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そしておとずれたパラダイス

 ぼんやりと子供の頃を思い出す。
 サードインパクトという名から、ならば一つ前はどうだったかと、セカンドインパクトとその後の混乱、小学生だった私にもひっくり返った盆のような有り様に思えた世相を思い出す。
 思い出す度、その違いに戸惑う。
 世の人の心の変わりようとでもいおうか。
 今回、物質的被害は、特に私の住んでいる第三新東京市では著しいのだが、そこで失われた物について周りの皆はどこか執着が無い。
 十五年前はそうではなかった。人間というのはもっと貪欲だったはずだ。だからこそ短期間に復興が為ったのだ、と確か高校の時に読んだあるエッセイには皮肉げに書かれていた。
 もう一度繰り返されて、飽きてしまったのだろうか。
 それとも、補完されたというべきか。


 凄惨な破壊を経ても変わらない日常はある。
 私の場合、今も国連機関ネルフの職員であることが、それだ。はげた山肌を遠目にトラムに揺られながら、今日もジオフロントと呼ばれる地下空洞にある職場に向かう。ただし、地下といっても、ジオフロント天蓋はサードインパクト直前の弾道弾攻撃でかなり破壊されたので、正午を挟む短い時間だけの日光がある。
 仕事の内容は、変わったようでそれほど変わっていない。
 ネルフ全体でいえば大きく変わった。私はある時それが虚偽であることを知ったのだが、以前は少なくとも表面的には世界の平和を守るためだった。現在はその資産と技術を復興のために再配分することを目的としていて、こちらは私が知り得る限り真実だ。
 だが、私の仕事に限れば、相変わらず即座に軍事転用可能な技術開発が主であるため、防諜規定に何重にも取り囲まれているのも変わらない。ただ、サイエンスの好奇心が満たされるという点も変わっていないのでありがたい。
 ついでに、食堂のメニューが変わっていないのも、嬉しい。
 ここの海藻パスタは、私の好物だ。
 同僚の青葉君は、それを知っていて茶化す。
「マヤちゃんさ、たまにはパスタ以外たのんだら」
 そういいながら、彼は私の前の席に、カツカレーを乗せたトレイを置いた。
「いいじゃない、美味しいんだし」
「そうかなあ」
 パスタを金輪際たのまない青葉君というのも、ある意味偏食だと思うわけ、私は。
「ここのカレー、いっちゃ悪いけどキャンプで作るような味じゃない」
 食べおわるのを見計らって、いう。
「構わないけどね、俺は。安いし」
「でも、自分でももっと美味しいの作れるなら、わざわざたのまないけどな、私なら」
「そりゃいい。いつか御馳走になるよ」
 そういう躱しをするか。
「カレーくらい簡単よ、青葉君でもね」
 すると彼は、肩をすくめて水を一杯。

 ロッカールームにはいくつか空のロッカーがある。
 亡くなった人の使っていたものだ。
 私、伊吹マヤの、隣のロッカーも、名札が無い。
 去年までは赤木リツコと書かれていたが、今は空だ。
 直属の上司だったということもあり、私はわずかに職場に残っていた赤木先輩の遺品を携えて通夜にも告別式にも出席した。
 独身だった先輩の喪主は、他に係累が無いとかで先輩の母方の祖母がつとめていた。彼女は娘と孫娘に先立たれたことになる。
 彼女には、職場での先輩のことを、有能な科学者であったと伝えた。
 実際、先輩は自分の職分にかけては天才的な才能の持ち主だったし、私もそれに憧れていたし、いつしか憧憬以上の親愛以上の感情を抱いていた。だから覚悟はしていたが、話すうち、やはり涙が絶えなかった。
 それでも、踏み止まった私の理性が話させなかったことがある。
 先輩が、サードインパクトに深く関わっていたことを、だ。
 故人を鞭打つような気がしたからだ。
 防諜規定のこともある。
 私自身のことを探られたくなかったからといわれると、それも否定できないが。
 赤木家はちょっとした資産家のようで、なんと墓地を持っていた。今まで自前の墓を羨むことなどなかったが、納骨の際に何かを一緒に納めるということは、大抵の人の骨が入る先であるコインロッカーのような墓では難しい。
 私が持っていった、猫の柄のマグカップが、そこに入った。
「先輩はずっとブラックでした」
 すると彼女は、
「これからは落ち着いて飲めるよね、りっちゃん」
 といって、墓に刻まれた文字を節くれだった指でなぞった。
 彼女は先輩の仕事の内容を知っていたのかもしれない。
 職場は渋ったが、私は強引にもう一日休みをとって、葬式の後始末も手伝うことにした。通夜の際に感じたのだが、先輩は実家の方では人付き合いがあまりなかったらしく、出席者というのは先輩の祖母の知り合いがほとんどで、私以上に先輩を個人的にも知っている人はいなかった。
 私の知る範囲では、先輩にも親しい友人はいたのだが、その人もやはりサードインパクトの前後に命を落としている。
 私が思い付くまま、ただし言葉を選んで先輩のことを話していると、時折彼女は子供の頃の先輩のことを懐かしそうに話していた。だが、どこまで先輩が仕事の内容を漏らしていたのかを聞き出すことは、結局出来なかった。
 一通りのことが終わり私が家を辞する時、彼女は何度も何度も頭を下げた。あの子も喜んでいるでしょう、と繰り返した。
 その彼女に予感を持った。
 死を選ぶのではないかと。
 傾向は現れている。
 自殺者の統計自体は微増だが、それらしい交通事故は増えているし、失踪者も多くなっている。これは世界的な傾向でもある。
 私は仕事上必要な情報保安レベルが高いから、たまたま気付いた。
 同じようにこれに気付いた人が政府に働きかけたのか、最近こんなポスターが所々に貼られるようになった。
 “今を生きよう”
 と、政府広報がタレントの微笑を使って呼びかけている。
 空のロッカーの並ぶ部屋に。

「ねえ」
 と、カツ丼に食らいつく青葉君にたずねる。
「十五年前ってこうだったかしら」
「んあ」
 タイミングが悪かったらしく、詰まりかけたカツをしょっぱい味噌汁で流し込ませる羽目にさせてしまった。
「コウってナニがさ?」
「子供だったしね、よく覚えてるわけじゃないんだけど、あの頃も今とおんなじように街が丸ごと押し流されたり、人が大勢死んだりしたわけでしょう」
「ナニいまさら」
「でもね、それでも、生き残った人たちは一生懸命頑張っていたと思うの」
「ナニがいいたいの」
「だから、ええと、」
「仕事しろ?」
「ま、まあ、なんていうか、そんなかんじ」
 躱された。
 私も、それ以上続けるつもりはなかったので、流した。
 でも青葉君は間違いなく気付いている。
 今は部署が違うが、サードインパクトのその日まで、私と青葉君とは並んだ席で仕事をしていた。
 正確にいえば、間にはもう一つ席があって、そこに日向君という人が座って、その三人で私たちはネルフ本部の発令所に詰めていた。
 日向君はサードインパクトを生き延びたが今はいない。
 海辺のモニュメントに行って数日後、彼はアルコールと併用した睡眠薬の過剰摂取で死んだ。
 遺書が無かったため事故として処理されたが、私は自殺と見ている。青葉君もそのはずだ。
 モニュメントの解体は、現場も含めてネルフだけで行っている。
 その担当になった後、自殺、またはそれを疑わせる死を遂げたネルフの人間は多い。
 あの場所には、少なくとも自殺防止のポスター以上の力が存在するらしい。
 私は行ってない。

 私が選んだのは浅蜊を使ったパスタだ。
 青葉君は牡蠣フライ定食。パスタではない。
「今度の連休、どうする?」
 食堂で一緒になるだけとはいえ、ここのところ何度も続いたからか、調子づかせたかもしれない。
「関係無いでしょ、青葉君には」
「予定、あるの?」
「関係無いっていってる」
 せっかくの一番高いパスタなのに。
 無視を決め込んで食事に集中したがいまいち味気無かった。
 楊枝を使いながら青葉君はひとりごちた。
「海岸担当になった」
 そして席を立った。
 私はといえばフォークを持つ手が固まってしまった。
 青葉君がモニュメントに行く。

 三連休の前日、PTSD対策として精神科医によるカウンセリングを希望者に無料で実施することを各自治体に求めるという政府の決定が報じられた。
 そろそろ一般にも知れ始めたようだ。
 もっともここ最近の自殺の増加がサードインパクトによる心的外傷が原因かというと、政府はあくまで認めていない。何しろ日本政府の公式見解ではサードインパクトなどなかったこととして国際世論の責任追及を躱したのだから、いまさら蒸し返せるわけもない。
 それに、いわゆるPTSDとは事情が異なる。
 あの時、少なくともあの瞬間、皆が見たのは楽園だったのだから、ショックに陥った人間など一人としていなかったはずなのだ。
 三連休の初日と二日目は、赤木先輩の実家に行った。先輩の、そして幾多の犠牲者にとっての、一周忌だった。
 ネルフの人間で先輩の実家を訪ねたのは、私だけだった。
 遺影の前には、ネルフから贈られたという弔慰金が、手をつけることなく置かれたままになっていた。
 膳の手配などの法要の手伝いをさせてもらい、集まった人たちと遺影に見下ろされつつ思い出話を語るうちに、その二日間は過ぎていった。先輩の祖母は今度も頭を低くして私を見送ってくれた。その顔が遺品を渡した時よりもやつれていた。
 自宅に帰ると留守番電話に伝言が入っていた。
 青葉君が海に行かないかと誘っていた。
 連休が終われば、青葉君は仕事として海に行き、モニュメントに入ることになる。
 私は断った。
 三日目は断ったことを後悔しているうちに終わってしまった。


 別に深くは考えずに海藻パスタを選んだ。
 ふと、前の席を見ると、青葉君が座っていいかと尋ねていた。
 断れなかった。
「見てきたよ」
 青葉君はカツ丼。
「そう……」
 その箸の進みが鈍い。
 何もいえなかった。
 何か、話させてあげるべきだったと思う。
 彼はそれ以上は何も話さなかった。
 海辺に、波に洗われながら崩れずにその形を保つ横倒しの巨大な像。
 ただ単にモニュメントと呼ばれる。
 ネルフの中でも少数の人間は、それがかつて綾波レイと呼ばれていた少女と酷似していることを知っている。
 その少数の中に私も青葉君も入っている。
 自殺した人たちもそうだ。
 日向君もそうだ。
 日向君たちはそこへ行き、そのしばらく後で自殺した。
 気付くと、もう青葉君は食事を終えていて、前の席は空だった。
 いると思っていた人がいなくなっているというのは、厭な感覚だ。
 空のロッカー、空の席、何もかもが、厭だ。
 もう厭だ。
 だから私は追い駆けた。「青葉君!」
 彼が振り向く。
 穏やかな表情。
 予感を持った。
 青葉君は死ぬ。
「青葉くん……」
「ん、何?」
 そして結局何もいえなかったのだから私には悪趣味な政府広報を笑う資格などありはしない。

 子供の頃を思い出す。
 両親は前世紀の繁栄を語った。
 彼らは語るだけではなかった。失われた物を惜しみながらも、これから築き上げる物への熱意を子供にもわかるほどに、それが無に帰した今にしてみれば痛々しいと思えるほどに、溢れさせていた。
 今、状況は繰り返されたが、人の心は同じではない。少数の例外を除けば、皆は、私も含めてだが、過去を懐かしむことはあっても未来には目を向けない。そして懐かしむその眼差しの中にひそむものは、この十五年に対する徒労感だけではない。
 自殺者が増えている。
 世の人ひとしく楽園を目の当たりにしたサードインパクトのその日から。
 サードインパクト。その本質はもたらされた物質的被害などでは断じてない。あの瞬間、世の人ひとしく心を通わせた瞬間、楽園の瞬間こそが、生き延びた人々への致命的な一撃に他ならない。
 理性の範囲で信じようと信じまいと、垣間見たあの楽園に、心の深奥を揺さぶられなかった人などいるまい。
 そして執着少なくなった大多数の人たちに、少数の例外者からなる政府が“今を生きよう”などと躍起になって呼びかける。これがポストサードインパクトの現実だ。
 凄惨な破壊も、この異常な社会のあり方に比べれば、どうということはないように思える。
 ずれたまま回り続け、軋みが蓄積するだけの歯車のようなこの状況を、うすぼんやりと感じる程度に自分の心を閉ざしながら、今日も私は食堂で、いくつかあるパスタの中からどれにしようかと頭を悩ませている。
「青葉君」
 と、私から隣に座る。
 隣にいる彼を繋ぎ止めるには何を話せばいいだろう、少なくとも昼食の選択についてではないはずなのだが。
「パスタなんだ……」
「マヤちゃん、いつもこれっしょ」
「美味しい?」
「まあまあ」
 気ばかり焦りながら、私もまあまあと評されたパスタをフォークでかき回す。
 私の言葉は青葉君に遅れた。
「あの場所に立つとさ」
 青葉君は、もうあらかた食べ終えていた。
「色々なことを思い出すよ」
「そう……」
 私は何もいえない。
 物言わぬモニュメントは私よりも雄弁ということだ。

 青葉君の受け持っていた仕事は、モニュメントの眼窩にあたる部分から切り出される高分子結晶の分析と標本化だったが、ある程度進展して目新しい結晶が発見されなくなったとかで、それに従事する人間の規模が減らされた。その結果、青葉君はモニュメントの担当を外れることになった。
 危ない、と思った。日向君のこともある。モニュメントを経験し、そして一段落ついた辺りが、その時期なのではないだろうか。
 青葉君の海での最後の仕事が終わった日の夜、彼に電話をかけた。
 彼は出なかった。
 明くる日、何事も無かったように職場に顔を出していた。
 しかし、勤務時間終了間際にふと見ると、机の周りの片づけをしていた。いよいよ危ないと思った。「何してるの?」「何でもないよ」それが彼との最後の言葉になった。
 次の日はもう出てこなかった。三日後、彼は死んだ。オートバイに乗っていて、下り坂でハンドルを誤ったのだという。
 前部が酷くひしゃげた彼のオートバイを見た。
 そういえば、馬力や排気量がどうとかいう自慢話を聞いたことがあった。事故の場所も、難所の一つで走りがいがあると彼自身が語っていた。どちらも、いつだったかは、思い出せない。サードインパクト以前ということは確かなのだが。
 青葉家之墓というものは無かったので、荼毘に付された彼は、ごくありふれたロッカータイプの墓に納まった。
 自殺だったのだろうか。
 それは永遠にわからない。
 最後の瞬間ブレーキを躊躇したかなど、もはや確かめようも無いことだ。
 一方で、また新たな死者が生まれたという現実が、確定した。
「私のカレー、食べるんじゃなかったの」
 遺族の一人が骨壷ロッカーを施錠した。
 かちゃりという鍵音とともに青葉君は安置された。

 一人でパスタを食べていると、ぼんやりと心に浮かぶことがある。
 取り残されたという思いだ。
 赤木先輩はいない。日向君はいない。青葉君もいない。
 知る人全てが死を遂げたわけではない。なのに死んだ人間のことばかりが心に浮かび、その度に取り残されたという思いが強くなる。
 あるいはこれが理由なのだろうか。
 ポストサードインパクトの自殺の流行というのは。
 全ての人が心を通わせ一つとなった瞬間は、次々と周りの人間と死に別れるという現実を前に、輝かしい光を放つ楽園となって迫り来る。
 あそこには皆がいる。
 皆に会える。
 休日、海へ行くことにした。
 とうとう私は見たくなった。
 これまではどうしても辿り着くことの出来なかった、車でわずか三十分の行程。海岸道の路肩に車を停め、双眼鏡を構える。
 見た。
 沖合い、周囲に足場を組まれ、表層を部分的に削り取られながらもなお横倒しの女の顔とわかる巨大な造形。
 物質的には破壊しかもたらさなかったサードインパクトに於いて唯一の例外ともいえるその産物。
 あのモニュメントが出来るまでの一連の出来事とそれに伴うように発生したサードインパクトを、私たちネルフの人間は間近で見ていた。青葉君が、色々なことを思い出すといったのは、その辺りのことだろうか。
 サードインパクトの記念碑。
 楽園のよすが。
 見えた。
 何もかもが見えた。
 目元から双眼鏡を外す。涙が出ていた。止まらなかった。涙無しに、見ていられるものでは、思い出せるものではなかった。
 あれは楽園の入り口なのだ。


 生前の赤木先輩から、人類補完計画という言葉を聞いたことがある。
 それは遺伝子治療技術を用いた人工進化という話題の中で、ふと漏れ出た言葉であったため、それに類する一つのプロジェクトと私は考えていた。
 実際は違った。
 心の壁を取り除く。まさにサードインパクトの瞬間に実現されたことを目指していた計画であったのだ。
 補完は為された。あの一瞬に限り。
 そして人々はあの一瞬が忘れられず、それを目指して次々と旅立っている。
 人類の補完は再度進行中ということか。
「先輩……」
 パスタをかき回しながらぼんやりと考える。
 過去、自分がやってきたことに何の意味があったのか。
 未来、楽園を忘れられない人類に未来はあるのか。
 答えは多分わかっている。
 それが、まだ、私には恐ろしい。
 だからパスタをかき回すだけなのだ。
 だからぼんやりと考えるだけなのだ。

 end


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ver 1.00
1999/07/11
copyright くわたろ 1999