《↑目次へ》


メッセージを思い出す

 送風機は止まっていた。
 既に廃ビルといっていいだろう。
 空気は澱んでいた。まるであれから分子の一つも入れ替わらなかったかのように。
 その中で、私は待っている。

 日没が近い。
 だが、室内の熱はひかなかった。
 額を押さえたハンカチには汗とファンデーションがにじんでいた。それで化粧をしたままであることを思い出した。
 唇を試す。拭った人差指は赤くなった。私は口紅をさしたままだ。
 死化粧、と声に出すと、無様に膝が震えた。
 思い出す。
 あの時、彼は髭を剃っていなかった。
 更に思い出す。
 くたびれたシャツ。無造作にまとめた後ろ髪。微笑の中の遠い眼差し。最期の言葉。
 血の海に伏せる彼。
 そして思い出す。
 銃の重み。
 硝煙。
 あの時、私は泣いたはずだ。
 私に撃たせた彼に、私に何もいわなかった彼に。
 泣きながら、ここで、私は、死体を検分した。
 死体になった彼の笑顔は歪んでいた。
 苦痛を感じていたはずだ。私は一発で急所に当てることなど出来なかったのだから。
 指先を見る。指先の赤い口紅。
 赤い指。
 それとも、この赤色は止まった送風機の隙間から差し込む夕陽だろうか、それとも、それとも、それとも。
 それとも。
 私の視線は床に落ちる。
 思い出す。
 震える。
「来て、はやく」
 私は待っている。
 葛城ミサトを。

 ミサトはここに来る。
 願わくは怒りだけに身を任せて私を裁いてほしい。
 ミサトも私も、そして彼も、出会った時、そこにはゲヒルンもエヴァも無かったのだから、再びあの頃のミサトのように、矯めることのない感情をぶつけてほしい。
 もう、私も心を取り繕うのはやめたい。特に、ミサト、あなたには。
 ネルフが消えてしまった今では。
 碇司令がいない今では。

 ミサト、あなたの復讐は終わった?
 もう使徒は来ないわ。エヴァも用済み。ネルフも、その衣を被って蠢いてきた何もかも、新しい世界にとって用は無いわ。
 十五年遅れの新世紀、ミサト、あなたは生きられるはず。
 だって、加持君は前を見ていた。
 銃を突きつけた私を前にして、加持君は、ミサト、あなたを見ていたのよ。未来を生きるあなたの姿を。
 だから、生きて。
 そしてその前に裁いて。
 私を。

 大きな足音だった。
「探したわよ」
 息が荒い。目の前に現れたミサトは礼服のままだ。
「着替えなかったの」
「え……」
 ミサトは肩に手をあてて気付いたらしい。一佐の階級章の輝く軍装。
「塩かけてきた方がよかったかな」
 何かの冗談のつもりだろうか、ミサトは歪んだ笑みを、彼女らしくない笑みを浮かべる。
 冗談。
「復興委員会首席軍事顧問」
 と、呼び掛ける。
「旧人工進化研究所とその構成員はどういう処遇を受けるのか、教えてくれる」
「解体と取り調べよ」
 端的な答え。
 ありがとう、ミサト。
「他に聞きたいことは」
 ありがとう、ミサト。
「質問ではないけれど、いいかしら」
「さっさといいなさいよ」
「マヤの経歴のことよ。在学中にゲヒルンのアシスタントであったことになっているけど、それはあの頃ややこしい手続きを省くために私が操作したからなの。だから、あの子を調べても何も出てこないから」
「例外は認められないわ」
「そう」
 そういうものよね。
 昇進するたび、権限が増えるたび、知らず知らずのうちに縛られることが多くなる。
 気付いた時にはもう抜け出せない。
 そういうものなのよ。
「今度はこっちが聞く番よ、いいわね」
 ええ。
「このあんたの銃、旋条痕が一致したわ」
 ええ、そうよ。
「指紋は、あんたのしか、付いてなかった」
 そうよ、私しか触ってないから。
「あんたバカよ」
 そう。
「黙って肯いてるだけじゃなくて、何とかいってみなさいよ! どうしてこれ見よがしにこんなもの、血も拭き取らずに机に放っておいたのよ!」
 見つけてほしかったのよ。
 あなたに。
「答えなさいよ! どうして加持を殺したのがあんたじゃなきゃいけないのよ、どうしてなの! 答えなさいよ!」
 泣かないで。
 私は済ませてから泣いたの。だからあなたも、まだ泣かないで。

 ミサトは泣いた。
 泣きながら私の頬を打った。
 打たれる私に既に流す涙は無い。
 二発、三発、四発、ああ、平手の数が私が引いた引鉄の数を超えた。
 五発目、指先が目尻をかすめて、私は声を上げてしまった。ミサトが私の襟首を掴んでそのまま私を壁に押し付ける。六発目の代わりに鳴咽。
「何で、何で、あんたが殺さなきゃならなかったのよ……」
 ミサトは泣いた。
 泣いてくれた。
 ありがとう、ミサト。
 お礼に、なるかしら。
「伝言があるわ」
 涙を伝わせながら、ミサトは目を見開く。
「加持君からの」
「伝言……」
「別の手段で聞いているとは思うけど、伝えるわ。真実は君と共にある、って。おめでとう。あなたと加持君の勝ちよ、首席顧問」
 今度の平手は、力任せの、火花が見えるような平手だった。
「いつから私たちが勝ち負け競うようになったのよ」
 いつからだろう。
 思い出せない。

 思い出すのは送風機の音。
 単調に上下していたうなりの音、その中で聞いた最期の言葉、銃声、硝煙、血。
 もう、送風機は止まっている。痕跡も、私の銃以外は、すべて処理済みだ。
 だからミサト、あとはあなたが裁くだけよ。
「ここがその場所なの」
 私の言葉を、目の前の泣きはらした瞳が追いかける。
「加持君、ここで、丸腰で、一人で待っていたの。何もかもわかっていたんでしょうね、私が来ることも、ミサトが来れないことも、どこへ逃げてもいずれ消されるということも。だからあなたに託していたのよ、掴んだ情報のすべてを」
「ここで……」
「そうよ、ここで私が」
 再び、私の胸倉を掴んだミサトの手が持ち上がり、私の背は壁に付く。
「リツコっ」
「だから……」
「だから、何よ。ここまで引っ張り回して、その上、私に、何をさせる気」
「私……を……」
「ふざけんじゃないわよっ!」
 怒声。投げ出された私は埃の積もった床に手を付いた。
「違う! あいつは、あきらめてたんじゃ、ない! もう一度、もう一度、私に会うって、その時のための言葉があるっていってたのよ!」
 嘘だ。
 それは彼の嘘だ。
 彼は笑って私に撃たれた。あれは生への執着を残した者の見せ得る顔ではなかったはず。
 では、なぜ、嘘をついたのだろう。
「加持君らしいわね」
 崩れ落ちた。
 私でなく、ミサトが。
 裁かれるは私であるはずなのに。

 ミサトの手には銃がある。
 ビニール袋に入ったままで証拠能力を失っていない、私が彼を撃った銃が。
 袋を破る気配が無い。
「他に、メッセージは」
 袋を破って私に突きつけることもせずに、ミサトは尋ねた。
 メッセージを思い出す。
 真実は君と共にある。
 ネルフの存在理由を粉砕し、委員会の権勢を失墜させ、世界を新世紀へと導いた真実という力。
 おめでとう、ミサト。
 あなたの復讐は、あとは赤木リツコ一つだけよ。
「それだけよ」
「そう」
 ミサトはしゃがんだままだ。
 復興委員会首席軍事顧問が、国際指名手配中の重犯罪容疑者と、しゃがんでいる。
 送風機の隙間からさす残照の中を飛ぶ埃が見えていた。
 いずれは収まるだろう。
 送風機が止まっているのだから。
「どうしてリツコが自分で撃ったの」
「あなたがここに来たのと同じ理由よ」
「どうして逃げずにこんなところで待っていたの」
「伝えていなかったからよ」
 送風機が止まっている。
 もう動かない。
「メッセージを」

 end


《↑目次へ》

ver 1.00
1999/05/02
copyright くわたろ 1999