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パラダイス

「まち、ひとのつくりだしたぱらだいす」
 車窓に映る半透明の自分の口が動いたことでようやく冬月は独り言をいってしまったと気付くにいたった。
 気恥ずかしさも手伝い、彼は列車内を見渡した。もっともその車輌はコンパートメントになっており、隣接するいくつかの座席が無人であることを確認するにとどまったが。
 そして本来その必要も無かった。乗る時は彼一人であったし、目的地のジオフロントターミナルまで列車は止まらない。そこまで彼一人を乗せての運転なのだから。
 再び彼は車窓に目を向けた。
 暮れなずむ地底都市、その天蓋より垂れ下がる対第拾六使徒戦闘の際の被害を辛うじてまぬがれた兵装ビル、その間に通された既に修復成った列車用のチューブ。十五年前には夢想だにしなかった光景が広がる。
 いや、夢なのかもしれない。
 ジオフロントの事実上のナンバーツーであるにもかかわらず、前々から冬月には自分を取り巻く揺るぎ無い現実であるはずの第三新東京市直下ジオフロントについて、そう思える、そう思ってしまう時があった。
 更には夢のように全てが散ってしまうのではないかとも。
 そんな思いは、最後の使徒が倒されたという事実によって、補完計画発動が秒読みに入ったという事実によって、日増しに強くなっていった。
 ぱらだいす。
 今度は声は出さない。窓に映っている、すっかり白くなった髪を後ろへなでつけた皺の目立つ老人の口は、動きはしなかった。
 ただ、目は語ってしまっていた。
 知る者には否応なくその権威を知らしめるネルフ副司令の制服を身に纏った人物とは未来を怯える老人でしかないという滑稽な事実を。
 冬月の思念は彼の上司へと飛んだ。
 あの男は怯えているだろうか。
 願い、待ち望んだ、人類補完計画。だがその日を目前にして、あの男には本当に怯えの欠片も無いのだろうか。
 その問いが明かされることなど有り得ないということに即座に冬月は気付く。
 あの男、ネルフ総司令碇ゲンドウは期待も恐怖も決して表に出しはしないのだ。
 奴にあやかって色眼鏡でも掛けるかな。
 そして彼が眼鏡を掛けた自分の顔を思い描こうとした時、列車は終着駅へと滑り込んでいた。

「冬月」
 無意味とも思える広さをもつ部屋に碇ゲンドウの声が響いた。
 呼ばれた冬月は碇の席に連なる席で、背を向けて座っていた。
「今日は詰将棋ではないのか」
 手にしていた文庫本を、いつもは将棋盤が広げられることの多い執務机に伏せた冬月は、背後の男に笑いをかみ殺した顔を見られずに済んだことを感謝した。唐突に、しかも平静な声色でそんなことを尋ねられては、笑わずにいられない。笑えばなかなか冗談で済ませてくれない碇の性格を彼は身に沁みて知っていた。
「あれは忘れてきた」
「何を読んでいる」
「部屋を整理していて出てきた。久しぶりだよ、下手をしたら京大で学生か助手の頃に買ったのかも知れん」
「何故部屋の整理などする」
 答える代りに冬月は読んでいた芥川の短編集をついと碇の方へ押しやった。
「くだらん」
 開かれた頁では杜子春が仙人に出会っていた。
「そうか」
 実際、肯かざるを得ない。なにしろその手で桃源郷を招き寄せようとしている男の言葉なのだから。
「ならば碇、お前の目指す人類補完計画は」
 冬月は回転椅子を半回転させ、いつものように腕を組み彫像のごとく姿勢を崩さない碇ゲンドウに向き直った。いつものように色眼鏡が冬月の探るような視線をはねのけていた。
「くだらんとは思わんか」
 碇は口を僅かに歪めて笑った。この期に及んでの逡巡自体が彼にすればくだらないのであろう。
「キールの虚勢が怖くなったか、冬月」
「死は君達に与えよう、か。わしのような年寄りには響かぬ脅しだが」
「アダムがありエヴァがある。我々は勝つ」
「そうだな」
 勝つ。
 勝ったとして、ではその後はどうなるのか。
 杜子春の刹那の栄華が冬月の脳裏を過ぎった。
「確かに」
 確かに自分は怯えている。敗北ではなく勝利に怯えているのだ。勝利の後の、誰も見たことの無い補完された世界に、心の壁が無いという想像もつかぬ世界に怯えているのだ。
「こいつは確かにくだらんことを考えさせる本だ」
 冬月は迷いを振り払うべく立ち上がり卓上の文庫本を取り上げると、しおりなど挟まずに閉じて机の中にしまった。
 だが部屋を出て発令所へと向かう彼の足取りは楽園へと急ぐものとは言い難かった。

 間もなく各地のネルフ支部からMAGIオリジナルへのアタックが開始された。
 前哨戦、火蓋は電脳空間で切って落とされた。彼我兵力比は試練とも思える一対五。
 その先に永遠の楽園があるかネルフ副司令冬月コウゾウはわからなかった。

 end


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ver 1.0
98/08/05
copyright くわたろ 1998