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1939 - 1940 ロンドンの凱歌

 チェコスロヴァキアとの戦争を予想していなかったドイツ国家指導部にとって、イギリスから突きつけられた宣戦布告は衝撃以外の何物でもなかった。しかもドイツに挑んだのは一国だけではなかった。英連邦傘下のすべての諸国が参戦した。そして外交関係が悪化していた隣国、フランスまでもがドイツに対して火蓋を切った。

 ケルン周辺が爆撃にさらされ生産設備に被害甚大。迎撃に上がった戦闘機隊が返り討ちに。マジノ線にこもっていたはずのフランス軍が出撃、フライブルク占領さる。スロヴァキア南部でチェコスロヴァキア軍が攻勢、我が方の防衛戦を突破。悲報が続々と舞い込む。

 包囲されたような状況で、しかも動員済みの兵力はあまりにも少なかった。選択肢は残されていないかのように思われた。だが、光明はあった。東方だ。イギリス参戦の翌日、同調したかのように不可侵条約を破棄したポーランドだが、十日を過ぎてもなぜか中立を守っている。これを奇貨と、後手に回り続けたドイツの戦略的反撃計画がようやくまとまる。

 しかし、これでは対処できていない問題があった。制空権である。フランス内の航空基地から出撃する英連邦諸国の航空攻勢は日々激しさを増していた。ドイツ側の迎撃機は数も少なく、開戦から二週間も経つとほとんど戦力を喪失していた。以後、ドイツ西方の軍需工場は叩かれ通しになって、みるみる生産力を失ってしまうのである。

 消極的だけどこれしか思いつかなかったです。ううう。

 とにかく寡兵で二正面作戦はできない。一刻も早くチェコスロヴァキアを片付けねばならない。攻勢の主軸はスロヴァキア北方から、ポーランド国境に配備されていた2個装甲軍団(6個師団)が担う。これがドイツの戦車部隊のすべてである。他の歩兵師団からなる軍は、まずは守勢に回る。しかし攻撃は思うようにいかなかった。正面の敵を排除するだけならともかく、進撃した装甲軍に後続させるべき部隊が足りないのだ。戦闘には勝っても戦線を押せないことが繰り返された。やむを得ず、チェコの要塞地帯に張り付かせていた部隊を引き抜く。敵も守勢を続けてくれると期待して。

1938/10/22 分断成功

 一ヶ月近くかけてようやくチェコとスロヴァキア分断に成功。ところで国境に大兵力を集結させてるポーランドがすごく怖いんですが。

 はたして危機は開戦二週間後に起こった。チェコ方面の薄い防備を突破され、ニュルンベルグへの侵入を許してしまったのだ。たしかに対仏国境では後退戦術をとっていたが、それも後退の余地があってのことである。チェコ方面の敗退は絶対に容認できるものではなかった。そのままチェコスロヴァキア軍とフランス軍が連結すれば、旧オーストリアはおろかバイエルン以南がまるごとドイツから切り離されてしまうことになる。

 なりふり構っていられる事態ではなかった。何度目になるだろうか、また装甲軍の攻撃がスロヴァキア北方から行われた。そして今度は戦線を破ることに成功した。ニュルンベルグに侵攻した分、敵の部隊が減じたためだった。また、同盟国であるハンガリーの航空支援も、特筆するに値するだろう。ドイツ空軍が西部戦線で消耗を強いられているとき、チェコスロヴァキア方面で最も活躍したのが彼らである。

 ようやく流れは変わろうとしていた。スロヴァキア北部で均衡を破った装甲軍団は進路を西へ変え、一気にプラハに突入。以後、対チェコスロヴァキア戦は掃討の段階に入る。敵の全面降伏は1938年11月17日。開戦から一ヶ月半が経過していた。これは短期戦というには長かった。その間、制空権は完全に英仏連合軍に握られ、ドイツ西方の工業地帯は毎日のように爆撃を受け生産力を大きく下げていた。陸上でも何とか持ちこたえているというのが実情だった。まともにマジノ線で対峙するだけの兵力をそろえられなかったドイツ陸軍は自国領内での退却、反撃による繰返しでフランス軍を必死に防ぐのが精一杯だった。とうぜん戦場となった地は荒廃し、生産力がここでもまた低下する。

1938/10/05 孤軍奮闘のUボート

 費用対効果まで考えると、HOI2の海戦ってとりあえず潜水艦に特化すれば勝てる気がする。

 唯一、誇るべき戦いを展開していたのは海軍、それも潜水艦によるものであった。もともとイギリスとくらべドイツ海軍の水上艦は話にならないほど旧式だったから、開戦早々オストプロイセンに退避したが、Uボートだけは強敵に対して立ち向かった。旧式艦を含むわずかの潜水艦隊が開戦劈頭に挙げた、空母ハーミーズ撃沈という戦果が、ドイツ国民をどれだけ勇気づけたことか。そしてこれ以降も、海面下の狼たちは強大なロイヤルネイビーに対して互角以上の戦いを続けるのである。

 まあHOI2の海戦システム自体が潜水艦有利ってのは確かです。それに助けられました。

 とはいえ、陸上において、いつまでもフランス国境で衝突を続けるわけにはいかない。出血量を競うような贅沢はゆるされないのだ。対チェコスロヴァキア戦の消耗回復はいつになるのか……。絶え間の無い空爆の下で、ドイツ国家指導部の焦燥はつのっていた。そして、ドイツ以上にドイツの反撃を待ち焦がれていた国が、少なくともヨーロッパであと二国存在した。スペインとポルトガルである。

 開戦後、フランスはマジノ戦だけでなく、対スペイン国境でも積極攻勢に出ていたのである。仏軍、ピレネーを越える! ナポレオン戦争以来の一報にスペインは驚愕する。国を二分する内戦の傷がまだ癒えない彼らにとって、この20世紀の<大陸軍>を撃退することは不可能だった。国境の山岳地帯を越え、平原にあふれ出たフランス軍により、ポルトガルも含むイベリア半島全体がズタズタに切り刻まれていくことになる。その間、盟主と頼むドイツからは、物資をのぞけば何の救援も無かった。ドイツからして自国を守るのに精一杯だったのだから。

 そして瀕死のスペイン、ポルトガルに止めをさしたのはイギリスだった。ドイツUボートの活躍も、所詮ドイツ沿岸からドーヴァー海峡までにすぎない。七つの海は依然、ロイヤルネイビーのものだった。スペイン、ポルトガルの水上艦艇を数度の海戦で撃滅すると、ついでジブラルタルを橋頭堡として陸上兵力を送りこんだ。この背後からの一撃に耐えられず、ついにスペインはフランスに併合された。1939年7月29日のことである。半島の人々は呪った。フランスを、イギリスを、そして自分たちを戦争に巻き込んだあげく一兵も助けによこすことのなかった枢軸同盟の盟主ドイツを……。

1939/08/24 完全同盟

 まさかの完全同盟。これで助かった。不満度+20は痛いけど。

 イベリア半島が制圧される一方、独仏国境の戦いは膠着状態に陥っていた。戦闘こそ絶え間なかったが、両軍とも戦略的攻勢を控えていた。ドイツにとっては忍耐の日々だった。前線の出血や空爆の被害を抑えつつ、来るべき反撃の日に備え戦力を蓄えること。だが、無策のままいたわけではない。外交では成果があった。それも真に偉大な成果といってよい。ドイツはソヴィエト連邦という巨大な同盟国を得ることに成功したのである。

 政治的乖離の大きすぎる二国の同盟に、あまりに機会主義的ではないかと国民からも批判の声も強かったが、ドイツ国家指導部はこの同盟を推し進めた。とにかく戦略的に見れば、この同盟の利益は計り知れない。国境で威圧的に大兵力を集結させていたポーランドはこれで動きを封じられたも同然であり、ドイツは対仏対英戦に専念できるのだ。同盟締結後まもなく、軍需省は一年後を目途に新たな師団の配備予定を決定する。上陸作戦を可能とする部隊、海兵師団である。狙いはブリテン島。いまや国家戦略は明確に舵を変えた。ドイツが求める生活圏、それは西方にあるのである。

 というわけでバルバロッサ作戦は無期延期(コラ

1940/06/01 ヴィシーフランス

 世界大戦が1年早く始まったのにフランス降伏は40年6月でほとんど史実と同じ。つまり1年手間取ったわけで。ううう。

 1939年が忍耐の年であるなら、1940年こそは反撃の年であった。2月9日、ドイツはベルギーに宣戦布告、待機していた完全充足の5個装甲軍団(15個師団)は一斉に国境を越えた。一ヶ月ほどでベルギーを席捲。その際、展開していた英仏の地上戦力10個師団あまりをベルギー領内で包囲殲滅することに成功する。そして部隊は進路を南へ転じる。目的はパリ、目標はフランス軍。

 フランスでの戦いは、さすがにたやすいものではなかった。特に英仏軍による空爆はこれまでに増して激化し、装甲師団の進撃を大いに妨げた。優先度を戦車第一にして、航空戦力の配備を後回しにしていたツケをドイツ軍は払わされることになった。迎撃機は不足し、戦線全域の制空権を握るまでには至らなかった。装甲師団は損害覚悟で突進しなければならなかった。損害が許容できるあいだに、自らのスピードでもって航空基地を制圧することが求められた。このため、パリを第一目標とするプランは修正される。各部隊は一点集中するのではなく散開し、広範囲で敵航空拠点を制圧しつつ進んだ。第一陣のパリ突入は5月にずれ込んだ。しかし、大勢はこれで決した。6月1日、フランスは新生ヴィシーフランスとしてドイツに降伏することを選択した。一部の残党は自由フランスと称して旧スペイン領で抵抗を続けるようだが、これはもはや戦力ではない。

 フランス降伏の翌日、ドイツは占領状態においていたスロヴァキアの独立を承認。また同日、イタリアは独自にフランスに宣戦布告。独伊の関係は潜在的同盟国から、名実ともに同盟を結ぶ段階に達したようである。6月6日、両国は正式に同盟を締結した。

1940/06/26 あしか作戦成功

 海兵隊中心の第一陣で橋頭堡。第二陣は装甲師団を揚陸させてこれで全土を制圧。

 大陸での戦いは終息しようとしていたが、ドイツはここで矛を収めるつもりは毛頭無かった。フランス降伏以前から、ブリテン島上陸作戦準備はひそかに進められていたのである。装備改変(39年式に)した海兵5個師団と1個前線司令部が、ヴィルヘルムスハーフェンに集結。乗船準備を整える。航空隊は占領間もないフランスの大西洋沿岸部(リール、シェルブール)に集結。Uボート群は輸送船から海上艦艇に目標を切り替えドーヴァー海峡を遊弋する。

 上陸後の成算はあった。イギリス本土の敵地上戦力はほとんど無いであろうことが予測されていた。なぜなら本土にいるはずの歩兵師団のいくつかをベルギー、フランス制圧段階で殲滅していたし、今もイベリア半島に展開している部隊も、本来ブリテン島守備についているべき戦力から割いているはずなのだ。上陸さえすれば、後はなんとかなる。一時的な制空権、制海権さえ手に入ればよい。

 6月20日、空母グラーフ・ツェッペリンが戦力化。上陸船団の準備は整った。船団出航、時を同じくしてフランス沿岸の航空部隊は一斉に出撃、ドーヴァー海峡を舞った。海兵師団が橋頭堡を築くまでは損害を顧みず、ひたすら航空戦を挑み続けた。バトル・オブ・ブリテンである。揚陸地点に敵は軽装の守備隊しかいなかった。軽微な抵抗を排除し、とうとうドイツ海兵師団は敵本土に地歩を記すことに成功した。1940年6月26日のことであった。十日後にはロンドンに鉤十字が翻った。

1940/10/04 ジブラルタル攻略

 ジブラルタルを押さえておくと、イタリアに地中海&アフリカで頑張ってもらえる。たぶん。

 上陸後のブリテン島制圧は順調に進み、8月には最北部を除きほぼ終了した。残るはイベリア半島である。ここに残余の英仏軍がいる。フランス攻略に活躍した部隊が、8月中旬より順次南下、ピレネーを越え交戦を開始した。11月までにジブラルタルを含むイベリア半島全域から敵を駆逐することに成功した。ドイツ以西のヨーロッパ全域において敵は消滅した。ドイツの生活圏はここに確立されたのである。


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ver 1.00
2006/03/08
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