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中学生日記

 始業ベルが鳴った。
 相田ケンスケの下駄箱に伸ばした手は、本来なら彼を急き立てるその音を合図に、止まった。
 なんで靴を履き替えるんだ、オレ。
 普段は疑問に思わない、後から考え直してみてもどうしてそんなくだらないことにこだわれたのか不思議になるほど無意味な疑問が、彼の心を唐突に支配していた。
 ベルが鳴り止み、彼の遅刻が確定した。
「アホくさ」
 外履きのまま、彼は校門へととってかえし、そのまま第三新東京市立第壱中学校を抜け出した。後ろから誰かが呼び止めたような気もしたが、それはそれで、
「アホくせえ」
 としか思えない雑音だった。
 何とか間に合う時間に登校しながらも、結局その日の出席簿の欄に無断欠席の印が付けられる行動を選択した相田ケンスケがまず向かったのは、五百メートルほど離れたコンビニだった。
 午前九時、バイト学生がレジを打つような時間ではない。いらっしゃいと声をかけたのは店のオーナーと思しき中年男だった。学生服の少年に見咎めるような視線を投げかけるが、当人いたって気にしない。まっすぐ雑誌の並ぶ棚に向かい、おもむろに一冊取り出し立ち読み開始。
 二冊、三冊、四冊目を途中までめくったところで読書は終わった。別の棚の前に移ってサンドイッチを二つと紙パックのジュースを取り出しレジに向かう。払う段になって、すんませんアレも、と頭を下げて三十六枚のカラーフィルム追加。
 クーラーの効いた店を一歩出ると、既に二十五度を超えていた午前九時半の空気が、むっとまとわりついてきた。
 一瞬、店内が恋しくなり、もう一冊マンガ読もうかとか考えて出たばかりの自動ドアに振り向くが、そこに警察官立寄所と書かれているのを見て思い止まった。
「あぁあ」
 肩下げ鞄が重い。
 店先の、紙屑や弁当の空き箱が詰まっているゴミ箱が、目に入る。
 ドアのガラス越し、オーナーらしき中年男と、視線がかぶる。
「いや、まあ、ははは」
 よっ、と声に出して肩から外しかけた鞄を持ち直し、ついでにわざとらしく眼鏡をかけ直して、ケンスケはコンビニを離れた。

 家のドアを開ける時、ただいま、とは、いわなかった。
 使った鍵をポケットにねじ込みながら、ケンスケはまずは台所に直行して、コンビニのビニール袋ごとサンドイッチとジュースを冷蔵庫に入れて、冷蔵庫を閉めてからそこにフィルムも入っていたことに気付いて、あ、と声を出しながらそれを出す。
 さて。
「さあて」
 やることがない。
 昨日は学校へ行った。一昨日も学校へ行った。その前の日は日曜だったのでなんとなく基地の方へ軍用機の写真を撮りに行きその前日の土曜日はたしか病院にいる友人を見舞ったはず。
「そっか、今日って水曜日か」
 口に出すと、当たり前のことが、何やらこの世を司る法則の深淵のようにも思えてきた。
 カレンダーを見る。水曜日と思えば水曜日だが騙されているような気がしてしまう。パソコンの電源を入れる。モニターの右上に漂っている時計の表示を見ると、たしかに水曜日。火曜日の次には水曜日が来るのだ。と、信じこむ。
 それ以上は何もする気になれず、ケンスケは音を立ててベッドに身を投げた。
 しばらくして横目で見ると、モニターはスクリーンセーバーに変わっていた。
 月曜に学校、火曜に学校、水曜に学校に行ったけど行っただけでエスケープ。ケンスケはその理由付けを、大岩に追われながら走る考古学者という、昔の映画を素材にしたスクリーンセーバーに求めた。そうそう、連続使用は焼き付きのもとです、休憩休憩……
 などと考えつつ瞼を閉じるが眠れるものではない。なにしろまだ昼前なのだ。
「ったく」
 やることがない。
 寝転んでぼんやりと天井を眺めているうちに、やることがあったらやるのかよという声が聞こえた。
 それは、やったところでどうなるよという声に変わり、つまりやりたくないんだろという声に転じ、なにをやったところで世界が変わるわけじゃねえだろ、俺は変われるんじゃねえの、俺って相田ケンスケのことか、そうだよ、無理だ、どうして、おめえは鈴原トウジとか碇シンジとかと違ってエヴァに乗れねえんだしなあ。
「うるせえよ」
 がこおん、がこおん、というビル工事の音が、さも今始まったかのようにケンスケの耳に割り込んできた。

 木曜日、ケンスケは校門までたどり着けなかった。
 その手前の下り坂で、アホくせえ、という言葉が口をついて出てしまっていた。
 それ以上は学校の方向へ歩く気にもなれなかった。
 家へと戻る途中すれ違ったクラスメイトの一人から、忘れ物したの、と声をかけられたが、それには曖昧に首を振ってやりすごして、水曜日と同じように親から渡された合い鍵を使って家のドアを開けた。
「さあて」
 と、誰もいない部屋で声に出す。
 やることがないのは一緒だったが、寝転がって天井を眺めるだけでは芸が無いと考え、しまい込んだままになっているディスクを端から見ていくということを思いついたケンスケは、とりあえず積み上がっている中から一枚を抜き取った。
 そういうわけで、再生されたのが『地獄の黙示録』だったのはケンスケだけの責任ではなく、いくらかは偶然も作用していたといえる。
 ワルキューレをスピーカーで掻き鳴らしつつベトコンに対地攻撃をする騎兵連隊のヘリを眺めながらケンスケの食べている昼食は、学校へ行かずに立ち寄ったコンビニで買ったカレーパンだった。

 『地獄の黙示録』だけでは飽き足らず『フルメタルジャケット』と『ディアハンター』まで見て、さらにもう一度『地獄の黙示録』を見返してしまったのは完全にケンスケの責任といえる。
 夜更かしし、寝坊し、起きてみたら八時半という金曜日の朝を迎えたのもケンスケの責任といえる。
「ちぇ」
 制服ではなく私服で彼は玄関を出た。
 行く先はコンビニ。警察官立ち寄らない所のコンビニもないではないのだ。
 昨日はカレーパン、一昨日は野菜サンド、と昼のメニューを反芻しながらケンスケはインスタントやきそばを選び、暑い日だったのでコーラを一本付け足して、それを買うとそのまま家に戻った。一昨日買ったフィルムが机の上に置いたままになっていたが、さりとて何かを撮りに遠出するという気分でもなかった。だからこの日は『プラトーン』を三度見て四度目の途中で寝た。

 起きると七時四十五分だった。土曜日にこんな時間に起きたところで何をしていいやら思いつかない。
 なんで思いつかないんだ、オレ。
 先週まではこんなことはなかったはずだった。むしろあれやこれやで時間が足りないくらいだった。英語の宿題の多さは相変わらずだし数学は補習受けなきゃならないし新横須賀には親善訪問のコリアの練習艦隊が来ていてそれからええと。
「アホくせえ」
 なんでそう思うんだ、オレ。
 だってアホくせえよ、なんで、宿題やって何になる、やらないよりやった方が、やれば頭がよくなるのか、やらないよりは悪くならないって程度にはよくなるだろ、消極的理由だな、理由には違いないだろ、だからそこんとこがアホくさい、なんで、だっておめえエヴァに乗れねえし。
「そんなもんか?」
 結局ケンスケは二度寝して昼近くに起き出し、ファーストフードで朝食兼昼食をすませた後で寄ったコンビニで漫画雑誌を買い、鈴原トウジの入院している病院に向かった。
 級友、鈴原トウジが左足切断の憂き目にあって入院してから一ヶ月余りが経っていた。
「これ、今週号」
「お、いつもスマンの」
 花より団子。団子を差し入れる人間は別にいるのでケンスケが差し入れるのは漫画である。
「どや、調子は」
 と、入院している方が尋ねる。
「いつも通りかな」
「碇、どうしとる」
「見かけない」
「そら今度はまたずいぶん長いの。自分、何か理由知らんか?」
「俺じゃエヴァのことは探れないよ」
「ま、そやな」
 鈴原トウジ、ケンスケにとっては一月前まで気兼ねなく無駄話のできる級友であった。
 それ自体は今も変わらないが、しかし一月前にトウジはエヴァンゲリオンのパイロットに選ばれ、その直後、搭乗したエヴァンゲリオンの事故で片足を失って再びエヴァンゲリオンのパイロットでなくなった。事の顛末をケンスケが聞いたのは、トウジがただの級友に戻ってからで、つまりエヴァンゲリオンのパイロットであった鈴原トウジを彼は知らない。
 今、ブランケットの片足分の膨らみを欠いて彼の目の前に横たわり、ぱらぱらと雑誌をめくっている短髪の少年は、パイロットだったこともある級友、である。
「ありゃ、これ最終回やて」
「ああ、それ、人気無いらしい。打ち切り」
「なんや、そりゃ。なんでこっち打ち切んのや。したらこんな雑誌誰が買うねん」
「買ってるの、俺なんだけど」
「や、そないな意味やのうて。相田せんせには、ほんっま、感謝しとりますっ」
「来週から買わなくていいと」
「あーあー、ちょい待ってや。ほら、ここん予告出とる新連載、結構おもろいんちゃうか」
「買わねー」
「買うて」
「買うたらん」
「買うて」
「買うたらん」
 がちゃ。
 ドアノブの音に二人が首をそちらに向けると、そこには団子もとい昼食の差し入れを手にしたお下げ髪の少女がいた。
 学校に行かずに戻る途中のケンスケに、忘れ物したの、と声をかけた洞木ヒカリだった。
「すずは……あいだくん?」
「ああ、今帰るとこ」
 のそりとケンスケは枕元の椅子から立ち上がった。
 ヒカリは、あわてて引き止めようとして、つい口走ってしまう。
「べ、別にいいのよ、私は、相田君がいたって」
 そんなことまでいわれて居残る性格ではないケンスケ。
「俺がいないと特別まずいことある?」
「え、あ、えと」
「ごゆっくり」
 ばいばいと振るその手だけをドアの隙間から見せて病室を後にするケンスケをぽかんと見ていたヒカリだったが、数秒置いて我に帰り、ケンスケの後を追った。
「相田君」
「なに」
「最近、学校休んでるよね」
「ああ、まあ」
「何かあったの」
 土曜日というのに、ヒカリは学生服だった。そして心底相手を気遣っているという顔を作っている、とケンスケには見えた。
 アホ、という声がケンスケの中で聞こえていた。
「なんもない」
 実際、何かがあったわけでもないし、何かあっても、だからといって何かあったのと尋ねられて実は何かあったんだよと答えるのはアホ、そんな声だった。
「なんもありゃしない」
 ばいばいと手を振って、というより、さっさと病室行ってやれと手で追いやるようにして、ケンスケはヒカリに背を向けた。
「さて」
 特にやることも思いつかなかったケンスケは、ゲームセンターで三十分ほど空中戦に時間を費やし、ボスキャラ赤の男爵に連敗したところで家路についた。
「さて」
 何度か見返したはずの『地獄の黙示録』の内容が思い出せなかったので、眠くなるまで彼のDVDプレイヤーはそれを再生していた。

 日曜日である。
 ケンスケは、もう、やることがさっぱり思いつかなかった。
「アホくさ……」
 とりあえず『ランボー』を見るよりはと『キリングフィールド』を選び、骸骨が並んでいるっていうのはあまり心沸き立つという類いの映像とは思えないなという感想を持ちながら二度見て、さすがに昼食の時は見ずに、だが食後にまた見て、また夕食時には見ずに、食後、眠るまで『キリングフィールド』という日曜日だった。
 朝食は抜き、昼はカップラーメン、夜はコンビニで買った牛丼弁当。

 なんで学校行くんだ、オレ。
 などと布団の中で思いつつも制服に着替えて、鞄は忘れたものの、とにかく学校へと歩きはじめた月曜日の相田ケンスケを誉めるべきか否か。
 信号を待つ間、欠伸を噛み殺していたケンスケは、横から声をかけられていた。
「おはよう、ケンスケ」
「おー、おはよ」
 碇シンジという、彼の級友であった。
 この少年はトウジとは違い、エヴァンゲリオンのパイロットということでこの街に現れ、ケンスケの通う学校に転校してきた。
 そして一月ほど前から学校に姿を見せていなかったはずである。
「シンジ、久しぶりじゃないの、がっこ」
「そうだね」
「どうしてたんだ。作戦行動中だったとか」
「そんなじゃ、ないって。その……、エヴァでドジって、入院」
「へえ」
「でも、ケンスケだって、ここんとこ学校来てなかったそうじゃ」
「洞木から聞いたな」
「何かあったの」
「入院」
「うそ?」
「ウソ」
「じゃあ、何が」
「お前も嘘だろ」
「え……」
「大変だな、エヴァのパイロットってやつは」
 そしてケンスケは家の方へと歩き始めた。
 どこ行くんだよケンスケ、というシンジの何度か繰り返された呼びかけは、じきに聞こえなくなった。

 これまた十回は見返したはずなのにいまいち内容の思い出せない『フルメタルジャケット』のディスクを手にしたままプレイヤーにはセットせず、そのディスクの表面を覆う虹色の干渉縞をぼんやりとながめながら、ケンスケは自分の中の声を聞いていた。
 要するにさぼれるならそれでいいと、そりゃあね、何もする気が無いと、まあね、もしエヴァに乗れといわれてたとしても、さぼったかな、さぼったさ、たしかにシンジは偉いよな、お前よりは、つまりはトウジも偉いよな、お前よりは、道理で俺はエヴァに乗れないわけだ、サボリ野郎には乗せらんねえよ、じゃあエヴァって何だ、どこまでいっても相田ケンスケには触れねえのがエヴァンゲリオンさ、さもありなん。
 火曜日のことだった。

「さあて」
 水曜日。
「いい天気だ」
 相田ケンスケにはやることがない。
「寝よ」
 と思った矢先、呼び鈴が、ぴぃんぽぉん。
 現れたるは学級委員長洞木ヒカリ。
「あ、おはよ」
「相田くん……、具合悪いの?」
「そういうわけじゃ」
「学校、行かないの?」
「がっこお?」
「だって、具合悪いとか、大事な用があるとか、そういうんじゃないんでしょう。だったら学校行かなきゃ駄目じゃない。テストだってもうすぐなんだし」
「ああ」
 ケンスケは、何をどういったらいいのか、わからなくなった。
 おとなしく鞄を出してきてそのまま学校に行くのが一番問題のない行動だろうということは何となく理解できたが、その一方で、ヒカリの顔を見た時から頭の中で鳴り響いている、アホ、という声が、どうにもうるさくうっとおしくうざったく、そういうわけで、
「うっせえ」
 二秒ほど、きょとん、という文字の書かれたようになっていたヒカリの顔は、じきに憤激に染まった。
「なによ、バカっ」
 ばたん。
 壊れたのではないかと思えるほどの音をともない、ヒカリによって閉ざされたドアの向こうに、遠ざかっていく足音を聞きながら、ケンスケは大きく欠伸した。
「バカじゃなくて、アホだってば」
 そのまましゃがみこむと、アホという声が、ますます大きくなっていった。
 何もかもアホになった。
 具合が悪くないのもアホで大事な用が無いのもアホで学校に行かないのもアホでヒカリの顔もアホでそういえばヒカリのブラウスはここまで走って来たのだろうか少し汗ばんで下着が透けていたように見えなくもなかったということもアホで。
「だからそうじゃなくってさあ」
 頭が痛くてたまらなくなった。
 立とうとして、めまいがした。
 這うように台所へ行き、滅多に開けない薬箱からそれらしい錠剤を引っ張り出して二粒呑み込むと、蛇口から伸びる生ぬるい水の棒になんとか首をよじって直接口をくっつけて喉をごくり。
「ぶへっ」
 と、せきこむ。
 そして吐く。
 嚥下したばかりの錠剤と胃液しか出なかった。昨夜は何を食べたか思い出そうとしたが思い出せない。食べなかったのかもしれない。なら、昨日の昼飯は、そう考えているうちに膝に力が入らなくなっていた。
 台所のリノリウムは、最初は頬に冷たく感じても、すぐにぬるくなった。
 なんてアホくさいリノリウムだと思いつつ、ケンスケはそのまま寝た。

 木曜日、ケンスケは風邪をひいていた。
 アホくさい天井、それを見るだけの一日が過ぎていった。

 ぴぃんぽぉん、で始まった金曜日。
「なんだ、シンジか」
「ケンスケ、具合悪いの?」
 どっかで聞いたセリフだなと思いつつ、ケンスケは首を縦でも横でもなく斜めに振って、まあまあ、と答えた。
「これ、学校のプリント」
「お、」
 差し出された紙片を受け取る。疎開先割り当てについてのお知らせ。なんだこりゃ、まあいいか、どうせ、
「アホ」
「え?」
「アホみたいなプリント」
「そうなの?」
「シンジは知ってんのか」
「何を?」
「遷都計画の進捗見込下方修正。エヴァに乗ったりするうちに何となくネルフの偉いさんたちから小耳に挟んだことなんてないのか。たとえば、この、一時疎開」
「そんなの……、僕は……」
「そうだよな、知ったところでアホなプリントはアホのままだ」
「ケンスケ……、どうしたの……」
「シンジ、はやく学校行け」
「もう夕方だよ」
 と、シンジがつきだす腕時計は長針と短針が一直線。
「ろくじ……」
「午後、六時」
「なんだ、そうか、午後の、六時か」
「ひょっとして、今まで寝てたの、ケンスケ」
「だって俺は」
 午前だろうが午後だろうがアホくさいのは一緒だろ。
「おい、シンジ」
「え、」
「お前、明日、トウジの病院行け」
「え、ど、どうして」
「何も持っていかなくていい。連載終わったし」
「ちょっと、何の話」
「お前はエヴァに乗れるんだろ」
 ばたん。
 シンジを外に押し出した自分の手が、今はドアノブを握って抑え込んでいることに気付いたケンスケの頭痛は、一気に酷くなった。
「アホくせえ……」
 扉を叩く音が二十一回。ケンスケは脂汗を流しながらやりすごす。がこおん、がこおん、ビル工事の音が続く。ぜえぜえというのは自分の吐息。六時過ぎというわけでそろそろ窓から差し込む日の光もかげりだす。碇シンジはエヴァに乗れる。鈴原トウジはエヴァに乗れた。相田ケンスケはエヴァに乗れない。使徒迎撃用決戦兵器エヴァンゲリオンに委ねられし人類の命運は相田ケンスケごときには如何とも為し難い。
「アホくせえ……」
 胃液を吐いた後、ケンスケは寝床についた。

 土曜日は雨だった。
 雨雲だけでなく使徒も来た。
 避難をうながす警報が街中に鳴り響いた。
 ふらつきながらケンスケは、シェルターでなく市外縁の緑地帯を目指した。
 使徒の姿は見えなかった。赤いカラーリングの人型兵器エヴァンゲリオンが、ビルほどもあるそのサイズに見合う馬鹿でかいライフルを構えているのが、遠目に見えた。
 土砂降りの雨に傘は役に立たなかった。ずぶ濡れになりながらケンスケは見届けた。
 豪雨沛然その中でエヴァンゲリオン立ち上がり構え持ったるライフルを虚空に向けて轟と撃つや応えるごとく雲間より降り注ぎたる五色の光。
 ケンスケには何が何やら意味不明。
「エヴァンゲリオーン!」
 ケンスケ、絶叫。
「俺を撃てぇっ!」
 声が届くわけもない。
 届いたわけではないのだろうが、しかしその赤いエヴァンゲリオンは酔っ払ったように水平射撃をあっちにこっちに繰り返し、一発はケンスケから三百メートルほど離れた場所に着弾した。
「撃て! 俺を撃て! 俺を撃ってくれ!」
 雨の中、着弾の衝撃波で舞い上がった泥にまみれて、ケンスケ、叫ぶ、俺を撃て。
 そうこうするうちに赤いエヴァンゲリオンは地下に収容され、青いエヴァンゲリオンが現れて槍のようなものをあさっての方角にえいやと投げると警報は解除された。
 使徒は退治されていた。
 ケンスケの風邪はこじれて肺炎になっていた。

「ずっとやせ我慢してたんでしょ」
「ああ」
 溜息つくなよ、委員長。
「まあ、そう」
「せっかく鈴原が退院できると思ったら」
「委員長」
 そりゃ、アホくさい病室来るのは、アホらしいんだろうけど。
「トウジは退院するのか」
「そうよ、あさって」
「手伝ってやれよ」
「うん、そのつもり」
「俺の見舞いなんかもう来なくていいぞ」
「なにいってんの」
「なにって、つまり」
 見舞われるって慣れねえな。
 トウジ、お前、なんでエヴァに乗ったんだ。
「誰も委員長が学級委員長の公務とやらでトウジの見舞いしてたなんて思ってやしねえんだから俺の見舞いまでするこたないってこと」
「ちょっ、な、何よ急に」
「ホントに公務だけだったって、トウジがそう思い込んじまうぞ」
「え、あのっ、鈴原のは、そ、そんなじゃなくって、じゃなくって」
「でもな」
 そうさ、そういうことじゃない。
「傷病者には別に疎開枠があるんだろ」
「え、え、」
「って、プリントに書いてあった」
「ああ、ソカイワクって疎開の定員枠のことね」
「トウジのやつ、当てはまるかもな」
「鈴原が……」
「俺もさ、もぐりこめるようならもぐりこむ」
「疎開、するの?」
「だってよ」
 つまりはそういうことなんだ。
「俺、エヴァに乗れねえし」

 ある晴れた日曜の昼下がり。
 エヴァンゲリオンに守られて、今日も人類は平和だった。

 end


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ver 1.00
1999/07/20
copyright くわたろ 1999