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なみだ

 とくに遺言はなかった。
 遺産もなければ借金もなかった。国際軍事法廷で終身禁固とされた故人の手元に自由になるものなど何もなく、あったとしても遺す遺族がいなかった。いるにはいたが、はるか以前に縁を切られてしまっていた。
 そういうわけで、碇ゲンドウの葬儀は簡素なものだった。
 参列者は綾波レイだけだった。

 服役は第二東京市郊外の刑務所であったが、十二年目になって胃に腫瘍が発見されたため、所内の病院に移された。
 二度の手術と抗癌剤による長期の治療が施されたが、快癒することなく、三年の闘病のすえに亡くなった。生前、レイが最後に面会したとき、囚人は髪がすっかり抜け落ち顔は土気色になっていて、かつて国連直属特務機関のトップとして権勢をほしいままにした姿はどこにもなかった。
 ただ、落ち窪んだ眼窩の底にある目の光だけは、衰えていなかった。
 はたして終身刑である囚人にそれが許されたかどうか疑わしいが、ゲンドウは最後まで尊厳死などを望まなかった。
(だからきっと……)
 レイは、かまどに入れられる前にもう一度、棺の小窓から死顔を見た。
(抗癌剤でぼろぼろになっていたはず……)
 病魔の跡が刻まれたその顔を、じっと見つめた。
 横では焼場の係員が、職務から求められるところの、御愁傷様ですという弔慰を意味する表情を完璧に作った上で、急かすことなく別れが終わるのを待っていた。
 だが、職歴の長いはずの初老の係員もとうとう好奇心に負け、たったひとりという不思議な参列者を、ちらと盗み見た。
 細身で色白の若い婦人だった。縁者とすれば、四十を過ぎてもうけた娘か、それとも孫娘かという年齢。異国の血が混じっているのか、瞳が紅く、髪は蒼銀。喪服の黒い袖からのびたほっそりした白い指先が死者の頬をなぞるそのさまは、どこか倒錯的ななまめかしさをも感じさせる。
 その指が、棺を離れ、本人の携えている手提げを探った。
 取り出したのは、眼鏡のケースだった。
「あの……」
 何をたずねられたのか、係員はその一語だけで察した。これまでに何度もそういうことは経験している。
「かまいません。入れてあげてください」
「はい」
 レイはケースを棺に入れようとして、途中でやめた。ケースから中身をとりだして、それだけを棺に納めた。係員は、また妙なものを見たという思いにとらわれた。その眼鏡は、つるが折れ曲がって、レンズもほとんど砕かれてしまって、かけらが付いているだけだったからだ。
 レイは眼鏡を棺に入れ、なおも小窓の上から顔をずらそうとしない。
 やがて涙がこぼれていった。
 一滴。二滴。
 レイの頬を伝ったしずくは、もはや焼かれるばかりのゲンドウの皮膚を湿らせた。
「碇司令、眼鏡を、お返しします」
 さすがに係員も、しれい、という音声が、特務機関の指揮官を意味するものとは思わない。
 ただ、その婦人のささやくように小さく、うやうやしさを感じさせるほど優しい声に、うたれた。
「涙を、ありがとうございます」
 そういって、レイは棺の窓を閉めた。
 最後の別れは、終わった。
 一礼して、係員は仕事にとりかかった。彼にしてみれば故人の経歴などは知らないし、知ったところで手順を変えるわけにもいかない。棺をすべらせ、かまどに入れ、扉を閉ざしてダイヤルを回すと、火がついた。
 要したのは一時間ほどだった。そのあいだ、十数畳ほどの待合室で、レイはひとりでいた。
 普通ならば大勢の参列者が故人の思い出を語り合うひとときとなるのだろうが、病院の霊安室からここまで、ずっとレイはひとりでいた。
 無言で、碇ゲンドウの死体が灰となるのを待った。
 やがて係員がレイを別室に呼んだ。かまどの中身がそこに取り出されていた。頭蓋骨や肩甲骨などの大きな部位以外は崩れてしまっている。闘病中、抗癌剤の影響でカルシウム摂取が阻害され、骨が細くなったためだった。眼鏡のつるは骨と見分けがつかないほど白く焼け、レンズは完全にとけていた。
 レイは、係員と二人だけで骨揚げを行った。数回骨壷に骨を落とすと、あとは係員がまとめてやった。最後はシャベルで細かい灰をすくって壷に入れた。壷に蓋をし、白木の箱に入れ、包むところまでが係員の仕事だった。それ以上は仕事の範囲を越えてしまう。
 だから彼は、遺骨はあっても位牌も遺影もない、たったひとりの奇妙な葬列が焼場を出て行くのを見送るしかできなかった。

 かつて第三新東京市として遷都すら予定されていた場所は、東海第一封地地区という名の無人の荒野となっている。
 そこから程近い墓所を、レイは選んだ。
 第二東京からは、中央本線リニアを使って行くことになる。
 ほとんどは山間を、ときにトンネルを、リニアは走る。
 そのためか、それとも膝に抱えた遺骨のためか、レイはうっすらと、第三新東京市地下のジオフロントを思い出した。
 二人目の記憶だった。
 エヴァンゲリオンがいた。
 使徒がいた。
 碇ゲンドウが、特務機関ネルフの総司令として、綾波レイの造物主として、君臨していた。
 現在の三人目である綾波レイにとって、体験をともなわない記憶である。
 だが、記憶してしまっているという事実だけでも、レイにとっては、充分だった。だからこそ、レイ以外のあらゆる人間が忘れたか無視をした囚人に面会を続け、その死にたったひとり駆けつけた。
 回想は、体験をともなう段階へと移行する。
 最後の使徒。
 人間同士の殺戮。
 そしてレイはゲンドウに対し、最初で最後の抗命をする。
(碇司令……)
 サードインパクトは歪められ、人類の補完もいびつに終わった。
 人は、相変わらず、老いては死ぬ。
(わたしは、間違っていたのでしょうか……)
 問いかけに答えるように、リニアのわずかなゆれが、骨壷を小さく鳴らした。
 レイは車窓を見た。
 山は緑だった。
 これでいい。
 あのとき、もう、答えは出た。
 だから全人類の魂魄を一つに融かす力すら持つ綾波レイは、ただ、涙を流すにとどめた。
 綾波レイに涙を教えた人間を送るには、それがもっともふさわしいやり方だった。

 end


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ver 1.00
2000/05/12
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