世界に冠たるドイツ。
この一句に込められたあらゆる執念が、おそるべき矛盾をもはらみつつ、ゆっくりと転がりだそうとしている。一時は一兆倍まで記録した破滅的インフレも過去のものとなり、1936年の今、国家社会主義ドイツ労働者党主導のドイツにおいて、産業は、経済活動は、技術研究は、順調であった。隣国のフランスやポーランドがドイツに対する疑念を捨てきれず国境に大兵力を抱えているのとは対照的に、ドイツの国力は基礎研究や産業育成に傾斜していた。敗戦国はいまや飛躍の時を迎えようとしていた。しかし、その翼が目指す先までが、平和の色に包まれていたわけではない。
5本の技術研究ラインの内訳も序盤は産業系×3、兵器開発×2くらいで。なお、いくらドイツの研究陣が優秀といっても、史実の2年以上前に着手すると極端に効率が落ちてラインをふさぐことになるから、無理しない方向で。
国民が夢見ていたのは輝けるドイツであった。平和な欧州とは必ずしも一致しなかった。少なくともフランスの想定しているドイツの姿とは違っていた。1936年3月、ラインラント進駐。ケルンを行軍するドイツ国防軍の姿に国民は熱狂した。だが、これは軍事的にはまったく危うい冒険だった。進駐といっても、数個師団が移動しただけ。もしマジノ線の向こう側にひしめくフランス軍があふれ出してきたならば……。
フランスは動かなかった。ドイツ国家指導部は国民に大いに面目を施すことになった。そして後の重大な錯誤につながる過信をも生むことになるのである。
以降、国内において基礎産業に注力する一方で、対外的には危うい綱渡りが繰り返される。1936年7月、スペイン内戦勃発。ドイツは即日フランコ派への大規模な支援を決定。義勇兵という名で多くの部隊を送った。1937年2月には独伊防共協定締結。徐々に英仏との溝は広がってゆく。
だが、覇道に傾くかのようなその姿勢を評価する国があったのも、また事実である。それは英仏などとは経済圏を異にする国々であった。同時期のドイツの外交攻勢の成果を列挙すれば以下のようになる。37年3月、トルコと軍事同盟締結。4月、アルゼンチンが同盟に参加。5月、内戦に勝利したスペインが同盟参加。12月、ハンガリーが同盟参加。欧州情勢は入り乱れる同盟関係により、いっそう混迷の度を深めてゆく。
そして38年3月、ドイツは更なる賭に出る。政治的混乱の続いていた隣国オーストリアに対し、大いなるドイツ、アンシュルス(合邦)を掲げ、同国のナチス政党に政権を渡すよう迫ったのである。もちろん、これはドイツ・オーストリアの20年にわたっての合併禁止をうたったジュネーブ議定書に反するものであり、それを取り交わした四国イギリス・フランス・イタリア・チェコスロヴァキア、とりわけ前二者への挑戦であった。
強圧的なドイツにオーストリアはついに屈した。そしてイギリスは、フランスは……またも動かなかった。アンシュルスは国際的に認められたのである。国内においては、ドイツは無論、オーストリアのほとんどにおいてさえ。
さらに2ヶ月後、膨張したドイツを盟主とする同盟に新たに参画する国があった。ポルトガルであった。外交においてドイツの勢いはとどまるところを知らなかった。
アンシュルスを達成したことでドイツ国家指導部は自信をつけていた。それが軍事的裏付けを保たないことには目をつぶりながら。同年9月、チェコスロヴァキアとの間でズデーテンラントを巡る係争が持ち上がると、ドイツはその虚勢をそのままミュンヘン会談に持ち込み、英仏伊にドイツの主張を認めさせた。会談後、チェコスロヴァキアに最後通牒を通告。答えは一つしかない、ズデーテンラント割譲、誰もがそう思っていた。
だが、そうはならなかった。
プラハから届いた誇り高き拒否回答に慌てたのが、当のドイツ国家指導部である。振り上げた拳をどこにおろせばいいのだろうか、それが判らなかったのだ。ただし彼らはこのことだけは知っていた。国民が何を望んでいるかを。ラインラント進駐、オーストリア併合、かつての国民の喝采は、ここで弱腰を見せれば容易に罵倒に変わるであろう。ならば突っ走るしかない。軍事的裏付けなどなかろうと。同日、ドイツはチェコスロヴァキアに宣戦を布告した。
準備はまったく整っていなかった。国境沿いの部隊の再配置から始めなければならなかった。移動中の部隊が側面を突かれて無様に敗走する始末だった。ならばベルリンの部隊を引き抜くべきか、否か。OKWでまったく泥縄にそんな討議が行われていたときである。急報が外交部に飛び込んできた。
「閣下、イギリスが……」
時に1938年9月30日、二度目の世界大戦が幕を開けた。
史実より一年も早く始まっちゃいました。ようやく歩兵増やそうとしてた矢先に。お先真っ暗。