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flow

 懐古という言葉がある。
 私の、たどりつけないもののひとつだ。
 けっきょく、どうやっても人間は生まれかわることなどできないし、私は何度死んでも綾波レイをやめられない。特定の物事についての記憶を懐古という表現が適当であるようなやり方で再生するなど私には無理なのだろう。
 たとえば第壱中学校がまもなく閉鎖される。私以外の生徒にとっては、それは記憶に残され、そしてそのまま一度限りの人生が継続され、おそらく未来のある時点で思い出すときにそれを懐古と称するのだろう。
 私の未来には再現の可能性がつきまとう。
 未来。死を経た後の未来、私はもう一度生きる。そして死ぬ。そして生まれる。そしてそしてそして。そしてその中に可能性が紛れ込む。これまでのことが、今起きていることが、もう一度繰り返されるのではないかという予感。あるときは期待、あるときは嫌悪、あるときは不安の原因になる予感。
 可能性は可能性にすぎない。未来を確定するものではない。
 にもかかわらず、可能性というだけでじゅうぶんだ。
 どんなことであれ、私にとってはもういちど起こり得るかもしれないこととなるのだから。

 最後の登校日、エヴァンゲリオン零号機のパーツ搬入の遅れとかで都合の空いてしまった私は学校に行くことができた。
 教師は休校という表現を用いた。避難計画の実相を隠しているのだろうか、それとも知らされていないのだろうか。とにかく別れの挨拶は、しばらくお別れです、というもので、しかもしばらくを強調していた。
 昔を思い出します、ともいった。十五年前にも移住計画により学校の消える現場に居合わせたということだった。
 そういえば、この人はよく授業中に昔話をしていた。そういうときの茫々とした表情こそが懐古のもたらすものなのだろう。
 私にはできない。
 起こるかもしれないことに喪失感を覚えることはできない。ただ一度きりの体験というものを噛み締めることができてはじめて二度はないはずのものの再来に心が動くのであろうから、何かを二度体験したとして三度目の可能性のちらつく前には感慨もわいてこない。

 下校のとき、学級委員である人と一緒になった。
 たまたまかち合っただけなのだろう。帰らない? と私にかける声には驚きが含まれていたから。拒否する理由の見つからなかった私が黙っていると、彼女の方からよってきて、並んで歩くことになった
 この人もまた私がするには難しい微妙な表情を見せた。
 私の理解を超える感情がその中でうごめいているのだ。それもどうやら二つ以上あって拮抗している。
 そして、そのせいでか、口数が減っていた。私がこの学校に来てしばらくのあいだ何かにつけて話しかけてきた頃と比べると、ずいぶんな変わりようだった。
 この人がためらいながらも私にたずねたのは、エヴァンゲリオン参号機パイロットのことだった。既に彼の容体については守秘事項から外れているから、口にしても問題はない。
 ただ、負傷の経緯となると、話は別だ。
 答えてはいけないことをたずねられたとき、私は知らないと答える。私が知っているということを相手が知っている場合、さらに質問が重なるが、私は知らないと繰り返す。そうこうするうちに愛想をつかして離れていくのだ。私が中学へ編入させられた当初はそうだった。周りの皆はいっとき興味を示してもすぐに離れていった。学級委員である彼女も例外ではなかった。
 今度ばかりは違った。
 ぶたれた。
 部屋に帰って鏡を見ると左の頬が腫れ上がっていた。わずかに赤く色がついていた。
 ついでに服を脱いで確認した。やはり左脇に縫合のあとがかすかに残っている。私の体に新たに加わったこの手術痕は、私に対して秘密にしなければならないことなのか、医療スタッフからはいまだに説明がなされていない。
 ときどき考えることがある。
 私の左肩から先は参号機制圧の際にちぎれてしまって、いま付いているのはスペアをばらしてできた左腕ではあるまいか。スペアはいくらでもあるしいくらでも作ることができる。あのとき私は回収を前に痛みで失神してしまったが、あまりに酷い怪我をしていたのであれば、私の体を治療するかわりに一つくらいスペアを解体してその部位を移植したのかもしれない。その方が簡単なように思える。
 さらに考えるときがある。
 左腕をもがれた私のスペアはどうしているだろう。水槽の中をただよいながら左腕が生えてくるのを待っているのだろうか。
 そしてつい考えてしまう。
 そのスペアはどんな夢を見ているのだろう。
 私は覚えている。
 私はかつて私のスペアだったことがある。

 輪廻という言葉を知った。
 いい言葉だ。
 ただ一度の生を生きる人間がどういう意味で使うのか、興味深い。

 雨の中、十五番目であるという使徒が現れた。
 先発した弐号機は迎撃に失敗、逆に弐号機パイロットは精神を破壊された。初号機凍結解除はならず、迎撃命令は零号機に乗る私に下った。鑓を用いることで使徒は殲滅できた。
 だが、もはや鑓の予備はない。
 ネルフは追い詰められている。私はあと何度エヴァンゲリオンに乗るのだろうか。ネルフの滅びを見ることになるのは、私か、でなければ次の私となる私のスペアだ。
 ネルフを消費すること自体は私の創造主ともいうべき碇司令の願いをかなえるに欠かせないが、それだけで願いがかなうとは限らない。
 願いがかなわなければ、碇司令は死ぬか、自ら命を絶つだろう。かなえば別の地平に行くことになるだろう。どちらにしても、私あるいは私のスペアからは離れていくことになる。残るのは碇司令がかつてかけていた眼鏡、フレームが曲がりひびの入った眼鏡だけだ。
 はやく部屋へ戻ろう。そこに眼鏡がある。
 シャワーの出を強くする。髪のあいだに残ったLCLが流れていく。髪の毛も一緒に数本流れ落ちる。代謝の抑制されたスペアの状態でいるときはほとんど気がつかなかったが、これも生きるということだ。髪が生える。抜ける。爪がのびる。皮膚が表層から角質化し垢となって剥がれ落ちる。私は生きている。生物学的に。
 身体ごと排水口へ流れていったらどうなるだろう。抜け毛や垢と同じように下水として流れるのだ。今日の雨と一緒に流れていくのだ。人間的な輪廻とは、このようなことかもしれない。

 学校がもう無い。今日はスケジュール上は待機ということになっている。ならば部屋で待機しなければならない。
 いちおう着替えるだけは着替えて、あらためてシーツの上に仰向けになる。天井の無意味な模様が視界を覆う。こうしているうちに、ふと遠近感が狂うことがある。まれに平衡感覚も怪しくなる。そして訪れるのは、水槽の中をただよう、あの感覚だ。
 これが私の懐古の限界だ。
 スペアであったときを思い出しているとはいえるが、好んで昔話をよくするあの教師が、このように偶然にまかせて記憶を再生しているとは思えない。
 それに、私はこの感覚が苦手だ。
 すべてが揺らいで溶けてしまうような感覚が、スペアでなくなってから、苦手になってしまった。
 この平衡感覚の喪失には前触れらしきものがある。天井が中央から端に沿って反り返って見えるように感じると、それが来る。こんなときは目を閉じるよりも、しばらく眼鏡を握り締めている方がいい。やがて落ち着く。
 待機のまま一日が過ぎる。

 本部に向かうと弐号機パイロットはおらず、鬱屈した顔の初号機パイロットがいて、むこうから不機嫌なわけを話し出した。私と同じように学級委員の人に問い詰められ、ぶたれたらしい。そしてどうやらそれが不満らしい。同意を求められる。なるほど、これが私に話しかけてきた理由か。
 別に、と答えると、初号機パイロットは私には理解できない表情を作った。そして溜息をし、うなだれて立ち去った。
 私が初号機パイロットにもたらした感情の少なくとも一つは、失望であるらしい。
 これが原因で使徒との戦闘で初号機が不調を来すことがないだろうか、不安だ。次の戦闘では私が迎撃の主力となる。ならざるを得ない。弐号機パイロットが復調したとは聞いてないし、初号機凍結も解除されていない。
 私が失敗するようなら、弐号機でもだめだろう。初号機の凍結を解くことになる。初号機パイロットには万全の状態で待機してもらわねばならない。
 だが、どうすればいい。
 初号機パイロットが弐号機パイロットほどではないが感情の振幅の大きいということは、そのよく変わる表情を見ていればわかる。悲しいときばかりでなく、嬉しいときにまで泣く。いつだかは私にも笑えといった。
 なら、私が笑えといったら、笑ってくれるだろうか。
 私は、笑えといったことはないが、頬を叩いたことならある。碇司令を侮辱されたときのことだ。かなり力が入ってしまったが、それに対する反応はどうだったろう。たしか、当惑というようなものではなかっただろうか。
 止めよう。笑えといって当惑されたら意味が無い。
 私が何かしなくとも時間が経てば落ち着くはずだ。それが使徒より早ければいいのだ。使徒より遅れたら私だけで使徒を倒せば済むことだ。それも出来なければスペアが出る。

 これからは待機も本部内で行うようにとのことだった。碇司令は何かを予期しているのだろうか。
 場所が違ってもやることは簡易ベッドの上に寝そべるというのだから変わらない。天井を眺めるのも同じで、だから水槽の感覚の前触れらしきものが気を許すとやってくる。
 眼鏡を持ってくればよかった。
 眼鏡がなくともあの部屋なら、昼間ならビルの基礎工事の音が聞こえるし、夜でも車の音くらいはとどく。しかし、この待機室はまったくの無音だ。無地の天井以上に静寂は水槽の感覚を引き寄せる。
 来る。
 スペアであった頃の感覚だ。感覚とも呼べないようなわずかな起伏、単調な揺らぎ、それが私を昔の私へと塗りつぶす。かつて私は単色だった。これから私になる私のスペアも今は単色だ。人間は違う。なぜあんなにも鮮やかなのか。なぜ鮮やかでいることに耐えられるのか。人間だから? それでは答えになっていない。
 たしかなのは私が綾波レイであることだ。私に多少人間の色がついたところで、人間への距離は埋まらない。埋めるべきものでもない。
 そして碇司令は人間だ。あれほど強くなにごとかを願うことができるのだから。
 綾波レイである私には、無理なことだ。
 天井が揺れだす。眼鏡を持ってくればよかった。

 弐号機パイロットの体調が悪いらしい。一方、初号機パイロットは初号機とシンクロ可能な状態を保ち続けている。万全ではないが、これをよしとすべきだろう。既に使徒は舞い降りた。
 手首のスイッチを操作し、プラグスーツの隙間から空気を抜く。ヘッドセットを装着する。ラダーを上りエントリープラグへのハッチをくぐる。シートに座る。ルーチン。いつもどおり。プラグ内にLCLが溢れ出す。
 そしていつもどおり唐突に追し寄せる一瞬の水槽の感覚。単色に。そして爆発するような色彩が。この一瞬の変化を乗り越えないかぎり、エヴァンゲリオンは動かない。それを待つ。
 来る。
 ……越えた……。
 戦術指揮官が復唱を求めている。私の答えが彼女に伝わる。射出シークエンスに移行、エヴァンゲリオンがリニアリフトに据え付けられる。急加速、上昇、停止。水槽の感覚に比べれば射出Gなどどうということはない。射出口をビルに偽装するためであったシャッターが開け放たれる。指示に従い、エヴァンゲリオンを走らせる。
 そして十六番目の使徒が見えた。

 懐古という言葉がある。
 私にそれが出来るのであれば、それはかつての私ではない、今の私の経験したことについてでなければならない。そして未来の私が経験するようなことであってはならない。
 限りある命を、限りあるものとして生きなければ、懐古は懐古にならないのだ。
 使徒は、輝く円環という姿をとって、中空に浮かんでいた。
 輪廻という言葉が浮かんだ。
 ああ。
 私は死ぬのか。私は生まれかわるのか。綾波レイとは、ただよい、流れる、水なのか。碇司令も、初号機パイロットも、私の心を何度も鎮めてくれたあのフレームの曲がった眼鏡さえも、生まれかわった私に受け継がれていってしまうのか。天使よ、天使よ、答えたまえ。
 だから、私の操るエヴァンゲリオンは、ライフルを構えた。

 end


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ver 1.00
1999/11/12
copyright くわたろ 1999