構えた。博士は逃げなかった。立ったまま動かずにいた。かすかに笑った。撃たれた。悲鳴。非励起LCLの中に死体になったばかりの博士が沈んでいく。波紋ができる。消えてゆく。
エヴァンゲリオンが死んでいく。頭を潰され腰を砕かれ喉を裂かれ首を捻じられ胸を穿たれ死んでいく。空から降りてきたエヴァンゲリオンが一人づつ死んでいく。そして最後は弐号機が食い荒らされて死んでいく。すべて約束されたこと。
そうなのか。本当にそうなのか。約束されているというなら碇司令はなぜ当たらないはずの銃弾から私をかばったりしたのだろう。かばうことも約束のうちなのか。
見上げればそこには磔とされた約束の人がいる。手のひらを釘打たれた約束の人は顔に仮面をつけている。七つの目玉。何を見ているというのだろう。碇司令と私だろうか。赤木博士の死体だろうか。
この人に私は帰る。それが約束。今日この日が約束の日。私が帰る日。そこには理由もなければ意味もない。
私の左腕が私から離れて肉片になる。
恒温槽に置いてきたものたちを思い返す。
もう肺をLCLで充填することもないと知る。
約束だから。
約束。
これから起こることも。
約束。
私は碇司令に向き直る。
碇司令が手袋を外した。
碇司令のむきだしの右手が私の体にのびてくる。
胸に入った。
私の中に約束のアダムが運ばれた。手はさらに奥へと入る。そのまま下にすべる。子宮に届くアダム。痛い。セックスよりもずっと痛い。
一人目が死ぬときはどれだけ痛かったのだろう。二人目が死ぬときはどれだけ痛かったのだろう。四人目となる前にばらばらになったものたちはそのとき痛みを感じることができただろうか。
これほど痛くはなかったかもしれない。
約束のために死んでいった大勢のひとたちはどうだろう。さっきまでのたくさんの悲鳴。いつのまにか間遠になってしまっている。もう悲鳴をあげる人も少なくなったのか。そして子宮がアダムをくわえ込んだとき。
聞こえてきた。
ひときわ高い初号機の悲鳴。それに乗っているパイロットの悲鳴。
約束なのにどうしてそんなにわめき散らしたりするのだろう。
約束の人は見下ろしている。碇司令を。そして私を。
見られたくないと思った。約束なのに。
約束なのに。
もしも約束からこぼれ落ちたものがあるのなら。
この瞬間この悲鳴を聞くことが約束されていなかったことならば。
最後のときになってためらってしまう私が約束を外れた存在であるならば。
だめ。
もうだめ。
もう耐えられない。
たったいちど考えてしまっただけなのに。
私が碇司令の右手をもぎ取ったのはそれが理由。
アダムを持ったまま約束の人に帰っていったのもそれが理由。
そして結果はまったく約束どおりだった。何も変わりはしなかった。地上は悲鳴で満ちあふれ天は血で染めぬかれた。すべては融けてなくなった。だから一人で浜辺に立つ。寄せては返す穏やかな波。約束。何もかも約束。理由も意味もない約束。私の気まぐれも碇司令の気まぐれも初号機の気まぐれもとめどない悲鳴で綴られた果てしない約束のひとかけら。すべてが終わって波間に浮かぶのは私の姿をうつした約束の人のなれのはて。
浜辺に立ってそれを見ている私自身を何人目と数えればいいのだろう。寄せては返す穏やかな波。
end