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Death and Rebirth

 たとえば、私の母は、曲がり角で車にはねられての交通事故死というケースであったから、遺された人間にしてみればまさに青天の霹靂という衝撃ではあったが、少なくとも本人は限られた命数に怯えながらその日を待つということをせずにすんだといえよう。
 しかし、待ち受ける何もかもを知っていながら、それでも淡々と一日一日を送るには一体どういう覚悟をすればいいのか、私には、目の前の少女の胸の内は、憶測すら出来ない。
 いや、出来たところで、憶測というよりも邪推か。
 我々は、私は、彼女の死を防ぎ得ない。それどころか、死を積極的に是認しているとさえいえる。そんな人間に彼女の心をあれこれと忖度する資格などあろうはずが無い。
 しかし、この無口な少女と日常的に顔をつきあわせている数少ない人間の一人として、その内面に持つ私への感情が、憎悪であるのか怒りであるのか、それとも表に現れる言葉の通りに関心が無いだけなのかは、やはり気になる。
 そう、私は、彼女でなく、彼女の私への評価を気にしているのだ。
 彼女自身を案じることは、もはや私には不可能だ。
 彼女は絶対に理解不可能な存在なのだ。
 この部屋で一緒の時間を過ごすたび、その思いは強まるばかり。
「はい、おしまい。ごくろうさま」
 自分の明るい声に反吐が出る。
 彼女はゆっくりとベッドから身を起こすと、胸についた心電図の端子を外しはじめた。慣れた手つきだ。我々が慣らさせたのだ。もう何度も繰り返させたのだ。その日まで繰り返させるのだ。
「鉄剤、ちゃんと飲んでね、レイちゃん」
 静脈から5ccを三本採血した右腕をさすりながら、彼女は肯いた。
 検査の後は、色白なこの少女が、ことさらに透きとおって見える。日を追うごとにそれは進む。きっと私は、透明になった彼女の夢に怯えるのだろう、今夜も。
「えと、じゃあ、次は」
「来週の金曜日です」
「そ、そう。そうだったわね、じゃあ、CTは来週ね」
「はい」
 ありがとうございましたと一礼した少女が私を置いて出て行く簡素なこの部屋には、第三処置室、と札がかけられている。たしかにここで繰り返されるのは診察や治療ではない。言い得て妙だ。
 綾波レイは処置の対象であり、私は処置の器材といえる。
 彼女の肌の白さは、そのことを気付かせる。

 人工進化研究所は、その扱うものの重さに比べて、人材が決定的に不足している。
 研究員に限れば新しくスカウトされることはほとんど無く、一方で激務に耐えかねて辞めていく人間は多い。
 この研究所を彩るのは、片鱗すら公表できない研究内容からやむなく必要とされる、偏執的ともいえる秘密主義だ。
 それは他の機関との交流がなされないことも意味する。当然、人員不足以上に研究にはマイナスに働いた。研究の発展を困難にさせ、放棄することの出来ない過去の遺産を維持することがやっとという状態にさせていた。
 遺産の筆頭は綾波レイという少女だ。
 彼女が人間であるかは微妙だが、ともかく外見は少女であり、これは科学的な態度とはいえないのかもしれないが、私はその指示語として“あれ”や“それ”でなく“あの子”とか“彼女”とかを使ってしまう。“彼女”の目の前であるによらず。
 “あれ”と呼べたらと思う。
 人格はある。あれに。
 ……だめだ、彼女、だ。
 彼女に人格はある。それを否定するデーターが一つも無い以上、あると見なすことは間違いではあるまい。これは重要なことだ。戸籍とか市民権とか、そんなものが欠けていることにくらべれば、非常に重要なことだ。
 私にとって、無視できない、重大事なのだ。
 それなのに、彼女の担当は、私なのだ。
 だから彼女は小さく頭を下げながら私の待つ処置室のドアを開け「おはようございます」袖をまくりベルトをはめ「お願いします」血圧を測り終えると「あ」「下がってるわね。ちゃんと運動してる?」「規定通りには」口数少なく無表情な彼女に対してたまに短いながらも会話などしながら普通は5ccを採血し研究班から要請があれば「お願いします」造影剤を注射しCTなども撮影して「ありがとうございました」
 
 そこでなぜ私に感謝する! 綾波レイ!
 
 だから、私は、彼女が去った処置室で、脱力感を味わうのが常だ。
 ありがとうございましたといって死んでいった綾波レイを思い出しながら。


 綾波レイとはその遺伝形質を持つ存在の呼称だが、単独の存在を指す名称ではない。同時に複数存在しないから、便宜的に固有名としても使っているだけだ。
 過去、八人の綾波レイがいた。
 彼女たちの寿命は平均して十七、八年といったところだ。成長期は人間と同程度あり、つまり成長が終わる頃にその一生を終える。これには何か意味があるのだろうが、単なる医療技師の私には例によってここの秘密主義のおかげで情報がおりてこない。
 先代の、八代目の綾波レイの死に、ここに入ったばかりの私は立ち会った。
 私には、それまでに葬儀に参列したことはあっても、身内の臨終を見届けたことはなかった。脳波計が描く波の間隔がだんだんと間遠になっていくのを見ながら、私は自分の少女時代を思い出し、母の亡骸を思い出し、それに取り縋って泣いていた自分を思い出した。
 この時、八代目綾波レイは、集中治療室なる区画にあるベッドで、人工呼吸器も無論付けられてはいたが、それよりもその死を逃すまいという目的の下、胸やら額やら手首やらにあらゆる検出器を付けられて横たわっていた。
 やがて脳波が止まった。
 私は隣室でガラス越しにそれを確認した。
 同じ部屋にいた二十人ほどの技官、研究員のうちの半数がそれと同時に入れ替わった。
 私は交代する人間に含まれていなかった。よって、その後の経過も知っている。綾波レイの胸は、なお二十時間かすかに上下した後に、停止した。
 九代目、現在の綾波レイが、まもなく生まれた。
 綾波レイの死と新生に私は涙した。しかしそれが母の死に際して、友人の出産に際して流した涙と同じだったとは、とてもいえない。綾波レイの死と新生は、悲しむべき、喜ぶべきものである以上に、恐怖だった。そこにこそ人工進化研究所が彼女を極秘のうちに管理し続ける最大の理由があるのだと頭ではわかっていても、死を経て生まれる人間に、恐怖してしまっていた。ああ、せめて人間とかけ離れた外見であってくれたなら!
 彼女は人間だ。
 あまりにも人間とかけ離れた人間だ。
 私には、いまだに彼女を一部の研究班のように“それ”とは呼べず、“彼女”、つまり人間として接しようとして、罪悪感を募らせる一方の毎日を送っている。

 そろそろ適齢期とかいうものも終盤にさしかかる結婚歴無し独身女性の私には、仄めかすようなものも含めれば月に一度は縁談がある。
 すべて断っている。
 アルコールの入った時など、とっとと研究所を寿退社して専業主婦に就職しようかとも思うのだが、結局そうは出来ずにいる。
 理由は綾波レイだ。
 ありがとうございました、だ。
 恐怖せざるをえない存在である少女が、八代目としての一生を終える直前、意識を失う直前に述べた一言、ありがとうございました。その時、私は少女の目を見てしまった。彼女の、吸い込まれるような瞳が光っていた。その光は、たしかに私に向かって、ありがとうございましたに続く言葉を語りかけていた。
 おねがいします、と。
 私はもう離れられない。
 綾波レイから。
「おはようございます」
 だから私は第三処置室で命数の限られたこの少女を迎える。
 結婚などする気になれない。
 子供を産むなど考えられない。
「おはよう、レイちゃん」
 今日も悪夢だろう。
 だが、研究所から、綾波レイから離れたところで、悪夢が終わるとは思えない。
 とても、思えない。

「食欲、ある?」
「はい」
「勉強、してる?」
「はい」
「昨日は何をしたの?」
「スケジュール通りです」
「それで眠れた?」
「はい」
「そう……」
 彼女のスケジュールの、ほぼ三分の一は、記憶の継承の確認作業にあてられている。
 肉体的には誤差範囲内で人間である綾波レイ、その間では全く同一の遺伝子である彼女たちに継承されていく先代の記憶、これが綾波レイの綾波レイたるゆえんだ。
 学習せずに得る記憶。どんな原理なのかは私にはさっぱりわからないが、綾波レイは綾波レイとして生きる間に得たものを次代へと継承しているという。これを聞いた時は、その意味するところが咄嗟には理解できなかったが、今では綾波レイが、綾波レイのオリジナルともいうべき存在の単なるクローンでないことくらいは、わかる。人間の定義そのものに挑戦する、野心的とも身の程知らずともいえる研究がされていることも、わかる。
 その素材が綾波レイであるということも、わかる。
 わからないのは、彼女の内面だ。
 死ねばそれまでの私ごときには、おかしな言い方かもしれないが死ぬまで理解できない謎なのだろう。
「終わったわ」
 端子を外す彼女。
 服を整え、静かにドアへと向かう彼女。
 ありがとうございました、と頭を下げる彼女。
 研究所で生まれ研究所しか知らず研究所で死ぬ彼女。
 脇で見るだけの私。

 綾波レイは十六歳になった。
 私は三十八歳になっていた。
 綾波レイにとって、年齢とは、いかなる概念か。
 九代目である彼女の寿命は、あと一年か二年。
 私は、このままいけばほどなく綾波レイの最期を看取り、更に定年まで研究所に勤めるならば、もう一度それを経験する。天寿というやつを私が使い切るならば。
 一方で、綾波レイの記憶は、連綿と続く。
 綾波レイは、その後もその記憶を次代の綾波レイへと引き継ぎながら、死に、生まれ、死んでは、生まれる。
 彼女の死は、死ではない。
 だが、死だ。
 同様に考えれば、彼女は生であって生でない生を送っていることになる。
 私は哲学者ではないので、生死を避けて通る巧い表現が見つからない。しかし、母の遺体の冷たさは忘れられず、八代目綾波レイの死も忘れられず、かといってつい先ほどまで処置室にいた綾波レイの白い肌を直に触って測定した脈拍を否定するなど出来るわけも無く、よって生死に撞着する私には相変わらず綾波レイは理解不能。
 ただ、最近は、逃避に過ぎないのかもしれないが、それでもいいと考えるようになっている。
 私は見た。
 彼女は笑うことを知っている。
 研究所の中庭に面した窓辺でしゃがんでいる彼女のすぐ外を白い蝶が飛び、それに引き摺られるように彼女の顔が動いた時、そこにあったのは笑顔だった。
 それが継承された何代目かの記憶なのか、彼女自身が獲得した所作なのか、あるいは単なる反射なのか、それはわからないが、口数少ない彼女も笑うことができる。本人が意識しているかはわからない。確かめようにも、そこまで立ち入った会話をする権限は、私には無い。
 それでも、私は彼女の笑顔を見た。
 よかった、と思った。
 理解不能な存在でも、その笑みは、美しかった。
 脇で見ているならば。

 MRIによって脳の撮影を行った時だった。
 終わった後で、彼女はガウンから部屋着に着替えつつ、自ら切りだした。
「さなぎが孵りました」
「サナギ?」
「紋白蝶のさなぎです」
 特定の事象についての発話だった。この場合、規定では、どの医療器具の操作卓にも必ず設置されている録音ボタンを押さねばならない。
「どこで見つけたの?」
 なぜか、ボタンに乗っている私の人差し指は、この時に限ってそれ以上の力が入らなかった。
「中庭にいました」
「えらいね。ずっと観察してたんだ」
「はい、部屋に持っていって」
 何だと。
「それ、他の人には話したの?」
「誰にも話してません」
 馬鹿な。彼女の居室はクリーンルームだ。
「……どうして、私に、話してくれるの?」
 すると彼女は笑った。
 かすかにだが、笑った。
 瞳が光っていた。
 やられた。
 私は報告しなかった。
 彼女の居室から紋白蝶が発見されるまで二日かかり、直ちに室内の全ての備品が滅菌済みのものに交換され、彼女の体も口腔から肛門まで徹底的に消毒を施された。
 十日ばかり間を置いて、彼女は再び第三処置室に来た。
「おはようございます」
 という彼女の顔は、いつもと変わりないように見えた。
 その日、夢の中の綾波レイは、いつもと違って蝶の姿をしていた。
 もっとも、透明になって消えてしまうところは、いつも通りだった。


 九代目綾波レイの死が近づいていた。
 蓄積された研究は伊達ではなく、その死期を正確に予測できるのだそうだ。
 治療できないところを見るとその研究とやらに何の意味があるのかと思ってしまうが、しかしそれが寿命だといわれると、では治療とはなんなのかとも悩んでしまう。
 それに綾波レイならではの問題もある。
 九代目の延命とは十代目の誕生を妨げる行為なのだ。
 綾波レイを前に、“人間”は常に深刻なジレンマに陥る。
 生も、死も、少なくとも我々とは違う意味を持つ彼女。
 だが、私にとっては、更に別の意味がある。
 なぜなら、そんな彼女が笑うのだ。それもどうやら私だけに笑うのだ。美しい、少女の笑みを、天使のような微笑みを、あろうことか私だけに投げかけるのだ。
 天使にも見える。
 死神にも見える。
 彼女の心のうちはわからない。私にわかるはずが無い。
 わかるのは、彼女の笑顔が私をとらえて離さないということだ。
 処置室での対面が出来なくなっても、彼女との繋がりは終わらない。
 彼女がベッドから立てなくなり、ストレッチャーに乗せて第三処置室まで運ぶことも出来なくなってからは、私の方が彼女の居室へと出向くことになった。
 前回と同じだった。
 それが一月も続いた頃だろうか、その時、酸素マスクで顔の下半分が覆われた彼女は、私が彼女の胸を清拭して心電図の端子を付ける時に、くぐもった声ではあるが、はっきりといった。
「ありがとうございました」
 直後、昏睡状態となった。
 紙のように白い肌の彼女は、そのまま集中治療室へと運ばれた。
 そして、三日を要した。
 九代目綾波レイは死に、十代目綾波レイが誕生した。
 だからまた、理解は出来ないまま、綾波レイの一生を見守らねばならない。
 最期の言葉を発した彼女の目は語っていた。
 おねがいします、と。
 私は彼女に見込まれたのだ。天使から使命を授けられたのだ。
 勝手な思い込みだということはわかっている。あまりに罪深い研究に加担している後ろめたさゆえに、そう思いたいだけなのだということはわかっている。だが、あの目を見てしまった以上、私には選択の余地は無い。
 綾波レイの笑顔と共に、自己欺瞞に満ちた罪の日々は続く。
 綾波レイの瞳と共に、悪夢にうなされる日々は続く。
 その中でこう考える瞬間もある。
 死ねる私は彼女よりはましだと。
 そのたびに思い知らされる。
 私は人間なのだと。
 どうしようもなく人間なのだと。

 end


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ver 1.00
1999/06/03
copyright くわたろ 1999