1936年、北欧。戦争の気配は見えなかった。しかし脅威は存在していた。ファシズムの沸き立つドイツ、イタリア。そして共産主義政権の統制経済下で急速に発展するソヴィエトロシア。フィンランドにとって、より脅威となるのは言うまでもなく後者である。しかしフィンランドはあくまで自主独立の道を進み続けていた。
この時点でフィンランドの地上戦力は14個師団。ほとんどは東に接するソ連との国境に沿って配置されたが、防衛線として機能するなど期待できない密度でしかなかった。なにしろ同時期、ソ連は130個師団以上を動員していたのだ。その大国に一国で立ち向かうとすれば……、兵力は現状の5倍以上が必要になるだろう。
ソ連と接するプロヴィンスは5。そのうちヴィボルグ(首都ヘルシンキの東、ソ連から見ればレニングラードの北のプロヴィンス)にLv2の陸上要塞があるが、その他のプロヴィンスには要塞無し。歩兵だけで対抗しようとするならそれぞれに15個師団、少なくとも10個師団は配置したい。これでも赤軍の投入可能な戦力を考えると不安。
無論、そんな軍備は国家財政が許さない。ならばまずは国力全体の底上げが必要になる。必要十分な防衛予算を産み出すための工場を。そしてそれを可能にする技術の開発を。
とはいえ50師団以上まかなうとなったら、実質ICで30くらいは最低必要では? とりあえず実質IC14/基本IC13の状態を、基本ICで20になるまで工場建設に集中する(IC20で研究ラインが増えるので)。まだ1ラインしかない研究は、兵器ではなく産業系で。
だが、歴史は過酷な方向へ進む。それも加速するかのように。1938年以降、ドイツはその野望を中欧諸国に向けた。オーストリア併合、ズデーテンラント進駐、チェコ併合。そして1939年8月24日には、フィンランドの運命を激しく揺さぶるモロトフ・リッベントロップ協定が締結される。独ソ間のこの協定には非公開の箇所があった。バルト三国とフィンランドはソ連の支配下に置かれるというものであった。
第二次世界大戦はドイツがポーランドに宣戦、これを受けて英仏などが対独宣戦することで始まった。1939年8月30日のことである。
ここまではほぼ史実どおり。唯一、大きく異なるのはスペイン内戦。共和派がスペインを統一することで終結していた。
西部戦線が不活発な一方、ドイツは東部で電撃戦を順調に進めた。1939年10月11日、ドイツはポーランドを併合。翌日、東部ポーランドはソ連へ分割。東欧諸国は動揺した。11月3日、ハンガリーが枢軸陣営に走った。11月11日、ソ連はエストニアに領土要求、エストニアは屈した。彼らの国は消滅した。
11月17日、ついにフィンランドにも大国のエゴが押しつけられる。ソ連の要求は南部カレリアの割譲。受け入れなければ戦争である。
工業力の増加に注力していたフィンランドには、まったく戦争準備が出来ていなかった。頼るべき同盟国も無かった。一方でソ連は、フィンランド全土を占領できるだけの兵力を国境に展開させていた。フィンランドは屈した。南部カレリアに駐屯していた部隊は静かに北へ戻っていった。いつの日か、この地を恢復することを誓いつつ……
史実ではここでフィンランドが要求拒否、名高い冬戦争が始まる。大国相手に驚異的な善戦を続け、翌年3月まで粘った。でもこのAARじゃ無理。兵力差がありすぎる。
ソ連へ南部カレリアを割譲したことで、そこにある工場や労働力も失われた。戦争は避けられても生産計画自体が後退した。また、技術開発も遅れていた。同盟国が無く、技術供与を得られないのだ。1936年当初の目標(基礎IC20)を実現するのは、1941年にずれ込むことになった。歩兵師団の拡充はさらに遅れる。
何れかの陣営に属するべきでは? しかしフィンランドにとって選択肢は限られていた。ソ連に与すれば、割譲した南部カレリアは永遠に戻ってこないであろう。枢軸ドイツに与すれば英仏など連合国と戦うことになり、ノルウェーからの越境攻撃に不安が残る。また独ソの関係が悪化すれば、独ソ戦の矢面に立つのは、地理的に言ってフィンランドになるのは明らかだ。連合国への参加は論外だ。イギリスより先にドイツがバルト海を渡ってくる。ポーランド騎兵を席捲したドイツ機甲部隊を相手に、歩兵中心のフィンランド軍では勝ち目はない。
結局、ある程度の戦力を持たない国は、同盟に入っても利用されるだけだ。幸いソ連はこれ以上の領土要求をしない模様で、しばらくはフィンランドにも消極的中立とでも言うべき状態が許される情勢ではあった。
翌年春、西部戦線が大きく動く。1940年3月4日ヴィーゼル演習作戦発動、ドイツはデンマーク、ノルウェーに宣戦布告。そしてノルウェー作戦の途中5月2日、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグに宣戦布告。またも電撃戦が繰り広げられた。ベネルクス三国は1ヶ月も保たなかった。そして大陸における連合国最後の一国となったフランスも6月21日に降伏、ヴィシーフランスとして連合国から脱落した。
東欧でも動きがあった。1940年6月27日、ソ連が今度はルーマニアに対してベッサラビア地方を要求、そしてルーマニアはこれを拒否、逆に宣戦布告したのである。戦争自体は約1ヶ月続き、ルーマニアが領土要求を呑むことで終結した。フィンランドにとって直接の利害関係の及ばない戦争であったが、複雑なものを投げかける戦争でもあった。もし、あのとき、我々も戦っていたならば……。
ソ連−ルーマニア戦争終結後であるが、数日の内にルーマニアもやはり枢軸陣営に走った。東欧においてソ連に対するのであれば、やはりドイツに頼る以外の選択肢は無いかのようであった。
1941年、フィンランドもようやく陸上戦力の拡充に着手する。また東部国境のカヤーニにおいて陸上要塞の建築開始(このプロヴィンスはソ連の3プロヴィンスと隣接する位置にあるので、特に集中攻撃されやすい)。工業力も、夏頃には目標達成(基礎IC20)のめどがついた。とにかく中立でいるだけでも兵力は必要なのだ。一方、世界大戦は小康状態だった。ドイツはイギリス上陸作戦をあきらめたようだった。それとも別の戦線が開かれる前触れか……。
そしてそれは1941年7月2日に始まった。独ソ戦である。
戦いは一方的だった。ドイツの破竹の進撃が続いた。2ヶ月半で、キエフやロストフといった、ウクライナ方面の主要都市は陥落した。セヴァストポリ要塞すら例外ではなかった。
ヨーロッパの状況に刺激されたのかは定かでないが、太平洋でも戦いの火蓋が切られた。11月24日、日本はアメリカ太平洋艦隊の拠点である真珠湾を攻撃。文字通り、地球規模の世界戦争となったのである。