光が薄れていく。
四方を埋め尽くしていた白い光の減衰を視認すると同時に、彼女は、自分を、見て、身に纏っているものがプラグスーツであることを思い出す。
色彩が戻る。廊下に立っている自分。なぜだろう、座っていたはずなのに、エントリープラグにいたはずなのに。
思い出す。使徒。侵食。幻影。心おもむくままに行ってしまった初号機への干渉。全てを断ち切るための逆位相ATフィールド。自爆シークエンス。白い光。
思い出す。エヴァンゲリオン零号機パイロット、ファーストチルドレン、綾波レイ。
手のひらを見る。薄いプラグスーツの表皮をとおして浮き出て見える血管ではありえない網目模様。
使徒、使徒、使徒。
思い出す。ドッペルゲンガー。そう、さみしいのね。
思い出す。心。
思い出す。涙。
思い出す。笑顔。
見渡す。廊下。誰もいない廊下。並ぶ扉。既視感、虚脱感、喪失感。
そう、さみしいの。綾波レイは死んだの。今ごろは綾波レイが生まれているの。
醜く膨れた手を伸ばす。扉を開く。そして踏み込む。部屋。懐かしい部屋。何もない部屋。かつて私がすごした部屋。でもこれは嘘の部屋。本当の部屋では今ごろ私がビーカーで水を飲んでいるかビタミン剤を齧っているか碇司令の眼鏡をまさぐっているか壁の染みを眺めているか膝を抱えて命令を待っているかそんなことは知ったことか。
私は、私じゃ、ない。
この手は、もう、違う。
奇妙な筋の浮き出た手。
刻まれたしるしが告げる。私は綾波レイじゃない。綾波レイは他にいる。なら私は誰。今度は誰になればいいの。いくら考えても答えが出ない。わからない。だから彼女は問い質す。碇司令、私は何者であるべきでしょう。
誰もいない部屋に答えは無い。
誰もいない部屋。誰も来ない部屋。この部屋に許される存在は綾波レイただ一人。私は綾波レイじゃない。
碇司令、私はどこへ行けばいいでしょう。
答えが無い。
この部屋を出なければならない。
出会う。
子供。
幼かったころの自分と同じ形をした子供。
ワンピースの子供服。その子は笑って首筋を見せつける。紫色の指の跡。そう、あなたもしるしがついてしまったの。
ここはどこと子供に問う。
しらないよと子供はいう。
ここにいてもいいのと子供に問う。
どこにもいけないよと子供はいう。
あなたはだれ。
あなたこそだれ。
私は綾波レイだった。
私も綾波レイだった。
誰になればいいの。
誰にもなれないよ。
本当にそれでいいの。
本当にそれでいいよ。
それでもそれがいやだった彼女は自分の手をもう一度見返した。しるし。皮膚の下にミミズでも這っているようにしか見えない醜いしるし。そんなしるしがいやだったから、地面に手のひらを打ちつけた。何度も何度も打ちつけて、それでもしるしは消えなかった。だからしるしの付いた手そのものがいやになった。手首から打ちつけた。何度も何度もやっているうちに手首が折れた。
無駄だよと笑い声。
無駄なはずがあるものかと手首を捻じ切ってはみたものの、片方を切るともう片方を切る手が無くなってしまった。そのうち切らなかった方の手首が治ってしまった。切った方の手もまた生えてきた。どちらにもしるしがあった。
無駄だよ、私だって何度も首を切ってみたから。
ならどうすればいいの。
なにもしなくていいよ。
そんなのはいや。
そう、さみしいのね。
そうよ、そうなのよ。
長い廊下。
はてしない長い廊下に幾つもの扉、扉、扉。
部屋、部屋、部屋。どれもこれも何もない部屋ばかり。綾波レイの部屋ばかり。どこかに一つくらい私の入ってもいい部屋はないのですか。
開ける、開ける、開ける。閉める、逃げ出す、背を向ける。こんなのはいや。私は綾波レイじゃない。綾波レイはもう死んだのよ。綾波レイなんて綾波レイに任せておけばいいのよ。私は綾波レイの抜け殻なんてもういやなのよ。開ける、閉める。開ける、閉める。どうしてこんな抜け殻みたいな部屋ばかりいくつもいくつも並んでいるの。
開ける、閉める、思い出す。綾波レイの最後の思い出。光の中に見た笑顔。碇司令、碇司令、碇司令、碇司令、碇司令、碇司令、碇司令、碇司令、碇司令。
命令を下さい。
捨てるなら捨てて下さい、縛るなら縛って下さい。綾波レイの抜け殻のままちゅうぶらりんなんてあんまりです。私のことを忘れたのなら私にも碇司令を忘れろと命令をして下さい。私のことを忘れてないなら私がここから出られるようにして下さい。どうしてそんなに優しい顔で笑っているだけなんですか、碇司令、碇司令、碇司令。もう、さみしいのは、さみしいだけなのは、いやなんです。
開ける、閉める、逃げる。
命令が届かない。
時は巡る。
三人目がやってくる。
三人目が問う、ここはどこ。
迎える二人、しるしの二人、声をあわせて答える二人。
ここは綾波レイの永遠の墓場。
ここは魂の座。
end