させていただいて、よろしかったでしょうか

 

 電車に乗っていると、ときどき「ドアを閉めさせていただきます」という気持ちの悪いアナウンスが聞こえてくる。そんなもの、させていただいてどうするんだ、と言いたくなるのは、子供の頃、電車派だったせいかもしれない。小さい子供には電車の運転手さんに憧れる電車派と、車好きになる車派があると聞いた。この間、温泉地に行ったとき、旅館に「電車でゴー」だったか「ポー」だったか、電車を運転するゲームが置いてあったので、何度か挑戦してみたが、電車の運転は軌道が決まっているというのに、その難しさったらなかった。駅のホームに時間通りにピタッと電車を止めるのは至難の業だとわかった。これができる運転手さんはやはり憧れに値する。しかしそれも、「させていただいている」ようでは電車が泣く。

民主党の代表だった鳩山氏が、この「させていただく」の連発で有名で、「私も代表をさせていただくものとして、深く反省させていただいております」に始まって、10分間に10数回の「させていただく」を繰り返したという。鳩山氏のスピーチは、それでなくとも気色悪くて聞いてられなかったが…。

電車の運転や政治に限らず、自分から進んで積極的にやるというのは、周りを押しのけるような感じがする上に、しくじったときのリスクが高い。そこで、周りから薦められて退けなくなったような心理装置をこしらえて「させていただく」のだろう。これをひそかに「させていただく症候群」と名づけてみた。

そんなことを思いながら本屋でレジに並んでいたら、「カバーの方、よろしかったでしょうか」と来た。なんだろう、これは。目の前で現在進行中のことなのに、「よろしいでしょうか」じゃなく、過去形の「よろしかったでしょうか」。ある新聞記事によると、これはファミレス・コンビニ方言の「いきなり用法」と呼ばれているそうだ。「いらっしゃいませ、こんにちは。店内でお召し上がりでよろしかったでしょうか」。「(ハンバーガーだけを注文した客に対して)ポテトはよろしかったでしょうか」。

この言葉のニュアンスには、客に有無を言わせない状況をつくるという説や、ポテトも一緒に頼むのが常識ですよという擬似常識を作り出すなどの説があるらしいが、ひょっとして私たちが現実感を失いつつあること、現実に向き合うことができなくなりつつあることの一つの表われではないかと思ってしまう。