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なんとなく使徒のような

「使徒だってさ」
 というのであれば仕方がない。泣く子と使徒には勝てないのだ。使徒が来たということなので、いつものように屋上への階段を上がっていた私も、皆と一緒に学校の近くのシェルターに向かうことにした。
 人波の中も戸惑うことはない。経路はもう覚えている。避難訓練は真面目に参加した方だ。そのたびに思ってきたことなのだが、シェルターに行くべきとされているのは、老人や女子供が多い。
 ちなみに私は老人ではない。ただ、中学生の女なので、世間的な基準で見て保護されるような人間のスペースを一人分、罪悪感無く使えることに変わりはない。
 もう一つ、老人と女子供が多い場所を私は知っている。
 病院だ。
 あそこは生と死が溢れている。
 母は病院に担ぎこまれた時には死んでいた。
 病院の霊安室で対面した母の顔を思い出すうちに避難が終わった。
 膝を抱えてシェルターにいたのは二時間に足りなかった。中途半端な時間だ。
 どうしよう。これから屋上に行こうか。

 屋上には生も死も無い。
 空だけが広い。
 だから、特に青空ともなれば、病院よりもシェルターよりも格段に気持ちいい。
 あまりの気持ちよさについ飛び降りたくなったのが今年になって三度。この屋上で、私は飛び降りさえしなければ、昼休みなら弁当を広げる。そうでなければ風にあたる。一人であたる。
 使徒は午前中に来てしまったので午後は普通に授業があった。午後に来たなら避難ついでにその日の学校も終わりになるのだけれど。
 私は授業をさぼったことが無い。
 一方、あの人はといえば、しょっちゅう遅刻したり欠席したりする。使徒が来る日など、もう間違いなく学校には来ない。
 なぜなら、彼女は、使徒と戦っているから。
 彼女と私が同性だということは、もう私を悩ませる問題ではなくなった。
 問題は今日の午後の授業に彼女が出てこれないことだ。私にとって、彼女の顔が見られないことは、個人的で重大な問題だ。
 一度だけ、これから使徒と戦おうという彼女に声を掛けた。
 がんばって、という類の言葉だった。
 彼女は頷いたようにも見えたし、眉根を動かしただけのようにも思えたし、あるいは私をまるっきり無視したような気もした。
 その時、彼女の背中を目で追う私が、浮かれていたのは確かだ。
 好きな人に初めて言葉を掛けられたことが嬉しかった。人類の敵とかいう使徒に感謝さえした。
 ただ、人類の敵というからには、つまり使徒というのは彼女の敵でもあるので、そういう点では私は使徒をよく思っていない。
 そういうことでもない限り、使徒が私の敵とは思えない。
 などということも、私以外にはどうでもいいことかもしれない。

 第三新東京市という街に私は一人で住んでいる。
 父親は長期出張とかでいない。母親は死んで、だから、私の家は忌中だ。
 家事は一通りこなせると自分では思っている。面倒に感じることもあるけれど、洗い物を溜めたりはしない。そういう性格だ。葬式の後も変わらない習性だ。
 住んでいるアパートは、扉をあけると数歩進んだところに襖があって、そこがあいていると窓が見えて、窓越しに物干し竿の通してあるベランダが見える。
 扉をあけたとたん、自分の家が反対側まで見渡せてしまう間取りといえる。
 母が死んでから、この見渡せてしまう家に、私は出来るだけ生も死も持ち込まないようにしている。
 鉢植えとか切り花も、置く気がしない。
 いっそ屋上のように何も無い空間にしたくもなるけど、どうも天井を剥がす勇気が無い。
 飛び降りたくて結局飛び降りないでいる私には、これくらいが似合っているともいえる。
 私の部屋は六畳間で畳敷だが、布団ではなくベッドがある。そこに私は夢見るために横たわる。
 使徒の夢をよく見る。
 夢で私は使徒になる。あの人に襲いかかって、押し倒し、蹂躪する夢だ。
 夢の都合の好いところで、あの人は当然乗っているはずの人型兵器に乗っていない。しかも裸だ。だから私も裸だ。ただし私の体は使徒なので男根が付いている。
 私は私の夢の中であの人を犯す。
 あの人は私の夢の中で使徒に犯される。
 夢の外では多分あの人は私など気にかけていないだろう。現実は、あの人は使徒の相手しかしていない。
 私の現実は、一人で風にあたる屋上だ。
 あの人は今頃は使徒の相手をした余韻に浸っていたりなどしているのだろうか。そんなことが、見慣れた天井を見つめているうちに心に浮かぶ。
 あの人はわずかに目蓋をあけているだけ、上下の長いまつげは触れ合っている。
 その間からのぞく瞳の光。
 酔ってしまうほど美しい。
 その眼差しが、使徒でなく私だけに注がれていたならば、これはもう永遠に酔い続けていられるのにと思う。
 瞳だけではない。きめ細かなつるりとした頬とか、その滑らかな輪郭とか、時折かきあげた後でさらさらと流れる髪とか、とにかく想像しただけで私を酔わせるものを、あの人はいくらでも持っている。
 そしてそれぞれの部分が、目の焦点を合わせるのも億劫な薄汚れた無地の天井の中でばらばらになって泳ぎ、だんだんと収まるべき所に収まって、至高の芸術品ともいえるあの人の横顔が完成する、その一歩手前で、私の妄想は途切れた。
 雨が降り出していた。洗濯物を取り込まねばならない。
 雨の中を歩く使徒を想像。
 あの人と相合い傘。

「使徒、来ねえかな」
 休み時間の騒がしい教室の中で、そんな声を聞いた。
 使徒休校を期待しているのだろう。
 ただし、現実はうまく行かない。使徒は台風とかに似ていて、来てほしくない時に来る。おまけに、来たら来たで、下手をしたら床上浸水では済まないかもしれないという、厄介な台風だ。
 さて、使徒はやっぱり来た。
 今回は夜中に来て夜の明ける前に退治されたらしい。そういうわけで被害は特に無かったが、休校にもならなかった。
 あの人は戦ったのだろう。人類を使徒から守る英雄であるところのあの人にリスペクト。
 私だけを守ってというのは高望みというものだ。
 翌日、一時間目を遅刻して来たあの人は、どうやら寝不足のようだった。目がとろんとしていた。かわいい。
 居眠りを始めた。かわいい。
 あの人の頬杖ついた寝顔を眺めているうちに、私も引き込まれるようにうたた寝した。夢を見る前に授業が終わるベルが鳴った。
 使徒の夢を見たかったのだが、うまく行かない。
 試験に出るぞと黒板に大書された箇所を慌ててタイプする。

 母の初盆がそろそろだ。私は勝手がわからない。
 伯母の一人がこういうことに詳しい。電話で相談した父もその人に頼ることに賛成した。どうせ父も出来ないのだ。
 なんでも、第三新東京市は再開発都市の例に漏れず極端に寺社が少ない街なので、読経の予約は早めにした方がいいということだった。
 電話帳を検索すると、確かに少なかった。もっとも、幸い予約は取れた。
 これで母の霊は慰められる、という。
 受話器を置き、居間を見渡す。
 鉢植えも無い、命といえば私だけの、四角い空間。
 狭いアパートに大仰な仏壇は置けない。位牌と写真を置くだけの神棚もどきがせいぜいだ。母の霊はこの仏壇も無い居間の天井辺りにいるのだろうか。だとしたら斎霊場で読み上げる経は届かないのではあるまいか。
 そもそも、届いたとして、経文など死者が聞くとは思えない。金を払って聞きたがるのは生きている人間だ。
 母は、聞きたいだろうか。
 まさか。
 使徒を撃退するための戦いのさなか、逃げ遅れた母は崩れた建物の下敷きになった。即死だった。慈悲深きかな、使徒。神の御使い。死者の魂は天国に遊ぶ、はず。
 襖をあけ、畳の上のベッドに横たわる。
 自分の手を天井にかざす。
 使徒の手になる。
 指の間にあの人の顔が見えてくる。さあ、一緒に、手を取り合って天国に帰りましょう。
 天にも昇るような自慰。
 地に堕ちるとは知りながら。

 使徒は母の仇だ。
 私は使徒と戦うあの人が好きだ。
 では、私が夢で使徒になるというのは、一体どういうわけだろう。
 使徒になってあの人を犯す。だが私は使徒がどういう体なのか知りもしない。指があるのか、舌があるのか、陰茎はあるのか、膣はあるのか。
 使徒はサードインパクトをもたらすという話なら聞いたことがある。
 この世の終わり、ということだそうだ。
 せめてその時までにあの人に自分の想いを伝えたい。
 と、快感を押し流すどす黒い気だるさの中で考える。

 私には何が出来るだろう。
 使徒は強く、あの人は更に強い。
 私はといえば避難所で息をひそめている一人。
 そして警報が解除され、ぞろぞろと外に出る私たち。
 まばゆい光のきらめきと共に、ざっくりとえぐられた山肌を見れば、使徒の強さも使徒を倒す人型兵器の強さも推して知るべし。
 光の中で、人型兵器の中で、あの人は何を想うのだろう。使徒は何を想うのだろう。戦い終わった後を怯えながら街へと戻る私は何を想えばいいのだろう。
 こういうことを考えてはいけないのかもしれないが、私は一度でいいから使徒になってみたい。
 きっと使徒にはわかっているのだ。
 自分が何をするべきなのか。
 あの人もわかっているのだ。
 だから強いのだ。
 私は人型兵器に乗れない。私はせめて使徒になりたい。
 使徒になって、シェルターを壊したい。使徒になって、病院を壊したい。屋上を残して学校を壊したい。
 何も出来ない人間どもをこの街ごと壊してしまいたい。
 ついでに、そんな私を壊すのがあの人なら、こんな嬉しいことはない。

「使徒が来た」
 とりあえず母の位牌を叩き割ってみたのだが、珍しく帰っていた父に、顔の形が変わるほどに殴られた。

 end


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ver 1.10
1999/08/06
copyright くわたろ 1999