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観覧車

 そういえば子供の頃は遊園地によく行った。
 親に金だけを渡されて、一人で電車を乗り継いで行った。
 あれに乗り、これに乗り、すぐに小遣いは使ってしまって、それでも誰もいない家に帰るのが怖くて、閉園時間まで噴水を眺めていることが多かった。
 秋になると噴水には落ち葉が浮かんでいた。毎日さらっていたのだろうが、それでも閉園間際になると、水面には昼間の内に落ちた葉が沢山浮かんでいたものだ。
 秋のあった頃だ。
 昔の話だ。

 目の前の熊の大口に、同僚の神経を疑いたくなった。
 大の男二人がこんな遊園地で待ち合わせなど普通はしない。せいぜい映画の中でだけだ。それも最低の映画だ。彼は映画など見ないのだろう。
 大人一人分の券を買うのは気の滅入ることだった。熊の口をかたどったアーチ型のゲートをくぐると、正面には漫画の登場人物が大時計を捧げ持っていた。
 午後四時。
 監視カメラの届かない場所の一つ、ミラーハウスと観覧車の間の植え込みを囲むように並ぶベンチ。
 その一脚の左端に彼は前屈みに腰掛けていた。
 私に視線を投げるほど愚かでなくて助かった。私と同じような、家族サービスに少々疲れた三十男という風体をしてくれているのも合格点だ。こんな場所で肩から吊った銃を隠す黒い背広を着られてはかなわない。
 両手をポケットに入れ、彼と反対の端に私は座った。
 ベンチが軋む時に左手をポケットから出して、煙草の箱を地面に落とした。代りにベンチの上に置いてある煙草を取った。
 半年ぶりの同僚は私に目を向けずにいった。
「久しぶりだな」
 微妙なところだ。半年という期間は。
 葛城ミサトという女がいる。
 八年前に私は彼女と別れた。そして再会して、そう、半年になる。
 彼女の気取らない眼差しを考えると、八年が短いとも思えるし半年が長いとも思える。
 横に座っている男と最後に会ったのは彼女と再会した空母の上だ。
「やつれたな」
 その言葉を私は苦笑いで受け流したが、思わず自分の頬をさすってみてしまったのは認めよう。二つ以上の組織から信頼を勝ち取り、なおかつそれを裏切るというのは気を遣う仕事だ。
「君の仕事は高く評価されているよ」
 これは愛想だ。黙っていていいだろう。
「これからも、これまで通りやってもらいたいとのことだ」
 業務連絡というわけだ。
「ところで、君のネルフ内における予想以上の浸透を見込んでの仕事があるそうだ」
 いや、こっちが本題か。
「彼らに警告を与える必要が生じた」
 私と彼は同時に深く座り直した。同じ訓練を受けた癖というのは容易に抜けない。
 すり減った板を錆の浮いた釘でとめただけのベンチを二人同時に軋ませた。
「冬月コウゾウ」
 もう一度、私だけ、軋ませてしまった。
 彼はネルフのナンバーツーの名を挙げていた。
「奴を七十二時間以内に第三新東京市の外へ連れ出してくれ」
 なぜだ、唐突すぎる。
 私のネルフでの身分を使い切ることになる。
 緩慢に身をかがめた彼は先ほど私の落とした煙草の箱を拾い上げた。私はそれを横で見ながら動けなかった。相手は無防備な体勢だったのだが。
「君はそれだけやってくれればいい。後は別の人間がやる」
 ベンチの背もたれは小さかった。
 はみ出た背中を反らせてみた。
 夏の空に観覧車が回っていた。

「やつれてるな」
 目の前で同僚が陽射しを遮って立っていた。
 私はやつれているのかもしれない。
「余計なことは考えるな」
 そうなのだろう。
 女など余計なことなのだろう。葛城のために私は死ぬのか、まさか。
 冬月という老人は私が浸透したネルフの高官だ。葛城もそうだ。
 私が冬月を拉致すればすぐにそれが誰の仕業かをネルフは特定するだろう。
 私と親しいということから葛城にも嫌疑が掛かる。
 そしてそのまま私が行方を晦ませばその疑いは濃くなりこそすれ晴れはしない。だがそうしなければ私の命はおそらく無いだろう。ネルフが許すはずもない。逃げるしかない、葛城を捨てて。
 逃げて、また待機か。
 待て、目の前の男は何といった。これからも、これまで通り、そういわなかったか。ならば私は彼らにとっても既に用済みなのか。
 ネルフに処分させる気なのか。
「余計なことは考えるな」
 彼は繰り返した。いたわりを込めた声だった。そうだ、映画は見ないくせに学生の頃は劇団員だったとか話していたな。真に迫る演技か。
 私が目だけで肯くと彼は背を向けて立ち去った。私が煙草の箱に入れたフィルムは彼の上司の手に渡るはずだ。
 背中が笑っているように見えたのは、演技だろうか。

 観覧車が回っている。
 あんな物に誰が乗るのだろう。ただひととき、舞い上がるだけではないか。
 そんなことを私は考えていた。
 余計なことだ。
 私はベンチから立てずに余計なことを考えていたのだ。
 ああ。
 急に、世界が、回り始めた。
 子供の声が聞こえる。鳥の声がする。傾きかけた陽射しが降り注ぐ。
 どこかで葛城が笑っているようにさえ思える。
 そして死を前提とした任務が待ち受けている。
 世界は私の外にある。私などいなくても回り続ける世界がある。これが報いか。己の好奇心を満たすために周りに広がる世界をせせら笑って生きてきたことへの報いか。
 そうなのか、葛城。
 なぜだ、なぜ、今になってこれほどまでに世界が眩しい。

 観覧車の乗り場には人気がなかった。係員も退屈を持て余して欠伸をしていた。
 誰も乗せずに回る観覧車はなんのためにあるのだろう。
 まるで、
 まるで……
「お客さあん、乗るの、乗らないのお」
 間延びした係員の声を振り払って私は観覧車に背を向けた。
 その一方でこんなことも考えていた。
 葛城と一緒だったら、彼女は乗りたがるだろうかと。
 そうとも。
 余計なことだ。
 そろそろ閉園時間だった。私はゲートに向かった。
 大きく口を開けた熊。そこをくぐると遊園地が終わる。
 外の世界も輝いているだろうか。
 命を惜しむに足る程に輝いているだろうか。
 外に、出た。
 陽射しが、鳥の声が、変わるはずもなかった。私は何を期待していたのだろう。
 震えながら煙草を取り出す手が自分の手でないような気がした。
 取り出した一本に小さな紙が巻き付けてあった。広げると、そこには冬月コウゾウを連れて行くべき場所と経路の案がいくつか記されていた。
 一目で私はそれを覚えてしまった。癖というのは容易に抜けない。
 煙草に火をつけるついでに、その紙を灰にした。

 そういえば子供の頃は遊園地によく行った。
 色々なものに乗るには小遣いが足りなかった。
 子供にすれば観覧車は退屈で、ほとんど乗らなかった。
 ただ、今は乗りたい。
 輝く世界を、せめて観覧車の回る間だけでも、見ていたい。
 そう考えながら、私は乗らずに、地上で煙草を灰にしていた。
 見上げた観覧車から、回り続ける観覧車から、私を押しつぶすかのようにそびえ立っていた観覧車から、私は逃げ出していた。
 私は観覧車にも乗れない男だ。輝く世界に不要の男だ。
 全てを打ち明けたところでネルフは私を許さない。いや、そんなことをすれば間違いなく私は消される。無論そうしなくても消される。逃げたところで、私を消したがるのは、もはやネルフだけではない。
 世界が私を消そうとしている。
 もう遊園地に逃げ込む歳でもない、そう思った時、またしても彼女の顔が浮かんだ。
 葛城ミサト。
 そうだな、もうお互い頼ることも出来ない立場だな。

 葛城、お前も消してくれ。
 もう一度、八年前のあの時のように、葛城の中の私を消してくれ。そして、お前は生きてくれ。
 輝く世界で、お前は、生きてくれ。

 end


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ver 1.00
1998/10/05
copyright くわたろ 1998