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チャルメラ

 九時少し前、だいだいそんな時間にその少女はやって来ていたものだ。一時間くらいの幅で前後することもあったが、十一時となるともうその日は来なかった。
 客の途切れた屋台の中で湯気にあてられていると、学校の制服を着た彼女が気配を感じさせずに現れるというのが常だった。
「らっしゃい」
 ほぐした麺を柄付きのざるに空けて湯に通し、スープは出来ているからそのまま。
「嬢ちゃん、チャーシュー乗っけなくていいんだな」
 湯気の向こう、夜を背景に白い少女は小さく肯くのが常だった。

 あの頃も夜鳴き蕎麦の屋台を曳いていたが、一年以上もあの場所では河岸を変えなかった。
 どこでも同じというのは、私にいわせれば、それは嘘だ。
 あそこは他と違っていた。
 それをいえば第三新東京市という街全体が他に無いある種異様な街だったが、その中でもあの一角は、また別の意味で私にとって特別な場所だった。
 第三東京とは建設の街だ。失われた繁栄に未練たらたらの都市名自体は私は嫌いだが、街でひっきりなしに続いていた大型工事は大歓迎だった。客の大半はそれに従事する人間だったから、もし建設ラッシュが途切れれば、その時が市外にまで場所を移すという時になったろう。
 街の景観は目まぐるしく変わっていった。詳しい工法など知らないが、十階建てのビル程度なら二十日かからない。これは造る時の話で、壊す時は一日。
 造っては壊し、造っては壊し、何をやっているのか見当もつかなかった。
 ようやく見えてきたのは、例の化け物が現れてからだ。
 何ともでかい話だった。化け物退治のために街を一つ造っていたという。
 化け物の方もでかい図体だった。今では映画の中にしかないエンパイアステートビルに映画の中でよじ登ったゴリラよりもでかかった。
 化け物が来るようになってから、壊す、というより壊される速さは当然上がった。造る方も速くしようとはしていたらしく、バスが毎朝のように市の中心部へと土方の男たちをピストン輸送していた。
 そして夕方には彼らはあの辺りに戻って来て、そのうちの何人かは私の茹でたラーメンに金を払ってくれていたわけだ。
 化け物に商売繁盛を感謝すべきかもしれないが、そうやって知り合った客の何人かが街を壊すついでとばかり化け物に殺されてしまってもいた。
 そんな街で、なぜか十四、五歳の少女の常連客がついた。


「お待ち」
 唇を湿らす程度にしか少女は水を飲まないくせ、そのコップを両手でかかえてラーメンを待ち、ラーメンが出されれば出されたで、割り箸を割る前にその丼にしばらく手のひらをあてる。
 お冷やのコップで手を冷やして、その後でラーメンの丼で温める、儀式めいた行為を繰り返していた。
 注文がまた変わっていた。ニンニクラーメン、ただしチャーシューは乗せない。これ以外をこの少女は一度として頼んだことがなかった。
 茹でる側としてはどうも気になってしまった。
 容姿も気にはなった。血走っているというわけでない、全体が赤く見える瞳とか、日に当たったことの無いかのような白い顔とか、澄んだ海のような色の髪も異様だった。だが、ラーメンを茹でる人間としてはラーメンというものを知っているのかどうかの方が気になるのだ。はたしてこの少女は豚骨だしの味を知っているのか。
 少女は極端に無口だった。ただし唖者ではなかった。
 これは饒舌な客よりはずっといいので気にならない。
 猫舌だった。レンゲ一杯のスープを何度も吹きながら少しずつ飲み下していた。
 こちらが気にすることではないのだが、そういう具合にゆっくりした食べ方なので麺が延びてしまうのではないかということは、やはり気になった。
 だからといって冷ましたラーメンなど出せるわけがない。
 そして少女は「冷麺はじめました」というメニューの添え書きなど目に入らないかのように来る度に繰り返していた。
「ニンニクラーメン、チャーシュー抜き」

 初めは一人ではなかった。他にも同じ学校の制服を着た子供が一緒だったはずだ。思えばその時から一人だけ妙な注文だった。
 常連になったのは、その妙に色の白い少女だけだ。
 二、三日にいっぺんは来てチャシューを乗せないラーメンをすすって帰ってゆく。
 そんな少女の帰る家とはどういうものだろうか。
 夕食の団欒は想像出来ない。
 親はいないか、あるいは食事を作る暇が取れないような仕事で、本人も夜遅くに食べに来るというのにいつも学生服だから、部活か何かで忙しい。
 いつも同じものというのは、かなりの偏食家なのだ。ここ十年は世の中も、第三東京名物の化け物を除けばそれなりに落ち着いてきて、子供が好き嫌いを徹しても食いはぐれるようなことが無くなったのは事実だ。だから幼い味覚のままだったのだろう。
 ひょっとしたら一種の病気だったかもしれない。少なくとも色白さは病人並みだった。豚肉アレルギーというものがあるのかもしれない。それともチャーシューは駄目だがラーメンはいいという程度に胃弱だったのか。
 少女の帰る先は病院、というのが私のたてた推理だ。
 患者の院内服を学生服に着替えて、看護婦達の監視の網をかいくぐって病院を抜け出すという大冒険の末に、病院食では味わうことの出来ないであろうニンニクラーメンを食べに来ていたのだ。
 しかしそれなら一つのメニューにこだわらずに色々と試すのではないかとも思う。
 ミステリーである。
 夜鳴き蕎麦という冴えない稼業でも、変わった街で腰を据えて麺を茹で続けていれば、謎めいた少女のもたらすささやかな珍事に出くわすということだ。
 最初に何人かで来てその次の夜、彼女は一人で来た。そしてニンニクラーメン、ただしチャーシューは乗せるなという注文を繰り返した。
 それから立て続けに三晩やって来て、彼女はチャーシューを乗せないニンニクラーメンを食べた。
 それ以来、第三新東京市という変わった街の中でも何の変哲もないある路地が、私にとって更に特別、というよりは気掛かりな場所になったのだ。

 客にも色々いる。
 金を貰う方としては選り好みは出来ないが、やはりもう一度来てもらいたい客とそうでない客の別はある。
 無駄口叩かず、うまそうに、残さず食べてくれる客が私は一番ありがたい。
 白い少女は無言で残さず食べていた。それはいいが、うまそうに食べていたかというと、そうともいいきれない。かといって露骨に不味いという顔をしたというわけでもない。
 それ以前に瞳が変わった色をしているからそこに注意が向いてしまうせいなのか、表情というものが読み取れなかった。目を見ないことにして表情を読むなどという芸当は、少なくとも私には無理だ。
 声も平板で機嫌がどうだかをうかがわせるものは聞き取れなかった。もっとも注文する時以外、口を開くことはない相手だし、ニンニクラーメンという単語を情感豊かなソプラノで読み上げられるというのは、これはこれでぞっとしない。
 ただ、他のものを食わず嫌いで知らなかっただけなのかもしれないが、それだけをずっと食べ続けたくらいだから、本人にとっては嫌いな方ではなかったのだろう。
 何がいいたいかというと、つまり彼女はありがたい常連客だったと、そういうことだ。


 そんな謎めいた常連の少女にも、もう会うことはないだろう。
 一番最近の化け物が盛大に爆発してくれたおかげで、第三東京はあらかた湖になった。
 ありがたいありがたくないを問わず、馴染みの客の大勢は街と一緒に吹き飛んでしまったらしい。
 彼女も来なくなった。
 だから、そういうことなのだろうと考えていた。
 特別な場所でずっと麺を茹でていたから助かったともいえる私は、話らしい話をしないで死んだ少女のことを考えると、こちらから世間話でもするべきだったかと柄でも無いことを考えたりした。
 だが彼女は生きていた。
 いつものように湯気にあてられていると、いつものように夜の中に白い影が浮かんでいたのだ。
 そして彼女は通り過ぎるだけだった。
 単に空腹でなかっただけかもしれない。
 ただ、なんとなく私にはわかった。
 もう彼女には儀式のようにラーメンをすする必要が無いのだとわかった。
 理由は、あるようで、ない。
 強いていえば眼差し。表情があった。彼女は泣いていた。涙は無かったが泣き顔としかいいようがなかった。もしラーメンを頼んだとしたら、目尻に跡が見てとれたろう。
 きっと彼女も色々なものを失ったのだろう。
 勝手に推測すれば、それは、何かを確かめるように黙ってお冷やのコップを握ったり熱い丼に手をあてたりしながら考えていたこと、ひょっとしたら想いを寄せていた人、そんなところだろう。
 更に勝手なことを考える。そういうものが失われた時、彼女の中からニンニクラーメンの味もまた失われたのだ。
 それが少女を見た最後だった。
 しばらくして疎開勧告というビラを市役所の人間が持って来て、こだわる場所も無くなった私は第三東京を後にした。
 今も屋台を曳いている。
 また、特別な場所を見つけたい。

 end


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ver 1.00
1999/01/09
copyright くわたろ 1999